【完結】どうでもよくなりました

空廼紡

どうでもよくなりました

 努力して結ばれないこともあるけれど、努力して身についたものは無駄にならない。


 そう言ったのは、家庭教師だった。



(先生は嘘つきですね)



 私の努力は、この瞬間をもって、結ばれず、そして無駄なものへと変わってしまった。


 視線の先には、王子ととある子爵令嬢。王子は自分の婚約者で、子爵令嬢は巷で有名の子。なんでも、庶子で最近子爵家に養子として迎え入れたのらしい。


 そんなことは、どうでもいい。



(そう、どうでもいいわ)



 重要なのは、王子が自分ですら見たことがない蕩けるような笑顔を、令嬢に向けているということだ。


 その瞬間、とある記憶がふっと蘇ってきた。まるで、羽根がふわりと降ってきたかのように、思い出して、すんなりと受け入れた。



(ああ……ぜんぶ、無駄だったのね)



 怒りは沸いてこない。ただ、心が虚しさと無気力に塗り替えられていくのを、ぼんやりと感じるだけだった。








 カルディア・レスは伯爵令嬢で、第一王子の婚約者だ。


 王子はカルディアの初恋だった。その恋は今も続いていた。


 婚約者になったとき、カルディアは嬉しかった。けど、王子はそうではなかった。


 親が決めた婚約を、淡々と受け入れる。それだけだった。


 王子はカルディアを見てくれなかった。だからカルディアは、王子に振り向いてほしかった。


 振り向いてくれるには、どうすればいいのか。カルディアは王妃に訊いた。王妃は、微笑みながら教えてくれた。



『それなら、いっぱいお勉強して、礼儀作法もきちんとできるよう頑張って、誰からも褒められるような立派な淑女になればいいの。そうすれば、あの子はあなたのこと、好きになってくれるわ』



 カルディアは、その言葉を信じて、苦手な分野だろうが勉強を取り組んだし、礼儀作法の授業で先生に叩かれても、苦手なお茶会もたくさん参加して、ただひたすらに頑張ってきた。


 厳しくて、厳しくて。あまりの理不尽に泣いて喚きそうになっても、堪えた。


 たとえ、勉強が身についてきても、王子との会話は一方通行だったとしても。


 礼儀作法の先生が太鼓判を押してもらっても、王子からのプレゼントが一つも贈られてこなくても。


 周りの人達から立派な淑女になったと褒められても、王子から会いに来てくれなくても。


 カルディアは、王子に振り向いてもらうため、ずっと努力を重ねてきた。


 全ては、王子が自分のことを好きになってもらうため。王子に褒めてもらうため。


 それなのに。



(王子は、あの子に恋をした)



 次期王妃としての教育を受けていない、礼儀作法も身につけようとしない、笑顔だけが取り柄の令嬢に、王子は恋をした。



(私の今までの努力は、なんだったの……?)



 王妃は言ってくれた。立派な淑女になったら振り向いてもらえると。


 けど、王子が振り向いたのは、立派とは言い難い令嬢で。


 私には義務的な笑顔しか向けないのに、あの子には蕩けるような甘い笑顔を向けていて。


 その瞬間、カルディアには思い出した記憶がある。


 あれは記憶というべきなのか、判断しかねるが。


 その記憶とは、有り体にいえば未来のことだ。例の令嬢を虐め、王子に断罪されるという、どこかの小説で聞いたことのある陳腐な記憶。


 繰り返してしまった、とか、断罪だとか、どうでもいい。


 ただ、自分の努力は無駄だった。それが重要だ。



(もう……馬鹿らしくなってきたわ)



 目の前には、日課になっている自主勉強のための本と紙。それに手を付ける気にはなれなくて、ぼんやりと眺める。


 こうやって椅子に座ることも億劫で、でも椅子から立ち上がっても、何もすることもないし、何かをやるような気力もない。


 なにもかも、虚しくなった。無意味だ。こんなことしても、王子に振り向いてももらえない。それが分かったから、尚のことだった。



(私は、なんのために生きているのかしら……)



 王子に振り向いてもらう、という目標も叶うことがないと分かったのなら、もはやその目標は無くなったのも当然。


 王子に愛されたい。それだけのために生きてきた、といっても過言ではなかった。


 それが叶うはずのない願いだと知った今、もはや生きる意味などない。けど、命を絶つことはできない。


 生きることも、命を絶つことも、どうでもよくなった。


 この国の未来や、王子の幸せすらもどうでもいい。もう、好きなのかどうかさえも、どうでもよかった。










 勉強もせず、茶会にも参加せず、無気力に過ごす自分を、両親と兄は心配してくれた。


 だが、カルディアの心には響かない。兄は王子と一緒に断罪したし、両親は自分を見限った。そんな記憶があるから、信用できなかった。


――きっと、表面だけなんだわ


 と、期待もしなかった。


 そんなとき、王妃から茶会のお誘いがあった。


 公式なものではなく、あくまで非公式だという。

 断りたかったが、断ることもできないので、久しぶりに登城することになった。



「お招きいただき、ありがとうございます」


「久しぶりね、カルディア。さぁ、座りなさい」



 温かく迎えてくれた王妃に促され、カルディアは着席する。



「顔色が悪いようだけど、大丈夫?」


「お心遣い、ありがとうございます。私は大丈夫ですわ」



 にっこりと笑ってみせるが、うまく笑えなかったのか、王妃は痛ましいそうな表情を浮かべている。


 王妃は優しい人だ。カルディアが断罪されたときも、庇ってくれたうえに優しい言葉を掛けてくれた。


 今のカルディアは、両親よりも王妃のことを信用していた。


 世間話もそこそこに、王妃は本題を口にした。



「今日、あなたを招いたのはね、あなたのお兄様が心配していたからよ」


「お兄様が?」



 たしかに心配はしていた。だが、王妃に漏らすほどの心配ではないように思えた。それに、そんな個人的なことを王妃に喋る、いや、王妃と喋ること自体ありえないことだと思う。



「お兄様が心配しているようだから、王妃命令であなたの最近の様子を聞き出したの。それで、私も心配になっちゃって」



 納得した。たしかに王妃命令と言われれば、兄は喋るしかない。しかし、城で顔を出すくらい心配していたのだろうか。断罪されたカルディアを見限った、あの兄が。



「最近、必死にしていた勉強も、積極的に参加していた茶会も、急にしなくなったらしいわね。苦手な茶会に参加しないのは分かるけれど、苦手分野だろうと必死に食らいついていた勉強を放棄するなんて……あの子となにかあった?」



 ああ、この人はやっぱり分かってくれている。


 カルディアが茶会を苦手だと思っていることは、誰も言っていない。勉強も苦手分野のことを言ったことがなかった。


 何も言わなくても、この人は分かってくれている。カルディアのことを、よく見ていてくれている。


 そして、原因が王子だということも見抜いている。


 この人には嘘をつくことも出来ない。



「……王妃様は、ご存知ですか? とある子爵令嬢について」


「子爵令嬢って……あの子と仲が良いという令嬢のことかしら?」



 カルディアは頷く。



「二ヶ月ほど前、あの方がその子爵令嬢と親しげに話しているところを見ました……私に向けたことがない、心の底からの笑顔を浮かべて」


「それは……」



 王妃は察したのか、言葉を失ってしまった。



「はい……あの方は、あの人のことが好きになってしまったのでしょう」


「でも、婚約者はあなたよ」



 カルディは、小さく首を横に振った。



「婚約者でしか、ないのです」



 カップの中に入った自分の顔を眺めながら、カルディは言い募る。



「王妃様も知っての通り、私はあの人が好きでした。振り向いてほしくて、たくさん努力しました。でも、あの人は振り向いてくれなかった。私のことを好きになってくれなかった。誕生日プレゼントも贈られたことがありませんし、あの人から会いに来られたこともありません。それでも、いつかは私のことを好きになってくれると信じて、頑張ってきました。けど、結局振り向いてもらえなかった、ぽっと出のあの子に持っていかれた」


「カルディア……」


「もう、なにもかも、どうでもよくなったのです。どれだけ頑張っても、あの人が私を好きになってくれなかったら、私にとって意味がないのです。無駄で、無意味なのです。どれだけ頑張ってもあの人が私を好きになってくれないのなら、やるだけ馬鹿馬鹿しいと思って」


「だから……部屋に引き籠もったの?」


「はい」



 頷くと、王妃が立ち上がって、カルディアの傍らまで歩く。そして、そっとカルディアを抱き寄せた。


 まるで、母のような抱擁にカルディアは顔を上げようとした。けど、出来なかった。王妃の胸が心地良くて、できなかった。



「ごめんなさいね……あの子が不甲斐ないばかりに」


「いいえ、王妃様のせいでは……」


「私のせいでもあるわ。あの子が贈り物すらしていないなんて……あの子は分かっていなかったのだわ。分からせてあげようとしなかった、私のせいよ。ごめんなさい……」



 ぎゅっと強く抱き締められる。それと同時に胸が締め付けられた。


 この人を悲しませている。けど、それ以上に嬉しかった。



「王妃様……お願いがあります」


「なにかしら?」


「厚かましいことは、重々承知しています。ですが、もう、よいのです」



 カルディアは、間を置くことなく、告げた。



「殿下との婚約を、解消してくれるよう、王を説得してもらえないでしょうか」



 王妃はカルディアを離し、カルディアを凝視する。



「あなたは、それでいいの? あんなにあの子のこと、好きだったのに」


「好きでした。けど、今はその感情すらどうでもよくなったのです。いいえ、好きではなくなったのでしょう」


「どういうこと……?」



 まるで他人事のように話すカルディアに、王妃が不思議そうに首を傾げる。


 カルディアは淡々と答えた。



「あんなに殿下のことが好きでしたのに、名前を思い出せないのです」



 王妃が息を呑む。


 気付いたのは、王子の名前を呟こうとしたときだった。


 名前を口にしようとしたら、声が出なくなって、王子の名前を脳内で呟こうとしても、王子の名前が出て来なかった。



「駄目なんです。いくら名前を聞いても名前を覚えられないのです。名前を思い出せないのに、婚約者のままでいるのは拙いでしょう。だから、心を病んでしまったから王妃は務まらない、と王に進言していただいたら、と」


「そう、ね……」



 王妃は悲しそうに呟いた。



「そのほうが、あなたのためになるのなら、そうします」


「ありがとうございます」



 礼を口にすると、王妃がカルディアの頬を撫でた。



「あなたが娘になる日を楽しみにしていたのに、残念だわ」



 心の底から惜しむ声に、カルディアは泣きたくなった。







 家に帰り、まず父に茶会での出来事を報告した。


 勝手に決めるな、と怒られたが、王子の名前が思い出せない、と話すと、王子の名前を何回も言い続けられた。だが、名前は覚えることなく、右から左へと流されていく。


 本当にすぐに忘れてしまう、と分かった父は渋々納得してくれた。王家との繋がりが欲しかった父には申し訳ないが、心を病んでしまったらしょうがないと、とりあえず諦めてくれたらいいと思う。


 母と兄にも伝わり、抱き締められたり、頭を撫でられたりもした。心には響かなかったけれど。


 母と兄は、王子との婚約解消は賛成のようだった。王家の繋がりは旨いが、今までの王子の行いを見てきた側としては、複雑だったらしい。


 あとは、王家から正式な書類が来るのを待つだけだ。


 そのはずだったのに。



「お嬢様! 大変です! 殿下が屋敷に!」


「……はぁ?」



 思わず、怪訝な顔をしてしまったのは仕方ないことだろう。

 あの一回も家に来なかった王子が、急に訪れるだなんて。



「もしかして、マリス殿下のほうかしら?」



 マリス、とは第二王子のことである。要は、第一王子の弟である。



「いいえ。第一王子殿下のほうです」


「だったら、お兄様かお父様に用があるのでしょう」



 兄と王子は親交があるし、父は執務のことについての相談かもしれない。



「いいえ。お嬢様とお話がしたいと」


「今更?」



 本当に今更だ。解消間近になって、会いに来るなどと。



「追い返すこともできないわね。では、準備をしないと」


「お手伝いします」


「ありがとう」









 応接間に行くと、確かに第一王子がそこにいた。


 五ヶ月ぶりに見た王子は、相変わらず美しかった。それでも、名前を思い出すことは出来なかったが。



「お久しぶりでございます、殿下。待たせてしまい、申し訳ありません」


「いや、こちらこそ急に来てしまってすまない」



 カルディアは目を丸くした。

 謝れるのは初めてで、思わず王子を凝視した。



「それで、お話とは?」


「婚約についてなのだが……」


「あら? お聞きになっていないのですか? 解消する予定だと」



 婚約を解消してほしい、という話だと思ったので、首を傾げる。



「いや、お前から婚約を解消してほしい、と言ってきたのは聞いた」


「それなら、どうして?」



 王子は自分のことを好いてはいないはずだ。それなら、王子にとっては解消しても問題ないはずだし、あの子爵令嬢に堂々と求婚できるから、喜ばしいことではなかろうか。



「いや、その……」


「はい」



 なにか言い辛そうにしている、と思いながら、王子の言葉を待つ。



「その……すまなかった」


「それは、何に対する謝罪でしょう?」



 心当たりがありすぎて、どれのことだろうか。



「プレゼントを一つも贈らなかったこととか、会話をしなかったこととか、一回も会いに来なかったこととか、ララと親密にしていたこととか、色々だ」


「つまり、全部ですね」



 カルディアは心の中で、嘆息した。


 ほんとうに、今更なことだ。思い出す前なら、感激したことだろう。しかし、思い出した今は、まったく心に響かない。


 表面上だけでしかないことだと分かっているからだ。



「謝罪は受け取りました。では、御用は済まされましたね」


「……本当に、オレのことはどうでもよくなったんだな」



 王子が悲しげに顔を顰める。


 どうして、そんな顔をするのだろう。好きでもない女の恋心など、同情はすれど惜しむだなんて。



「ええ」



 肯定すると、王子が俯いた。


 不敬になってしまうのでは、と思ったが、別に不敬になってしまおうがカルディアにとってどうでもいいことだった。



「殿下、お忙しいのでしょう? 早くお帰りになったほうがよろしいのでは?」


「ああ、そうだな……」



 力無く頷き、王子がのろのろと立ち上がる。



「お見送りしましょう」


「いや、いい。今日は押しかけてすまない」


「お気になさらずに」



 王子が歩き出す。その足取りがなんだか、よろよろでカルディアは首を傾げながら、王子が応接間から出るのを見送った。












 これで、王子と話すのも最後だろう、と思っていたカルディアは予想していなかった。



 まさか、解消が延期になってしまうことを。そして、王子に迫られることも。



 全てのことがどうでもよくなったカルディアには、青天の霹靂だった。

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