第4話

馬子の馬車は夕暮れもかなり薄暗くなってようやく大きな町に入った。

「お嬢さん、どうなさいます?もう少ししたら陽がとっぷり暮れます。宿屋を探しましょうか?私はここに知り合いがありますが、お嬢さんは知り合いはおられないのと違いますか?」

「はい、でもお婆馬様が書いて下さったこの口入れ屋に顔を出してみたいと思います。お疲れの所申し訳ありませんが、ここに連れて行ってもらえませんか?」


馬子は口入れ屋の前までりんを送り届けた。

別れしなにお礼を差し出すと、

「とんでもございません。聞けば、あのお婆婆様の所のお嬢さんとは恐れ入りました。道理でお屋敷の皆さまも大事になさった訳だ。私の所でも、親類も皆、お婆婆様の事は神様のように思っております。そのような方からお金は受け取れません。ご恩返しをさせて下さい。どんな事情かわかりませんが、お嬢様、これから良い奉公先が見つかるといいですナ。それでは私はこれで失礼します。なに、この大きな町に来た時は、何かと帰りには仕事を頼まれます。仕事をしながら帰りますのでお気になさらずに。それでは、さいなら。」

馬子はそう言って帰って行った。

どこに行ってもお婆婆様の御威光を感じる。

山ん婆サはすごい人なのだ。

かなり遅い時刻だったが、りんは紙に書かれた口入れ屋に入って行った。

奥から年配の男が出て来て、ジロリとリンを見た。

「奉公先を探して来ました。宜しくお願いします。」と言うと、

「誰からの紹介で来なさったか?」と聞いた。


「紹介という訳ではありませんが、お婆様がもしも仕事を探すのなら、こちらに行くようにと名前を書いてくれたのです。」と紙を見ながら言った。

主人は、どれ見せてごらんと言いながら、りんから二つ折りの紙を受け取ってそれを見た。

「随分達筆なきれいな字だナー。こういう字には滅多にお目にかかれない。お前さんの婆様は大したお方じゃナ。どれどれ何?(この娘は字もそろばんも出来ます。しっかりした娘です。)と書いてある。婆様はよっぽど孫自慢なんだナ。」と言って笑った。

りんはそんな事が書いてあるとは知らなかったので伸び上がってその紙を見た。

確かに二つ折りした内側の左端に小さな字でそう書いてある。

りんは苦笑してしまった。主人も笑っている。


「達筆の婆様の保証付きなら間違いないだろう。だが、今日はもう日も暮れかかっている。今来て急に奉公先は決められないし。遠くから来たようだし、困ったナー。狭い物置のような部屋で良かったら、そこに泊まって二・三日お前さんがどれだけ字やそろばんが出来るか見てみたいしネ。今時、どうにか字の読み書きが出来る娘は増えているが、女の子がそろばんと言うのは珍しい。今日は疲れただろうから、奥の物置部屋で良かったら荷物と一緒に落ち着きなさい。それと冷たいようだが、うちは宿屋じゃないから風呂や飯はないヨ。近所に風呂屋も飯屋もあるから、そこに行っておくれ。」と言われた。

りんはこれから宿屋を探さなければならないと思っていたので、有難く泊まらせていただく事にした。

物置部屋といっても狭いがきちんと片付いて押し入れには布団も揃っている。本当に助かったと思った。りんは荷物を置くと、近くの風呂屋に行った。

町の風呂屋に入るのは初めてだったので、恐る恐る入ったが、女達が沢山いて賑わっていた。その人達の世間話を聞きながら汗を流した。その帰りに隣の飯屋に寄って夕ご飯を済ませて帰って来た。

何もかも初めての事だったが、りんは少しも気後れする事はなかった。あの御屋敷での半年程の暮らしがりんをどこに出ても恥ずかしくないという気持ちにさせたのだろう。

その晩、口入れ屋の物置部屋に泊まってりんはその夜、屋敷を出てからの事を思い出していた。

何故、山へ続く入り口がわからなくなったのだろう?

山ん婆サはもう私に会いたくないのだろうか?そんな筈はない。

私はこんなに山ん婆サが好きだし、山ん婆サだって私の事を嫌いな筈はない。

きっと私が一人前に世間に出て立派にやっていけるかどうか試しているのだ。

そう思ったりした。

次には村に帰って両親、家族に会った事を思い出した。

不思議に家にずっといたいとは思わなかった。りんは自分は薄情な娘かも知れないと思ったけど、死のうとまでして山に登った時、あの時に昔のハルは死んでしまって、今の私はりんなのだ。だから、気持ちもすっかり変わったのかも知れない。

とにかくここまで来たからには、今は山ん婆サの勧める道を行ってみよう!どうしても駄目ならまたあの山に帰って山ん婆サと暮らそう。

そう思うと少し気持ちが軽くなった。

それにしても自分が出来る事を決して人に自慢してはならないと自分では言っていたのに、あの紙に書かれた「字もそろばんも出来ます」というのは、おかしかった。

ここの主人も笑っていたっけ。りんは思い出して一人笑ってしまった。

笑いながら、いつも山ん婆サが側についていてくれるような温かい気持ちになって、いつか眠りに入って行った。

次の朝目が覚めると、手洗いの横の流しで顔を洗い、同じ藍の紬だが袂のあるのに着替えた。気持ちがしゃんとした。

店に出て行くと、主人はもう店に居て仕事をしていた。

りんが挨拶をして、泊めて頂いたお礼を言うと、

「悪いが、お前さんがどれ程出来るか見せて貰うヨ。もしも婆様の自慢程でなかったらただの女中奉公を紹介する事になるし、自慢通りなら一つ心当たりがあるんだヨ。」と言った。


主人は、「この文章を書いてみておくれ。」と言って乱雑に書かれた紙と白紙を渡した。

読みづらい字だが意味はわかったので、りんはそれを正確に白紙に書き写した。

主人はりんの書いた字を見て、「ホーッ、婆様の自慢通りだ。」と言った。

次にそろばんを試すという。


りんは風呂敷から自分のそろばんを取りだして、これが使い慣れてますからと言った。

「へー、自分のそろばんを持っているのかい?これはいよいよ本物だナ。」と言ったので、りんは、

「いいえ、そろばんは教えていただきましたが、実際に仕事で使った事はありません。お婆婆様が自慢なさる程の腕ではありません。」と言うと、

「まあね、習ったのと、出来るのとでは違うからネ。」と言って計算をさせた。

足し算をして、それから引いて、いくらになるか。何度か問題を出し、りんがそろばんの珠を弾く速さを見、正確さを見た。

「はい、もう結構です。お前様の腕は婆様の自慢通りだ。それではこの帳面を片付けたら出掛けよう。一休みしておいで。お前様を紹介するのは、ここから十分程歩いた所にある大きな店だ。米、酒、味噌、何でも取り扱っている大きな店だ。そこはまた違う場所では呉服、履物等を扱っている店もあるんだ。この町で五本の指に入る大店だヨ。私はその店にこれまで何人も人を紹介しているんだヨ。働いている者達の話を聞いても悪い店ではない。そういう所には本当に信用出来る人を送りたいからネ。私はお前さんを見込んで紹介するんだヨ。くれぐれも信用を落とす事のないよう真面目に働いておくれ。私も婆様の自慢に負けず先方にお前さんを自慢しておくから。」と言ってニヤリと笑った。

この主人は悪い人ではないらしい。


一緒に付いて行った店は人で賑わっている町の中心にあった。

大きな構えの店だった。

成程、人がしきりに出入りしている。繁盛しているのだろう。

口入れ屋が入って行くと、番頭らしい中年の男がすぐ寄って来て、口入れ屋の後ろで神妙にしているりんをチラリと見て少し不審な顔をした。

が、すぐに店を通り抜けて奥の茶の間のような座敷に通した。

口入れ屋とりんは、そこでほんの少し待っていると、奥から老いた主人らしき男の人とそれに付き添うように若い男の人が入って来た。

口入れ屋はその主人らしき人に丁寧に挨拶をしてからりんを紹介した。それから例の山ん婆サの書いた紙を取り出して見せてこう話し出した。

「昨日、突然入って来られて、この紙を見ても半信半疑だったのですが、今朝、どの程度のものか試してみたら紙に書いてある通りの腕のある娘です。私は長年、人を紹介して多くの人を見て来ましたが物言いといい、身のこなしといい、字もそろばんも申し分ない娘と見ました。必ずやこのお店のお役に立てると思い連れて参りました。」

そう言ってくれた。

りんはこんな風に紹介されると気恥しいのと、期待され過ぎた後、がっかりされる事になりはしないかと少し心配になった。

病み上がりのような老いた主人が大旦那様で、付き添っている若い男の人が若旦那様だという。大おかみは既に亡くなっているようだ。


大旦那様と若旦那様は、いつも取引のある口入れ屋を信用してりんを雇ってくれた。

りんは店に出て接客をするのではなくて、仕入れや売上高を記入したり計算をする見習いから始めた。

大番頭の下でそれらの仕事をしていた者が急に辞めて田舎に帰った為、その後の穴埋めになる人間を探していたのだった。

今まで、この仕事は男で、しかも、かなりしっかりとして信用出来る者の仕事だったのである。先程、大番頭が不審そうに首をかしげたのは、てっきり優秀な男を連れて来ると思っていたのが、まだ若い娘を連れて来たので、女中は頼んでいない筈だと思ったものらしい。


大旦那様も若旦那様も心の中では戸惑ったとは思うが、ここは口入れ屋の言葉を信用して一度試してみよう。

もしも駄目なら、その時は下働きに変えてもいいぐらいの気持ちだったに違いない。

今まで、若い娘を銭勘定の場所に入れた事はないのだから。そう考えるのは至極当然だったろう。奥で旦那様方と大番頭の間でどんな話し合いがされたかわからないが、りんは帳場に座って仕事をする事になった。

店で立ち働いている者達も皆、当然、意外そうな顔でりんを見て、何かヒソヒソ陰口を言い合っている。

りんは藍の紬の上に店の半てんを羽織って神妙な顔で働き始めた。

まるっきり初めての職場であり、生まれて初めての世間での仕事なので、慣れた者達のようにはいかないが、誤字や計算の間違いだけはしないように慎重に言われた事をこなしていった。

何か間違いがあったらすぐに、旦那様に言って男と変えてもらおうという腹づもりの大番頭だったが、りんは字は丁寧で見やすく、そろばんも確かだった。

いくら仕事が早くても頻繁に計算間違いをして何度もやり直す者より信用される。

遅いのは仕事が慣れるとおのずと早くなるものだからである。

欠点を見つけられないまま日が経って行くと、りんは仕事の要領もつかんでテキパキこなすようになって来た。

古くからいるもう一人の者よりもむしろ仕事が早くなって来た。

そこで大番頭はりんを見直した。仕事が正確に出来しかも、きちんきちんと片付けて行くので、夜遅くまで残ってやる事もなくなったと。もう一人の者も喜んだ。

大番頭は大旦那様と若旦那様から様子を聞かれて正直に認めない訳にはいかなくなった。

若い娘というものは誰もがおしゃれにうつつを抜かして責任ある仕事は任せられないと考えていたのは間違いだった。大抵の娘はそうでも、中にはりんのような娘もいるのだと初めて知ったのである。

りんの仕事ぶりもそうだが、藍の上等な紬をいつもきりりと着ている姿は清潔そうで頭が良さそうに見える。

決して最高の美人ではないが、何かしら人の目を引いたのだろう。

普段は仕事に夢中のあまり愛想を振りまく事はないが、何かのおりに話しかけられて笑顔を見せる事がある。それがまた、人に爽やかな印象を与えるらしい。

徐々に他の者達もりんを認め始め、いつの間にか女といえども一目置かれる存在になって行った。

そんなある日、突然、大旦那様から奥の座敷に呼ばれた。

大旦那様は病がちで奥の座敷に床をのべてそこに横になりながら、若旦那様や大番頭の持って来るいろいろな事に采配をふるっているのである。

おかみさんはもう亡くなって久しくなっていた。


りんが奥座敷に呼ばれるとは何の話だろう。何かそろばんで間違いをしたのだろうか?大番頭からは何も注意されていないが…。


りんは緊張して、襖の外から「りんでございます。」と言った。

中から、「お入り。」という穏やかな声が聞こえた。

りんが入って襖を閉めて向き直ると、いつも隣にいる若旦那様はおらず大旦那様だけだった。

大旦那様はニコニコ笑いながら、


「りん、帳場でお前は男にも負けずに頑張っているんだってネ。あの厳しい大番頭が珍しくお前の事を誉めていたヨ。」と言ってくれた。

りんは顔を上げて思わず嬉しそうにした。


「お前は笑うとずっと美人に見えるネ。商売には愛想も大事だ。真面目もいいが、もう少し笑顔を見せてくれると嬉しいがネ。」と優しく微笑みながら言った。

りんはどう答えていいかモジモジした。

「今日お前を呼んだのは単刀直入に言おう。お前をこの家の嫁に来て欲しいと思っているんだが。お前の気持ちはどうだ?」と言った。

りんは思ってもみない突然の話にびっくりしてしまった。

心を落ち着けて、「あのー、若旦那様のですか?」と言うと、


「そうだ。あれの嫁になって欲しい。あれも承知している事だ。」と大旦那様ははっきりおっしゃった。


「でも、私のような者が。まだ、いくらも経っていない私のような者を。」と言うと、


「私も人を見る目はあるつもりだヨ。あれも、人を見る目があるようだ。今まで、いくらも縁談があったが、まだ早いと言って首を縦に振らなかった息子が、お前の評判を私に話す時の目がネ。嬉しそうなんだヨ。店の者達がりんを認めているだの。大番頭も最初渋っていたのに今ではりんの事を頼りにしているだのってネ。それで私はピンと来て、それならりんのような娘を嫁にしたら、この店は安泰かも知れないナ。と言ってみたら、嬉しそうな顔をするじゃないか。」と笑った。

「あれにはまだりんに話す事は言っていない。りんに心を決めた相手がいないとも限らないからネ。まず最初に私がりんの気持ちを確かめてからと思ってネ。りん、お前にはもう決めた相手はいるのかい?」と聞いた。

りんは、「いいえ、いいえ。そんな人はおりません。」と答えると

「そうか、それは良かった。それで若旦那の事はどう思う?うちの嫁に来てくれる気持ちはあるかネ?うちのような大きな店は傍目には見栄えが良いが使っている者も多いし、何やかんやといつも気苦労の多い商売だ。もしも気が進まぬならこればっかりは無理強いは出来ないが。私もこの通りの身で、一日も早く息子に良い嫁を取らせて安心したいのだヨ。どうだろう。息子の嫁になって、この店を一緒に支えてやってはくれまいか?」

大旦那様にそう頼まれてしまった。


りんは突然の事で頭の中が混乱していたが、何か言わねばならないと思った。

若旦那様の優しそうな顔が目に浮かんだ。幼馴染の彦一のように男らしいという訳ではない。様子もほっそりとしているが、この先、大きな店を支えて行くという心構えのせいか落ち着いた温かさも感じる。りんは心の中で山ん婆サに話しかけた。

山ん婆サどうしたらいい?あまりにも大きなお話です。すると、りんの頭の中の山ん婆サは笑いながら、りん、お前を認めて嫁に来てこの大きな屋台を支えて欲しいと言っておられるんだヨ。女冥利につきるじゃないかと笑っている。山ん婆サはいつもきっと私の傍にいて私の背中を押してくれる。

リンは、自分にこの大店の嫁がつとまるかどうかやってみよう。そういう気持ちになった。そして、心を落ち着けてから


「突然の事で正直驚いて頭の中が混乱しております。ですが、私のような者をそこまで信用していただけて、本当に嬉しゅうございます。もしも、若旦那様がお望みであれば、そのお話を慎んでお受けしたいと思います。でも私はこの通り、しっかりした身寄りもおりません。そのような者でも宜しいんでしょうか?」とりんが両手をついてお答えすると、


大旦那様はニコニコして、「私はそんな形式ばった事を気にする人間じゃないヨ。息子ももちろんそうだ。人物本位なんだヨ。りん、お前の能力と正直さ、謙虚さを気に入ったんだヨ。ああ、良かった。本当に良かった。あれも喜ぶだろう。」とおっしゃった。


それからトントン拍子に話が進んで、りんはこの大きな店の嫁になる事が決まった。

りんの希望でもあり祝言は内々にする事にした。それでも、この大店の親戚を呼ばない訳には行かず、それはどんなに少なくしても十人ぐらいにはなる。それと同じ人数を嫁側も整えねばならない。

山ん婆サには連絡が取れないし、りんはお世話になった奥様に手紙を書いた。

奥様は大喜びで、自分と爺やさん、婆やさんの他に友達だという錚々たる方々を引き連れて母親代わりとして参列してくれた。式の当日、訪れた


衣装も押し出しも立派なその人々に圧倒されて、婿さんの親戚筋の人達はりんの後ろ盾の凄さを認めない訳にはいかなかった。

奥様はその日は一段と豪華な衣装を身にまとい晴れやかな笑顔を振りまいて婿さんの親戚の一人一人に、「娘をどうぞよろしく。」と挨拶して回った。

りんは思いがけなくて夢のようだった。だがこの晴れの席にあの大事な山ん婆サがいてくれたらどんなに嬉しかったかと思った。


若旦那様は思った通りの良い人だった。

名前は健作といった。

こうしてりんは思いがけず人もうらやむ身の上になった訳だ。

だが夢のような幸せというものはそうそうある訳ではない。

病がちの大旦那様に負担をかけないように健作を手伝ってこの大店を支えていかなければならない覚悟はしていたが、大変な事である。

りんはそれまで以上に気を張りつめて頑張る事になった。

店の仕事だけでなく、従業員達の事、奥のきりもり等。気を配る事は山程増えた。

幸い、奥を仕切っている女中頭が気持ちのいい女でしっかり者だった。

りんも女中頭を頼ったが、女中頭もりんの事をおかみとして敬意を払って一生懸命尽くしてくれたので本当に心強かった。


傍から見たら大変な玉の輿だったろうネ。

だけど、どんなに幸せそうに見える人にも何かあるものだヨ。それから半年も経たずに病がちだった大旦那様は亡くなった。

健作とりんは一層力を合わせ気持ちを一つにして頑張った。

やがて二人に初めての子が授かった。

男の子だった。

可愛くて、可愛くて二人共、仕事に励みが出来た。

大旦那様がいないという心細さもいつか忘れて、あの時は本当に幸せだった。

御屋敷の奥様が長男誕生を聞いて祝いに駆け付けてくれた。そして、その後もりんの母親としてまめに顔を出して手伝ってくれた。

りんが“奥様”と呼ぶと、「その“奥様”と呼ぶのはやめて。“お母様”か“しのさん”にして。」と言う。りんは有難く思い、それからは“お母様”と呼ばせて貰う事にした。

その方が本人も嬉しいらしかった。

だが長い人生、苦労や悲しみは誰の上にも突然降りかかるというのは本当だ。

あんなに大事にし、慈しんで育てた男の赤子が誕生を間近にしてはやり病であっけなく死んでしまった。

あの時の、あの悲しみはこの年になっても忘れる事は出来ないヨ。

悲しみは何かによって一時紛れる事はあっても忘れる事は出来ないものなんだヨ。

りんは泣いた。こんな事があるだろうかと天を恨んで泣いた。

この時ばかりはなりふり構わず大声を出して泣いた。

お母様はりんの傍を離れず、いつも傍にいてくれた。それがどんなに心強かったか。

そして、夫の健作が一緒に泣いてくれた事だった。

あきらめきれずに泣き通しのりんを、店を終えて帰って来ると、健作は泣くなとは一言も言わずりんの肩を抱いて一緒に泣いてくれた。

男だから泣かないのは嘘だ。

男だって悲しくて悔しい。もうこの腕に戻って来ない。あの笑顔を思い出すとあきらめきれない。二人は抱き合っていつまでも、いつまでも泣いた。

あんまり泣くものだから、食欲もないのに吐きそうになる。

悲しみと苦しみを伴った胃液ばかりが出て来るのだ。

その吐き気が、実は二人目の子供を身籠っている事の証しだったのだが、その時はすぐには気がつかなかった。

神様は悲しむ夫婦に新しい生命を授けてくれたんだヨ。

その事がわかってりんは気持ちを切り替えてお腹に宿った子供を待つ事を希望にした。

やがて月満ちて、二番目の子は女の子だった。

それから三番目、四番目と女の子が三人授かった。その頃にはいつか“お母様”は屋敷を引き払ってりんの所で生活するようになっていた。

子供達の面倒を見たり、りんの話し相手になったり、りんはどんなに助けられた事だろう。爺やさんが高齢で亡くなり、婆やさんには里の妹の所に帰ってもらい、屋敷を引き払ってりんの所に来てくれたのだ。

それから、本当の親子のようにりんの元で暮らし始めてくれた

りんの子供達もお婆ちゃま、お婆ちゃまと甘えて行く。しのは、りんから見ても本当に満足した顔をしている。

りんは思う。この方と自分はこういう運命だったのだろうか。それともこれも山ん婆サが計らって下さったのだろうか。と

山から下ろし、しのの屋敷に向かわせた時、山ん婆サにはこの日が見えていたのだろうかと思う。

やがて上、三人が女の子達で、その下に少し年が離れて待望の男の子が授かった。

健作も喜び、りんも今度こそは失いはしまいとあらゆる願かけをしたりした。

お陰で男の子は元気に育った。

だが末の男の子が三歳になる頃、まるでその子の身代わりになるように、品物の仕入れに船で出かけた夫の健作が荒しに遭って難破して亡くなってしまった。

りんは目の前が真っ暗になった。

どうすればいいのだろう。山ん婆サ、どうすればいいの。いつも困った時は心の内で山ん婆サを呼んだ。

その時思い浮かんだ山ん婆サの顔は恐い顔をしていた。その時、

「りん、しっかりおし!泣いてなんかいられないヨ。四人の子供達と店で働く人達の事を考えてごらん!」きっと山ん婆サならそう言ってくれる筈だと思った。

そうだ。今は泣いている時ではないのだ。

健作のいない今、りん一人でこの大きな店を支えていかなければならないのだ。

リンは涙をぬぐって立ち上がった。その時も、お母様のしのがいて本当に助けられ慰められた。

年老いても、あの娘のような物言いで、暗くなりがちな家の中をどんなに明るくしてくれた事か。これも山ん婆サが、りんに迫るだろう不幸の波を予測してしのをりんに出逢わせてくれたのかも知れないとりんは思ったりした。

本当に何の苦労もない人生なんてないのだネ。もしかしたら。

苦労だらけの人生の中にいくつかの喜びがあるというのが本当なのかも知れない。

りんは時々、山ん婆サに話しかける。

「山ん婆サ見ていますか?りんは生きていますヨ。

頑張って生きていますヨ。」

時々外に出た時、町中の人混みの中にふと、山ん婆サに似た後姿を見かけてドキッとする事がある。

もしかして、近くに住んでいて私を見守ってくれているのじゃないかと、走って先回りして顔を見ると違う人だった。そんな事が幾度かあった。

あれからどれ程の月日が経ったか。

山ん婆サは生きているかどうかもわからないお年の筈だった。

子供達が手がかからなくなったらお山に行ってみよう。いつも心の中でそう思いながら忙しさに紛れてどんどん月日が流れて行った。

山ん婆サは人間のようでいてそうじゃない。人を越えた仙人のようにいつまでも死なずに今もあの山の上で白い三頭の犬達と暮らし、一日二回の薬草風呂に入って元気に生きているような気がどうしてもするのだ。それはりんの願望でもあった。


ハルの里には健作が亡くなるまで、毎年の暮れに娘よりとして届け物をしていたが、それもいつかやめた。

暮れは目の回るような忙しさで、りん一人となってからは里を懐かしんで贈り物をするどころではなくなってしまったからだった。

それに里の親も生きていないだろう。本当に目まぐるしく月日は流れていった。

いつか子供達も成長して手もかからなくなり、かえって一人奮闘する母親の助けになるようになった。

しのお母様はそれを見て安心したように静かに亡くなられた。

床について三日もしないで、りんの手を煩わせる事も無く、静かに逝った。


亡くなる前の日、りんの顔を見てしみじみと言った。


「りんさん、ありがとう。貴女に出逢えて私の人生は最後に思いがけず豊かなものになりましたヨ。こんな申し分ない娘が出来て。可愛い孫達に囲まれて…。これが幸せという事だとしみじみ思いました。私、こう思うのヨ。お婆婆様もきっと幸せだったのじゃないかと思うのヨ。貴女にはずっと話していなかったのですけど、お婆婆様の名前も“りん”というのヨ。」

それを聞いてりんは驚いた。

「ええ、そうなの。あの方は不思議な力を持っていて多くの人々を助けたワ。でも、ご自分の人生はどうだったんでしょう。貴女も何も知らないようだし。これは私の想像だけなのですけれど、お婆婆様はきっと悲しい過去をお持ちの人だと思うのヨ。ご自分の事は決してお話にならなかったから。本当は違う人生を生きたかったんじゃないかしら?そうよ、きっと、平凡な女として幸せな人生を送りたかったんじゃないかしら。だから貴女に自分と同じりんという名前をつけたのヨ。(りんという名前はお婆婆様から頂いたという事は話していた)貴女に御自分が出来なかった幸せな人生を送って欲しかったのヨ。実際はいい事づくめの人生なんてないし。貴女にも沢山悲しい事があったけれど。それも含めて頑張っているりんさんを必ずお婆婆様はどこかで見て応援している筈よ。」


「きっと、お婆婆様は百歳までだって生きるでしょう。仙人のようなお方だから。今も、どこかで私達の事を見ている筈よ。」


そんな事を話した翌日、満足そうに苦しまずにしのさんは亡くなった。


その頃には成長した三人の娘達と末の息子がりんの心の支えになってくれた。

やがて三人の娘達が良い婿を得て、その者達が力を合わせて末の息子を支えるようになった。

今ではその末の息子も立派な大店の旦那様になった。

息子の嫁も利口で働き者の良い女で、りんを大切にしてくれる。

りんも年を取った。

今ではすっかり店の事を息子や婿達に任せて安心した隠居暮らしが出来ている。

末の息子には男の子達が三人生まれ、最後の最後にかなり年が離れて女の子が生まれた。

それが絹、お前だヨ。」

りんはそう言ってから、りんは絹が可愛くて可愛くてたまらないと言うようにニコッと笑った。

「絹や、お婆はこの年になって初めて山ん婆サの気持ちがわかるような気がするんだヨ。りんをどうして無理矢理山から追い出すように下ろしたか。そして二度と帰れないように道を塞いだのかネ。山ん婆サはネ、りんを独りぼっちにしたくなかったのサ。あのままりんが山にいたら、山ん婆サの死んだ後、今頃りんも独りぼっちの山ん婆になっていただろう。

そんな想いをりんにさせたくないと思ったに違いないとネ。

この頃では、そう思って山ん婆サの一度だけ見せた涙を思い出すんだヨ。それから一度だけ聞いた山ん婆サの歌が繰り返し繰り返し、聞こえて来るんだヨ。夢の中で聞こえてくるのかネー。このお婆も一人になると知らず知らずのうちに歌っているんだヨ。」リン婆様は、か細い声でうたった。

風の吹く夜はヨー

誰の無く声かよー

山背に乗ってヨー

我を訪ね来るー


絹や、悲しい歌だろう?

この頃じゃうとうとうたた寝の時や、夜眠っている時も聞こえて来るのサ。

まるで山ん婆サの子守歌みたいにネ。


絹や、これでお婆の話は全部だヨ。

しのさんにも話さなかった話をお前に全部話して何だか安心したヨ。

こうして振り返ってみるとこのお婆の人生も面白い人生だったヨ。

りんの人生も結構いい人生だったヨ。」


りんお婆様はほのぼのとした顔で満足そうに笑っていたっけ。

その後、いくらも経たずにりんお婆様は亡くなった。

葬式を終えて墓場に行っての帰り道、親類の人達が三人・四人ずつにパラパラ固まって帰って来た。絹も母親や叔母達と一緒に帰って来た。


「お婆様は子供を亡くしたり、若くして突然旦那を亡くしたりして苦労もしたけれど、あんなに長生きしたのだもの。満足でしょうネ。」


後ろで、母や叔母達の話す声を耳にしながら幼い絹はその先頭を歩いている。

絹は歩きながら思い出していた。

お婆様は亡くなって淋しいけれど、あの昔話の最後に、

私は幸せだったヨ。

いい人生だったヨ。

と言って笑っていたっけ。

幼い絹はそう思って悲しまない事にしようと心に決めた。


その絹の前を一人の見知らぬお婆さんが歩いている。

灰色の着物を着たお祖母さんだ。

あれ?どこかで知っているお婆さんだ。

どこかで見たのだろうか?

絹は一生懸命思い出そうとしたが、思い出せない。

その時、お婆さんの短めの着物の裾からふくらはぎが見えた。右足のふくらはぎにんはっきりと二つの点々の傷跡がある!

蛇に噛まれた跡だ!

絹は思い出した。山ん婆サだ!


カラス蛇に噛まれて、りんが毒を吸ってあげた傷跡だ!

まだ山ん婆サは死なずに生きていたのだ!

仙人のように長生きしてりんをずっと見守っていたんだ!


絹は山ん婆サに追いついて顔を見て話をしたくて駆け出した!

でも急いで走ってもどうしても追いつけない。

走っても走っても追いつけない。

そんな絹を見て後ろで口々に、

絹、そんなに走ったら転ぶでしょ!危ないヨ!と口々に叫んでいる。

すると絹の母親が、「ホラ、ひばりが空で鳴いているヨ。あれは亡くなったお婆様かも知れないネ。絹を大層可愛がっていたからネ。空からサヨナラしているのかも知れないヨ。」

絹の母がそう言ったので、絹は思わず空を見上げた。

だが、声はすれども姿は見えなかった。

それより山ん婆サだ。

また、絹は目を前方に移したが、たった今まで前を歩いていた灰色の着物を着たお婆さんの姿はほんの一瞬の間に煙のように消えていた。

ここは田んぼの中の一本道だ。隠れる場所は一つもない。

山ん婆サは消えてしまったのだ。



それで私(絹)はその時後ろの母親達に灰色の着物のお婆さんが歩いていたでしょ?と聞いたんだヨ。

でもそんな人は誰も見ていないという。

私にだけ見えたんだヨ。山ん婆サは私にだけ会いに来てくれたんだヨ。


だからその時の小さな絹はこう考える事にした。

山ん婆サはりんが亡くなったから、山ん婆サも安心して一緒にあの世に行ったと考えることにしたのサ。

山ん婆サとりんお婆は二人一緒に仲良くあの世に行ったってネ。

りんお婆はあんなに会いたがっていたんだ。今頃はきっと会っているに違いないんだ。そう考えると悲しい気持ちも消えて、絹は本当に良かったネと思えて来たんだヨ。」

絹婆ちゃんはそう言ってニッコリ笑った後、

「うん、あの時、私は確かに見たんだヨ。灰色の短めの着物を着た山ん婆サを見たんだ。」

絹婆ちゃんは一人で頷いた。

「ネー、婆ちゃん。私も見てみたいナー。山ん婆サと会って見たいナー。婆っちゃ、もっと話コ聞かせてけれ。ネエネエ、もっと話コ聞かせてけれ。」と、ねだったけれど


「大根という物は根も葉も食べてねえ婆さん一つ、

大根という物は根も葉も食べてねえ婆さん二つ。」

と、いうばかり

この呪文が出たら昔話は本当にお終いです。


おわり

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昔話 山ん婆の子守歌 やまの かなた @genno-tei70

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