タナゴのタミオ

藤 達哉

第1話

タナゴのタミオ            藤 達哉


 替えられたばかりの水は透きとおっていた。外に眼をやると、三十六階の窓一杯に高層マンション群が聳え立ち、その向こうには広い河川敷と悠然と流れる大河が見渡せた。                    

タミオがこの住まいに来てから一か月が経っていた。彼は北国の養魚場で生まれ育てられ、ペットショップに買取られた。仄暗いペットショップの水槽で不満を感じながら泳いでいたところ、祐介という若いサラリーマンに買われ、今のマンションの水槽に入れられた。

「ねえ、この魚、フナみたいだけどなんていうの」

土曜の午後、遊びに来ていた恋人の繭子が水槽を覗き込みながら訊いた。

「タナゴっていう淡水魚だよ」

「そう、綺麗ね、鱗が銀色に光ってるわ」

体長五センチほどのタナゴが魚体を翻し、光があたると体が虹色に輝いた。

「うん、タミオっていう名前にしたんだ」

「とくに眼が可愛いわ」

繭子が優しく微笑んだ。

「可愛いだけじゃなくて、タナゴはとっても進化した魚で賢いんだよ、いろんなことが見通せるんだ」

「すごいのね」

「ひょっとしたら昔の繭子の恋人のことも知ってるかも」

「えっ、ほんと」

彼女は眼を?いた。

「ふっ、ふっ、冗談だよ」

「もう、いやだ」

「でも、タミオは本当のタナゴじゃないんだ」

「えっ、どういうこと」

「日本産のタナゴは絶滅危惧種でほとんどいないんだ、これはタイリクバラタナゴといって中国原産の近縁種なんだ」

「ふーん、そうなの、じゃあ養殖されてるの」

「そう、東北の養魚場で育てられたんだ」

「あら、はるばる引越してきたのね、ご苦労さん」

「ねえ、お腹空かない」

「そうね、なにか作りましょうか」

「それより近くのイタリアンはどう」

「いいわね、行きましょう」

二人は部屋を出てエレベーターで地上に向かった。高速エレベーターは耳に気圧の急速な変化を感じさせた。

新興住宅地の一画に現れた人気のイタアン・レストランは大勢の客で賑わっていた。

「どうしてタナゴを飼うことにしたの」

席をとったテラスで春の陽光を浴びながら、繭子が訊いた。

「子供のころ田舎に住んでいて、近くの池にタナゴがいてね、懐かしくなって飼うことにしたんだ。これからメダカやタニシも入れて、日本の原風景的な水槽にしようと思ってるんだ」

祐介は料理を口に運んだ。

「あら、意外とロマンティストなのね」

「そうでもないけど、他に趣味もないしね」

「あら、これ美味しい」

彼女はストローで琥珀色のジンジャエールを飲んで、微笑んだ。

「このジンジャエールは、ここのオリジナルで人気があるんだ」

店内のテーブルは若いカップルや子供連れで満席だった。夢や計画や、想い出話が店内を飛び交っていた。

 

 祐介は大手外資投資銀行、アマン投資でベンチャーキャピタルへの投資案件を担当している、と繭子は聞かされていた。彼は三十代中だが収入は驚くほど高く、高級マンションの一室を高額の家賃で借りていた。繭子は彼についてそれ以上のことはなにも知らなかった。

金曜の夜、繭子は行きつけのバーでいきなり彼に誘われた。以来、逢瀬を重ね季節が一巡りしていた。その後、繭子が祐介の部屋に泊まることが多くなり、半同棲のような形になった   

タミオは水槽から二人の生活の仕振りをつぶさに観察していた。いかにも投資家といった眼光鋭い風貌の祐介と苦労知らずでナイーブな繭子はとても釣りあわない、とタミオは感じていた。

しかし、二人の仲は日を追うごとにふたつの流れが交わりひとつの流れのようになり、一体化していった。


《人間の世界は不思議だ、どこからみてもマッチしないはずの男女があんなに親密になれるとは、一体、なにが二人を導いているんだろう、男女の仲ほど混沌としているものはないな、僕もいい相手が欲しいな》


繭子が祐介の部屋を訪れると、二人は決まって笑みを交わし、優しく抱擁し、そしてキスをした。キスは長く続き、柔らかな彼女の唇が祐介の口に吸込まれているように見えた。時には、互いに衣服のうえからまさぐりあい、彼女が昂揚し、息を弾ませることもあった。

そんな二人の振舞をタミオは観察していた。

彼女は、娘の早い結婚を願う母親から厳しく料理の指導をうけ、また一時、熱心に料理学校に通ったお陰で料理には多少の自信があった。

部屋を訪れた時、彼女はいつも夕食を作った。初めのうちは食器や調理用具もなく、必要なものは徐徐に買いそろえていった。

祐介も彼女の料理を気に入って満足気に食べていた。

出勤前の早朝か帰宅後の夜、彼が水槽にぱらぱらと入れる餌がタミオにとって唯一の愉しみで、狭い水槽のなかでほかにこれといった愉しみもなかった。

深夜、寝室から彼女の甘さに満ちた声が漏れてくることがあった。タミオはそんな時、情景を想像し、己のことのように体を熱くしていた。


 多忙な祐介は夜遅く帰宅することが多かった。繭子は早めに彼の部屋を訪れ、夕食の支度をして彼を待っていた。

「出張になったよ」

帰宅した祐介が料理を口に運びながら言った。

「あら、どこへ」

「ひ・み・つ」

「えっ、なにそれ、どこなの」

「ふっ、ふっ、冗談だよ、バージニアだよ」

「バージニアってアメリカの?」

「そうさ」

「どれくらい行ってるの」

「そうだね、一週間くらいかな」

「えーっ、そんなに」

繭子は表情を曇らせた。

「たいして長くないさ、大人しく待ってるんだよ」

「わー、ひとりでつまんないわ」

彼女は眉をひそめた。

「そんな顔しないで、そうだ、毎日タミオに餌やり頼むね」

「あっ、そうね、祐介がいないと私がやらないと飢死しちゃうわね」

彼女が微笑んで水槽を見ると、タミオと眼が会った。


《海外出張だって、こりゃ大変だ、あの子はちゃんと餌くれるのかな。それしても、祐介さんてすごいな、まだ若いのにこんな高級マンションにすんで、収入もいいんだろうなあ、ルックスもいいし、僕も祐介さんみたいになりたいな》


祐介の話でタミオは一瞬、不安を覚えた。


「忘れないで頼むよ」

祐介は目配せをした。

「もう、しかたないわね、餌がきれたらどうしたらいいの」

「コイコイアクアガーデンって言うペットショップで売ってるからよろしくね」

「分ったわ、なんとかするわ」

彼女は不機嫌を装ってみせた。


《外資に勤めているんだから海外出張があるのはしかたないわね、でも、これから度度こんなことがあるのかしら、祐介がいないと寂しいわ》


 翌週、祐介はアメリカへ旅立った。繭子は仕事が終わると毎日彼の自宅へ通い、タミオに餌をやった。毎日同じような時間に繭子が来るので、ひとまず餌の心配はなくなり、タミオは安堵した。

「さあ、たくさん食べて大きくなるんですよ」

彼女は祐介より多くの餌をくれるので、タミオは祐介が不在で喜んでいた。


《繭子さんがしっかり面倒看てくれるし、祐介さんがいないほうがいいかも知れない、こうやってゆっくりみると、彼女なかなかの美形だし、なんだかいまの生活が愉しくなってきたな》


タミオは胸鰭をぱたぱたと動かしながら、繭子をまじまじと見ていた。


 繭子が主人のいない部屋に入ると、いつもより広く見える部屋に置かれた水槽が眼に入った。近づくと、透明な空間にタミオがぽつんと浮んでいた。彼女が顔を寄せると、タミオと眼が会った。


《タミオはひとりで可哀想、私もいまひとりだけど、祐介が帰ってくればひとりじゃなくなるけど、タミオは・・・》


餌が残り少なくなり、彼女はコイコイアクアガーデンを訪れた。

かなり広さのある売場には多数の水槽が三段組の棚に並べられ、壁にも水槽がぎっしりと詰っていた。店内をひと回りしてタナゴの水槽に来ると長さ六十センチ、深さ四十センチほどの水槽に、数十匹のタナゴが所せましとばかりに泳いでいた。

暫く観察していると、なかに可愛い表情の小柄の一匹に眼が留まった。

「すいません、あのタナゴは牡ですか、牝ですか」

彼女は若い女性店員に訊いた。

「えー、どれですか」

「ほら、あのちょっと小型の」

「ああ、あれは牝ですよ」

「じゃあ、あれください」

彼女は餌一袋と水と酸素を満たしたビニール袋に入ったタナゴをレジに持っていった。

「えー、餌が三百五十円、タナゴが四百五十円、合計八百八十円です、ありがとうございます」

部屋に戻ると、彼女はビニール袋の水とともにタナゴを水槽に流し入れた。突如、水槽に放り込まれたタナゴは驚いていたが、間もなく落着きをとり戻し、タミオと対面した。


《あれ、いきなり現れたこいつは何者だ、そうか、繭子さんがペットショップで買ってきたんだな》


《ああ、びっくりした、ここはどこかしら》


牝タナゴが戸惑っていると眼の前にタミオがいた。


《こいつ意外と可愛いな、・・・そうか、繭子さんが僕にガールフレンドを連れて来てくれたんだ、なんて優しいんだ》


タミオは繭子の心遣いに感激した。


《あれー、このタナゴさん、どっかで見たことがあるわ・・・、あっ、そうだペットショップにいたんだ、うーん、このタナゴさんとうまくやっていけるかしら》


牝タナゴはタミオに記憶があったのですこし安堵した。


「さ、お仲間ができたでしょ、喧嘩せずに仲良くするんですよ」

彼女は水槽を覗きながら話しかけた。


 餌をたらふく食べたタミオはまどろみ始めた。

朝の暖かい陽光が養殖水槽に射し込んでいた。タミオは眼を醒ましたばかりでぼーっと浮んでいた。その時、突如水面が割れて、黒い影が迫ってきた。驚いたタミオはそれから逃れようとしたが、すでにたもに絡め捕られていて、空中を運ばれ次の瞬間、光のない水中に放り出された


《一体どうしたんだ、なにが起こったんだ。そういえば、この前、僕の仲間があのたもで掬い上げられて、姿を消してしまった、僕もどこかに連れて行かれるんだろうか》


春になり、養魚の出荷のシーズンを迎えていた。タミオは輸送用のトラックのタンク水槽に入れられていた。間もなくトラックは走りだし、タンクは大きく揺れ始めた。


《うあー、なんだこれは、これじゃ酔っちゃうよ》


長旅のあと、タミオは彼を買取ったコイコイアクアガーデンの水槽に流し込まれた。


《ふー、すっかり酔っちゃたな、着いたみたいだな、ここで落着けるのかな》


ほっとしたところでタミオは覚醒した。


 祐介はバージニア州ラングレーのCIA本部で会議に臨んでいた。ダークスーツとタイで身を固めた数名の男達がラウンドテーブルに着いていた。

彼はCIAの民間エイジェントとして本部の報告会に出席していたのだ。彼の任務は日本におけるシナーロ国のスパイ活動の監視だった。日本にスパイ防止法がないことに乗じて、多くのスパイが勝手放題の情報収集活動を展開していた。なかでもシナーロ国の活動は眼にあまるものがあった。効果的な手をうてない日本政府に痺れをきらしたアメリカは、民間人をエイジェントとして起用し、シナーロ国のスパイの監視をさせていた。

CIAから声をかけられたときおおいに迷ったが、誘いを受けることにした。誘いがあった時、法外な報酬に惹かれたのは事実だが、彼にはべつの思いもあった。敵対する国家が日本で我者顔でスパイ活動に狂奔している現状を知らされ、それを阻止する一助になれば、と考えたのだ。金儲けに邁進する投資銀行の仕事にかまけ、自身を見失う怖れを、彼は感じていた。彼は自身の確固たるアイデンティティを渇望していた。


 会議を終えた彼は一週間ぶりに帰国した。繭子は来ているのかな、と思いつつ玄関チャイム鳴らした。

「はーい」

声と同時にドアが開くと、繭子の笑顔があった。

「大人しく留守番してたのかな」

そう言いながら彼は水槽に眼を向けた。

「中をよく見てね」

「あれ、タナゴがもう一匹いる」

彼はすぐに気がついた。

「うふふ、タミオの友達を入れてあげたの」

繭子は悪戯っぽく微笑んだ。

「そうか、よかったね、ありがとう、彼らが仲良くしてくれればいいけどね、名前はどうするの」

「そうね、ミサっていうのはどう」

「いいね、じゃあ、それにしよう」

「実は・・・」

「なに、どうしたんだ」

「ミサというのは死んだ姉の名前なの」

「えっ、お姉さんがいたのか」

「黙っててごめんなさい」

「べつにそれはいいんだけど」

「姉とはあんまりいい想い出がないの、だから話せなかったの」

「そうだったのか、もしよかったら、お姉さんのこと話してみて」

初めて会った日から、祐介は繭子が纏う陰のようなものを感じていた。愉しい会話の最中、時折繭子の表情を過ぎる愁いに、彼は気づいていた。彼女が胸の内に秘めていることを話す気になれば、陰を消去ることができるかも知れない、と彼は思った。

「お酒呑んでいい」

彼女にしては珍しい言葉だった。

「いいよ、じゃあ、カクテル作ってあげる」

彼は白ワインと炭酸水で手早くスプリッツアーを作った。

「美味しい」

彼女はリキュールグラスからひと口?んで、微笑んだ。

「僕の作るお酒に不味いものはないさ」

彼は拳をあげて彼女の額をこづく仕草をした。

「・・・姉は自殺したんです」

「そうだったの、なにが原因だったんだい」

「失恋したの。ずっとつき合っていた男性に新しい女性ができて裏切られたの。姉はとても気持の優しい人で、それでいてプライドの高いところがあったので、耐えきれずに自ら命を絶ったの」

「哀しい出来事だったね、もういまは大丈夫かい」

「姉の死で私は強く生きなければと思ったの、強く自立しないといけないと・・・」

繭子の眼には涙が溢れていた。

「繭子なら強く生きられるよ、僕がついてるし」

祐介は彼女を優しく抱締めた。

その夜、二人は求めあい、蒼い焔ような時を過ごした。


 一週間ぶりに銀行に出勤し溜まった仕事を片付けた彼は、その日オフィスを最後に出る社員だった。既にビルの表門は閉じられており、彼は通用口から外に出た。歩道暫く歩き、道路を横断しようとした瞬間、黒い車が猛スピードで彼に向って突進してきた。

「うわー」

彼は咄嗟に身体を翻し、道路上に転がった。道路に身体を伏せながら、走去る車のナンバーを見ようとしたが叶わなかった。


《あれは明らかに僕を狙って撥ねようとしたんものだ、狙われたということは、僕が彼らの重要な情報を持っているということか。そうすると、この仕事は思った以上に危険なのかも知れない》


一瞬、恐怖に襲われたが、すぐ冷静をとり戻し、彼は歩き始めた。

 遅い時間だったが、繭子は部屋で待っていた。

「あら、これどうしたの」

彼女は目敏くズボンについた汚れを見つけた。

「えっ、ああ、道で転んでしまって」

彼の顔は心なしか蒼ざめていた。

「あれっ、怪我してるじゃない」

言われて気がついたが、彼の右手の甲が擦りむけて出血していた。

「あっ、本当だ」

動揺していた彼は怪我に気づかなかった。

「だめじゃない、消毒しないと」

彼女は救急箱を持出し、消毒薬を浸した綿棒を傷口に当てた。

「いてて」

「動かないで、我慢しなさい」

怒りを装って、彼女は彼の腕を掴んで放さなかった。


《転んだって言ってるけど、それにしては酷い怪我だわ、なにかあったのかしら、私には言いたくないことなのかも知れないわ》


 翌週、新しいミッションが祐介のスマホに届いた。


〈今回のターゲットはシナーロ国の半導体メーカー、パクワン集団の日本支社の社長、劉儀安の監視。彼を監視し、彼の人脈、行動様式を把握せよ〉


パクワン集団はシナーロ国各地に半導体工場を持つ大手国有企業だ。支社長の劉は日本の政財界に豊富な人脈を有し、公開非公開の様ざまな情報を入手できる立場にあった。日本の公安部も彼をマークしていたが、スパイ行為の確証を掴むにはいたってなかった。

 新しい指示を受けた祐介は、どうしたらいいものか一瞬戸惑ったが、一旦引受けた仕事を安易に手放す気などなく、彼は任務を果たす方策を懸命に考えた。

「ねえ、どうしたの」

食卓でうわの空の彼に繭子が訊いた。

「えっ、あー、なんでもないよ」

彼はわれに返り、取繕った。

「さっきから、ぼーっとしてなにかあったの」

勘の鋭い彼女はなにかを感じとっていた。

「ごめん、新しい仕事の案件のことを考えていたんだ」

祐介は彼女を諭すように言った。

「そう、仕事のことなら仕方ないわね、赦してあ・げ・る」

彼女は微笑んだ。

 その夜、彼の眠りは浅く、早朝に眼醒めた。その瞬間、頭に閃きがあった。


《そうだ、ビジネスにかこつけて劉に近づけばいいんだ、本社の拡大路線を支援するため、投資をする用意があるということにすれば相手は必ずのってくるはずだ、よし、この線でやってみよう》


気持ちが吹っ切れた彼がカーテンを開けると、夜明けの柔らかな陽光が街並と静かに流れる大河を包んでいた。


 タミオの水槽にミサが来てから一週間が経った。初めのうち警戒心を持っていたミサも、タミオが同じペットショップにいたことに気づくと、気持が緩んだ。


〈ねえ、君、コイコイアクアガーデンにいたよね〉

タミオもそのことに既に気づいていた。

〈ええ、そうよ、私もあなたのことを思い出したわ〉

〈やっぱりそうか、僕、タミオです〉

〈そう呼ばれてるみたいね、私はミサって名づけられたみたい〉

〈じゃあ、これから君のことをミサって呼ぶよ〉

〈いいわよ、で、ここはどうなの〉

〈環境は抜群だよ、ペットショップより餌を一杯くれるし、それに日当りがよくて、いつも明るくて暖かいんだ〉

〈そうなの、ここに連れて来られてよかった〉

〈まあ、いうことないんだけど、ひとつ気がかりなことがあるけど〉

〈それって、なんなの〉

〈祐介さんの身辺に不穏な動きがあるようなんだ〉

〈どうしてそう思うの〉

〈この間、祐介さんが夜遅く帰ってきたとき怪我してたんだ、本人は転んだって言ってたけど、顔色も悪くてとてもそんな状態じゃなかったんだ〉

〈そうだったの、私は来たばかりで気がつかなかったけど、それは心配ね〉

〈そうだよ、もし祐介さんや繭子さんに万一のことがあれば、僕たちは餓死だもん〉

〈なあんだ、ご飯の心配してるの〉

〈ふっ、ふっ、冗談だよ〉

〈あら、いやだ、でも、祐介さんのことほんと心配ね〉

〈そうなんだ、ミサも祐介さんのこと注意しててね〉

〈分ったわ〉


 祐介は車で襲われたことをアメリカ大使館を訪れて報告した。なにか今後の対処方でも教えてくれるのか、と思っていたが、駐在武官は、彼の訴えを聞いただけでミーティングは終わり、期待は裏切られた。

納得できない気持で大使館を出たところで、彼は声をかけられた。

「祐介さんですね」

「そうですが」

「私は東西大学で教授をしているジェドバーグです、ちょっとお話できますか」

二人は近くのカフェに入った。

「なんでしょう」

祐介が訊いた。

「あなたと武官の話が聞こえたんですが、私もあなたと同じ立場なんですよ」

「えっ、そうだったんですか」

予想外の言葉に彼は戸惑った。

「大学で教えながら、情報を収集してるんですよ」

ジェドバーグはコーヒーカップを置いてにやり、とした。

「そうですか、で、どこをターゲットにしてるんですか」

「官界ですよ、高級官僚から情報を獲るのがミッションなんです、本当はエイジェント同士はこういう話はしちゃいけないんだけどね」

「そうですね、僕もそう言われてます」

「あなたのミッションはどういったものかな」

「シナーロ国の国有企業がターゲットなんです」

「そうか、それで襲われたんだな」

「危く難を逃れましたが、僕のターゲットはそんなに危険な相手なんでしょうか」

「あなたが想像している以上に危険ですよ、護身用の拳銃は持ってますか」

「いえ、勧められましたが断りました」

「それはいかん、私は常に拳銃を携帯していますよ、なにがあるか分りませんからね」

ジェドバーグは傍らに置いたブリーフケースを一瞥した。

「我われの仕事はそんなに危険なんですか」

「勿論そうですよ、各国のスパイは我われの動きを察知しているはずですから、一旦、彼らの障害になると判断すれば抹殺されるでしょう」

彼の言葉が祐介の耳に虚ろに響いた。

国のために貢献できればいい、と思って気軽に引受けた仕事に命に関る危険があることに気づかされ、彼は愕然といた。

「そ、そういうもんですか。これからは拳銃を持つことにします」

「それがいい、それから、お互いの領分は侵さないように頼みますよ」

「どういうことですか」

「私は官界、あなたは財界、お互い相手の領域には手をださないってことですよ。それに、君はまだ若い、出来ればこんな仕事から早く足を洗ったほうがいい」

「分りました、勿論無茶なことはしませんよ」

祐介はやんわりと釘を刺された恰好になった。


 祐介はパクワン集団の財務部長を通じて劉社長にアポイントを取りつけ、同社を訪問した。パクワン集団のオフィスは都心の高層ビルの最上階にあった。

重厚なインテリアの応接に通され、彼は黒革のソファにかけて待った。

「やあ、いらっしゃい、劉儀安です、アマン投資の活躍振りは聞いてますよ」

小柄で小太りの男がにこやかな表情で室に入って来た。

「初めまして、アマン投資の祐介です、よろしくお願いいたします」

「それで、どういったお話ですかな」

「パクワン集団さんは本国でも急速に事業を拡大されていますね、アマンとしましてもぜひ御社のお手伝いをさせて頂きたいと思っておりまして」

「それはありがたい、日本とアジアで新規プロジェクトが目白押しでね、投資は大歓迎ですよ、はっ、はっ、はー」

劉は大袈裟に笑った。

「そうですか、プロジェクトの詳細をお伺いしたいのですが」

「いいでしょう、改めてうちの企画部長と打合せてくれんかな」

「分りました、ありがとうございます。ところで社長は随分日本語が達者ですね、どこで習われたんですか」

「日本の大学に留学していたんでね、はっ、はー」

彼はまた大声で笑った。

その日、劉とのコネができた祐介は目的を遂げてオフィスを後にした。


《旨くいったな、これから劉社長と接触を繰返せば様ざまな情報が得られるだろう、今日は上出来だ》


 彼は疲れた表情で帰宅した。

「あら、お疲れのようね」

繭子はそれを見逃さなかった。

「うん、今日はいろいろあってね」

「そう、じゃあ、一杯やりましょう」

彼女はシャンパンの栓を開け、フルートシャンパン・グラスに注いだ。

「ありがとう、じゃあ、乾杯」

二人は微笑んで、グラスを合わせた。

「うっ」

次の瞬間、ピシッという鋭い音とともに祐介は椅子から床に崩れ落ちた。

「あっ、祐介、どうしたの」

慌てて繭子が彼を抱起こすと、左の二の腕が出血しシャツが鮮血で赤く染まっていた。

「うー、なんだ、どうしたんだ」

祐介も彼女も何があったのか分らなかった。

出血した腕を押えて苦しむ彼を見ながら、繭子は一一九番に電話した。祐介は間もなく到着した救急車に収容され、彼女も車に同乗した。

 二十分ほどで到着した救急病院で、彼は手術室に運ばれ、繭子は廊下のベンチ待つことになった。


《一体なにが起こったのかしら、あの時、なにかが割れるような音がしたけど》


彼女には見当もつかなかった。

不安にじっと耐えながらただひたすら待ち続ける彼女には、時間が止まったように感じられた。

不安が限界に達したと思われた時、看護師が姿を現し、彼女を診察室へ案内した。

「どうぞおかけください」

医師の声で彼女は椅子に腰を降ろした。

「あの、どういう状態でしょうか」

「貫通銃創です、ご主人は銃撃を受けたようですね」

「・・・な、なんですって」

彼女は驚きのあまり言葉を失った。

「幸い弾丸は抜けていて綺麗な傷で、五針ほど縫いました。ま、一週間で抜糸できるでしょう」

「そ、そうなんですか、ありがとうございました」

医師の言葉が信じられず、彼女が祐介を見ると、彼は顔を強ばらせ、唇を固く結んでいた。


 繭子が帰宅すると、現場検証を行っていた警察の鑑識班が彼女に説明した。

「奥さん、ご主人を狙ったのはやはり軍用の狙撃銃のようですね」

「そうですか」

彼女はふーっ、と息を吐いた。


《狙撃銃で撃たれるなんてただ事じゃないわ、祐介は一体なにをしたのかしら、投資銀行の仕事が危険だとは思えないけど・・・》


 翌日、繭子は祐介を見舞った。

「ねえ、銃で撃たれるなんて、どういうこと」

彼女は祐介の顔を覗き込んだ。

「どうしてなのか、全然わからないんだ」

「でも、警察は軍用の狙撃銃で撃たれたって言ってるのよ、そんなの信じられないけど」

「僕だって信じられないよ、一体、なにがどうなってるんだろう」

祐介は彼女の眸を見た。

エイジェントとして活動していることが口をついて出そうになったが、彼は思いとどまった。

「・・・しょうがないわね、よーく考えてね、なにか思い出すかも知れないし」

彼女は悪戯っ子を見るような眼をした。

彼は茫然と彼女の言葉を聞いていた。


 タミオとミサも異変に気づいていた。

〈祐介さん怪我したみたいだけど、大丈夫かな〉

タミオが訊いた。

〈そうね、繭子さんの様子だと、祐介さん入院してるみたいね、心配だわ〉

〈怪我して帰ってきたり、今度はここで急に倒れるなんて普通じゃないよね〉

〈そうね、でも、繭子さんはしっかりしてるから、祐介さんラッキーだわ〉

〈そうだね、そう考えればいいのかな〉

〈あら、祐介さん帰ってきたわ〉

〈あっ、ほんとだ〉

祐介と繭子が連立って帰宅したとき、テレビのニュースが始まった。


〈ここで速報です、東西大学のジェドバーグ教授が銃で撃たれた模様です。教授は大学のキャンパスを出たところで狙撃され、救急車で搬送されたとのことです、詳しいことが分り次第順次お伝えします〉


祐介は驚きのあまり、グラスをテーブルに落とした。

「あら、大変」

繭子は慌ててキッチンから布巾を持ってきて、こぼれたワインを拭いた。

「いやだわ、狙撃だなんて、祐介と同じじゃない」

彼女は祐介を見つめた。

「・・・」

「ねえ、あの人誰、知ってる人なの」

「・・・」

「ねえ、なんとか言って!」

祐介は彼女の追求から居間のソファに逃れた。

「それがちょっと・・・」

彼女はソファで相対した。

「お願い、話して」

その時、ニュースの続報が入った。


〈銃撃事件の続報です。銃弾を受け、心肺停止の状態で病院に救急搬送された東西大学のジェドバーグ教授ですが、先ほど死亡が確認されました。警察は狙撃者と思われる男性を追っています〉


「ジェドバーグがやられた・・・」

画面を食入るように観ていた祐介が呟いた。

「あのジェドバーグっていうひと、知ってるのね」

「あー、いや・・・」

「知ってるのね、誰なの、言ってちょうだい」

彼女は語気を強め、祐介に迫った。

「実は、僕はCIAのエイジェントなんだ」

「えっ、なにそれ」

「だから、アメリカのCIAと契約して活動してるんだ」

「CIAってスパイ機関じゃないの」

「よく知ってるね」

「それぐらい知ってるわよ、エイジェントとしてスパイ活動をするっていうこと」

「うん、まあ、そうだけど」

「じゃあ、あの、なんとかいう人もそうなの」

「教授もエイジェントなんだ」

「教授のこと知ってたの」

「一度会ったことがあるんだ」

「そうだったのね。でも、どうして、どうしてエイジェントなんかになったの」

彼女は不安を抑えることができなかった。

「うーん、ちょっと考えるところがあってね」

「どういうこと」

「投資銀行というところは利益追求に血道をあげるところなんだ、利益のためなら手段を選ばない、人が死のうが、自殺しようが、おかまいなしなんだ」

「そうなの」

「このまま、そんな仕事に邁進するばかりの人生なのかと思うと、なんだか虚しくなったんだ、そんなときアメリカ大使館からエイジェントにならないかって声をかけられたんだ」

「それで引受けたってわけ」

「うん、日本を取りまく環境は怖ろしく危険になってるだろう、シナーロ国とか、またアンコック国とも敵対関係にあるしね」

「まあ、それはそうよね」

「それでなにか僕にできることはないかと思っていたんだ、だから誘われたときはチャンスだと感じたんだ」

「なんのチャンス」

「自分の価値を見出すチャンスさ」

「そう、祐介って意外と真面目なのね」

「意外とは余計だよ」

祐介は漸く微笑んだ。

「でもその教授は死んだのよね」

「そう運悪くね、彼もシナーロ国の情報を収集していたけど、殺害されたということは、なにか重大な情報を握ったのかもしれないね」

「祐介は幸運よね、弾が逸れたんだもの」

「狙撃者の狙いがはずれてラッキーだったよ」

「でも、また狙われるかも知れないわね」

「そうだね」

「えーっ、ほんとにそうなの」

「多分ね」

「それなら、そんな仕事止めてちょうだい」

「そうはいかないよ、一旦引受けたものをそう簡単に止めることはできないよ」

「だけど、また狙われたらどうするの、いやだわ」

「まあ、落着いて、アメリカ大使館へ行って、どうしたらいいのか聞いてくるから」

「分ったわ、状況が分かったら教えてね」


 彼はアメリカ大使館を訪れたが、駐在武官から実のある話しは聞けなかった。帰宅したが、どこをどう歩いて帰ってきたのか思い出せなかった。頭の中に白い膜が張ったようで、思考力を奪われていた。

居間のソファに坐り込み、ビールをグラスに注いで?み始めると、グラスを重ねるごとに、身体の隅隅まで意識が蘇るように感じられた。


《すっかりCIAに騙された恰好になってしまったな、しかし、気軽に危険な仕事を引受

けたのは僕自身だから、自業自得ってことかな。

こんな危険な仕事を続けていけるだろうか。しかし、僕自身のアイデンティティのためにも安易に放り出すわけにもいかないんだ。それに、いまの報酬はけっして悪くはないが、命懸けともなると割りにあわないな、報酬の増額を要求してみるか》


駐在武官の前では強がってみせたものの、彼は二度も命の危険に晒され、恐怖心が芽生えていた。彼は深く懊悩した。

「あら、今日は早いのね」

仕事を終えた繭子が訪ねてきた。

「うん、早めに切りあげたんだ」

「それで、大使館には行ったの」

「行って、担当の武官と話してきたよ」

「話して止めることにしたの」

「そ、それがいま迷ってるんだ」

「えーっ、なに言ってるの、だめよ、早く止めてちょうだい」

「ちょっと、僕の話を聞いて。この仕事は軽い気持で始めたんだけど、なんだか面白くなってきたんだ、それに国に貢献してるっていう、なんていうか、充実感というか、自身のアイデンティティというか・・・」

「本気なのね」

彼女は眉をひそめた。

「投資業務より、そのずっと手応えを感じるんだ」

祐介は真顔だった。

「あんな危険な目に遭ってもやる気なのね」

「・・・」

「分ったわ、もう、ほんとに頑固なんだから」

彼女は諦め顔でふーっと息を吐いた。

「でも、どうやって身を守るの」

彼女は言葉を継いだ。

「これさ」

彼はブリーフケースから紙袋を取出した。そこから姿を現したのは群青色に光るベレッタ拳銃だった。

「きゃっ」

彼女はそれを見るなり声とともにのけぞった。

「これがあれば問題ない」

彼は拳銃を手にして窓を狙って撃つ仕草をした。


〈なんだか物騒なことになってきたね〉

水槽の外の話に耳をそばだてていたタミオがミサを見た。

〈いやだわ、あんなもの出しちゃって、平和的じゃないわね〉

ミサは口を尖らせた。

〈そうだね、祐介さん、あれで身を守れるのかなあ〉

〈無理じゃないの、だって、なんとかいう教授は殺されたんでしょう〉

〈そうみたいだね、そうすると、祐介さんも危ないのかな〉

〈危ないにきまってるでしょう〉

〈僕になにか出来ることはないかな、あー、僕も外に出られれば祐介さんを助けてあげられるのに、でもこの状態じゃなにもできないよ、うーん、残念・・・〉

タミオはおちょぼ口をぱくぱくさせた。

〈そうね、なにかできればいいのにね、だけどこの水槽の中にいるんじゃなにも出来ないわ〉

ミサは胸鰭を着物の袖のようにぱたぱたさせた。

〈そうだな、なんとかここから出る方法はないもんかな〉

〈タミオは祐介さんみたいになりたいんでしょ、でも無理よ、ここから出られるわけないんだから〉

〈分ってるけど、なにかしてあげたいなあ〉

〈それはそうと、お腹減ったわ〉

〈二人は話に夢中で僕らのこと忘れてるみたいだ〉

〈あら嫌だ、早く餌のこと思い出して〉

ミサは肢体をくねくねと揺らした。


 仕事中に祐介の携帯が鳴った。メモリーリストにない相手だった。

「祐介ですが」

「私アリシアと申します」

「はあ」

「殺されたジェドバーグの娘です」

「あっ、そうですか」

「あの、一度お会いしたいんですが」

「ええ、いいですが」


《教授に娘がいたとは知らなかった、携帯番号は父親から聞いたのかな、それにしても僕になんの話があるんだろう》


 腑に落ちないまま、祐介はアリシアに会っていた。午後、ビジネス街のカフェは閑散としていた。

「父が大変お世話になりまして」

三十代前半、輝く銀髪が眼を惹く細身のアリシアが口を開いた。

「いや、別にお世話した覚えはないんですが・・・」

彼は戸惑った。

「あの、父はなぜ殺されたんでしょうか」

「お父様は残念でしたね。お父様がなにをしていたか聞いてないんですか」

「ええ、父は外でのことはなにも話さない人なんです」

「そうなんですか」

彼は視線を落とした。

「祐介さんは父と一緒に仕事をされてたんでしょ」

「いえ、一緒にということはありません、仕事自体はまあ、同じですが」

「どんなお仕事なんですか」

彼は彼女のグリーンの眸に、一瞬、眩惑された。

「どんなって・・・」

彼は口ごもった。

「このところ父は帰りが遅くなって、大学の教師の仕事のほかなにかをしているとは思っていたんですが、なにも言ってくれなかったんです」

彼女の両眼には涙が溢れていた。

「あの、仕事についてはなにも言えません」

「どうしてですの」

「秘密です。でも、お父様と僕の仕事は国のためになることなんです、このことは理解してください」

「よく分りません、どういうことですの」

「ご免なさい、これ以上詳しいことは言えませんが、お父様も僕も正しいことをしているのです、これだけは信じてください」

「そうですか、正しいことをしていると聞いて、ちょっと安心しましたわ、なにをしているのか分らずずっと心配だったんです」

アリシアの表情が緩んだ。

「あの、お母様はどうしてらっしゃるんですか」

「母は五年前に亡くなりました」

「そうだったんですか」

「父は自分ではなにもしない人なんで、母が亡くなって二人きりの家族になってからは、私が母の代わりをしていたんです」

「それは大変だったでしょう」

「もう馴れましたけど」

「どうして日本に」

「母が亡くなって父は暫く腑抜のようになってしまって、どうなるのかと思っているときに、日本の大学の教授の席に空きがあって、それに応募したんです。大学の仕事は順調だったのに、こんなことになってしまって・・・」

「なにか僕にできることがあったらなんでも言ってください」

その日、二人はメールアドレスを交換して別れた。

祐介は愁いのある彼女の美しさに惹かれていた。


 春の芳香が薫る夜、祐介はアリシアをフレンチ・レストランに誘った。こじんまりとした店に客はまばらだった。

「お誘い頂いてありがとうございます」

席についたアリシアはにこやかに口を開いた。

「こちらこそ来て頂いて嬉しいですよ、この店の料理なかなかいけるんですよ」

「まあ、愉しみですわ」

彼女は微笑んだ。

「お父様が亡くなられて、いまどういう生活をされてるんですか」

「以前から国際法律事務所でパラリーガルをしてるんです」

「そうなんですか」

「ロースクールの出身で、アメリカの弁護士資格は持ってるんですが、日本じゃ通用しないのでアシスタントしか出来ないんですよ」

「弁護士資格をお持ちなんですか、すごいですね」

「父のことなんですが、一体どんな仕事をしていたんでしょう」

「それはちょっと・・・」

「お願い、教えてください、このままだと父がなぜ殺害されか分らないままになってしまいます」

「僕の口からは言えません、お父様のやってこられたことは国家機密に属することなんです、お父様と僕の仕事は国に貢献してるんです、お父様を信じることです」

「祐介さんがそう言うなら、信じてもいいような気がします」

「さあ、乾杯しましょう」

二人はシャンパングラスを合わせた。

「まあ、美味しい」

オードブルを口に運んで、彼女は微笑んだ。

「よかった、口に合って。お父様はどういう人だったんですか」

「父は生命科学が専門でゲノム研究一筋の人でした、科学賞をいくつも受賞してるんですよ」

「優秀な科学者だったんですね」

「でも、研究に没頭すると、家族のことを忘れてしまって、そんなとき私はひとりぼっち」

彼女は眼を伏せた。

「寂しかったんですね」

「祐介さんのご両親はどうされてるんですか」

「親は二人とももう亡くなりました」

「ごめんなさい、へんなこと聞いちゃって」

「いいんですよ、もう随分前のことですから。中学二年の時、飛行機事故で亡くなったんです、その後、子供のない伯父に引取られ育てられたんです」

「苦労されたんですね」

「そうでもないですよ、学費は奨学金を得て、生活費はバイトで稼ぎました。伯父は結構裕福でアメリカへ留学もさせてくれました」

祐介は微笑んだ。

「そうですか、それで英語がおできになるんですね。今日の料理とっても美味しかったですわ」

コース料理を終えた彼女は満足気に言った。

「気に入ってもらえてよかった、場所を変えて?みましょうか」

 彼はアリシアを行きつけのバーへ誘った。早い時間のバーに客の姿はまばらだった。

「お酒、結構いけるんですね」

隅の席で彼が訊いた。

「以前は全然呑めなかったんですよ、でも、母が亡くなってから父の相手をしているうちに強くなったみたいです」

「そうですか、僕のお酒の相手をしてくれるので嬉しいですよ」

「祐介さんはお酒、強いんですね」

「僕も初めは呑めなかったんですよ、だけど仕事の接待で呑んでるうちに強くなったんです」

「そうですか、日本のビジネスは酒のつき合いが必要ですものね」

「ええ、悪い習慣です」

「このごろは夜、ひとりでいるとなんだか寂しくて呑むことがあるんです、祐介さんご家族は」

「僕も一人住いなんですよ」

二人が互いの言葉を重ねるうちに夜は深まっていった。

「遅くなってしまったね、そろそろ帰りましょうか」

祐介は彼女をタクシーで自宅まで送ることにした。

夜を切裂いて、空いた道をタクシーは疾走し、間もなく彼女のマンションに着いた。

「うちに来てください、コーヒーを淹れますわ」

アリシアは彼の眸を見つめた。

「そうですか」

祐介は不思議な力に惹かれるように彼女の部屋に入った。

彼女が淹れた熱いコーヒーをひと口飲むと、酔った身体が優しく包まれるように感じた。

「これハワイのコナコーヒーなんですよ、父がハワイに出張した時に買ってきたんです、でももうこれでなくなってしまいましたわ」

彼女は涙ぐんでいた。

「そうだったんですか、美味しいコーヒーをありがとう、もう帰らないと」

祐介が立上ると、アリシアは彼の胸に飛込んできた。

「ねえ、今夜ひとりにしないで」

彼が抱きしめると、彼女の銀髪が甘く薫った。


 翌朝、薄日が射すなか、もつれた糸の球が心に生まれた気分で自宅に戻った。

「まあ、どこに行ってたの」

ドアを開けると繭子の顔があった。

「あー、ご免ね、ちょっと呑み過ぎちゃって・・・」

「どこに泊ったの」

彼女は表情を強ばらせた。

「あ、いや、それが酔っててよく憶えていないんだ」

「怪しいわね、ご飯も用意してたのに」

彼女は祐介の顔を覗き込んだ。

「お腹空いたね、なにか食べたいな」

「まあ、祐介ったら、まあ、いいわ、なにか作ってあげる」

彼がテーブルに着いて待っていると、いい匂いがしてきた。

「うん? なにかな」

「はい、出来たわ」

繭子がワッフルの皿をテーブルに運んだ。

「美味そう」

彼がそう言ってワッフルを口に運ぼうとしたとき、テレビのニュースが始まった。


〈警視庁公安部の調べによると、先月、狙撃により殺害された東西大学のジェドバーグ教授は国内におけるスパイ活動を疑われています。教授はCIAのエイジェントとして日本で情報収集活動をしていたとみられ、敵対国のなにか重要な情報を入手したため殺害された可能性が高いとのことです。

公安部は容疑者を捜査中ですが、いまだ容疑者を特定できていません。この事件について防衛省はなんら知らされておらず、米政府に事実確認中とのことです。

この事件については、新しい事実が分り次第順次おしらせします〉

「あら、大変、ついにニュースに出ちゃったわね」

繭子は画面を凝視していた。

「ほんとだ、こんなことが公になったら動きづらくなるな」

祐介は眉をひそめた。

「そう思うんだったら、もうスパイは止めて」

彼女は強く訴えた。

「うーん」

溜息を吐いて、彼は黙りこくってしまった。


〈なんだかいろいろ起こってるみたいだね〉

タミオが言った。

〈そうみたい、昨日、祐介さんは帰ってこなかったし、きっとなにかあるんだわ〉

ミサが心配顔で応えた。

〈なにか悪いことが起こらなきゃいいんだけど〉

タミオはわけもなく悪い予感がした。


 月曜の朝、テレビが緊急ニュースを報じた。


〈速報です。シナーロ国が中距離ミサイルを発射し、ミサイルは日本列島上空を飛翔し、太平洋側に落下した模様です。太平洋にミサイルが撃ち込まれたのは初めてのことです。詳細が分り次第引続きお知らせします〉


「ひょっとしたら教授はこのミサイルの情報を掴んでいたのかもしれない、いや、そうに違いない」

祐介は想像力を精一杯働かせ、呟いた。

そのとき、彼の携帯が鳴った。

「アリシアです、ニュースを観ました」

「僕も観ましたよ」

「それで、ぜひお会いしたいのですが」

「ええ、いいですが」

「実は、私すぐ近くにいるんです」

「えっ、なんですって」

電話が切れて暫くすると、玄関チャイムが鳴った。

「僕が出るよ」

彼がドアを開けると、アリシアが立っていた。

「ア、アリシア!」

彼は驚いて言葉を詰らせた。

「どうしてここが」

「祐介さんの会社に聞いたの」

「どうしたの、どなたなの」

キッチンにいた繭子が出てきた。

「あっ、こちらアリシアさん、うん、そのおー、ジェドバーグ教授の娘さん」

彼は困惑し、しどろもどろになった。

「えっ、そうなの、お約束してたの」

「いや、そうじゃないんだけど急にお見えになって・・・」

「そう、まあ、お上がりください」

繭子も戸惑いながら、彼女を招き入れた。

「ごめんなさい、いきなりお邪魔して、でもどうしても父のことをお伺いしたくて」

居間のソファにかけて、アリシアが口を開いた。

「そ、そうですか、あっ、こちらは知合いの繭子さん」

彼は慌てて繭子を紹介した。

「父はCIAのエイジェントだったというのは本当ですか」

アリシアは深刻な表情で訊いた。

「それは・・・」

「お願い本当のことを言ってください」

「そうだと思いますよ」

繭子が口をはさんだ。

「繭子!」

彼は彼女を制止しようとした。

「いいでしょ、本当のことなんだから」

「祐介さん、本当なんですか」

アリシアが彼の眼を見た。

「ええ、まあ本当です、僕も同じ仕事をしてました」

「だから父は殺害されたんですね」

「ええ、なにか重大な情報を握ったがために殺害されたんでしょう」

「それは国のためになることだったんでしょうか」

「勿論です、教授は信念を持ってやっておられたと思いますよ」

「祐介さんも同じようなことをしてるんですよね、それなら、危険じゃないですか」

「まあ、そうですけど、僕も国に貢献して僕自身のアイデンティティを発見したいんです」

「そうなんですね、父もそう思っていたのかも知れませんね」

「哀しいことですが、力を落さないでください」

祐介はそう言うのが精一杯だった。

「ごめんなさい、急に来てしまって」

アリシアは涙ぐんで帰っていった。

「ちょっと出てくる」

繭子はそう言って、アリシアの後を追った。

近くの公園で、彼女はアリシアに追いついた。

「ちょっと待って、話があるの」

「なにかしら」

アリシアが振返った。

「あなたと祐介はどういう関係なの」

「どういうって、友達よ」

「昨日、祐介はあなたの処に泊まったの?」

「ええ、そうよ、私を慰めてくれたわ」

「それで友達なの」

「・・・もう恋人かしら」

「私はずっと祐介とつき合ってるのよ、もう二度と彼に近づかないで」

繭子の語気は鋭かった。

「・・・」

アリシアは臆することなく踵を返し、無言で歩き去った。


 シナーロ国の大使館の執務室には午後の柔かい陽光が射し込んでいた。

「ジェドバーグ教授、旨くいきましたね」

大使がにやりとして教授を見た。

「しかし、ひやひやでしたよ、途中でばれるんじゃないかと」

教授が返した。

「問題ないですよ、我国の諜報員は優秀ですから、へまはしません、まさか駈けつけた救急車が偽物とは誰も思わないでしょう」

「そうですね、救急車のなかで私と屍体が入替わるなんて想像もできないでしょうね」

「そのとおり、あとは祐介をどうするかです」

「私はどうしたらいいんでしょう」

「教授は日本以外の国で活動してもらいます、まずはシナーロ国に行って、所属の上司に会ってください」

「分りました、出発はいつですか」

「あさってのフライトが予約済みで、新しいパスポートも用意してあります。ところで、ひとつ気にかかることがあるんですが」

「なんでしょう」

「教授には娘さんがいますね、彼女をどうする気ですか」

「たしかに娘には哀しい思いをさせてしまったが、説得する自信はあります。私が落着いたら、真実を話してシナーロ国に呼寄せるつもりです」

「そうですか、旨くいくことを祈ってますよ」


《娘には本当に哀しい思いをさせてしまった、この愚かな父を叱ってくれ。しかし、いまの西側諸国のやり方はもう限界だ、CIAのエイジェントをしてみてつくづくそのことが解ってしまった。これからは新しい主義、政策で別の枠組を建設しなければならない、そのために祖国裏切ることもやむを得まい・・・》


大使とのミーティングを終え、自室にもどった教授は暫し眼を閉じ、瞑想に耽っていた。

その後も、彼は娘に対する負い目を払拭することは出来なかった。


 アリシアから繭子に連絡があり、その夜、二人は祐介のマンション近くのカフェで会っていた。

「この間はごめんなさい、父のことで気が動転していて、旨くはなせなくて」

この日のアリシアは前回と違って殊勝にみえた。

「いいえ、こちらこそ、あなたがいきなり現れたので、ちょっと気持が昂ってしまって」

「祐介さんとは長いおつき合いなんですか」

「ええ、もう二年になります」

「そう、私はこの間、初めて祐介さんと一夜をともにしたんですが、彼のことが忘れられなくなったんです、なんていうか、相性がいいというのか、もう離れられないって直感したんです」

アリシアは眸を潤ませていた。

「そんなこと言われても、私だって彼とは切っても切れない縁があるんです」

「彼は私にとって特別なんです。縁があろが無かろうが彼と別れてください」

アリシアは冷静だった。

「な、なんですって、馬鹿なこと言わないでください、私が彼と別れるなんてことはあり得ません」

テーブルを挟んで二人は鋭く睨み合った。

「困ったわ」

「私だって」

暫く二人の間に沈黙が流れた。

「いい考えがあるわ」

繭子が沈黙を破った。

「えっ、なんなの」

「祐介に決めてもらうの、彼がどちらを選ぶか知りたいし」

彼女は自信あり気に言ったが、一瞬、不安も感じた。

「それはいいアイデアね、そうしましょう」

アリシアは受けて立ったが、やはり不安が胸を過ぎった。

「もう祐介は帰宅しているはずよ、行ってみましょう」

二人はカフェを出て、祐介のマンションへの路を辿り始めた。公園を通り過ぎると、高層マンションが夜空に黒黒と聳えていた。その影を見ながら二人が歩みを進めていると、高層階で爆発が起こった。

ドーンという大音響とともに眼も眩む深紅の焔が夜空を照らした。

「きゃー、大変!」

繭子は焔を見て叫んだ。

「まさか、あれが祐介さんの部屋だったら・・・」

アリシアはその場に立ちつくした。

繭子は焔を見ながら、マンションに向って駈け始めた。アリシアも我に返って、彼女のあとを追った。

二人は玄関に入ったが、エレベーターを避けて、階段を懸命に駆け上がっていった。息を切らして三十六階に着くと、爆発で祐介の部屋のドアが廊下に吹飛ばされていた。

硝煙臭の煙と粉塵にむせびながら繭子が部屋に入ると、中は無惨に破壊され、窓ガラスや様ざまなものが飛散り、壁は黒く焦げていた。

「祐介さん!」

瓦礫のなかに横たわる祐介を繭子が見つけて抱起こした。彼の顔面は鮮血にまみれ、すでに事切れていた。

「祐介」

アリシアは一瞬、気が遠くなった。

水槽も割れ、タミオとミサは床に放り出されていた。タミオが横たわっているミサを見ると、刺さった破片が体を貫き、彼女は息絶えていた。

「ミサ、死んじゃだめだよ、ミサ、ミサ!」

声に気づいた繭子とアリシアが振返ると、そこに祐介が立っていた。

「祐介さん、どうしたの」

繭子は驚いて訊いた。

「祐介さんが二人いる」

アリシアも驚いて立上った。

「えっ、僕はタミオですよ、祐介さんじゃありません」

タミオは戸惑って口を開いた。

繭子とアリシアは顔を見合わせ、横たわっていたはずの祐介に視線をむけたが、そこに彼の姿はなかった。

「へんだわ、タミオが祐介になったのかしら」

繭子は当惑した。

「あーっ、ミサが・・・」

タミオはしゃがんで血まみれのミサを両手で優しく取上げた。

「もう死んでるみたい、かわいそう」

アリシアが神妙な顔付で言った。

「いつのまにか僕は祐介さんになっている・・・」

「そうよ、タミオ、あなたに祐介さんが乗移ったのよ」

「そうか、それじゃ僕はこれから 祐介さんとミサのぶんまで頑張って生きて、二人の命を奪った相手を捜しださなきゃならないんだ」

                      (了)




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

タナゴのタミオ 藤 達哉 @henryex

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ