Under (life-)threatening condition

長尾たぐい

# 1

朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。おれは白いマグにインスタントコーヒーの粉を目分量入れて、そこにお湯をコポコポと注ぐ。

 テロリン、という音とともに画面全体を占めていたキャスターのバストショットは左半分に収められ、右半分には素っ気ない色合いの見出しが七つ並ぶ。それでは本日予定されている世界動勢です、という滑らかな声ともにオセアニアに関する項目がピックアップされた。化石燃料の使用に対する大規模な規制の強化が発表されました――。

 日付に注目するなら、このエリアには世界の終わりまであと八日が残されているはずなのだが、カウントダウンはグリニッジ子午線を基準としているので、世界のどこにフォーカスしてもキャスターの挨拶に定義上の問題はない。加えて言うのなら、世界が終わることを知っているものは世界には存在しておらず、したがっておれのように食材の詰められていない重箱の隅をつつくような真似をするものも存在していない、と。

 きみならそうやって悪戯っぽく笑うんだろう。

『君はやっぱりそういうところが気になるんだな』

 朝のニュースは視界の隅をちらつく混濁と同じだ。こうしてアスランが無遠慮に話しかけてくることに慣れても、誰がどうやってこのニュースを作り、そして届けているのか、このコーヒーを自分はどうやって味わっているのかという疑問は、いつも頭の中を漂っている。

『そんなところがいいなあ、と思ってスカウトした僕の目に狂いはなかった』

 えへん、という擬声語が小さく響いた。相変わらず手の込んだことをするな、と感心する。

 彼は『今しがた世界での命を終えたところの君にお願いなんだけど、こっちで少し働いてみない?』と不親切極まる文句で怪しいスカウトをした挙句、こちらが何か問う前に『そうそう、僕のことはKとかBとかGとかが頭文字にくるもの以外で呼んでね?』と言って、こちらが二番目ぐらいに質問しようとした内容を先回りして塞いだ。そのおかげでおれの最初の質問は「KとGはなんとなく分かったけど、Bって何ですか?」になり、彼が答えをよこしながら『三つそろってどこかの秘密警察、なんちゃって』とルンルンという効果音を発動させたので、おれに分かったのはこの正体不明の存在が不要な遊び心に満ち溢れているということだけだった。

 あらゆることを諦めて――そういうことには慣れざるを得ない人生だったので――では、アスラン、と正体不明の声に呼びかけると、彼は声音をいささか先ほどよりは落ち着いたものに変え、委細について話し始めた。いわく、おれがいた世界はもうすぐ終わるということ、そのためにはいくつかの処理をしなければならないこと、世界を離れた人間がそれを仕事として行っていること、おれはその一人として選ばれたこと、仕事に従事する対価として願いをひとつ叶えてもらえること。

 何を願えばいいのかという迷いはなかった。おれの願いを聞いたアスランはうーん、と唸った。あまりに安価なクリスマスプレゼントを子供にねだられた大人のような調子で。

『それだと、君に働いてもらう分とあまりに釣り合わないのだけど、本当にいいの?』

 そういう返答の仕方はそれまで山ほどされてきたけれど、そのときのおれは本当にそれでいいと思った。力強く頷き、はいと答えたおれに、アスランは優しい声でいい子だね、と返した。そこには何の憂いも憐れみも含まれていなかった。

 アスランとのこのやり取りを聞いたトメさんの呆れ顔を思い出しながら、おれは仕事部屋に移り、残り少なくなった処理作業にとりかかる。

――あんたはいい子だ、でも、若いうちからそんな風なのは感心しないね。

 おれの願いを承諾した後、この扉の向こうが君の仕事場だよ、仕事のやり方はそこにいる子に聞いてね、と続けたアスランの声と共に、目の前に見慣れた白いスライド式のドアが現れた。銀色の取っ手を掴む。嗅ぎなれたあの匂いはしない。扉の先の空間には、小柄な老女が大量の紙の山に埋もれるようにいた。見事なまでの白髪がどこから放たれているか分からない光を反射する。彼女は、今度の相棒はまた一段と若い子だねえと眉尻を下げ、チェーンのついた眼鏡を外して微笑んだ。

 おれの最初で最後の同僚、トメさんは最初の印象通り気風のいい人だった。手際よく仕事をこなすトメさんの手つきは鮮やかで、同じように世界で辣腕を振るう姿が目に浮かぶようだった。

「あたしがどれだけここにいるか教えてあげようか」

 半世紀近くだよ、そう茶目っ気たっぷりにそう告げられて目を白黒させたおれに、トメさんは自分の享年も教えてくれた。五十年、そこからさらにマイナス。

「トメさんが近代人だから、ここは書類仕事なんですか?」

 真面目に問いかけたつもりだったのだが、年寄りだからって甘くみるんじゃないよ、と睨まれてしまったことが懐かしい。

 その彼女から、今日できっちり半世紀だからあたしの仕事は終わり、とさっぱりした声で告げられたのは三日前のことだった。おれは颯爽と立ち去ろうとしたトメさんを引き留め、小走りで慌てて自分の部屋に戻り、冷蔵庫からプリンを二つ、引き出しからスプーンを二本取り出して仕事部屋に戻った。

「あら、あんたそんないいもの持っていたの」

「あ……朝見たら……ま、た増えて……いたんです」

 吸って吐くべきものが本当にここにあるのかも怪しいのに、息切れが起きるのはひどく滑稽だ。げほげほと咳き込むおれの背をトメさんが優しくさする。皺とシミが目立つ筋張った手は、いつもおれの知らない懐かしさに満ちていた。

のお情けだと思うと癪だけど、あんたと最後に美味しいものを食べるのも悪くない」

 あたしは固いほうが好みだけどね、と呟きながらトメさんはプリンを瓶から掬った。おれは苦笑した。おれにとってのプリンはこれなのだ。釣り合いの取れない奉仕と願いの間を埋めるように、おれの下には大量の嗜好品が現れる。トメさんは、そんなものが発生する余地がある願い方などしない人なのだろう、という見当はついていた。だから、何かを得られる機会があるなら、それをすべて使い切る心意気を持っているべきだ、とおれを叱ったのだと思う。あんたはいい子だ、でも。

「いい子ちゃんっていうのも悪くないでしょう?」

 いつか言われた言葉をまぜっ返すように言うと、肘で小突かれた。あんたのそういうところは本当に良くないね、と説教じみた声で言うトメさんの真面目な表情は、すぐにこらえきれない笑いに取って代わった。スプーンを差し込むと焦がした砂糖のかぐわしい香りが立つ。甘味を感知した頬の内側が窄まる錯覚をする。思い出話と共にプリンが二人の不確かな喉を滑り落ちていく。

 さてと、とプリンを平らげたトメさんが立ち上がった。相変わらず、どこから射しているか分からない光が空の瓶に当たり、散乱する。その角度は直感的に日暮れを想像させた。

「あとちょっとだけれど、しっかりやりなさい」

「本当にあと少しだから、最後まで一緒にいてくれてもよかったのに」

 おれの言葉を聞いてトメさんは呵々と大笑いした。すねたような言い方になってしまったのは失敗だった。思わず俯く。

「あんたは今度は後からおいで」

 喉が詰まる。顔を上げた先、トメさんは初めておれを見たときと同じ微笑みを浮かべていた。

がいうには、またどこかで新しく世界が生まれるらしいから、そこで会えるといいね」

 じゃあね、と軽やかに振られる手。何かに急き立てられるようにおれは立ち上がる。

「……自分が仕事をする日なんて永遠に来ないと思っていたので、私がここで働くことになったのは、ひょっとしたらトメさんが願ってくれたおかげなのかもしれません」

 トメさんは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。そして、それまでで一番優しい声で、あんたはいい子だ、と言っておれを抱きしめた。少し硬い着物の向こうには、ほのかな温かさと清々しさがあった。

 トメさんがいなくなり、処理すべきものも少なくなった仕事部屋は、世界よりも余程強く終わりの気配を漂わせている。

『ずいぶんとスッキリしてきた。これなら予定より早く君の分の仕事は終わりそう』

 仕組みの曖昧なおれの耳が深閑さに堪えられなくなって、聞こえない音を拾う前に、図ったようにアスランは現れる。馬鹿みたいに明るいBGMを伴って。

 積み上げられた紙の一枚一枚には、読めない文字が連ねられている。けれど、それらは手に取ると何かを感じ取ることができる。こちらと対称的な存在が去っていく気配、広がっていく空間、星々の産声、大気と擦れる塵、ストロマトライトが吐く酸素、細胞同士で投げ渡される情報、木々のざわめき、雑踏に響く囁き。音楽を聞き分けるようにこれを分類して、黒い紐で綴じて製本する。

 紙の中にはまれに、ひどくおぞましい音や悲しい気配を持つものがある。初めてそれを手に取った時、思わず身を強張らせたおれからトメさんは紙をひったくり、仕事部屋の隅にあるダストシュートに放り込んだ。こういうものの相手は長々とせず、さっさと手放すように、ときつく言われた。でも、こういう気配を感じるもの全てを捨てる必要はない。残しておくべきだと思うものがあれば綴じればいい、とも。

 残されたいくつかの小山の中からは、そうした気配を纏ったものはない。トメさんが片づけておいてくれたのだろう、というのは彼女が去ってからすぐに気が付いた。

『トメは最後までしっかり者だったからね』

 ふうわりと微かな風が背中を撫でる。ライオンの尻尾が揺れている、と根拠もないのにそう感じた。

『しっかり者でとっても剛直』

 ガギーンとドラマの殺陣のシーンのように硬質な効果音が流れる。

「剛直?」

『君、あの子が僕に何を願ったのか知っているでしょう?』

――あたしはあたしの望んだ人生を歩めなかった。あたしが死んだ年に、ようやく女は男と同じように働けるようになった。死ぬほど悔しかったけど、あたしはもう死んでるからどうしようもない。その代わりにこれでたくさんの女の子が少しでも望みを叶えられるのなら、あたしの溜飲も下がるってものよ。

 トメさんは半世紀分の労働を依頼したアスランに、自分が働いた量と釣り合う分だけ世界中の女の子の望みが叶う機会を与えろ、と迫ったという。

『たいがいはお願いと労働の間にちょっと差が生まれるから、君みたいに甘やかしてあげる余地があるんだけどね』

 グルグルと喉を鳴らすアスラン。トメさんがこの言葉を耳にしたら、これだからの言いようは気に入らない、とぴしゃりと言うだろうな、と想像する。

『僕はただの管理者で、君たちにしてあげられることなんてたかが知れてるんだから、ちょっとはいい恰好をさせてくれたらいいのに』

 しょぼ~ん、としみったれた効果音が響く。あと残り僅かになってきたとはいえ、まだ処理するものがある状況で、彼に構うのも少しずつ面倒になってきた。黙々と仕事を続ける。

『そうそう、今日も世界であの子は目覚めて、ちゃんと朝ごはんを食べて、元気に働いているよ。この間の揉め事はまだ解決していないみたいだけれど』

 アスランの最後のちょっかいもおれの手を止めるには至らない。彼は自分に叶えられない願いは受けないと言ったから。おれはそれを信じている。


 あの日、思い出せる限り、最初は確か仮面ライダーになりたかったのだと言うおれに、なったらいいのにときみは返した。真新しい、という形容詞をつけるにはやや躊躇われる建築年数を経た校舎の屋上では、当初予定されていただろう緑化はすっかり諦められていた。立派なプランターの中で見かけ上の命を終えようとしているありふれた多年草が、萎びたその身を風に任せている。ベンチに置かれたきみの愛想のないプラスチックのペンケースの下で、進路調査票がはためく。

「どうやって?」

「スーツアクターの養成所に通う」

「……そっちの方向か」

 ははは、と肌を撫でる風のように乾いた笑い声を二人で上げた。

「女の子向け戦隊ヒーローの何がいけなかったの」

「何も? たまたま周りには男の子が多かったから。今見ると、女の子向けの方も可愛くてかっこいいし素敵だなと思う」

 膝の上に載せたミントグリーンのペンケースを撫でる。雑貨屋でこちらを強く引き寄せたサテン地の光沢は少しだけ褪せてきていた。

「でも、やっぱり彼女たちより、彼らの方が完膚なきまでに敵をやっつけられそうだな」

 そう、おれはヒーローだから、胃をかき回されるような不快感にも耐えられるし、世界をもみくちゃにしてしまうようなめまいにも負けないし、おれの身体を乗っ取った悪い奴らを退治出来るんだ、と思っていた。

「ちょっと苦しい時期は、看護師さんや先生が『今回の敵は手ごわいぞ』とか言ってくれるんだよ。だからこっちも『おれは負けない!』とか返すの」

「きみが、見た目に反して力強いのはヒーローの影響か。いいね」

 にやりと笑いながら渡された肯定の言葉に、おれは曖昧に微笑みを返す。

「いいのかな」

「いいに決まってるじゃん」

――女の子がそんな言葉づかいをしてはいけません! お母さんにそう言われなかったの? 

 不自由さや苦労を微塵も感じさせない手から渡された可愛らしいウサギのぬいぐるみと、それに相応しくない大きな嘆息は、おれ、という一人称を表向き封じさせるには十分な威力を持っていた。

「でも、おばあちゃんをがっかりさせて、しまった、し」

 きみは首筋に手をやってやれやれとため息をつく。

「勝手に期待して勝手に失望する家族のことなんて、放っておけってこっちには言うくせに。――いいんだよ。きみはちゃんと自分が憧れたものの力を信じて、敵に勝って、ここに居るんだから」

 余計なことは考えなくていい!と叫びながら柵にもたれかかって空を見上げるきみの髪が、傾きかけた日差しを鈍く反射する。つられて見上げた空は高く澄んでいた。

 それから何か月か後、特別な前触れもなく、おれは数年ぶりに病院に戻ることになった。そこでは、かつてあれほど広く大きく見えたものの全てが縮んだように見えた。一方で記憶の中より二回りは大きくなった先生に、先生、大きくなりましたねと軽口を叩く余裕がおれにはあった。君がね!と豪快に笑う先生の顔が一瞬こわばったことも、気負いを感じさせない励ましを口にする両親の目に緊張がときおり過ぎるのも、見ないふりをするのは簡単だった。

 厳しい冬をいつものように乗り越えた世界へ命が満ちていく一方で、おれの身体は静かに、確実に衰えて行った。進路調査票に何を書くかあれほど迷ったことが、遠い夢のようだった。

「宝くじを買うといいと思うんだ」

「なんで?」

「今の私、結構なレアものだから」

 心底呆れかえった顔をされてしまった。

「宝くじの倍率舐めないほうがいいよ」

 1等が当たる確率は0.000005%なんだよ、と談話室に差し込む光に目を細めながらきみが言う。れい、の音がたくさんあったことは分かった。

「やけに詳しいね」

「宝くじ当てて家を出てやろうと思って調べたことがある。倍率に慄いたのと、未成年は換金するときに保護者が必要って知って買うのは止めたけど」

 あと、ときみの視線がリノリウムの床に落ちる。前髪が揺れた。

「きみは、まるで自分の辛さが金と天秤に架けられるものであるような物言いをすべきではない、と思う」

 強い風が吹いたのか、分厚い雲が流されてきた。先ほどまで眩いばかりの夏の輝きに満ちていた窓の向こうの中庭は、陰ったせいで外壁に浸み込んだ汚れが目立つ。空調が大きな音を立てて部屋を懸命に冷やしている。二人で腰かけた待合椅子の合皮は死体のように冷たい。

「弱ってるね」

「……病人には言わせたくない言葉だなあ」

 サンダルを脱いで膝を立て、そこに顔を埋めたきみの背をさする。

「やっぱり、私の不運ときみの不幸をかけて、宝くじを買おうよ。もう少し経ったら、二人とも保護者なしで換金できるようになるし」

「だから、当たらないって」

「当たらなかったら、私たちの辛さは大したものじゃなかったってことにならない?」

「……もし、当たったら?」

「こんなはした金じゃあ、おれたちの味わった辛苦には到底及ばないぜ、って言いながら豪遊しようよ」

 丸められたきみの肩が小さく揺れた。おれはきみの背から手を離す。億単位の豪遊を二人で夢想する。宇宙旅行? 世界を旅して暮らす? 遊園地を買い取る? 膝から上げられたきみの顔はいつもの軽快さを少しだけ取り戻していて、けれど、目元には今まで見たこともないほどの哀しみが湛えられていた。

「……痩せたね」

「ごめん、ゴツゴツしてて気になった?」

 思わず手を上げる。ひょっとしたら他にも不快な思いをさせたかもしれない。ずいぶんと前から清拭をするだけだったから。強張るおれの顔を見てますます深まった哀しみの色に、そういう理由ならむしろ良かったのに、と強く思った。

「違う。きみのほうがきっと辛いのに」

 息を吸うと、きみの汗と制汗剤の匂いがした。病室に充満するおれの病臭とは程遠い、生きているものの匂い。

「それを言うのはナシ、って前に言ったのはきみじゃない」

 力なく笑う二人の頭上に、雲が去って再び射してきた夏の日差しが落ちる。きみの爪が不自然なほど短くなっていて、指先が荒れ切っていたことを気遣う言葉を頭の中でいくつも作り上げたけれど、結局それを言うことは止めた。

「今度、家に帰ることになったんだ。またおいでよ。きっと母さんが山ほど唐揚げ作ってくれるからさ」

 宝くじを堂々と換金する機会を得ることも、もう、きみの泣き言を聞くことも難しいかもしれない、ということは最後まで口にはしなかった。きみとの最後の会話の内容が何だったのか、送られてきたメッセージに何と返したのか、そもそも返せたのかも今は思い出せない。ただ、最後の最後、どこか遠くから家族の声が聞こえてくる一方で、きみの声がしないことが残念なような、安心したようなそんな気持ちになったことは覚えている。

 そこからは上も下もない暗闇があり、おれはそこで、いつ来るともしれないバスを待つように時間を過ごした。そして、突然そこに声と光が降ってきた。

『――ということで、君のお願いをひとつ叶えてあげよう。でも、僕は創造主ではないから、出来ることは限られてるけどね』

 迷いはなかった。

「――が、世界が終わるまで、生き延びられるようにしてください。もし、家のことで、それか、それ以外の何かが引き金になって死んでしまいたいと思ったとき、生きていたいと思える些細な何かを与えてくれるだけでいいんです」

 きっと、それだけで大丈夫だ、という確信がおれにはあった。だから、きみがあれからどんな思いをすることがあっても、今日までおれはここで黙って手を動かし続けた。

 キーンコーンカーンコーン。きみと通った校舎のものより澄んだ音が昼を告げる。大人になって仕事をしていても、こんな風にチャイムが生活を律するものなのだろうか。それは少し滑稽で、でもなぜか確かさのひとつの形であるような気がした。

『今日のお昼は鮭の幕の内弁当だよ。美味しそうだねえ』

 身体は世界に置いてきたはずなのに、毎日三度出される食事、用意されたベッドに入って目を瞑ると知らぬ間に過ぎ去る時間。部屋に置かれた植物、生活を営むためのいくつかの機具、世界で流れるものによく似せたニュース番組。差し出されなければ、水だって欲しいとは思わないのに。

『何が人を人たらしめるのか、僕は良く知っているんだ。君もよく分かっているように』

「ここに悲しみや不幸は存在しないのに? これじゃあ半分だ」

 のたうち回りたくなるような痛みや、無限を独りで抱えるような虚しさが欲しいわけではない。それでも、ここはあまりにも世界と違う。

『願いを叶えてあげる理由には、厳密にはそれも関係しているね』

 ふふ、と密やかな笑い声が響く。嘲りも喜びもなく、ただ春になれば花が綻ぶように。

『終わりが決まっていても、それに至るまでのすべてが等しくあるべきだということだよ。僕にできるのは、あくまで誤差の範囲に収まることだけ』

 おれも、そしてきっとトメさんも、問われた時からそんなことは分かっていた。

両親のいない病室で向かい合った先生の真剣な目を思い出す。僕が君のためにできることはすごく限られているけれど、その範囲でなら何だってする。その中で、君は家族と喧嘩してもいいし、些細な失敗をしてもいい。それがない人生なんてありえないと僕は思うから。……でも、それらや身体の痛みを忘れるくらい、楽しい思いを君が少しでもしてくれたら嬉しいと思う。それが。

「……それがKとかGとかBで始まるものたちの思し召し?」

『それは分からないなあ』

 アスランの大きなあくびの音が響いた。おれは箸を手に取る。手は合わせない。

 世界が終わる。今日もそこかしこで戦争は続き、環境破壊は色々な所で少しだけ改められて、どこかで打ち棄てられる人がいる一方で、救いの手を差し伸べる人がいて、あちこちであらゆる命が生まれ、同じだけ死んでいく、それらの全てと無関係に終わる。きみはそれを知らない。おれは願う。それまでのきみの生活が、喜びと悲しみ、苛立ちと満足、閉塞と解放、あらゆる事物で象られたものでありますように。

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