15度目の夏、華氏は100度

夕立 夏憑

【サモトラケの亡霊】

「ねぇ、サモトラケのニケって何であんな形なのか、知ってる?」


絵を描いていた手を止めて、君が話しかけてくる。制作に飽きたのだろうか。僕は手を止めずに知らない と答える。

「あれってさ、元々サモトラケ島って島で発見されたんだって。」

聞いてもいないのに話を続けるのにはもう慣れてしまった。相変わらず手は止めずに聞き流す。

「まず胴体が見つかって、翼が見つかって、って感じなんだけど、まだ左手と頭は見つかってないんだって。それでさ、うちの高校にもレプリカがあるじゃん。まぁ、至る所に沢山あるんだろうけど。」

ふ、と筆が止まる。普段は身も蓋もない話ばかりするのに、たまに興味深いことを言う。

「何でうちにあるんだろうってさ、この間考えたの。馬鹿みたいな話だけど、

自分の頭と左腕を探してここまで来たんじゃないのかって。」

沈黙が通り過ぎる。蝉が真実を覆い隠そうとするように、強く鳴き出した気がした。

「ね、どう思う?」

その声で、ふと我に帰る。ぼうっとしていたのか、画面のありえないところにありえない色が置いてある。ああ、そこは折角上手く描けたのに。

「……別に。本当に馬鹿みたいだね。」

えぇ、と気の抜けた声が隣から聞こえて来る。すぐに静かになったと思うと、また絵を描き始めていた。僕ももう一度筆を落とす。変な色を置いてしまったのは悔しいが、まあ、描き直せばいいか。


蝉がずっと同じ調子で鳴き続けるから、時間の流れが分からなくなりそうだった。君は隣で帰り支度を始めている。今日用事あるんだよね、なんて誰に言うわけでもなく独り言を呟いている。時計は午後2時を指して、太陽はほんの少し西側に傾き始めている。ガラ、と君が扉を開いて絵画室を後にする。扉の閉まった音の余韻が、段々と蝉の声に押し負け消えていく。しんとした教室の中の、画面に筆を走らせる音だけが響いている。

どのくらい時間が経っただろうか。窓から差し込んだ光が、橙色へ移り変わりすっかり傾いている。時計の針は午後5時半を指していた。椅子に長く座っていたからか、立つと足が少し痛んだ。絵の具にラップをかけ筆を洗い、荷物をまとめる。壁にずらりと並んだ石膏像は、もう眠っているように見えた。

絵画室を出、下駄箱へ向かう途中、ふいと違う道を歩いてみたくなった。廊下を曲がり、鋭い斜陽に顔を顰めながら歩く。丁度、サモトラケのニケの前を通りかかった。

西日に照らされた翼が、何かを問うようにこちらを睨んでいる。微細に表現された布の揺めき一つ一つに濃紺の影が落ちて、今にも羽ばたきそうな雰囲気を纏っている。

頭と腕を探しに、なんて下らない妄想が頭の隅を掠めて、嘘だとわかっていても足を早めてしまう。

昇降口から外へ出ると、目眩がしそうな熱気が肌に吸い付く。体に染み付いて取れなくなりそうなほど蝉の声が充満していて。早く帰ろう。蝉の声を忘れられなくなる前に。


その夜。まだ空の向こうがぼんやりと明るい。日暮はもう鳴くのに疲れ果てて、侘しい余韻だけが少しだけ聴こえてくる。そろそろ夕ご飯ができる頃だろうか。今日はやけに眠いから、早く寝よう。下の階から、母が呼ぶ声が聞こえる。少しの怠さに蓋をして、僕は部屋を出た。

ふぅ、と息を吐きベッドに倒れ込む。風呂に入った後の心地の良い倦怠感のせいか、数秒経たずに睡魔が背後から手を伸ばし、僕を眠りへと導いた。一瞬、サモトラケのニケのことが頭に浮かんだが、そんなことを気にする間もないほど深い眠りへ堕ちていった。


夢を見た。白と青だけの、海辺の夢。打ち寄せる波が足元の砂を攫っていき、また地平線へ引き返していく。都合の良いように青だけを取り込んで美しく輝く海が、普段はありえないほどの不安を煽った。周りを眺めてみると、白い砂浜のあちらこちらにサモトラケのニケが横たわっている。両方の翼がないもの、下半身だけのもの、粉々に砕けているもの。しかしどこを探してみても、頭と左腕だけは見当たらなかった。もしかしたらこの白い砂浜も、砕けた沢山のニケ像だったのかも、なんて。

急に、頭と左肩が強く痛んだ。夢の中だから、痛むなんて無いのかもしれないけれど。僕はすごい怖くなって、必死に逃げ出そうとした。しかし足は動かなかった。まるで石像にでもなってしまったかのように。痛い、痛い。感覚は無くとも、痛いという事実だけが頭の中を刺激する。駄目だ、夢なのだから、早く目覚めなければ。

ばち、と景色が入れ替わる。目が痛くなるような白と打って変わって、電気が消えたままの暗い天井に目が眩んだ。手は無意識にぎゅうとシーツを掴んでいて、眉間に皺を寄せていたのか、筋肉が緩む感覚があった。荒い呼吸のまま、首と、左肩を撫でる。安堵なのか恐怖なのか、生理的な涙がじっとりとかいた寝汗を含んでこぼれ落ちていく。ふ、ふ、と呼吸を整えて、徐々に現実であることを噛み締める。最悪とも言える夢の後味に、吐き気さえ催しそうになる。こんなことになるのなら、あの時話なんか聞かなければよかった。時計は暗くて見えなかったが、東の空がぼんやりと白み始めている。起きるには早いがもう一度寝るには遅すぎる。誰のせいでもないどうしようもなさに何故だか憤りが込み上げてきて、掛け布団を頭までかぶる。が、暑かったのですぐに剥がしてしまった。


瞼の重さと闘いながら、学校までの道を歩く。確か運動部は試合があったから、今日明日は学校にいないはず。しんとした校内を歩き絵画室へと向かう。あいつに文句を言ってやろう、と心の隅で思いながら。

ガラリと絵画室のドアを開く。君はまだ来ていなくて、制作途中の絵だけが続きを描かれるのを待っていた。

しばらくして、君が来た。早速制作を始めてしまって、集中してる途中で話しかけるのも悪いかなと思い我慢していた。丁度お昼を食べるタイミングで、僕は機嫌の悪さをちらつかせながら君に話しかけた。


「ねぇ、昨日の話のせいで悪い夢見たんだけど。ニケ像の頭と腕の話。」


「え?わたし、そんな話したっけ?」


「……は?」


蝉が強く鳴いている。頭と腕を探し求めるサモトラケの亡霊が、白昼の夢の中で僕を呼んでいる。

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15度目の夏、華氏は100度 夕立 夏憑 @summer_tired

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