第3話
山ん婆サがある日、機織りをしているりんに、「お前は一、二、三はわかるネ。」と聞いた。
りんが頷くと、「十、二十、三十はわかるかい?」と聞く。
ハルだった頃を思い出した。家の蔵にあった、のしたするめは十枚で一束にする。
それが二つだと二十、三つだと三十だと答えると、
「その束が十束だと百になるのはわかるネ。」と言うので頷くと、「千は百が十集まったもの、万は千が十集まったもの。それはわかるネ。」と恐い目で見つめる。
りんは自信はないものの山になったするめの束を思い出しながら頷いた。その日はそれっきりになった。
次の日、山ん婆サは、「お前も機織りばっかりしていないで時には違う事もした方がいいだろう。」と何冊かの閉じた書物と書き損じの紙を持って来た。使い古しの筆もある。誰が使ったのだろう?手習いの本のようなものが目に入った。
いろはが書いてある。これなら読める。山ん婆サは何も言わずまたどこかに行ってしまった。
りんは一人になると手習いの本を広げて記憶の中のいろはと一緒に小さな声で読んでみる。
いろはにほへとちりぬるおわかよたれそつねならむうるのをくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん
読める、読める。
それからはりんが一人になると、誰もいない家の中で思いっきり大きな声で、いろはにほへとを読んだ。
文字は子供の頃の時よりはっきりと目の中に飛び込んで来る。
字の形もグーンと目を通して頭の中に入って来るのは不思議だった。
その字を一つ一つ墨をつけない筆でなぞってみる。
これなら書けそうだ。
何度も何度も練習した後、書き損じの紙の余白に墨をつけて書いてみた。
面白い、面白い。子供の頃はあんなに難しく思えたのに、今はこんなに面白い。
ある日山ん婆サはまだ書いていない紙を閉じた紙の束をポンとりんにくれた。
山ん婆サは何も言わない。りんは何も言わずそれを胸に抱きしめた。
だけどもったいなくて、まっさらのその紙に字を書くのは恐くてしばらくは書けなかったが、ある日、山ん婆サが、
「その手本通りに真似て同じように書くと人は字がうまいと言うんだヨ。」とボソッと言った。山ん婆サは無駄な事は言わない。
それからのりんは手本の字と同じになるように出来るだけ真似て練習した。
自分でも似せて書けるようになったと思ったので、まっさらの紙に、一字一字丁寧に書いてみた。かなり似ているんじゃないかな?とそう思うと嬉しくなった。
それを知ってか知らずか、また山ん婆サは違う本をさり気なくポンとその辺に置いた。
何だろう。気になって開いてみると漢字の手本だった。
かなを振ってあるのでこの字が何なのかわかる。
山、川、空、ああこれが山なのか。
これが川なのかとわかると嬉しかった。これはりんの為に持って来てくれたのだ。
それならこの手本で練習しよう!
俄然やる気が湧いて来た。書き順も書いてある。
この漢字も出来るだけ真似て書いてみよう!
それからは少しでも字の練習がしたくて、朝はまだ夜が明けないうちから目が覚めて何からしようかと段取りを考えた。
野に出て薪を拾い、水汲みをした後、朝餉の支度。朝ぶろの準備をしながらあちこちの掃除、次から次とする事がある。それらを素早く片付けてあと忘れている事はないかと考える。犬達にもごはんをやったし、大丈夫!と思うと部屋の隅の小机に向かう。
山ん婆サは何も言わないが、それからも時々、さらに難しいお手本がいつの間にか小机の上に置いてあった。
嬉しくて嬉しくて「ありがとうございます。」と叫びたい気持ちなのにりんは何も口に出さなかった。
声に出すとこの自分の物凄く嬉しい気持ちが本物より薄っぺらくなっちゃうような気がしたんだヨ。お礼を口に出して言わなくても山ん婆サはきっとりんの心の中はお見通しなのだという気がしてネ。
りんがどんなに喜んでいるか。どんなに感謝しているか知っているに違いない。そんな気がしたんだヨ。
だけど今になってあの時山ん婆サの前で素直に喜んでおけば良かったと思うヨ。
りんは毎日、毎日夢中で小机に向かって字の練習をした。りんは夢中になっていたが、山ん婆サはその書いた物を何気に見ていたのかも知れない。
ある日、小机の上に漢字ではなくて流れるような美しいかな文字の書が置いてあった。うっとりするような美しい文字だ。
りんは私もこんな字の書ける人になりないナ。でもなれるだろうか。練習を重ねたらいつかなれるだろうか。この流れるような文字は大層難しくてそうなった日を想像して夢を見るりんだった。
山ん婆サはある日、そろばんを持って来た。
「これをお前にやる。」と言って、そろばんをりんの手に与えた。
りんが昔見た商人のそろばんよりずっと小さくて可愛いそろばんだった。
「これを私に?」
山ん婆サはニコリともしないで、「仲良しになるんだネ。」と行ったきりだった。
そろばんというものに触れるのは初めてだった。
振って見ると、チャッチャッと可愛い音がする。
「いつか使い方を教えてあげよう。」と言うと、その日はそれっきり眠ってしまった。
そろばんの使い方なんて覚えられるだろうか?いくら見ても不思議なその物はりんにはとても覚えられそうもない。果たしてこんな難しい事が私に出来るだろうか。
山ん婆サは忙しいらしく朝、目が覚めるといない事がよくあった。
まさか山から山へ雲に乗って駆けまわっているのだろうか?
まさかネ。等と考えてりんは一人笑ったりした。
字の練習も面白いが、機織りも好きだ。藍色の反物はあれから一反織り上げて、また山ん婆サに言われて二反目に取り掛かり、それももうじき織り上がる。この布地は色も手触りもいい。派手ではないが底光りするような光沢があって、どんな人の肩にかけてもその人を美しく見せてくれるような上品な布に織り上がっている。私の着物と同じだ。あの着物は大切にしよう。
リンは今ではすっかり体に馴染んだ調子で機を織り続ける。
トントンカラリ、トンカラリ。
何だか歌でも歌い出したくなる。
幸い、ここには誰もいない。
山ん婆サはここずっと夕方にならなければ帰って来ない。歌ってみたくなった。
子供の頃は歌う事が好きな明るい子供だった事を思い出す。
トントンカラリ、トンカラリの調子に合わせて歌を歌ってみた。
何年ぶりに歌ったろう。もう何年も歌った事はなかったが、歌の文句は覚えていた。
次にまた、別の楽しくなるような唄が口をついて出た。
軽快な調子が嬉しくて、その歌を何度も繰り返し歌った。
ああ、私は本当は歌が大好きだったんだと改めて思った。私は変わったんだろうか?それとも本当の自分に戻ったんだろうか?それともりんという名前になって違う人間になったんだろうか?
あの時、ここには死にに来たのに今は歌を歌っている。
ここはいい所だ。極楽のような所だ。山ん婆サも大好きだ。一生ここにいよう。
だけどふと思う。
この山の中で暮らすのに何故?字の練習が必要だろう。そろばんなんか村の中でも使える人が何人もいないだろう。まして女の私には一生必要のないものだろう。
でもまあ、山ん婆サのする事はいつも正しい。珍しい宝物をもらったような良い気持ちに変わりはなかった。
りんは時々、そろばんを手にとってチャッチャッと鳴らしてみた。
私のそろばんだ。私のものだ。
機織りが一段落すると、りんは小机の前に行き字の練習をする。それも一段落すると、また機織りをする。
字は繰り返し、繰り返し書いているのでお手本に似せて書けるようになった。
山ん婆サはそれを見ているのかいないのか何も言わなかったが、いつの間にか、手習いの手本に混じって、見た事のない書物が一冊置いてあった。
開いて見ると美しい小さな文字が書いてある。所々、絵のついた所がある。漢字とひらがなを混ぜて書いてある。どれもお手本で覚えた漢字だ。
これなら読めそうだ。読める!読める!
読み始めると面白い。りんはいつの間にか本が読めるようになっていたのだ。
その書物の内容は、
ある若者が旅に出て、いろんな人と出会ったり、不思議な事に出くわしたりする物語だった。面白くて夢中で読んでいくうちに声を出して読んでいた。いつの間にか物語をスラスラ読めるまでになっていたのだ。
山ん婆サは本を読む楽しみを教えてくれたんだと改めて、しみじみ、有難いと思う。
りんがいつも一人で山の中にいるから淋しくないように考えてくれたのだろうか。夢中で声に出して読んでいると、山ん婆サが帰って来た。
私の声を聞いたのだろう。
「おもしろいかい?」と言った。
りんは、「はい!とっても、とっても。」と答えた。
「読むのに慣れたら声を出さずに読むようにするといいと思うがネ。」と言って笑った。
それから、「この書物は借り物なんだ。いつか返さなければならない。りん、お前が気に入ったのなら、それを写し取るといいヨ。」と言って机の上を指さした。
そこにはもう一冊似た背表紙のきれいな書物があって開くと中は真白で何も書かれていない。
「絵はなくとも字を写し取る事は出来るだろう。写しとった者はりんお前の物になるんだヨ。」と言った。
そこには細い筆も用意してあった。りんはその日からその書物を書き写す事に一生懸命になった。
出来るだけ同じ大きさで、出来るだけ同じように美しい字で、絵の部分も似せて描いた。
挿絵の方はあまりうまくは行かなかったが、雰囲気がわかればいいと思って描いた。
丁寧に一字一字慎重に写したので、かなり時間がかかったけれど、もう少しで終わろうとする頃山ん婆サはまた、別の書物を持って来た。
それは宮仕えをしている女の人の話だった。
やんごとない姫様の暮らしや、お話になる事を面白く可愛らしく描いてある。
りんの伺い知る事の出来ない世界だった。衣装や調度の豪華絢爛な様子が読み手の空想をどこまでも広げてくれる。
山ん婆サはその書物と一緒にまた、中身の書かれていない物を一緒に用意してくれた。
背表紙の柄は前のと違い、この物語にふさわしい美しい物だ。
りんはその物語も出来るだけ丁寧に似せて書き写した。
書き終わる頃にはまた、べつの書物が置いてあった。それは不思議な物語が十ばかり集められた物だった。
どの話も本当にありそうでいて、本当にありそうもない奇妙で面白い物語ばかりだった。その物語も用意してあった白紙の物に書き写した。
りんが書き写したのを確かめると、山ん婆サは読み終わった書物を返した後、
「どうだい?気が済んだかい?」と言った。
りんの手元には立派な三冊の書物が残った。
これはりんのものだ。
これを開くと、そこにはいつでも夢のような世界がある。
りんの見た事のない夢の世界だ。
いつでもこの冊子を開くと、りんはその夢の世界に入って行ける。
りんはその三冊を胸に抱きしめて眠っている山ん婆サの背中にそっと小さな声で、
「山ん婆サありがとう。」と言った。そして手を合わせた。
山ん婆サは聞こえたのか、それとも眠っているのか何も言わなかった。
りんと山ん婆サはあまり話をしない。
口に出さずとも山ん婆サはわかっているように思うし、この頃では、りんも山ん婆サの気持ちがわかるような気がするのだ。恐い人ではないけれど、何故か気楽に話しかけてはいけないような恐れ多い気持ちになるのだ。
もしも、山ん婆サの優しさに甘えて近づき過ぎるとフッといなくなってしまうようなそんな気がするのだ。
それから山ん婆サは、いろんな色の糸を持って来て反物に織らせた。
きっと誰かに頼まれたものだろう。
りんは必死で機織りをした。山ん婆サの力になれる。山ん婆サの役に立てると思うと張り切った。
いつの間にかりんは機織りが得意な娘になっていた。山ん婆サはいちいち誉める事はしなかったが、織り上がった反物をじっと見ている横顔は満足そうに見えてりんは嬉しかった。
また、夏が来た。
りんがこの山に来て二年が経とうとした頃だ。
山ん婆サは思い出したように、「お前にそろばんの使い方を教えようかネ。」と言うと、小粒の小豆と大豆と大粒のそら豆を持って来た。細い棒を横に置くと、その仕切りの下に普通の大豆を置いた。仕切りの上の所には大きなソラマメを置いた。
「そら豆は大豆五粒を表すんだが、場所をとるからこの小豆を代わりに置いてみよう。」
そら豆の隣には小豆五粒づつを置いた。
「りん、いっぺんに覚えようとしたら駄目だヨ。何が何だかわからなくなるからネ。最初は、これとそろばんを見るだけにしよう。いつも、これを見ているんだヨ。見て、見て、見飽きたら、次に進む事にしよう。」
そう言うと、外に出掛けてしまった。
りんはそろばんとそろばんの横に並べられた豆をじっと見た。
同じように見えるそろばんの珠でも仕切りの上の一粒は大豆五粒分を意味するのだ。
どうして?おかしいじゃないか?でも、そう決まっているのだから仕方ない。
きっとそろばんを思いついた人はそういう事にすると勘定がしやすいからそう決めたのだろう。
そう決まっているのなら、そう思い込むしか仕方がない。
仕切りの上のそら豆は大豆五個分、仕切りの上の珠一つは五個分。
何度も何度も呪文のように頭に叩きつけた。同じものをずっと見ているのも疲れた。
正直飽きて来た。投げ出して機織りをした。
次に山ん婆サは桁の意味を教えてくれた。
「同じに見える珠だけれど、左隣は桁が違うんだヨ。ポチッとついているここが元になる。その左隣が十の位、更にその左隣が百の位、千の位と大きな位になっていくんだ。それをわかっていなければならないんだ。よく桁違いという言葉があるから。成程と思うだろう?これも、よく目で見るんだヨ。最初は何故?どうして?と思うだろうが、そういう風に決まっているんだ。そろばんに降参してそういうものだと納得するしかないんだ。それが覚えるという事なんだヨ。その決まりがわかったら次に進もう。その決まりが納得出来ないうちは覚えられないからネ。別に覚えたくなければ無理にとは言わないが、りん、お前は今までいろんな事を覚えて来た。お前なら、その気になれば何でも出来るだろう。だが、誰にでも好き嫌いがあるからネ。無理をする事はないんだヨ。」
りんは正直、そろばんは好きになれそうもなかった。だけど今まで山ん婆サに教えてもらって途中で投げ出したものは一つもない。ここに来て、そろばんは好きになれないと言うのも何だか嫌だった。
りんは一生懸命、そろばんを睨み、そろばんとにらめっこをした。
意味はわかる。位の事もわかる。桁の事も何だかわかるような気もする。だけど、それ以上覚えてどうするのという気持ちがどこかにあった。この山の中でそろばんを使う事があるとはそもそも思えない。
だけど、文字もそうだった。山の中の暮らしで文字は必要ないと一瞬思った事もあったけれど、それが今では物語を読む楽しみに変わっていた。
山ん婆サが言う事に間違いはない。
とにかくそろばんと戦ってみよう!それからしばらくして、そろばんとにらめっこも飽きてしまった事だし、りんはそろばんに降参して、ついに山ん婆サから習う事にした。
最初は、一と一を足すと二になる。そんな簡単な事から始めると、思った程、難しくはなかった。むしろ、この変哲のない珠が意味する数を思うと大きな発見をしたような驚きがあった。
「じゃ、これはいくらなんだい。」
「二千六百五十二。」
「当りだヨ。じゃ、これは。」
「三万七千九百五十一。」
「当りだヨ。」
この時ばかりは山ん婆サは励ますように、誉めながら、優し気に教えてくれた。
初めは足し算、足し算を覚えて飽きる頃、引き算を教えてくれた。
このようにしてりんは、そろばんの珠をはじいて物の計算をする事を覚えたんだヨ。
「お金や物は落としたり使ったりしたら無くなるが、一度覚えた事はお前の体に染みついて振り落とそうとしたって落ちて無くなる事はないんだヨ。そろばんもそうだ。例え、この山の中で使う事がなくなっても、お前の指と頭の中はしっかりとそろばんを覚えている。今は体全体に身についた機織りのようにネ。」と言って山ん婆サは笑った。
「これからも時々思い出して珠をはじいてごらん。そろばんもお前の友達になれて喜ぶだろうヨ。」
山ん婆サはこのようにして、ヨチヨチ歩きの赤ん坊をゆっくりゆっくり導くように、当時一部の男の人しか使いこなせなかったそろばんまで、私の身につけさせてくれたんだヨ。
(山ん婆サはこの頃優しくなった。元々優しくしてくれていたのだが、最近は言葉で話してくれるようになった。)りんは心の中でそう思ったりした。
「りん、お前にこの先、そろばんが役立つ事がないかも知れない。だがネ、文字もそろばんも機織りも何でも覚えておいて不都合な事は何一つないんだヨ。身につく事は何でも身につける。料理一つでも知らないよりは知っていた方がいい。覚えた事はみんな、お前の財産だ。だけどここが肝心な所だから心してお聞き。それを、決して自慢してはいけないヨ。あれが出来る。これが出来ると自慢したくなって人に話したら、お前の中の財産はいっぺんにお前を鼻もちならない嫌な奴にしてしまうからネ。世間の人達は自慢する奴には冷たいんだヨ。だからよーく気をつけるんだヨ。人におだてられても決して調子に乗ってはいけないヨ。散々、おだてあげておいて、後で煮え湯を飲まされるという事もあるからネ。昔から、”出る杭は打たれる”という言葉もあるだろ?自分から出しゃばってはいけないヨ。世間の人はネ、出しゃばりが嫌いなんだヨ。“謙虚”というのが好きなんだヨ。”能ある鷹は爪を隠す“という言葉もあるからネ。まあ、お前をずっと見て来てその心配は無用だと思うけれど、老婆心というやつだヨ。ついつい余計な事まで話してしまった。りん、お前がここに来て二年過ぎただろう。ここに来た時のお前は自分は生きる価値がなくていっそ死んでしまった方がいいと思っていただろう?顔にそう出ていたヨ。だけどネ、私には見えてしまうんだ。その人間の先行きの事もネ。お前はボロボロで、体力も気力もなく、、てひどい状態だったが、お前の先行きはポーッと明るく輝いて見えたのサ。どんなに着飾って見栄えのいい人でも、周りにどんより暗い雲のようなものをまとっている人がいる。私には人のそういうものが見えるんだヨ。ただの思い込みと思うだろうが、不思議に当たってしまうんだヨ。だからお前にいろいろな事をやらせて見たんだ。お前は一つ教えると、必ずそれ以上の事が出来るようになった。一つを聞くと必ず二つも三つも気を配るお前は、今まで自分の能力に気がついていないだけだったんだヨ。だから、時には無理な事も押し付けてみた。それなのに帰って来ると気持ちがいい程、どれもこれもこなしてくれていた。
世間には能力もないのに自信たっぷりの人がいて、そういうのも醜いが、自分の事をはなっから駄目な人間だと思い込んで、落ち込んでいるのも情けないネ。馬鹿げているヨ。あれはお前の周りの環境がお前の良さを封じ込めて来たのか。またお前自身が勝手に自分を駄目だと決めつけていたかだネ。とにかく、ここに来てお前はハルからりんに生まれ変わったんだ。もう昔のハルではなく、りんなんだヨ。本当の自分をしっかり見るんだヨ。」と言って、山ん婆サはいきなり手鏡をりんの前に置いた。
手鏡を見るのは何年ぶりだろう。
あのブツブツが出始めて、それがどんどんひどくなる一方で、どうしようもないとわかった時から自分の顔を見るのが辛くて嫌になった。だから鏡が大嫌いになったのだ。
それが突然、手鏡を目の前に出されて一瞬、りんは反射的に目を瞑ってしまった。
だが、その時チラッと目の隅に入った鏡の中の顔は、あの赤い醜い顔ではなかった。
見た事のない顔だった。
色白の肌のきれいな一人前の大人の女の顔のように見えた。
今のは何?嘘!もう一度目を開けて鏡を見た。
やっぱり初めて見る女の人の顔だった。
これが私?
あのイジイジしたひがみっぽい目をした私?
ブツブツで顔全体が赤く腫れていた私?
鏡に映っていたのはあのハルの顔ではなかった。
りんはしげしげと鏡の中の自分を見た。
いつの間にこんなに変わったのだろう。
本当に自分ではないみたいだ。
山ん婆サの力で何かしたのだろうか。第一こんなに肌がきれいな筈はない。あのブツブツは一つもなくいつの間にかきれいでツルリとした白い肌になっていた。
それにすっきりと清潔そうな面差しの大人の女になっていた。本当にこれが私?
「それが本当のお前だヨ。」山ん婆サの声がした。
途端、りんの両目からみるみる熱い涙が盛り上がって溢れ出た。
りんは嬉しくて泣いた。ワーワー声を出して泣いた。
私はいつの間にこんなになれたのだろう。嬉しくて嬉しくて泣き続けた。
山ん婆サはそれをいつまでも泣かせておいた。
しばらくして、「りん、お前はこの山を下りる時が来たようだネ。」と言った。
りんは驚いて、「いいえ、私はずっとここにいます!ずっと山ん婆サの所にいます。ここに置いて下さい。何でもします。」
りんがお願いすると、
「それはならないヨ。お前はこの山を下りて新しい人生を切り開いて行かなければならないんだヨ。そう私には見えているんだヨ。だから、いつまでもここに置いておくわけにはいかないんだヨ。今、すぐにとは言わない。その心づもりだけはしておくんだネ。今日は私も随分しゃべり過ぎた。もう、お休み。」
と言うと、山ん婆サはさっさと寝てしまった。
その晩、りんはなかなか眠れなかった。
自分の変わりようの驚きと、いつか山ん婆サと別れて山を下りなければならない事を考えて、いつまでも暗闇を見つめていた…が、それでもいつか深い眠りに落ちていった。
りんと山ん婆サの暮らしはそれから三ヶ月程続いた。
山ん婆サはその間にりんが織り上げた藍色の紬を二反、「これはお前のものだヨ。」と渡してりんの着物を縫わせた。
今度は二枚とも、筒袖ではなく、袂のある普通の着物を縫わせた。
りんは嬉しかったが、いつか山を下りる時の準備をさせているのかと思うと悲しかった。
その年は秋風が吹き出すと急に寒くなって来た。
りんはそれから程なくして急いで山を下りる事になった。
いつもより雪が早く来そうだったし、実は山ん婆サから頼まれて山の裏側を下りた所にある村の大きなお屋敷に手伝いを頼まれたのだという。
山ん婆サの頼みとあればりんは断る事が出来ない。着物を作らせたのはその為だったのだ。まさか、山で着ている灰色の短めの姿で里に奉公に出る訳にはいかないに違いない。
その朝、山ん婆サの着古したポタポタ柔らかい着物を肌着にして下に着てからその上に最初に縫った筒袖の藍の紬を来た。
山ん婆サはりんのその姿を母親のように見上げながら、今まで見た事もない美しい錦織りの細帯を腰に巻いてくれた。とっても高そうな細帯だ。
それから驚いているりんに、
「この帯には金の銭が二枚縫いつけてある。一枚で米三俵は買えるだろう。これはお前のものだヨ。山にいる私には使い道がないからネ。遠慮はいらないヨ。お前が、今こそ使うべきだと思ったその時に、使えばいい。大丈夫だヨ。お前の行く末は暗いものではない。ポーッと明るく輝いて見えるからネ。だから安心して、これからはよーく考えてお前自身の才覚で自分の行きたい方へ歩いてお行き。これからもいろんな事があるだろう。だが、苦しい事や、悲しい事は無駄にはならないという事はりん、お前が一番身に染みてわかった筈だ。」
「お前にはこれから、大きなお屋敷に住む女の人のお手伝いに行ってもらう。足が少し不自由だが立派な方だ。その方を助けながら、その方のなさる事をしっかり見て学ぶんだヨ。話し方や仕草、何一つとっても、お前の為になる筈だ。それで、私の方からこういう娘をお手伝いとして春まで傍に置いて欲しいとお願いしたんだ。
さあ、私はいつもこの山から見ているからネ。裏道を下りて行くと、そこに誰かが迎えに来てくれてる筈だ。」
と言って、相手方のお屋敷の名前を書いた手紙をくれた。
それには“しの様へ”と書いてあった。山ん婆サの字だ。
きれいな字だ。ボンヤリその字に見とれていると、
「さあ、もうお行き。私がいつも見ている事を忘れるんじゃないヨ。」と言った。
りんは二枚の肌着と二枚の着物と写した三冊の書物とそろばんを風呂敷に包んで背に負うと、山ん婆サに押し出されるように外に出た。
「ホラ、あの子達が途中まで送ってくれるヨ。」
三匹の大きな白い犬達がりんを待っていた。
りんは振り返り振り返り、犬達の後をついて下りて行った。
何度も何度も振り返った。
戸口で見送る山ん婆サの姿が小さくなり、やがて見えなくなった。
泣きそうになったが、春になったらまたここに戻ればいい。そう考えた。
それなのに何だか悲しくて泣きたくなるのは何故だろう。
犬達はこっちだヨといいたげに先に下って行く。
この子達もこんなにいい子達だったんだ。りんは犬達に話しながら歩いた。
「山ん婆サを頼んだヨ。春になったらまた帰って来るからネ。山ん婆サをお願いネ。」
犬達はわかっているヨ、私達の大事な山ん婆サだものと言っているようだった。
急な草の坂を下って行くと、やがてはっきりと道のようなものが見えて来た。
そこまで行くと犬達は先を行くのをやめて立ち止まって、ワン、ワン、ワンと鳴いた。
送るのはここまでだと言っているのだ。この先は一人で行って下さいと言っているようだ。きれいな目をしたきれいな白い犬達だ。りんは初めて犬達を撫でてやった。
一頭ずつ、「ありがとう、元気でネ。」と言いながら撫でてやった。
犬達は、クーン、クーンと言いながらりんに撫でられていた。
りんは堪らなくなって思いっきり抱きしめたが犬は嫌がらなかった。
一匹ずつ抱きしめてから、りんは心をシャンとして道を下り始めた。
心をシャンとしたつもりだが、涙が溢れて仕方がなかった。
少し歩いては振り返り、また歩いては振り返った。
しばらく歩いて振り返ると、犬の姿は幻のように消えていた。
遠くで犬達の遠吠えが、代わる代わる別れを惜しむように聞こえる。
りんは、それを振り切るように一目散に小道を駆け下りた。
走って、走って、走りながらきっとまた来るからネ。
必ず帰って来るからネと心の中で叫んだ。
しばらく走ると雑木の入りくんだ小道になり、背丈より高いいばらの密集した所に着いた。
そこに一カ所だけ通れるように穴道が空いている。
腰をかがめてくぐり抜けると、突然、目の前に大きな道が現れた。
そこには年老いたお爺さんが、きせるの煙草をくゆらせながら腰を降ろして待っていた。
りんを見ると、「やあ、そろそろおいでになると思ってましたヨ。さあ、参りましょう。」と笑顔で言い、先に立ってサッサと歩き始めた。
後はりんに何も聞かず、りんも何も言えず黙ってついて行った。
太い道をしばらく歩いた後、左に曲がった。その辺は田んぼを貫く細い道だ。
その道をまたしばらく歩いた。周りは一面田んぼのようだ。刈り取られて冬を迎えようとする田んぼ道も、冷たい風の中で寒々として見える。やがて、森を背後にして大きなお屋敷が見えて来た。
どっしりとした立派なお屋敷だ。
お爺さんは竹垣で囲まれた屋敷内に入って行った。すると、横からそのお爺さんの連れ合いらしい年配の女性が出て来て、
「ああ、お待ちしておりました。奥様がお待ちですヨ。どうぞ、どうぞ。」と中に案内してくれた。
広い玄関の立派な作りの屋敷だった。
屋敷の奥に案内されると、すぐに女主人と思われる人が入って来た。特に足が不自由そうにも見えない。
「りんさんですネ。お婆婆様からよーく聞いていますヨ。楽しみにしていたんですヨ。」
そう言いながら入って来た女の人は、大層美しい初老の女性だった。
年の割には話し方や声が若い娘のようだ。
りんはすっかり硬くなって両手をつき、「りんと申します。婆婆サからは何かお手伝いをするようにと言われて来ました。何でもしますのでどうぞ何なりと申し付けて下さい。」と言った。
奥様はりんを見て、「お婆婆様がそうおっしゃったの?」と言ってさも可笑しそうに笑った。
その仕草はまるで若い娘のようだ。
それから、「そうですネ。りんさん、貴女にお手伝いをしていただく事もあるでしょう。その時はよろしくネ。でも私は貴女の事を友達としてお待ちしていたんですヨ。大事な、大事なお婆婆様の娘のような方ですものネ。」と言ってまた笑った。
「りんさん、堅くならないでと言っても、よその初めての家ですもの緊張するのは当たり前です。でもここは、私と爺や婆やの三人暮らしですし、私もこのような性格ですからじき慣れるでしょう。貴女のお部屋や手洗いは今、案内してもらいます。」と言ってから、りんをじっと見つめて、
「お婆婆様の事は、実は謎だったんですヨ。どこに住んでいらしてどんな家族がいるのか。お一人で暮らしているのか謎だったんです。いろんな人々の相談にのってお話を聞くのに御自分の事は何もおっしゃらない。不思議な方だと思っておりました。」
「それが半年ほど前の事です。いつもは、うちにいらっしゃっていただいてお婆婆様に私の他愛ない話を聞いていただき、お茶を差し上げたりするのですが、その日は突然、お婆婆様の方から実は娘のようにしている者と一緒に暮らしている。年寄りと二人だけの暮らしで、世間の事に疎い娘なのでここで行儀見習いの方々、手伝いをさせてもらえないかと頼まれましたの。私、お婆婆様には大変お世話になっております。このような田舎の離れた所で、今では人との付き合いも薄く気持ちが滅入ってくると、よくお婆婆様に聞いていただき心の中が軽くなったものです。このような退屈な毎日に若い娘さんが来て下さるのは大歓迎なんですヨ。私と一緒の暮らしで、りんさん、貴女の何かのお役に立てるのなら嬉しいワ。
お婆婆様とは春までとの約束になっています。私の方はいつまでだって構わないんですけど。それまでは私の友達として、いろんな事をしましょうネ。」
このようにして奥様との暮らしが始まった。
屋敷の掃除や洗濯を手伝う心づもりで来たが、爺やさんと婆やさんが家の中も外回りもいつもきれいにしているので、りんが手伝う事は何一つ無かった。
奥様は沢山の書物を持っておられた。
山ん婆サはもしや、あの書物を奥様からお借りしたのではないかと思い、少し慣れた頃、りんはその事を話してみた。
「婆婆サに御本をお貸しした事はございませんか?」
「ええ、そういう事がありました。」
りんは自分の部屋に行って写しの本を三冊持って来て見せた。
「奥様の御本、勝手に写させていただきました。申し訳ございません。」と言ってそれらを見せた。
すると奥様はそれを手に取って見るなり、
「りんさん、これを貴女が写したのですか?」
「はい、お恥ずかしゅうございます。」
「いいえ、本当に驚きました。こんなに正確に美しく書き写す事が出来るのですネ。貴女の字は本当に筋がいいワ。きっと書き慣れたなら、もっともっと良くなるでしょう。」と言った後、
「いい事を思いついたワ。りんさんに手伝ってもらう事を思いついたの。」と言うと、数冊の書物を持って来た。
「これは然るお方から私が借りている物です。返すのはいつでもいいとおっしゃって下さるけれど、いづれお返しするのならりんさんに写していただこうかしら?」
「でも、私にそのような大事な事は……無理です。」
「あら、そんなに重大に考えなくていいのヨ。私が時々気が向いた時に見てみたいから多少、間違いがあっても平気。それからネ、りんさんという若い女性が書き写して下さったのヨ。そう言って知り合いに見せるのが今から楽しみなの。」
そう言って、若い娘のように笑った。
早速その後、背表紙の美しい写し用の冊子が届けられ、りんは書き写す事になった。
重大なことだったが、あの三冊の時のように、写せばいいのだと思い心を決めた。
とにかく奥様のお役に立とう。
それに、新しい書物を見るのは楽しかった。それらはまた、りんの知らない世界、物語が広がっていたからだ。新しい物語を読み、楽しみながら書き写すのは嫌いな仕事ではなかった。机に向かっていると一日に何度か息抜きの時間ヨと言って奥様が甘いお菓子を出し、お茶を点てて下さる。
その度にさり気なく、お菓子の頂き方やお茶の頂き方を教えて下さる。
爺やさんも婆やさんも奥様のお役に立っているりんを格別大事に思っている様子だ。
皆優しくて、静かだが充実した日々が流れて行った。
普段は静かなお屋敷にも、たまにお客様が見える事がある。
立派な出で立ちの男の人だったり、華やかな衣装をまとった女の人だったり、奥様は楽し気に接待なさり、最後には必ずりんを呼ぶ。
「このりんさんが、これを書き写してくれたのヨ。」
すると客の誰もが、ホーッと驚き、こんな若い方がこれをネーと誉めて下さる。
りんは恥ずかしくて一刻も早くその場を逃れたいのだが、奥様にはそれが自慢のようなのだ。まるで自分の娘を客に自慢するように、本当に嬉しそうだ。
とうとうチラホラ雪が降り、正月が来た。
お屋敷では正月の飾りつけを念入りにする。りんの知らない諸々のしきたりがあるのだ。
それらのお手伝い、方々に出す御挨拶の御手紙等。
りんは奥様の傍にいて手伝いながら、自然に何かを身につけて行った。
昔、ハルだった女の子はもちろん、山で暮らしていたりんが知る由もなかった事ばかりだった。
何もかもが初めて見る事ばかりで、全て目の覚める思いだった。
やがて月日が流れ、日差しも暖かくなって辺りの雪も溶け出した。
ああ、もう少しだ。三月いっぱいで御奉公は終わる。また、山ん婆サに会える。
りんはここの御屋敷での暮らしは嫌ではないが、あの山の中の山ん婆サとの暮らしが堪らなく恋しくて、この日を待っていたのだ。
ある日奥様が、「お婆婆様との約束の日がとうとう来てしまいましたネ。悲しいワ。まだまだ、りんさんには居て貰いたいけれど、お婆様との約束は守らねばなりません。何だか堪らなく辛いワ。娘を手放すってこういう気持ちなのネ。人との別れはいつも本当に辛いワ。」と本当に淋しそうな顔をした。
だが、とうとうその日が来た。
待ち遠しくて、暗いうちから目が覚めて、りんはここに来た時と同じ風呂敷に自分の着物と三冊の書物とそろばんを入れると、その風呂敷包みを背負った。
おいとまの御挨拶をしようとすると奥様が、「途中まで爺やに送らせますから。これは私からのお礼です。」と言って、華やかな着物と帯を爺やに持たせ、りんに、「これは今までお手伝いしてくれた御礼です。」と言ってズシリと重い金包みを持たせた。
りんは固く辞退したが、「私の気持ちを受け取って。」と言われて最後には有難く頂戴した。すると奥様は、胸元から二つに畳んだ紙を取り出して、
「お婆婆様が、もしもりんさんがこの先どうしたらいいか迷う事があったら、ここに行ってみるのも一つの道だとおっしゃって、町の口入れ屋の名前と住所を書いた物を私に託したの。ここを出る時、必ずりんさんに渡すようにっておっしゃって。」と言うではないか。
りんは不審に思ったが、それを受け取ると何だか心が急いて、「お世話になりました。」と別れを告げて、急いで屋敷を出ました。
爺やさんがどちらにお送りしましょうかと聞くので、「元来た場所にお願いします。」と言った。私の居る場所はあの山しかない。
りんは速足で暫らく細道を歩いて、太い道に出た。そこをまた暫らく歩いた。
爺やさんが、「確かこの辺でお嬢さんを待っておりましたヨ。」と言う。
そうだ、この辺だった。ここから先は一人で行こう。
山ん婆サは自分の住む所を知られたくない筈だ。
りんは爺やさんに、ここで結構ですと言って荷物を受け取り検討をつけて上の方に登り始めた。
確かこの辺に入り口があった筈だと探した。だが、ない。
いや、もっと離れた所だったろうか。暫らく探したが、でも、そのような入り口は、どこにもなく、雑木もいばらもどこまで探しても小さな穴一つ無く、まるでりんの行く手を阻むように密集している。
確かにくぐり抜けられる所があったのに。背の高い頑丈な垣根のようにどこまでも深く立ちはだかっていてとても入って行けないそうにない。不思議だ。確かに人が一人くぐれる穴が空いていて私はそこをくぐって来たのだもの。だが、
どんなに探しても手さえ入る隙間も無くて見知らぬ景色の
ような気がしてリンは泣きたくなった。随分探してりんは泣きながら下に降りて行った。
爺やさんがまだそこにいてくれた。
爺やさんは気の毒そうに、「帰り道がわからなくなりんさったか?もしもそうなら可哀想だがお婆婆様がもう帰って来るなとおっしゃっているという事でしょうな。あの方は実に不思議なお方だ。どこにお住まいか、知りたがった者もおるが誰もお婆婆様の事は何もわからなかった。お婆婆様とはそういうお方ですじゃ。
りんさん、あなたには他に行く所がおありなんじゃないですか?よーく考えてみて下さい。私はそこにお送り致しましょう。」
りんは迷子になったようで泣きたかったが、爺やさんの前で子供のように泣く訳にはいかない。
仕方なくここから離れた所にある筈の自分の生まれた里の村を言った。
「そこにはどう行けばいいのでしょうか。」
爺やさんはとっくに心得ていたように、そこから少し離れた馬子の所に歩いて行くと何やら交渉して、りんを荷車で里の村まで送り届けてもらう事にしたと戻って来た。
りんは爺やさんにお礼を言い、荷車に揺られて里の村を目指した。
そして馬車に揺られながらいろいろ考えた。
山ん婆サは山からりんを送りだす時、既に最後の別れを決めていたのだと。
そしてりんが一人前になるまではきっと会ってはくれないだろう。
あの山に帰る事だけを一途に思っていたりんは急に足元が心もとなくなって淋しく悲しい気持ちになったが、泣いてはいられない。まずはこの心をシャンとして村の家族に顔を出さなければならない。
おとっつあんやおっかさんに会う為の事を考えた。
あの村に顔を出した後どうするかも考えた。
朝早く屋敷を出たのに、昼過ぎてようやく覚えのある村が見えて来た。
私の顔を見て、おとうやおかあはどんな顔をするだろうか?
その時にはりんの心は落ち着いていた。
村の中程まで来た時、りんは荷車を止めてもらった。
そこは村で一番の何でも扱っている店の前だった。
馬子に待ってもらい店に入って行った。
見覚えのある店の亭主が出て来たが、りんを見ても何も気が付かないらしい。
りんはあらかじめ馬車の上で帯から取り出しておいた金の銭を一枚差し出した。
「これでお米三俵買えますか。」と言うと、金の銭を見たおやじは、
「三俵どころじゃございません。米は四俵と更におつりも出ます。」と言った。
「それなら米四俵と余った分で酒、味噌、醤油、餅、菓子等をお願いします。」とりんは言った。
店のおやじは、りんをお金持ちの上客と見て下にも置かぬような応対ぶりだった。
「どちらまで行かれますか?」と聞くので、里の家の屋号を教えると目をまんまるくしながら、米俵を待たせている荷馬車に積み込んだ。
大変な量の米を、若い娘が一度に買うのだ。酒、味噌、醤油、餅、菓子等も積み込んだその荷馬車とりんを、店のおやじは呆気にとられたように道に出て見送っていた。
りんは思った。あのおじさんは私の事を覚えていなかった。あのブツブツ顔の醜い顔のハルは村でも知らない人はいなかった筈なのに。私はそんなに変わったのだろうか。
時刻はちょうど昼時で皆家の中で昼ご飯を食べているのか、通りや家の前に人影はなかった。馬子に言って家の前に米俵や酒等を降ろしてもらった。
奥様からいただいた金包みの中から馬車代を払おうとすると、
「もう十分お代を頂いております。これ以上お嬢様から頂いたら叱られます。」と言って受け取らず帰ろうとする。
りんは少し考えて、「私はここで一時したら別の所に行きたいのですが、そこで待っていて下さいますか。」とお願いして待ってもらった。
家の前がいきなり米俵の山になったので、道を行く村人の目に留まった事から、何だ、何だ、何があったのだと人が集まって来た。
りんはその人達の視線を背に浴びながら、里の家の中に入って行った。
一番先に出て来たのは母親だった。
この二年半の間に急に老けて陽に焼けた顔はしわだらけだ。
りんの顔を見てもハルだとは気が付かないようだ。
「おっかさん、ただいま。ハルです。」と言うと、キョトンとしている。
「心配かけてごめんなさい。奉公しないかという人に勧められて今まで奉公していたんです。何も言わないで出ていったままだったので心配したでしょう?申し訳ありませんでした。奉公していると忙しくて今まで帰る事が出来ませんでした。それで今日になってしまいました。」
りんがそう言うと、母親の目からみるみるポロポロ涙がこぼれて、りんの手首を強く掴んでワッと泣いた。
「ハル、あんたはもうとっくに死んでしまったものと思っていたんだヨ。何で言ってくれなかったんだヨー。浜には死体があがらないし、いろんな所を探し回ったんだヨ。それでとうとう神隠しにあったとあきらめるしかなかったんだ。だけど顔のブツブツがあんなでよく奉公出来たネ。こんなにきれいになって。」
と言って、りんの顔をしみじみ見つめた。
そこに父親や兄や妹等が出て来た。
母親が皆に、「ハルだヨ、ハルだヨ。ハルが生きていたんだヨ。」と呼んでも皆は狐につままれたような顔をしている。
りんはその家族に向かって、「ハルです。心配かけて本当に申し訳ありませんでした。今日は御主人様が思いがけなく一日だけお休みを下さったので里帰りする事が出来ましたが、すぐ帰らねばなりません。元気でいる事をお知らせしたかったのです。表にお土産の品を置いてあります。また、お暇をいただいたら来ます。馬車を待たせてありますから、これで失礼します。」とそれだけ言うと、りんは逃げるように外に出た。
母親が追って来た。
「どこの、どなたの御屋敷に奉公しているんだい?」
「今はそれを言えません。でも立派な方ですから心配しないで下さい。それではおっかさんも、おとっつあんもお体大切に達者でいて下さい。」
そう言うと、遠くで待っている馬子に合図した。
父や母や家族は表に出てそこに積まれている米俵の山や品々を見て初めて驚いた。
あのブツブツ顔のハルがこんなに仰山のみやげを持ってと思ったに違いない。
家の前に積まれた品物の山と、別人のようにきれいになった娘の姿。
顔だけでなく、着ている藍色の紬の着物がすっきりと上品に賢そうに見せたのだろう。家族はいつまでも外に出て、
まるで別人だ。本当にあのハルだろうか?という顔をして見送っていた。
荷車に乗った後、だけど、りんにはもうこの家の中に自分の居場所はないとはっきりわかった。どういう訳か里の何もかもがすっかり色褪せて見えるのだった。
山ん婆サと暮らした日々、奥様と暮らした日々がりんを顔だけでなく心もすっかりハルとは別の人格に変えてしまったのかも知れない。
家も家族もまるで他人のように感じる。りんがそこに一晩でも泊まったらいろいろ聞かれるだろう。あの山の暮らしも根掘り葉掘り聞かれるだろう。そして死ぬ為に山に登った事も話さなければならなくなるかも知れない。
りんは決めたのだ。
今は元気な顔を見せるだけで長居はすべきじゃないと。それに何故か長く居たくなかった。今ではこの家族よりも山ん婆サがかけがえのない家族に感じられた。呆気にとられて見送る家族や近所の人達の目に見送られて、りんは別の道に歩き出した。
りんは馬子に頼んで遠く離れた城下町に送って貰う事にした。
あの時は山ん婆サの所に戻れないのなら進むしかないと思ったんだヨ。
実際、山ん婆サはあの二つ折りの紙に、先に進む時の為に口入れ屋の事を書いておいたのだろう。恐らくりんは元の家には帰らないだろう。
りんが進むべき道は他にあると、そこまでみんな見えていたのだろうか。
山ん婆サが、それがいいと考えるのだったら私はその道に踏み出そう。そう覚悟のようなものを決めたんだヨ。
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