魔法使いのモンブラン

有馬 礼

魔法使いのモンブラン

 今にして思えば。


 私は、しばらく来られなかったせいで埃っぽくなってしまった家の空気を入れ替えるべく、窓を開けて回る。隣の公園から電気を盗んでいた電線はとうに切られて、電気は通っていない。それでもこの廃屋が取り壊されなかったのは、単に行政に金がないか、最早死にかけている法律がまだ完全には死んでいないことを証明するため――つまり、所有者の権利を守るため、あるいは所有者に義務を課すため――かもしれない。埃の積もったテーブルに、充電式のランタンを載せる。夕暮れの迫った薄暗い部屋を光が照らすと、余計に彼らの不在が際立つ。


 文明時代を知る私の両親は、堂々と「孤児たちと遊んじゃいけません」とは言えなかったし、言いたくなかったんだろう。


 子どもだった私は、この廃屋を寝ぐらにして、公園の電気を盗んで子どもたちだけで暮らしていた彼らとすぐに仲良くなった。中でも、リーダー格のお兄ちゃんは私の憧れの人だった。

 サトルくんからは、どことなく教養と文明の香りがした。きっと元は、上流階級の生まれだったのだろう、と私は勝手に思っている。どんな家庭に生まれようが、一夜のうちに最底辺に転落する、それがあの頃から今日まで続くの世の中だ。



 あの日、私は本棚に眠っていた、写真入りのお菓子作りのレシピ本を抱えて廃屋を訪ねた。


「サトルくん! これ見て!」


 誇らしい気持ちで本の表紙を見せる。


「ママの本に載ってたよ!」


 戦火はますます激しくなり、最早世界は嗜好品に割くほどの労力も食糧も持ち合わせていなかった。お菓子のレシピなど持っていたところで、材料は手に入らないのに。しかし、それを捨てられなかった母の気持ちも、今はわかる気がする。戦争が終わって、世界がまたいつかのような平和と文明を取り戻したら、もう一度……という思い。母が捨てられなかったのは、お菓子のレシピではない。レシピに仮託した、夢だ。甘くて幸せな夢。その母も既に亡くなってしまった。夢は、永遠に夢のままとなった。


「へえ。メグミのお母さんはお菓子作りする人なんだ」


 私はグラグラする不安定なテーブルの上に本を置くと、しおり代わりの裏紙を挟んだページを開いた。


「サトルくんが言ってたモンブランって、これでしょ!?」


 こっくりとした濃い黄色のクリームがうずをまくケーキ。そのクリームの上には、つやつやした同じ色の栗が乗っている。どんな味がするのか、想像もつかない。でも、きっと夢みたいに甘くて濃厚な、幸せな味。


「そう……。家族がバラバラになる前の夜に食べた。思い出にって」


 私はサトルくんの横顔を盗み見る。思い出の味が、辛い記憶と一直線に結ばれているのを感じた。サトルくんは目に力を入れて、奥歯を噛み締めていた。そうしないと、溢れてしまうから。

 そのあと何があって、どのようにしてサトルくんがここに流れ着いたのか、私に尋ねる勇気はなかった。


「また、食べたい?」


 私はようやっと、それだけを尋ねた。


「そうだね……。メグミは?」


 私は飛び跳ねながら即答する。


「食べたい! 食べてみたい!」


「……わかった」


 サトルくんは、笑って私の頭をくしゃくしゃと撫でた。大人びた笑顔だと思って、私はどきどきした。その原因が何であるか、私はまだ知らなかった。私にとってサトルくんは、どことなく上流の雰囲気を残した、憧れのお兄ちゃんだった。


「こっち来て。全員の分はないんだ」


 サトルくんは私を台所の片隅に連れていく。台所の隅の床板が1枚外れるようになっていて、そこには茶色の小さい瓶が隠してあった。ラベルに、とんがり帽子を被って、大きな鼻をした長髪の人物の横顔が描かれている。魔女か魔法使いか。

 食料を保管してある戸棚の鍵を開けて、バターも砂糖もほとんど入っていない、空腹を若干満たす以外に何の取り柄もないビスケットを取り出すと、小瓶から1滴、エキスを垂らす。途端に、甘い香りがたちのぼった。私はその香りを胸いっぱいに吸い込む。


「これ、モンブランの味と匂いだよ。食べてみて」


「いいの? いただきます」


 私はサトルくんから差し出されたビスケットを、引ったくるような勢いで受け取ったように思う。サトルくんはその浅ましさに呆れただろうけど、何も言わなかった。誰もが空腹だった。

 ビスケットを齧ると、濃厚な甘さが口の中に広がる。これまでに食べたことのない味。こんなものが、自由に、好きなだけ食べられた時代はいったい、どれだけ幸福で豊かな時代だったのだろう、と幼いながらに私は想像した。そうして、本当なら幸せしかもたらさないはずのこの甘さが、悲しい別れの記憶と結びついているこの戦時下のことを考えた。

 私はあっという間にビスケットを食べてしまった。サトルくんは笑ってそんな私をみていた。


「おいしい! このビスケットがこんなにおいしくなるなんて、魔法みたい! サトルくん、魔法使いだったんだね!」


「はは、本当にそうだったら良かったんだけど。……最後の1滴、どうしても使えなくて。メグミにあげられて良かった」


 その言葉に幼い私は衝撃を受ける。


「最後の1滴だったの!? 食べちゃった!」


 サトルくんの思い出に取り返しのつかない酷いことをしてしまった。目に涙が溜まってくる。サトルくんは笑って首を振ると、もう一度私の頭を優しく撫でた。


「いいんだよ。メグミがもらってくれて、むしろ良かったんだ。本当は、ここにいる全員で分けられる量があれば良かったんだけど。自分1人で使う勇気がなくて。でも、ただ持ってるのも、ずっと気がかりだったんだ。もらってくれて良かった」


「……ありがとう、サトルくん。本当に美味しかった。いつか、これがいつでも自由に食べられる時がくればいいのに」


「そうだね。でもその時は、メグミのお母さんの本に載ってる本物を食べたいな」


 サトルくんは笑っていた。多分この時彼は、私たちの別れが近づいていることを知っていたのだろうと思う。これは、サトルくんから私への餞別だったのだ。


「さ、そろそろみんなが廃品集めから帰ってくるな。メグミと2人でおやつ食べてたことがバレたら大ブーイングだよ」


「そういえば、サトルくんは行かなくて良かったの?」


「おれはちょっと、別のところに行かなくちゃいけなくて。それで今日はユウキに任せたんだよ。……そうだ。メグミ、お母さんに、いつも食料の寄付をありがとうって言っておいて。みんな苦しいのは同じなのに。すごく助かってる」


「うん、わかった。伝えるね」


 それがサトルくんと交わした最後の会話だった。ある時、ここを寝ぐらにしていた子どもたちは、サトルくんも含めて、みな、忽然と消えてしまった。魔法みたいに。後には私だけが残された。

 せめて、と、私はあの日見たお菓子エキスの製造元を調べたけれど、作っていた会社はなくなってしまったのか、他社に吸収されたのか、行きつくことができなかった。それにしても、なんでよりにもよって魔法使いのマークだったんだろう。大人になって冷静に考えると、随分貧乏くさい魔法だ。それでも、子どもだった私には、紛れもなく魔法だったのだ。

 そうして残された私は、あれから13年経った今も、この廃屋を訪れ続けている。積もった砂埃を掃除して、動物が入りこまないように、人間の気配を刻み続ける。あの時7歳だった私は、二十歳になった。私にも色々なことがあった。母が亡くなり、父は右脚を失って軍を除隊になった。私は軍の主計部に職を得て、父を支えながら細々と日々を送っている。淡々と過ぎ去る日々。無味乾燥な、それでいて明日の知れない日々を同じ表情でやり過ごす。今、戦況は膠着状態となっているが、お互いの空間転送装置のチャージが完了次第、再び戦闘が開始されることは想像に難くない。敵軍よりも1秒でも早くチャージを完了させるべく民生電力が極度に絞られているため、町はこのところ真っ暗だ。

 日没が迫る。廃屋の中は急速に暗さを増していた。今日のところはこのくらいにしよう、と窓を閉めていた私の背後で、ドアが開く音がした。私はぎくりとなって振り返る。拳銃は持っているし一応銃を扱うための訓練も受けているが、いざというとき有効に使う自信はなかった。


「……メグミ?」


 逆光になった人影が言う。私の記憶より随分低くなっていたけれど、その声に含まれている上品な落ち着きは変わっていなかった。


「……サトルくん? サトルくんなの?」


  私は軍服を着たその人影に駆け寄る。


「そうだよ」


 私を見下ろす優しい笑顔は、あの頃の面影を残しながらも、私たちに等しく流れた歳月を物語っていた。私は溢れてくる涙を抑えることができず、思わずサトルくんに抱きついていた。その存在を確かめるために、両腕で力一杯抱きしめる。


「……どこに行ってたの? どうして急にみんないなくなっちゃったの? 探してた。会いたかった。待ってた。ずっと」


「ここにいた子どもたちを引き取ってくれる団体が、ようやく見つかったんだよ。急に移ることになって、みんな、メグミにお別れを言えないことを気にしてた。ごめんな」


 私はよく見知った軍服の肩に顔を押しつけたまま首を振った。みんなが無事で、自分たちの足でここを去ったことを知れただけで十分だ。


「久しぶりに来てみたら、灯りが見えてびっくりしたよ。ここをずっと守っててくれてたのか」


 私は声を出すこともできず、泣きながら何度も頷く。


「ありがとうな」


 小さい子どもに戻ったように泣きじゃくる私の頭を撫でるサトルくんの手は、相変わらず優しかった。


「サトルくんは、やっぱり魔法使いだったんだね」


 私は涙を拭いながら身体を離し、サトルくんの顔を見た。


「まさか」


 サトルくんは笑う。


「だって、私にモンブランを食べさせてくれた。そして、みんなを消したと思ったら、急に私の前に現れたもの。私が丁度サトルくんを思い出してる時に。これって、魔法でしょう?」


「はは……メグミがそう言ってくれるなら、そういうことにしようかな」


 サトルくんは笑いながら、廃屋の中を懐かしむように歩いた。戦闘での後遺症なのか、少し脚を引きずっている。


「あれから、どうしてた?」


 ランタンの心許ない灯りの中、サトルくんがこちらを振り返る。その顔は、かつての面影を残していながらも、今や完全に大人の男性のものだった。時を超えて、不意に私の前に現れた魔法使い。


「いろんなことがあったよ。母は5年前の大攻勢で亡くなって、父は戦場で右脚を失くしたの。楽しいこともあったけれど、悲しいこともたくさん」


「そうか……メグミのお母さんが。優しい人だったな」


 サトルくんは、そう言って目を伏せた。


「……サトルくんは?」


「おれも、いろんなことがあった。嬉しいこともあったけど、忘れてしまいたい悲しいことも」


「悲しい出来事を忘れる魔法はないの?」


「ないみたいだ、残念ながら」


 サトルくんは悲しげに笑った。


「また会える? 悲しさを忘れる魔法がないなら、せめて悲しい気持ちを共有しよう。話したいことと聞きたいことが沢山あるの」


「……うん、そうしよう。メグミ、大人になったんだな」


「あれから13年経ったんだよ? 魔法使いさんは一瞬で時間を超えてきたから、知らないのかもしれないけど」


 魔法使いは、私に長らく忘れていた微笑みを取り戻してくれた。それは、魔法の仕業に違いなかった。

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