腐った社会の虫ケラ共
@madoX6C
腐った社会の虫ケラ共
東京都港区のオフィスビルの一つ、不動産業や投資会社が入るそのビル内は、今は一フロアを除いて無人になっている。空調設備の一斉点検のため、定時までに全ての従業員が退社を義務付けられていた──あくまで、表向きの理由だが。
ビル内は真っ暗で、作業が行われている様子はない。その日最上階で行われる予定のため、限られた人間のみがビルを使用できるよう調整されていた。
最上階の一室に四人の男たちが等間隔に並んでいる。
部屋のちょうど北側に面したガラス張りの窓。その窓から、都内の夜景を見下ろすように一人の男が立っている。
各々の立ち姿は隊員と教官の関係を思わせるが、男たちが属する組織と軍隊では、階級と規律を持つこと以外に共通項はなかった。
一方は国や国民を守るため。もう一方は富と利権を広げるため、組織化され武装した暴力装置だった。
窓の外を見ていた男が振り返り、並んだ男たちに問いかける。
「銃を撃ったことはあるか?」
聞かれた側の四人は首を小さく振ったり、質問の意図がわからずに周り視線を送ったりと、それぞれ違った反応を返した。だが、発砲の経験がないという答えは一致していた。
端から経験の有無など気にしていなかったのか、教官の位置にいる男──
「今後の仕事では、銃を使うことも出てくる。別にナイフを使ってもいいんだが、重要なことは、どんな道具を使おうと、求められる結果は常に同じということだ」
四人の頭には、これまでに受けた研修や指導役の社員の口から説明されてきた内容が想起されていた。
──この会社は、人を殺すことを仕事にしている
「仕事の成果として常に標的の死が求められるなら、企業として取り組むべきは効率化だ。同じ結果を、より少ない労力、より短時間で終わらせる。それが会社に利益をもたらす」
部屋の入口が開き、似たようなスーツ姿の社員が入ってくる。手には注射器が握られ、横並びになっている四人の背後に一人ずつ配置されていく。
巻が続ける。
「わが社が効率化に注力する領域は、人材育成の一点だ。一定の水準で働ける社員が短期間で育ち、いち早く現場で活躍できれば、それだけ育成コストを削減できる。案件当たりの担当社員数を多く割ければ、それだけ早期解決にも繋がることは、現場で実証済みだ。実績に裏打ちされているんだ」
語られる経営戦略に耳を傾ける四人の首元に、注射の針が刺さる。
「君たちはこの瞬間から、わが社の実戦部隊に配属される。これまでと同様の活躍を期待しているよ」
四人の動作から個性が漂白されていくように感じられた。ふらふらと小刻みに揺れていた身体は、真っすぐに背筋が伸びてじっとしている。重心のかけ方も揃い、息遣いのリズムまで同期しているかのようだった。
四人は即座に列を成し、部屋から出ていく。そのまま、同じ階の別室で仕事道具を支給される。
アタッシュケースに収められた社用のスマートフォン、社用車の鍵、拳銃、ナイフ。それらを慣れた手つきでスーツのポケットに仕舞っていく。
四人の内の誰かが言う。
「運転は俺が」
誰かがそれに返す。
「俺は移動中のナビ役で」
残り二人は、すでに支度を終えている。
「では、俺たち二人で作戦を実行する。現着の後、お前たちは死体の運搬準備をして、合流まで車内で待機していろ」
流れるような分担決めの後、四人揃ってエレベーターに向かう。地下一階の駐車場まで降りていき、用意された黒い車体のバンに乗り込む。
すでに、やり慣れた作業を億劫そうにこなす余裕さえ纏っている。
車体の作動音とその反響音以外聞こえない世界から、真っ黒なバンが真っ暗な夜の街に消えていった。
* * *
「おい、
事務所に足を踏み入れる。まず注意を惹くのは、ちょうど東西に面した部屋の壁面だ。
事務所の壁には、正六角形の模様が敷き詰められている。各辺が重なるはずの位置には、隙間が空いている。その奥が収納スペースになっていることを、時任は知っていた。
続いて、目に入るのは事務所入り口正面に位置する窓。ちょうど北方向に面しており、黄色い「満田探偵事務所」という文字が反転して張り付いている。
その窓を背にして、安っぽい事務机と革張りでやけに高価そうな役員用椅子が置かれている。什器一つとっても、どうにもちぐはぐとした印象を受ける。
高そうな椅子にまるで似合わない机。幾何学的なデザインの壁以外は、ひどく殺風景な部屋。敷物すらなく、無機質な床が丸見えになっている。
ちぶはぐなのは物品だけではない。椅子に背を預けて、時任をぼんやりと見つめているのが、この事務所の主である満田という男だった。
「…ああ、時任さん。お久しぶりですね。突然なんですか、私も忙しいんですよ」
そう言う満田は今も暇そうに椅子を左右にぶらぶらと回転させている。机の上にはPCが置かれている以外には、資料一つない。
ぼさぼさの黒髪はワックスをつけているようには見えず、だらしない。一方、身に着けたスーツは明るい紺色で、生地や仕立ての上質さが伝わってくる。正直言って、似合っていない。
「嘘つくな。今は浮気調査だの家出人探しだの、くだらねぇ雑用やらされてんだろ。その仕事にも、ここ一ヶ月ろくにありつけてないそうじゃねぇか」
時任は満田と相対しているときに常に漂ってくる印象を、鋭さを備えた言葉で切り払うようにした。
こいつは、どうにも仕事を舐めてやがる。
嫌々それっぽいスーツに身を包んで、最低限社会人の仲間入りをしてやったとでも言いたげだ。そのくせ、面倒くさがって髪を整えることはさぼっている。
社会人の
「…ったくよぉ、こっちの世界じゃ名の知れた情報屋が聞いてあきれるぜ。本業の方の腕前、鈍ってねぇだろうな」
薄く開けられていた満田の目に、若干の鋭さが宿ったように見える。しかし、本人は気の抜けたような声で返す。
「仕事がないわけではないんです。むしろ、仕事量をセーブするために、あえて依頼を断っているんです」
「おいおい、不況の時代に贅沢なご身分だな。その辺に転がってる失業者に聞かれたら、お前刺されるぞ」
「いや、時任さん。前に一度お話ししたでしょう?私、前職では残業続き、休日返上で働いたせいで、身も心も壊れる寸前だったって。その経験から得た教訓として、『自分優先。仕事はほどほどに』が私のモットーなんですよ」
時任は満田の身辺を部下に探らせ、前職やそれ以前の職歴をある程度把握していた。組の仕事を任せる以上、末端の使い捨てであってもそれくらいのリスク調査は欠かせない。
現在三十二歳の満田は、新卒で入社した食品配達サービスを扱う会社の営業として働いていた。営業といってもマンションや団地を一軒一軒回る泥臭いやり方の仕事だった。
営業成績の優れない満田は居場所を無くし、四年目に退社した。前職にあたる再就職先は、健康食品やら教材やらを売りつける、実態のはっきりしない零細企業だった。
そこで満田は強引なアンケートやセミナーと称してイベント会場に人を集め、入手した個人情報を元に営業先リストを作成し、商品を売りつけるためにあらゆる手段を使ったという。
満田との会話では、いつも安いセールストークを聞かされるような不快感があった。
前職も三年と経たずに退職。以来、足取りが一切掴めなくなった。しばらくして、今から三年ほど前に裏社会の人間が利用する業界で、満田の名が囁かれだした。
その業界は表の社会では解決が難しかったり、表立って動けない案件を非合法な手段で解決してくれる専門家たちの巣窟だった。
満田が活躍する舞台は、そんな業界の中でも近年需要が高まっている「情報の売買」を専門とする分野だった。
一般人が特定の人間の住所を知りたがったり、個人のPCに保存された公にされない
情報を欲しがったり、あるいは企業が表社会での競争を有利に進めるための手札を得るために──あらゆる立場の人間が、私利私欲のために情報を求めた。
そんな世界で、満田はどこからどうやって仕入れたのか、あらゆる顧客の要望に応じて必要な情報を手に入れられた。
──大方、勤め人時代に得た情報源を利用して、こそこそ嗅ぎまわっているんだろう。時任は、満田の仕事への姿勢やその内容についてあまりいい印象を持っていなかったものの、仕事の腕前については評価していた。
「いくら仕事を抑えるつもりでも、ゼロじゃまずいだろ、ゼロじゃ。だから、情報屋のお前に仕事持ってきたぜ」
時任に言われたように、ここ一ヶ月の収入が心もとなかったのだろう。満田はしぶしぶといったようすで話を聞く姿勢を見せた。
「お前、久留実グループって知ってるか?」
「ええ、聞いたことくらいはありますよ」
久留実グループは大手建設会社、ディベロッパー企業を柱とした関東最大級の巨大資本企業だった。
八年後の万博開催地が東京に決まり、会場の建設絡みの事業を一手に引き受けるだろうと噂されている。今はコンペの競争相手となるライバル企業と熾烈な利権争いを行っている最中だろう。
「そんな大企業がなんで出てくるんですか。まさか私に直接オファーでもありましたか」
「まさか、ウチの組のシマ争いにも拘わるからな。本家の連中から全国の組にお達しがあったんだよ。おかげで、こうして組員総出になってお前の同業者連中に仕事を依頼して回ってる」
時任の言う同業者の中には、満田と同じ情報屋から、より直接的な犯罪行為に手を染めるような人種も含まれていた──所謂、殺し屋も。
「ひゃあ、暴力団の下請けなんて大変ですね」
満田は自嘲気味にも嘲笑的にも聞こえるトーンでそう呟いた。
「お前は下請けの、下請けの、そのまた下請けだよ」
「…なんて仕事持ってきたんですか、時任さん」
冗談めいた雰囲気はここまでだった。先程より一層張りつめた空気を醸して、時任は告げる。
「この業界の中でも一番下衆な仕事だよ──同業者殺しさ」
満田は真っすぐに時任の目を見つめる。しかし、それでも冗談めかした口調を改めない。
「そんな仕事受けるわけないでしょう。私、情報屋ですよ。頼む相手を間違えてます」
「なにも本気の殺しってわけじゃない…まあ仕事の過程で何人か殺すことにはなるかもしれねぇが、やってもらいたいのは情報収集だよ。久留実グループの子会社を潰すのに、情報を集めてほしい」
「なんで私なんですか。殺しの必要が出てくる仕事なんて、もっと適任がいるでしょう」
議論は平行線に終わるかにみえた。しかし、次の時任の一言で最終的に満田はこの仕事を受けることになる。
「いや、お前にも無関係ってわけじゃない。むしろ、お前のためを思っての仕事なんだよ。久留実グループの計画では万博会場の予定地にこの事務所も含まれるんだよ。それもメイン会場のど真ん中」
満田の顔つきが変わる。耐え難い不快感を押さえつけるような表情。負の感情が漏れ出し、眉間に深い皺を生んでいた。
もう一押しだ、と時任は確信した。満田との短い付き合いでわかったことがある。この男は自分の生活圏が脅かされることを極端に嫌う。生物がなわばりへの侵入に反応するような原始的な怒りに思えた。
「お前に探ってほしい企業は、表向きには不動産や投資を扱う優良企業だ。だが、会社を隠れ蓑に、万博コンペの競争相手を消すために殺し屋を派遣してる。血生臭い連中だよ。こいつらが、ライバル企業の重役や建設予定地の権利者を脅して回ってる。すでに何人も殺されて消息不明ってことにされてる」
「…時任さんたちは久留実にコンペで勝たれるとまずいんですね。だから、久留実のために働く殺し屋組織を潰せと」
「奴らの悪事を暴くような証拠を見つけてくれればいい。後はこっちで何とかする。もちろん、殺し屋連中の息の根を止めてくれてもウチとしては大喜びだ」
沈黙の時間が流れる。満田は今日一番の真剣な表情で考え込んでいるようだ。時任には、先ほどまでと別種の強い怒りが満田に溢れているように見えた。
時間にして一分程だった。満田が口を開く。
「…受けましょう。私にはここを引っ越す予定は、当分ありませんので」
* * *
「時任さん、オヤジから連絡です」
「おう、車出して一旦、家戻れ」
標的の企業に関する最低限の情報と報酬等についてやり取りを交わし、満田の事務所を後にした時任は事務所の前に停めた車に乗り、部下の男に指示を出す。
「ホントに大丈夫なんすか。あいつ、殺しの連中とやり合えるようには見えませんが…」
忠実な部下は、時任ひいては所属する組の目的達成の手段に対する懸念を述べた。
「お前が心配することじゃねぇよ…それにこういう仕事はあいつ以上に適任な奴なんていねぇさ」
時任は思う。情報屋として、多くの個人や企業の秘密を暴いていった満田。当然、恨みを買い、復讐の対象にされる。事実、報復によって命を失う情報屋は多かった。
しかし、満田はそんな業界で四年近くも生き延びている。襲撃を受けた経験も一度や二度ではないはずだ。
一度、満田への報復に殺し屋を雇った元経営者の男のことを知る機会があった。今も満田は生きている以上、計画は失敗に終わったのだろう。しかし、経済界でもかなりのポストについていたはずのその男について、それ以来表と裏両方の社会で名前を聞くことがなくなった。
個人的な興味で調べた所、満田を狙った業者はほとんどが死んでいた。依頼人である元経営者の男は、今は地元の精神病院に入院しているらしい。
時任には、満田がやったように思えてならなかった。
* * *
事務所に一人きりになった満田が、部屋の真ん中に立っている。
手には時任から渡された標的の殺しの業者についての資料が握られている。
その一頁──業者の内、顔が割れている社員数人を隠し撮りした写真に、各々のプロフィールが書かれた頁が開かれている。
満田は、そこに映る殺し屋の顔をじっと見つめる。そして、極めて個人的な動機から生じた殺意を写真の男たちに向ける。
──こいつらが追い詰めるべき相手だ。
幾分か冷静さを取り戻した頭から、冷たい決意を絞り出す。
一言、死刑宣告のような淡々としたトーンで呟く。
「──『
ヴヴヴッ
と低く重たい音が事務所に響いた。
ヴヴヴッ ヴヴ ヴヴッヴヴ
空気を素早く震わせる
東西に面する六角形の模様──それはまるで、巨大なハチの巣を思わせる。
その表面、一か所の六角形の内側がわずかに盛り上がっていた。その膨らみは少しずつ壁の外へ外へと突き出してくる。
そして、限界を超えたのか粘性の高い液体の液面に雫が落とされたかのような波紋が生じると、何かが飛び出してきた。
黄色と黒の縞模様──それを見つめている満田は思う。ああ、警戒色というのは本当に効果的なんだ。
宙を泳ぐように、一匹のミツバチがふらふらと飛んでいた。
堰を切ったように、壁の六角形から次々とミツバチが吐き出される。ミツバチたちは満田の体にまとわりついて、身を寄せ合うようにしている。
そのうちの数匹が満田の手にある資料にとまる。男たちの写真に体を何度も擦り付けるように、何かを確かめるように行ったり来たりを繰り返している。
その動きが段々と規則性を帯びだす。尻を左右に揺らしながら直進と方向転換、また直進を繰り返し、八の字を描くように動き回っている。
胴体にとまっていた蜂たちが資料に集まりだす。総数が三百匹を超えたあたりで、ミツバチたちは一斉に事務所の窓から飛び出していった。
一人残された満田は、なおも壁から現れるミツバチたちに視線を移しながら窓辺の椅子に腰かける。
やがて羽音を子守歌にして眠るように、ゆっくり目を閉じた。
* * *
時任が事務所を出た五時間後。殺し屋たちは今日も律儀に依頼人の利権を脅かす邪魔者を一人また一人と潰して回っていた。
開発予定地である満田の事務所から数キロの位置にある町工場に男たちが潜んでいる。どうせ建設作業が始まれば立ち退かされるのだから、と家主を追い出し、今は拉致してきたコンペの競争相手や利害関係者を連れてくる拷問部屋として使われていた。
「居場所は吐いたのか」
二週間程前に、本社ビルの一室で注射を受けていた男の一人が、先週追加投入されたばかりの新入りの男に問いかける。
「いや、まだだ。この様子だと本当に知らないかもな」
声をかけられた方の男は、目の前の椅子に縛り付けられた社長秘書の男の膝に短刀を打ち込もうとする動作を中断した。
「そうか、一旦本社に戻るぞ」
「了解」
提案してきた男はすでに車の支度を始めている。短刀を持った男は、拷問道具を脇の台に置いて、返り血を浴びないように身に着けていたエプロンを外す。
秘書から社長の居場所を聞き出そうとしていた。もちろん、コンペ絡みだ。
二人は、競合潰しの仕事をこなすため、ライバル候補のとある企業に入札辞退を約束させようとしていた。
自らに迫る危機を敏感に察知したのか、二人が拉致目的で自宅に到着する前に、標的の社長は雲隠れしていた。
拷問担当の男は考える。姿をくらます程の恐れ様だ。この秘書の男の首を社長室宛に送れば、案外それだけで入札を控えるかもな。仮に社長が東京を離れていても、会社の情報は伝わるだろう。
男には体に染みた経験から、どうすれば恐怖によって人を意のままに操れるか自然と想像できた。
きっと運転役を買って出た男も、同じことを思いつくだろう。
「そろそろ出るぞ」
「わかった」
そう言って、工場を後にしようとしたとき──
ヴヴヴヴッ ヴヴ ヴヴヴッ
「…何の音だ」
「どうした」
「聞こえなかったか、今音がしただろ」
ヴヴヴッ ヴ ヴヴッ
「ああ、聞こえた。確かに音がする」
出しかけた足を室内に戻す。すでに音は止んでいたが、男たちは耳を澄ませて周囲を警戒する。
二分が経過した。
「…何も聞こえないな」
「わからんが、問題はなさそうだ。さっさと戻るぞ」
再び音が鳴ることはなかった。だが、異変が起きていないわけではなかった。
男たちは気づいていなかったが、すでにいくつもの脅威が身近に潜んでいた。
例えば拘束された秘書、例えば乗り込もうとしている車内、二人はもっと注意を払うべきだった。
しかし、殺し屋としての技能を身につけ、故に思いつく限りの現実的な脅威に対する警戒パターンをいくつも知る男たちでも対応できないことはあった。
その現象は、現実的というよりも超常の部類だった。
血の匂いに満ちた工場の中、椅子に縛られた男が首をだらんと下げている。
その背中にびっしりとミツバチが群がっていた。
あるいは、男たちの乗った黒いバンの車内。空調や収納の裏側にはミツバチが数十匹入り込んでいる。
さらに、拷問を行っていた男の内ポケットにも数匹忍び込んでいた。
男たちは気づかず車を出す。
ミツバチたちは羽音を押し殺すように静かにうごめいている。ミツバチたちはストローのような口を大きく開く。
縛られた男の首筋に、車に搭載されたカーナビの配線に、男のスーツの内ポケットに仕舞われたスマートフォンに─
ストロー状の口は物理的な硬度を無視して、ズルズルと内部に侵入していく。
その管の中を通って、吸い上げられた何かがミツバチたちの体に収められていく。
男たちはまだミツバチの存在に気づいていなかった。
* * *
時任が事務所を訪れて三日が経った。
事務所の壁面には、内部へ吸い込まれるように入っていくミツバチと、窓から外に出るため飛び立っていくミツバチで溢れていた。
満田は目を閉じて座っている。やがて、春の訪れを察知した虫のように立ち上がって壁まで歩みを進めた。
敷き詰められた六角形の一つを手の平で軽く押し込む。カチッ、と音がして引っ込んでいた六角形のパネルが勢いをつけて飛び出してくる。
そのパネルを持ち手のようにして引っ張り出す。突然壁から六角柱が現れたかのようだった。中にはLANケーブルの差し口が並ぶサーバーが収納されている。
中に入り込んだミツバチが運んできた蜜を仕舞うかのように、サーバーに口元を近づけている。
満田は差しっぱなしのLANケーブルを掴むと、机に戻ってPCに繋いだ。
サーバ―内の情報をインストールし終えると、表示されたファイルを開く。ファイルの中には映像や音声データ、数百にも及ぶ画像などがさまざまな形式で保存されていた。
日が傾きかけてきたからか、事務所は薄暗い。そんな部屋の中で、満田は一つ一つデータを確認していった。
確認作業を終え、得られた情報を元にさらに調べ物を続けていると、あっという間に数日が過ぎた。それでも、事務所の中で行える必要な準備はすべて終えていた。
満田は最後の仕上げ作業のため、出かける支度をする。支度をしながら、窓の外の景色を眺める。満田はこの景色が好きだった。別に絶景というわけでもない。道路を挟んで向かい側にも、同じような雑居ビルが並んでいるだけだ。
だから、正確にはこの景色だけ見ていれば済む日常が好きだった。
──この日常を誰にも奪わせない。特にああいう連中には。
戸締りをして、さっさと外に出る。仕事のために外出するのは、実に一ヶ月ぶりだった。
* * *
港区にあるオフィスビル。その最上階のフロアにあるオフィスを会場代わりにして、六十名にも及ぶスーツ姿の男たちが集まっていた。机とPCが並ぶ広いガラス張りの部屋は、人を働く機械にするための儀式場にも見えた。
その階以外に人気はない。数年おきに行われるビルの一斉清掃という名目で、定時前に人払いが行われていた。
殺しを生業にしているとは思えない会社員然とした姿だった。唯一現実離れした異様さを感じるとすれば、全員の恰好が揃い過ぎていることだ。
全員が同じ黒のスーツに身を包み、ワックスで髪を後ろに撫でつけている。左手に巻き付けた時計も、スーツのポケットに入れたハンカチなどの小物まで統一されている。おそらく、下着や使っている整髪料も同じなのだろう。
一人一人の顔つきは違っているが、違っているのはむしろその一点だけだった。
巻は六十名の殺し屋たちの前に立っていた。昼間は投資会社の課長職の席なのだろう、勝手に社員の席についた殺し屋の集団をよく見渡せた。
巻は三週間ほど前に久留実グループの本社から出向してきていた。このフロアの別の部屋で四人の社員を新しく生み出してから、さらに人員を補強しつつ、商売敵の排除に精を出していた。
「…やけに多いな」
その夜の集まりには、全社員が参加していた。普段は四人一組のグループで行動し、業務にあたっている。週に一度、他グループとの連携が必要な案件がある場合に、必要な人数を招集することはあったが、全員集合するのは初めてだった。
最前列の男が巻の疑問に答える。
「B班から、先週行方をくらませていた社長の件で、合同作戦の提案があると聞いています」
巻もそれは把握していた。しかし、別の席から声が上がる。
「待て。俺たちはC班から要請があって来たんだぞ」
集まった目的が、明らかにかみ合っていない。そのあとも、すべての班から招集に応じた理由が告げられ、それがすべて異なっていることがわかった。
──明らかにおかしい。誰がこの場に俺たちを集めたのか。
巻が警戒度を上げた。それに呼応するように、その場の全員が警戒心を発しだす。
「お集りの皆さん、こんばんは」
入口近くから聞こえた聞きなれない声に、その場の全員の視線が注がれる。
そこには清掃員の格好の男が一人立っていた。足元には清掃用のバケツが置かれている。
清掃員?こんな時間に?普段なら清掃の時間はとっくに過ぎている時刻だった。一斉清掃の予定も偽りであり、ここに居ていい理由はない。
「おい、誰だ貴様──」
巻が注意を惹き、その間に最後列の男たちが懐に忍ばせた拳銃を発砲するはずだった。組織の本社であるこの場所に、不審者がいる時点で敵の証だった。一切の検討も不要で、即処分に動くのが当然だった。
一瞬で目の前が真っ暗になる。ブレーカーが落とされたのだと気づく。その場にいる全員が慌てずに、スマホを取り出し、ライトを点けて辺りを照らした。
右手に拳銃、左手にスマホ。
侵入者を追い詰める六十匹の猟犬が放たれていた。
どこからか声が響く。
「よく統率されてますね、動じる素振りも見せやしない」
闇から声がかかる。
「どうやってこの場所がわかったのか、気になりませんか。どうやって偽の情報で皆さんをここに集めたかは?」
巻にとって、そんなことはすでにどうでもよかった。この男を始末してから正体を探ればいい。拠点も他所に移せば三日で業務を再開できる。
問いかけに反応がないことを残念がるように、声が続ける。
「もっと不安がってほしいのに…あなたみたいな人は苦しんで自分の行いを悔いるべきだ」
それでも巻は冷静に部下たちを散開させ、敵を追い詰めることに余念がない。
しかし、次の言葉は巻の心を乱した。
「うわぁ、近づいてくる…優秀な社員ですね。これだけの人材をこんな数用意できるなんて、これぞあなたの能力の真骨頂ですねぇ」
「なぜ知っている…」
巻が初めて見せた感情だった。
「あなたの武器がこの兵士たちであるように、情報が私の武器だからですよ。私と私の能力の、ね」
──こいつ、俺と同じような力を持っているのか。
巻にとって初めて出会う
「あなたの力──あなたが『
私もそうですけど、自分の力ってカッコいい名前を付けたくなりますよねぇ──満田はわざと呑気な口調で、巻の心をさらに揺さぶるために情報を開示した。
「あなたの力は、自分の血液を投与した人間に、自分が習得した技能をインストールできる。これで銃の扱いや死体の処理法を、そこらのチンピラに身に着けさせれば、即戦力の殺し屋を量産できる。いやぁ、考えましたねぇ」
なぜだ、なぜ知っている。なぜこの男をさっさと始末できない!
部下たちの動向に意識を向けたとき、巻の鼓膜を音が揺らす。
ゴボォ ヴヴヴッ ヴヴ
なんの音だ?
一度認識すると、疑問は次々湧き出す。暗闇に響く足音。部下たちが敵を追い詰める行軍の証──そのはずが、音がやけに乱れている。何かから逃げ回るような怯えの音。
ヴヴッ ゴボォ ヴヴヴ
叫び声がする。てっきり部下たちの連携の合図かと思ったが、悲鳴に近い声が聞こえた。
何だ?何が起きている?
満田の声が答える。
「私、前職の悪徳企業に身も心もすり潰されましてね。何が辛いって、ああいう会社で働く人は、騙して商品を買わされる人を人と思ってないんですよね」
誰かが発砲した。巻は身を屈めて、廊下に面したガラス張りの仕切りに近づく。廊下沿いに歩けば、出入り口の扉にたどり着ける。
「そんなだから、社員の扱いもひどいんです。まるで虫ケラみたいに扱われるんですよ?それで壊れたら即用済みです。」
そんな巻の動きを把握しているのか、満田の声が追いかけてきている。
「だからね、私許せないんですよ。人を使いつぶすあなたのような経営者が」
中腰の姿勢で並んだ机に身を隠しながら、巻は扉に近づいていく。
「そんなある日目覚めたのがこの力です。社員時代、営業先リストに載った個人情報を元に人を精神的に追い詰めるような仕事してたからですかね、こんな能力が目覚めたのは」
巻は扉を勢いよく開け──バン!バシャン!──視界がひっくり返る。
何だ?気づくと巻は転倒していた。足元が滑ったような──床に目を向ける。そこにはひっくり返った清掃用のバケツと、中の薬液がまき散らされて泡立った液体が広がっていた。
「私の力は、六角形の連なりから蜂を生み出す能力です」
ゴボォ ヴヴヴ
「生み出された蜂は、花の蜜の代わりに人や機械から情報を吸い集めて巣に運んでくるんです」
ヴヴヴッ ヴヴ
「そして、蜂ですから当然毒針を持っています。その毒は人間に感情を流し込むんです。色のない大量の強い感情。それを流し込まれると興奮状態になったり、恐怖に震えたり反応は人それぞれなんですが、二回刺されると心のアナフィラキシーショックとでも言うのか、急性のトラウマやPTSDに陥るんですよ」
巻は立ち上がろうとして、焦りから二度も態勢を崩した。あと少しでエレベーターだ。
「あなたの能力は技術をコピーできても、経験や知識まではインストールできない。せいぜい習慣として組織への従属を強いるのが限界でしょう」
もう少し!急ぐんだ!
「あなたが殺し屋に仕立てあげた人間にも過去や感情があるんです。私の蜂はそれを奮い立たせました。あなたが無視した個性が、彼らにユニークな反応を起こすんです。例え、暴力の技術を得ても、凄惨な場面に耐えられるとは限らない。あなたはこき使う内に、彼らに消えない心の傷を負わせていたんですよ。」
逃げ切った!
「もし、錯乱した人間の手に拳銃が握られていたら、どうなるでしょうね」
ガシャンとガラスが割れる音がした。誰かが、いや、何人もの人間が無差別に乱射した銃弾が巻の腿に穴を開ける。
短く悲鳴を上げて転倒する。気づくと廊下の奥に満田が佇んでいる。
「これは個人的な憂さ晴らしです。嫌いな人間と事務所移転の懸念を同時に始末できますし」
満田は近づいてこない。代わりに重低音がうるさく響いて巻の心を乱す。
「知ってますか、蜂が攻撃してくるのは巣の安全を脅かされたときなんですよ」
満田の指が床に広がった泡に触れる。細かな泡沫は所々崩れた部分はあるものの、無数の六角形の連なりを形作っている。プラトーの法則とハニカム構造──
「あなた、巣を蹴飛ばしちゃいましたね」
うっすらと笑みを浮かべた満田がつぶやく。
ヴヴヴッ
ヴヴ
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ
* * *
「ご苦労だったな、満田」
報酬を手渡した時任は、労いの言葉をかける。手はページを開かれた週刊誌を掴んでいる。
煽情的な見出しが目立つ。
──『企業に広がる薬物汚染!!久留実グループ子会社が社内で深夜のドラックパーティ?錯乱した社員の奇行の数々』
「これで万事解決だ。しかし、随分と派手にやったなぁ」
「奴らは超えてはいけない一線を越えましたからね」
時任がキョトンとしていると、構わず満田は持論を語る。
「誰であろうと、人の尊厳を踏みにじるような行為は許されないんですよ。命を奪ったり、人を人と思わず使いつぶしたり」
「偉そうなこといえる人間か?あれ以来、一件も仕事せずにぐうたらしてる奴に、尊厳なんて大層なモンねぇだろうが」
「いいんです」
「良かねえよ、働かざる者なんとやらだろ」
満田はムキになって言い返す。
「無理なものは無理です。今の社会は労働が厳しすぎるんですよ。人は働き蜂みたいに、従順に仕事をこなすなんて無理なんですよ。私は情報を売った不労所得で生きていくんです」
開け放った事務所の窓から一匹のミツバチが入り込んできた。
「その情報を得るにも、働かなきゃならねえだろうが。人望のないお前は特によぉ」
呆れたように言う時任を無視して、満田は窓の外を見ている。
「ありますよ!飴と鞭?いや、蜜と針かな。とにかく厳格さと正当な報酬の支払いで、私は慕われてるんですから!」
馬鹿言うな!本当です!などと不毛な会話を続ける間も、一匹のミツバチは運んできた蜜を巣に蓄える。
彼女は不満も喜びも感じていない様子で、再び羽を広げて飛び立った。
腐った社会の虫ケラ共 @madoX6C
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます