切って、一歩踏み出す
Aki(IP)
切って、一歩踏み出す
やめちまいなよ、K市なんて遠いところ。あんな街、トモには合わないよ。
ツナのメッセージは、あっさりと私の高揚感をぶち壊した。
こいつと同棲して三年間になるけれど、そういえばそういうやつだった。
ここのほうが若い人が多くてオシャレだし、トモにも俺にも合ってるよ。
トモは、そんなところじゃもったいないよ。
でもさ、ツナ、新しいお店でスタイリストを任されるんだよ
髪を洗ったり掃除をしたりするアシスタントじゃないんだよ
それだってだよ。
せっかくさ、美容学校で勉強してさ、いまのお店で3年間もやってきたんじゃない。
いまのお店でチャンスをつかもうよ。ここにいれば俺もトモを応援できるしさ。
送られてきた「がんばれ」という文字を掲げて舌を出す猫のスタンプが、私をいらだたせる。
四年間、と私は、髪をかきむしりながら、黙ってツナの言葉を訂正した。
三年間は、いまのヘアサロンにお客として来たツナと出会って、彼と付き合うようになってからの時間だ。私がお店で叱られながら頑張ってきた年月は、三年間じゃない。
苛立ちが怒りになって、指先へと溜まっていく。
スマホが震えた。
それよりさ、お昼のデザートなにがいい?
イチゴショートとチーズケーキが廃棄処分になりそうなんだ。
トモがいま食べたいほうを持ってく。
ツナは、こういうところがズルい。
いつもこうやってタイミングを外される。
かわいい気分じゃないからチーズケーキ!
りょうかい!
スマホの上で踊っていた私の怒りは、行き場がなくなって、仕事上がりの髪をぐしゃぐしゃにした。
「ゔ~」
スマホがうなり声に応えて震える。
今度はなんだ。
ね、お昼なに?
夜勤明けだから、肉がいいなあ。
そうだった。
ツナの言葉で、私は、二十分後にスーパーのタイムセールが始まることを思い出した。ヤバい、急がないと。
思い出した、ありがと。
お肉の炒め物にする! 買い出しに行ってきます!
いってらっしゃい。
「いってらっしゃい」か。
ポーチに入れていた財布とハンカチをマイバッグに放り込み、いらだちでぐしゃぐしゃになった髪を大きめのキャスケットで隠して、私は、アパートを駆け出した。
激安スーパー「ビントモ」は、タイムセール狙いの人たちでごった返していた。
オシャレな街として知られるここI区は、私と同じ若い人が多い。
つまり、私のようなパートタイマーか、派遣かで収入が少ない人が多い。だから、激安スーパーは、いつでも私のような人たちでいっぱいだし、タイムセールになると少しでも食費を浮かせたい人たちが集まってくる。
「ごめんなさい!」
私は、後ろからぶつかってきた人にとっさに謝った。
ぶつかってきたのは、頭を低く低く下げてすまなそうにしている女の人だった。
自分が悪くなくても謝ってしまうのは、いまのお店で受けた教育のたまものだけど、ぶつかってきた女の人が同じように頭を下げてすまなそうにしていると、悪いクセでもないなと思う。
女の人の手にあるカゴには、タイムセールのお肉が食べきれないほど積み上げられていた。冷凍して次の買い出しまでの一週間で使う量だ。
みんな大変なんだ。できる範囲でできることをするしかないんだ。
ぶつかってきた女の人が頭を上げて、彼女と目が合った。
長い髪を茶色のバレッタで束ねた彼女は、目の下とおでこに明るめのリキッドを乗せて、顔の外側に暗めの色を置いていた。
丸顔を気にしている人がするメイクだ。
こんなスーパーに来るときまでしっかり縦のラインを作るメイクをするなんて、よほど丸顔を気にしているんだろう。気にしすぎているのか、なんだか暗い表情をしている。
生まれ持った顔立ちは変えられない。彼女もできる範囲でやれることをやっている。
私は、ツナとのチャットを思い出して、うんざりした。
そう、私もこの街で、ツナのためにご飯を作って、アシスタントとしてやれることをやるしかないよね。お客様にシャンプーして、世間話なんかしながら肩を揉んであげて、それが終わったらスタイリストの先輩が切り散らかした髪をバキュームで吸い取る。
地道にやっていくしかない。私の夢が棲んでいたこの街で。
「わたしこそ、申し訳ないです。疲れていて、ちゃんと前を見ていなくて」
一度謝りだすとそこはお互い日本人。
義務教育から社会人教育までで仕込まれたごめんなさいの連鎖が止まらなくなってしまう。
ごめんなさい、すみません、悪いと思ってなくても申し訳ございません。
ミスがあってもなくても、本当に悪いことをしていてもしていなくても、ごめんなさいと言っている間になんだか丸く収まってしまうのが日本人の素敵にダメなところだ。
そうしてお互いキツツキのように何度も頭を下げているうちに、私は、キャスケットを落としてしまい、彼女は、長い髪を束ねていたバレッタを吹き飛ばしてしまった。
からからから。
バレッタがフリーザの下へと転がっていく。
「あっ」
私は、とっさにローファーの内側でバレッタを受け止めた。
そして、ハンカチで拭いてから、拾ったバレッタを彼女に返した。いつもトイレで使っているハンカチだけど、今日はまだ使っていないからセーフだよね。
「ありがとうございます。わたし、今日は本当にそそっかしくて」
バレッタを申し訳なさそうに受け取る彼女を改めてみると、違和感があった。
なんだろうと、もう一度、じっとみた。
髪型だ。髪型が似合っていない。
彼女は、長い髪をAラインに作って、ウェーブをかけた髪先をふわっと外側に広げさせている。北欧系モデルのような面長だったらさぞかし美人の髪型だろうけど、純和風で丸顔の彼女にはまったく似合っていない。
もったいない。
週に一度しか買い物に来ることができないくらい忙しくて疲れていても、これだけしっかりフェイスラインを作る人なのに。
ありえない。
そうだ、できる範囲でやれることのなかに、まだやれることがある。
そう気づいた瞬間に、私の四年間が、喉から流れ出した。
「あの!」
彼女が、じろじろと見て、声をあげた私を怪訝そうに見る。
「髪、少し短くしてみませんか?」
「お姉さん、目と頬がきりっとしてるから、前髪に隙間を空けて、サイドをしっかり作った髪型が似合うと思います。パーマをかけて襟足を少し外側に向けると、シャープな印象を出せますよ」
「ついでに毛先に少し明るい色も入れてみませんか。きっと似合いますよ」
しまった。
びっくりした彼女の顔を見て、やってしまったと思った。
つい、髪型をおすすめしてしまった。
いまのお店ではまだできないスタイリストとしての仕事、憧れて練習してきた言葉がつい出てしまった。
やりすぎた。
私の顔が真っ赤になっていくのがわかる。
ごめんなさいで終わらせておけばいいのに、気になったことを口に出さずにすませておけばいいのに。
私は、やりすぎた。
「あの、あなた」
彼女が私をじっと見つめてくる。
もうだめだ。
「美容師さん?」
「あ、はい。まだ見習いですけど」
「お店は、どこ?」
「駅前にある――です。青い看板のヘアサロンです」
「青い看板の、ああ、あそこね。何時まで開いている?」
彼女は、タイムセール終了のベルに負けない音量で、あなたのヘアサロンに行って、髪型を変えてみます、ありがとうと繰り返した。
いまの髪型は、別れた旦那が好きだった髪型だけど、ずっと気に入っていなかった、おかげで踏ん切りがつきます、ありがとう、と彼女は、言ってくれた。
私が渡したお店のカードをひらひらさせながら去っていく彼女は、なんだか別人のように素敵な笑顔だった。
駅前へと向かう彼女と別れた私は、買ったお肉を振り回しながら、ヘアサロンの店長の携帯へと電話をかけた。
「もしもし、店長」
「K市への異動の話、お受けします」
「それから、丸顔のチャーミングな女性がお店に行くと思います。たぶん短めにしたいと思うので、店長、お願いします」
きっと彼女は、新しい髪型を気に入る。
そして、前の旦那さんのことを吹っ切って、新しい素敵な人生を歩みだす。
自分にもできることがあった。
四年間頑張ってきたことを活かして、彼女のような人が抱えている嫌なことを、髪の毛と一緒に切り飛ばすんだ。
「おい、トモ、聞いてるか?」
電話の先にいる店長がちょっと大きな声になった。どうやら、何か聞きもらしたらしい。
「え、あ、はい。店長」
「トモ、何度も言わせるな」
「仕事には、最後まで責任を持て。お前が捕まえた客を待たせるな。来たらシャンプーとマッサージで時間を持たせるから、お前は着替えて、さっさと店に出てこい」
「!」
「わかりました!」
私は、ドアを乱暴に開け、ツナに食わせるつもりだった肉を冷蔵庫の上に放り出すと、買い出し用の普段着を脱ぎ捨てた。
いつもアイロンをかけている仕事着に袖を通すと、三年間空っぽだった私の中に、スタイリストとしての私が入ってきた。
ずっと夢見て、忘れていた私だ。
髪を結い直し、違う私になって外へ出ると、街がスーパーに行くときと違う顔をしていた。
ここはもう、私がツナと出会った街じゃない。
四年間頑張って、ようやく夢と出会えた私をK市へと送り出してくれる、最初の一歩を踏み出す街だ。
あのお姉さんの髪を切ったら、私も髪を切ろう。
そして一歩、踏み出そう。
― 了 ―
切って、一歩踏み出す Aki(IP) @shidaisu
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