第2話

三つの丼は竹のといから流れる水で洗って元の場所に片付けておいた。

それからは山ん婆サが分けておくようにという物は多い日も少ない日も、きちんと三つに等分して切り株の上に置いておく。するといつの間にかまるで洗ったようにきれいに無くなっているのだった。

山の神様のお供え物だろうか?何だろう?気になったが何故か聞かずにいた。

山ん婆サには本当に必要な時だけしか口を聞いてはいけないような所があったからネ。

だがかなり後になってそれが、三匹の白い大きな犬たちにあげているのだという事がわかった。

私が山に登って来た時、闇の中で何十匹もの狼のような獣に襲われたと思ったのは、実はこの三匹の大きな白い犬達だったんだヨ。犬達は日中、野山を駆け回り、自分達でネズミや蛇や時には川の小魚等をとって食べているんだろう。

だけれども山ん婆サは。何か余分な食べ物があると、このようにして犬達の為に切り株の上に置いてやるのだ。

魚の余ったものや、ごはんを多めに炊いて残ったもの。

いつかは何かの肉を持って来て、それに野菜を入れて大きな鍋で肉汁を作った事があった。

りんは、あの時、二人なのにこんなに多く作るなんてと思って見ていたが、山ん婆サは犬達にも美味しい肉汁をたっぷり食べさせたかったんだ。

多い時もそうだが、どんなに少ない時でもきっちり分け隔ての無いように、きっちり三等分して平等に与えているのだ。

山ん婆サは必ず平等にしてくれる。それが犬にもきっとわかるのだ。その時、りんは凄く感動した。

だから犬は山ん婆サを心から信頼しているのだろう。りんも山ん婆サのそういう所が好きだと思った。

繭から糸を取る事が何度かあったある日、山ん婆サは、

「りん、お前は布を織った事はあるかい?」と聞いた。

「ない。」と言うと、「お前なら出来るだろう。」と言って、部屋の片隅にある機織りの台を見せながら言った。

昔のハルなら尻込みしたかも知れない。だが、今の私はハルではなくりんなのだ。何だってやってみたい。何だか出来そうな気がするから不思議だった。

山ん婆サが教えてくれるならどんな新しい事でも出来そうな気がして来るのだ。

掃除だって何だって、一度見るとすぐわかるように見せてくれる。

口でくどくど言わないけれど拭き掃除だって、干してある雑巾を五枚濡らし、ぎゅーっと堅く絞って奥の場所から炉縁の周り、入り口のさんまでどの辺で雑巾を替えるか、りんがわかりやすいようにやって見せるのだ。りんは一つも見逃すまいと、目をいっぱいに開いて見ている。

二度三度同じことを聞いて山ん婆サを煩わせたくないし。本当はがっかりされたくないというのが本当の気持ちだった。この娘は駄目な娘だと思われたくなかった。

山ん婆サを真似て同じようにするときれいに、きりりと掃除が出来てしまう。

掃除がこんなに気持ち良く楽しいとは思わなかった。

食事の支度だって粥の作り方だって、口では言わないが山ん婆サの作るのを見ていると、お米が一つの時はこの鍋に水はこの辺まで、火の加減や薪はこれくらい。

焼き魚は目を離してはいけない。焼ける香ばしい匂いがしたら、すぐにひっくり返す事。

その上手く焼けた時の嬉しさ。漬物は野菜を細かく刻んでほんの少しの塩を振りかけて手でもむ。水気が出たら、ぎゅっと絞って味を見てみる。(塩辛くなったら駄目。)薄い塩加減のものに梅干を一つちぎって揉んだ野菜に混ぜる。これが山ん婆サの漬物だ。

少しも手の込んだ料理ではないし、難しくもないのだが、山ん婆サの真似をすると不思議に美味しく出来上がるのだった。

それが嬉しくて、面白くて、何だって出来てしまう。

だから、機織りだって一生懸命頑張ったら、出来るかも知れない。そう思ってワクワクした。いつの間にか濃い藍で染めた糸が機に掛けて用意してあった。

山ん婆サが機の前に座って織って見せた。

カッタン、シュルシュル、カッタン、シュルシュル。

織りながら、「最初から上手くなくていいんだヨ。」と言う。

「横糸をきちんと渡す事さえ出来ればネ。なに、しばらく織っていればコツが掴めて来るものサ。」

りんはその言葉ですぐやる気が出て来た。


今思い出しても、最初はぎこちなくてネ。それはひどいものだった。だけど嫌にはならなかった。面白い遊びを覚えたばかりの子供のように、少しずつ、少しずつ、布が織れて行くのがそれはもう嬉しかったネ。


朝、目が覚めると、まず朝餉の支度をする。手早く掃除をして、朝早くからどこかに出掛けた山ん婆サの食事を整えてから湯を沸かしておいて樽にお風呂の準備をしておく。早く出来た時は先に行水を済ませて、又山ん婆サの為に準備しておく。更に時間がある時は外に出て、よもぎやげんのしょうこやドクダミ等を摘んで来て手早く干しておく。

それで、りんは機に向かう事が出来るのだ。

その頃には、何だか死なないで良かったナーと思い始めた。それは例えていえば、死ぬ覚悟で深い沼に飛び込んだ者がどういう訳か浮かび上がって水面に顔を出してしまった。

その時思わず吸った空気のうまさ、見上げた空の青さ、木々の緑の鮮やかさ等が一気に押し寄せて来て、生きたい!!と思って胸いっぱいに吸った空気が体の中に澱んでいたドロドロのものをきれいにしてくれる、そんなような感じだった。


りんの場合は正にそうだった。

朝、目が覚めると、まず何をすれば良いかを考える。手際よくキビキビ動く。山ん婆サはいちいち誉めてはくれない。りんはただ山ん婆サの役に立ちたかったのだ。

食事や風呂の準備をした後は朝から日が暮れる迄、機織りに向かった。

トントンカラリ、トンカラリ。

トントンカラリ、トンカラリ。

調子がわかって来た。

布は少しずつ織り上がって行く。

布目もきちんとつまって織り初めの部分とは違う。

これがコツが掴めたという事かも知れないと思う。毎日夢中で織った。

ある日、いつの間に帰って来たのか山ん婆サが、

「思いがけずお前は根気のある子だネ。」と言った。

織り上がった布を手にとって、「お前の着物なら十分な丈だろう。」と言うと、反物を機から外してくれた。

山ん婆サはそれをりんに持たせると、「これはお前が繭から糸をとって、お前の手で織り上げた反物だヨ。」と言った。

嬉しかった。あの糸を藍で染めてくれたのだ。

人から見たら出来上がりはどうかわからないが、りんには夢のような贈り物だった。

機織りの事は耳には聞いた事があるが、生まれ育ちが漁師村だから、もちろん機織りする者は誰もいなかった。

それが今、りんがこれを織ったのだ。しかもこの反物はりんの着物の為だという。こんな嬉しい事は生まれて初めてだ。

誰かに叫んで知らせたいが、ここは山の中だ。その時だけは少し淋しかった。


それから山ん婆サは、針仕事の苦手な私に、着物の縫い方をザッと教えてくれたんだヨ。ずっと前に里で一度だけ浴衣を縫った事はあるが、その時はおっかさんや亡くなったお婆に頼ってばかりで何も身についていなかった。

それ以来、自分は縫い物は苦手だと思っていた。そんな事を思い出していると、

「人様の物を縫う訳じゃなし、針目が揃っていなくても文句を言うのは自分だ。気持ちを楽にしてゆっくり縫えばいい。わからなかったら古い着物をほどいてみるんだね。」

そう言うと、山ん婆サはまたどこかに行ってしまった。

不思議な事だが、あんなに嫌いだった縫い物が、山ん婆サの話を聞いているうちに出来そうな気がして来る。

りんは灰色の着物の中から一番古そうな物を持って来てじっくり見てみた。

針目が揃ってきれいに縫ってある。まつる所も、くける所も、どこもかしこもきちんと縫ってある。紐の付け方は特にしっかりと丈夫に着けてある。だから何度洗ってもほつれないのだ。

灰色の着物をほどきはしなかったが、こんな風に縫いたいという気持ちがムクムク出て来た。山ん婆サが寸法を決めてくれたので、それに縫い代をつけた分を大体身丈と袖分、おくみ分、衿分と折ってみると、居敷当て分と肩当てと十分な紐もとれる。

とにかく、これで行ってみようと決心していざ一反の布にはさみを入れて切り離す時はさすがに緊張する。

もう一度確認してから、思い切ってはさみを入れた。

ジョッキン、ジョッキン、ジョキジョキ。

フーッ。切り終わった時は思わず息を吹いて安心した。

どうにか一人で一反の反物を切り分けたのだから、その時の自分にとっては大仕事だったんだ。次は見本を見ながら、筒袖は袋縫いにしよう。きっと大変だろうと意気込んで縫い始めると、スイスイ気持ち良く針が進むのが嬉しかったネ。

あとは、山ん婆サに見られても自分で見ても恥ずかしくないように出来るだけきれいに縫おう。そう思って縫った。

以前はこんなに針がスイスイ気持ち良く進まなかった。しぶくて、堅くて、難儀したものだった。それがハルが縫い物を嫌いになった理由だった。

だが、この布はスイスイ針が気持ち良く進む。山ん婆サの針は細い。それにりん自らが織り上げたこの布はおかいこ様からとった絹織物だったから縫いやすかったのだろう。おっかさんの針は太い木綿針で布も糊のきいたかたい生地だった。慣れないハルの手には大変苦労なものだった。


山ん婆サは縫い目が荒いのや不揃い等にはうるさく言わないが、出来るだけ印通りにまっすぐ縫う事。糸はしっかりしごく事。

力のかかる部分、袖口、襟付け、身八つ口の所はしっかり返し縫いして、最後は必ずかんぬき止めをする事等。押さえ所を注意すると、後はまかせっきりにした。そして縫っている間はとうとう最後まで何も言わなかったヨ。

信用されているのかナ?と思うと今度は逆にいい加減な事は出来ないぞと思った。

きれいな仕事をして認めてもらいたいと思うのサ。

りんは一生懸命、真剣に縫った。それでとうとう着物は縫い上がった。

何も出来なかったこの私が!

繭の糸取りから布を織り、更には着物を自分一人で縫い上げたんだヨ!

全部、この自分でやったんだヨ!

感激でいっぱいの顔をしていたんだろうネ。

山ん婆サは、「自分の寸法を覚えておくんだネ。」と一言、言っただけだった。

山ん婆さが私をちらりと見て決めてくれた寸法は羽織ってみるとりんにピッタリだった。

出来上がった着物は自分でも驚く程、よく出来たと思う。

「次はこの布で同じものを二枚縫ってごらん。明日中に一日で二枚縫えるかい?」と言って、灰色の布を二反ポンと投げてよこした。

それは木綿の布だった。

考えてみたら、あの日からりんは山ん婆サの着物を借りて着ていたのだ。

その反物は絹ではなくて木綿だから難儀だナとチラッと思ったけれど心を決めた。

やってみよう!!

次の朝、りんは東の空から陽が昇るか昇らぬかのうちに取り掛かって陽が西に落ちる頃には二枚、縫い上げる事が出来た。

一日で二枚も縫い上げたんだヨ。

これは昔のハルには到底考えられない事だった。

ワーっと叫びたい気持ちだった。

その日の食事の支度はいつの間にか山ん婆サがしてくれていたんだヨ。


山ん婆サはこのように次から次へと当たり前のようにポンと仕事を言いつける。

最初はびっくりだが、それはいつでも、りんがその気にさえなれば出来る事だったんだヨ。



ある時、「今日は出掛けて来るからネ。」と言うと、山ん婆サは身支度を始めた。

朝の行水の後の髪も丁寧にとかし、白髪を白い紐できれいに結ぶと白い柔らかい着物を着、紫色の袴をつけた。

首には大玉の数珠をかけて出かけて行った。

りんは、山ん婆サのあまりの変わりようにびっくりしたが、いつものように何も聞かなかった。

山ん婆サもどこへ何をしに行くとも言わなかった。

送り出した後、りんも行水をした。

いつか山ん婆サと同じく日に二回、よもぎ、げんのしょうこ、どくだみさんしちそう等の薬草を入れた湯に入るようになっていた。

湯に入って山ん婆サの事をボーッとと考えたが、こうしてはいられない。

する事は山程あるんだ!!

行水の後は洗濯、その後は掃除、それから毎日の習慣で外に薬草取り、薪拾い、外から帰って来て作り置いたどくだみ茶でフーッと一服したら、また、機織りを始める。

やっぱりこの時間が私は大好きだ。

この仕事は慣れて来ると体がしっかり覚えてくれる。鼻歌も出て来る。

トントンカラリ、トンカラリ。

トントンカラリ、トンカラリ。

今、織っているのも藍色だ。今度のは山ん婆サの着物かも知れない。

最初のものより、とびっきり上等に織り上げよう!

トントンカラリ、トンカラリ。

今、着ているのは自分が縫った灰色の着物だ。

あれから幾度も水を通したがしっかりしていて気持ちがいい。

何でも自分で出来るという事がこんなに気持ちの良いものだと思わなかった。



夕方、西に陽が落ちる前に山ん婆サが帰って来た。山ん婆サの顔を見ると安心する。

リンは機織りをしながら始終心配していたのだ。

山ん婆サは背に米や餅や干魚、海藻、鮑等を重たげに背負って帰って来た。

大変な事だったろう。

荷物を降ろすとすぐに準備してあった行水の樽に入った。

いつもよりゆっくりと浸かっていた。

風呂から上がると夕餉を食べて何も言わずに眠ってしまった。

ひどく疲れている様子だった。

山ん婆サもりんも眠る時は長持ちに似た長い大きな箱の中底にワラを厚く敷き、その上に繭からとった真綿が上にも下にもたっぷり入っていて、その間に入って眠るのだ。軽くて温かくて、自分が繭になったような気がする。

りんが深い眠りに入る前に山ん婆サの眠る長持ちから悲しそうなうめき声がした。泣いているような声だ。やがて泣き声は悲しい歌のように、か細くりんの耳に聞こえて来た。リンは息を吞んで聞いていた。


風が吹く夜はヨー

誰の泣き声かヨー

山背に乗ってヨー

吾を訪ね来るー


か細いその声は物悲しくて、りんまで悲しい気持ちになった。

悲しい夢を見ているのだろうか?

それにしてもあの大量の持ち帰った物はどのようにして手に入れたのたのだろうか?

その夜、りんはいつまでも眠られず、山ん婆サの事を思って何故か胸苦しい気持ちになった。

だが、りんは次の朝になっても何も聞かなかった。

それからも一ヶ月に一度や二度は着物に着替えて出かける事があった。

りんは気になるのに聞いてはいけないような気がして黙っていた。

やがて山の上にも冬がやって来た。

大量の雪は降らないけれど、それでも高い山の上、山ん婆サとりんは貯めておいた薪や小枝をくべて暖かくして過ごした。

そしてようやく寒い冬が過ぎてまた春が巡って来た。

山のあちこちにも山桜が咲いて、その花も散り始めた。

山の上は風が強く吹き上げる。その時は桜の花びらが雪のように舞ってみた事のないような景色を見せる。山の上でしか見られない不思議な景色だ。

桜の花が散って間もなく、山ん婆サが桜の葉を摘みにりんを連れて行った。

桜餅に使う桜の葉だ。

「何でもいいという訳ではないんだヨ。」山ん婆サは香りのいい桜を知っていて、花が散って葉が出て来ると、その葉が大きく堅くならないうちに、若い柔らかい葉を摘んで塩漬けしておくだの。

摘んだ葉は本当にいい香りがした。

「これは来年の分だ。この葉の塩漬けを待っている人がいるから、少し多めに摘んで塩漬けしておくんだヨ。」

小屋に戻ると、葉をきれいに洗って瓶に塩漬けした。

それから小さい別の瓶を取り出して重しをとって見せてくれた。

前の年に漬けた葉もいい香りがした。

山ん婆サはその葉を使って桜餅を作ってくれた。

どこから手に入れたのか餅米で作られというサラサラの粉(道明寺粉)で作った。

舌触りが良くて、りんは今までで一番美味しい食べ物だと思った。

またある時は、ぼた餅も作った。山ん婆サはぼた餅が好きだ。

一度、山ん婆サの作るのを見ながら手伝った。


ある日、「りん、ぼた餅を作っておいておくれ。」と言って出掛けてしまった。

えっ?と思ったが、山ん婆サの言う事はきかなければならない。出来ていなければ、がっかりするだろう。これは心して作らねばならないと思った。

だけど、真剣になれば何とかなるものだ。

小豆を煮て、夕方、山ん婆サの帰る頃にはぼた餅をたんと作って、知らん顔をして機織りをしていた。

自分では上手く出来たと思っていたけれど、山ん婆サの口に合うかどうか心配だったからネ。


山ん婆サは一つ食べ、二つ食べ、三つ食べ何も言わず黙々食べて、お腹がいっぱいになると用意が出来ている風呂の樽に入っていつものようにさっぱりすると寝てしまった。

大きなぼた餅は十個のうち五個残っていた。りんは嬉しくなって一人でニヤニヤした。

それから、ぼた餅作りはりんの仕事になった。

小屋の物置部屋には何でも揃っている。

米やら、味噌、豆、小豆、海藻、干魚、貴重な砂糖もある。

山ん婆サには誰か陰で助けてくれる人がいたのかネー。そうでなきゃ一人の婆様があんなに何もかも揃えられるもんじゃない。

別に近くに畑らしいものもないし。それなのに物置部屋には人参、じゃがいも、甘いも、ネギ、葉野菜、いつも不足なくあるんだからネ。

それらを運んで来る人影を見た事はなかったけれど、まさか山のきつねやたぬき、また地蔵さんが置いて行ってくれるとは思わなかったけれど。いつも不思議でならなかった。

本当に山ん婆サは不思議な人だった。


月に一・二度の割で白い着物を着て出かけるのが何度目かになった時、りんは思い切って聞いてみた。

「あのー、山ん婆サは白い着物を着てどこにお出掛けになるのですか?」と恐る恐る聞いてしまった。

すると出口の所で振り返って笑いながら、

「神様になったり、医者になったりするんだヨ。私を待っている人達がいるからネ。私には見えるんだヨ。お前の行く末も見えるがそんなに悪いもんじゃないヨ。悲観することはないヨ。」とうっすら笑って出掛けて行った。


ああ、山ん婆サは人々に必要とされている人なんだ。頼りにされている人なんだとその時初めてはっきりわかったんだヨ。


山ん婆サという人は無駄口が嫌いだし、自分でも一切言わないが、こちらがわからないで聞いた事には必ずわかりやすいように教えて答えてくれた。

りんは早くからこの人は信用出来る人だ!という安心する気持ちを山ん婆サに持つようになっていた。

これは今まで、親、兄弟、友達、誰にも感じた事のない気持ちだった。昔のハルは悲しくて苦しくて誰の事も安心して信じる事が出来ないでいたからネ。

それからも山ん婆サはりんにとって初めての事はまず自分でやって見せた。

自分で包丁を持って黙々と作る。あれこれ説明はしない。

りんはそれを目を皿のようにして見ている。

気を抜かないで見ている。

塩加減、火加減、それから出来上がったものを味見して山ん婆サの好みの味をしっかりと舌で覚えておくのだ。

ある時、山ん婆サが、笹の葉にグルグル包んだ肉を持って帰って来た。

熊の肉だという。それで熊汁を作った。

肉に、大根、人参、じゃがいもを入れて味噌で味付けをした。

出来上がりの直前に刻んでおいたネギやニラを山程ガバッと入れた。

横で驚いて見ているりんに、「熊は臭いからネ。」と笑った。

大量に入れた、ネギやニラの香りで熊の肉の臭みも消えて、堅い肉だったが、りんはおかわりをして食べた。随分大量に作ったと思ったら、残ったのは犬達に食べさせる為だった。

三つの入れ物になみなみと入った熊汁は、次の朝見に行くと、汁も残さずペロリと無くなっていた。犬達もこの御馳走を喜んで食べたに違いない。

またある時、羽と毛をむしっただけの鶏をまるまる一羽持って帰って来た。

「今日はこれでとり汁を作っておいておくれ。」と言うと山ん婆サは出掛けてしまった。

りんは熊汁の時を思い出しながら、犬達の分も頭に入れて、たっぷりの人参、大根、じゃがいも、それにごぼうも入れてとり汁を大鍋いっぱいに作っておいた。

山ん婆サは小屋に入ってくるなり、「いい匂いだネ。」と満足そうに言ってとり汁をおかわりして食べた。りんも腹いっぱいに食べた。

犬達にも入れ物になみなみと入れてたっぷり振舞った。

朝、見に行くとやっぱり汁も残さずきれいに平らげてあったので、りんはすっかり嬉しくなってしまった。犬が美味しそうに喜んで食べてくれるのが目に見えるようだった。

山ん婆サの所に来てりんは何でも出来るようになった。

ここに来てどれ程経ったろうか?

いつの間にかここがかけがえのないりんの家になっている。

あの日、死ぬ為にこの山に登ったのは去年の夏の事だった。

そして、また夏が来た。もう一年経ったのだ。

そんなある日、日中はどこにいるのやら姿を現さない犬達の吠える声が聞こえる。珍しい事だった。

何か、のっぴきならない事が起きたような声だとりんには解った。

怒っているような、怯えているような危険を知らせる鳴き声にりんは何事か起こっていると心配になった。

もしや、村里から人が登ってきたのではないかと恐れて、小屋の戸口の陰で外を伺っていた。すると、

やがて、犬達の声が激しい声からクーン、クーンという悲し気な声に変わった。

すると山ん婆サが片手に黒い紐のような物をぶら下げてヨロヨロ帰って来たのだ。

片方の足を怪我しているようだ。血が出ている。

りんが驚いて走り寄ろうとすると、「近づくんじゃない!!毒蛇だヨ!」と怒鳴った。

手に持っているのは恐ろしい毒蛇なのだ。

「りん!包丁を持っておいで!」

急いで包丁を持って行くと、ギクギク動いている蛇の頭から下の方をトンと切り離した。

それから崖の方へ歩いていって、持っていた蛇の頭を思いっきり遠くまで放り投げた。

山ん婆サのその顔は怒りに燃えているような顔だった。

山ん婆サのこんな恐い顔を見るのは初めてだ。

切り離された胴からしっぽは頭がないのにまだギクギクシュルシュル動いて気味が悪い。それを、そのままほっといて山ん婆サは中に入ると、「カラス蛇に足を噛まれた。」と言って足を投げ出した。

右足のふくらはぎの所に毒蛇の牙の跡が、赤黒く残り、その辺りが赤く血で汚れていた。

りんは大急ぎで布を濡らして持って行って、噛まれた所を拭いた。

それから山ん婆サを無理矢理うつぶせにすると、噛まれた跡を絞るようにしながら何度も何度も口で毒を吸っては捨てた。

舌がしびれるような気がしたが構わない。必死でりんは繰り返し、繰り返し出て来る血と一緒に噛まれたところから毒を吸っては吐き捨てた。山ん婆サを助けなきゃいけない一心だった。毒が廻って山ん婆サが死んでしまう。夢中だった

「もういいヨ。もう大丈夫だヨ。ありがとう。」と山ん婆サは言った。

初めてありがというと言ってもらえたのと、心配したのとでりんはボロボロ涙が出て来た。山ん婆サは「棚の白い小さな壺に馬の油が入っているから表でよもぎの柔らかい所を摘んで石で叩いて持って来ておくれ。それと馬の油を混ぜた物を塗っておいたら大丈夫だろう。」と言った。

りんはよもぎを細かくすり潰し、それを馬の油に混ぜて傷跡に塗り包帯をしてやった。

山ん婆サの足はそうしているうちにも、みるみる腫れて来た。

山ん婆サの顔にも油汗が浮いている。

それなのに、山ん婆サはヨロヨロと立ち上がると外に出て行き、頭を切り離されてもまだクネクネ動いている黒い蛇の胴体の皮を簡単にシャーっと剥いた。

黒い皮は頭を投げた方にほうり投げた。皮を剥かれた蛇は白っぽい肉だけになってもまだ生きてギクギク動いている。その胴体から桃色をしたなめくじのながいような小指程のピロンとしたものを取ると、竹筒から流れ落ちる水でシャラシャラと洗って、

「これが蛇の心臓だヨ。」とりんに見せてから自分の口の中に入れるとコクリと飲んでしまった。

りんはびっくりした。自分を噛んだ毒蛇の心臓を飲み込むなんて何もかもすごいと思った。

やはり山ん婆サは山ん婆なのだとおもった。


「あとはりん、お前にまかせたヨ。この蛇には煮立った湯をかけたらおとなしくなるだろう。おとなしくなったらブツブツ切って、三つに分けてあの子達に与えておくれ。この毒蛇はネ、あの子達を襲った悪い奴だ。鳴き声がおかしいから走って行ったらこのカラス蛇が頭をもたげてあの子達をねらっていたのサ。私が助けに入ると、今度は頭をこっちにもたげて襲って来たんだ。突然の事でろくな棒も持たずに行ったから迂闊だったヨ。普通の蛇なら負けないが、この蛇は特別恐ろしい奴だ。それでもあの子達が無事だったのは良かった。」小屋に入りながらそこまで言うと、山ん婆サはゴロリと倒れてしまった。

毒がまわって来たのだろう。あんなに何度も毒を吸い取ったのに本当に恐ろしい蛇だ。

山ん婆サはそれから熱を出してうなされた。りんは必死で冷やして看病した。

腫れあがったふくらはぎと額を必死で冷やした。犬達はクーン、クーンと悲し気な声を出して心配しているようだった。犬にも自分達を助けて噛まれた山ん婆サの苦しみが解るのだろう。

看病の甲斐があったのか毒が引き始めたのか丸一日すると、まだ腫れてはいるが山ん婆サの顔色が良くなったような気がする。

だが、まだ油断は出来ない。

「あの子達はどうしてる?」と聞くので、外に出て見ると、いつもは姿を見せた事のない白い大きな犬達三頭が腹ばいになってこちらを見ている。心配しているのだ。

その様子を伝えると、「あの子達は身代わりになった私の身を案じているんだヨ。私は大丈夫だと言っておやり。何か食べ物をやって安心させておやり。」と言った。

りんは湯をかけた後、鍋に入れておいた蛇の肉をブツブツ切って三つに分けて持って行った。そして真白い大きな犬達に、「山ん婆サはもう大丈夫だヨ。もう心配ないヨ。安心しなさい。さあ、お食べ。」と言うと、

三頭共、りんの顔をじっと見てから納得したように食べ始めた。

真白で利口そうな犬達だ。美しくてかわいい犬達だ。

ここに登って来た時暗闇の中で、あんなに恐ろしい獣と思ったのに今はこんなに近しく可愛く思う。

さらに三日目には山ん婆サの熱は大分下ったようだが、まだ足は腫れているので油断が出来ない。行水は無理なので熱い湯で絞った布で体を拭いてあげた。

山ん婆サは目を瞑っておとなしくされるがままになっていた。

りんに体を拭かれながら、「りん、お前によく似た娘を知っているヨ。」と言ったので、リンは思わず山ん婆サの顔を見た。

山ん婆サは目を閉じたまま、遠い昔を懐かしむように話し始めた。


「その娘はやはりお前と同じように死ぬ為に山に登って来たんだヨ。その娘にはネ、夫婦約束をした若者がいたんだヨ。漁師をしていてネ。男らしくて、気持ちの優しい人だった。船主の大きな船に乗って漁をする船子だったんだヨ。お金を貯めて、例え小さくても自分の船を持とうと娘と話し合っていたんだヨ。そして船を買えるようになったら一緒になろうとネ。娘には年老いた両親がいてネ。親のいない若者は一緒になったら娘の両親と一緒に暮らそうと言ってくれていた。娘は幸せだった。二人は人の噂にならないように隠れて会っていたが、うっかり誰かに見られたのだろう。次の日には噂になってしまった。そうなったからには船を持つまでとは言ってられない。簡単でもいいから祝言をあげて一緒になろう。一緒になってから力を合わせて船を持とうという事に決めた。娘の両親も喜んでくれた。周りの人達も認めて応援してくれた。明日は婚礼の日というのに、前の日は雨と風がひどい日だった。そんな日に船主が若者と娘の為に祝いの鯛を取りに行くという。こんな嵐の中、船を出す人なんていない。危険だからいいというのを無理矢理、当の若者も載せて、船主が片腕にしている男と三人で海に出掛けて行った。

娘は嫌な予感がした。普段から娘を見る船主の目の色が気味悪かったからネ。若者にもどうか行かないで欲しいと何度も頼んだが、自分達の婚礼の為に船を出してくれる船主の執拗な強い思いを断る事が出来なかったのだ。若者を乗せた船は嵐の中を出て行った。だが、船はすぐに帰って来た。祝いの鯛を採らずにネ。

しかも、若者の姿もなかった。

船から落ちて見失ったという。村は大騒ぎになった。娘も半狂乱になった。

船主とその子分は、若者が自分の婚礼の鯛を釣ろうと力み過ぎて海に落ちたと言う。


「そんな事はあり得ません!!」娘は叫んだ。

「あの人は、そんな無茶な事をする人ではありません!!例え船から落ちても泳ぎが達者ですから溺れる事はありません!!」


翌日、若者の死体が浜辺に打ちあがった。

頭には何かで思いっきり殴られたような深い傷があった。

船主達は、きっと落ちた時に運悪く岩にでも頭をぶつけて出来た傷だろうと話した。

誰も、それ以上反論する者はいなかった。

娘はあまりの出来事に魂の抜けたようになった。もう泣きつくして涙も出なかった。

そんな、まだ初七日も経たないうちに船主が娘の家に来た。

何か困った事があったら力になると言い寄って来た。

娘は女の直感でその優しさの下のいやらしさを敏感に感じ取った。

が、年老いた親達は、金持ちのその男が力になってくれる事を心丈夫に思うらしかった。

その男は前から女癖が悪く、女房も愛想をつかして出て行ってしまい、外に妾を囲っているという話だった。


娘はあの嵐の夜以来、幾度も同じ夢を見ていた。

それは雨風の強い中で、若者が船主にゲンノウのようなもので思いっきり頭を割られて海に落ちるという夢だった。娘には幼い頃から人には見えないものが見えるという力があった。それは大抵当たっていた。

あの時も胸騒ぎがして必死で止めたのに、若者は船主と乗り子の義理に縛られて、どうしても断る事が出来なかったのだ。娘はこの夢はきっと正夢だろうと思った。このままでは、あの憎い男は年老いた親達を丸め込んで私を自分のものにしようとするだろう。

そんな事は絶対嫌だ!死んだ方がましだ!娘は若者が死んだ海に身を投げて死のうとしたが、遺体が浜に上げられて村中の人達の目にさらされる事を思うと海で死ぬ事はためらわれた。

娘はすぐに決断した。誰も入らぬ山に行こう!と。


夜中、普段着ている着物を一枚持つと、親にも黙って家を抜け出した。

浜辺へ行き、持って来た着物を海に投げ入れた。

その足で一人山に登った。

娘は本当に山で死ぬつもりだった。誰にも見つからない所でひっそりと死んで先に逝った若者の後を追うつもりだった。

その日は初七日だった。

月が出ていたが暗い中を無我夢中で登った。登って登って力尽きて倒れてどうにでもなれと思っていると夜が白々と明けて来た。

まだ死んでない。私はまだ死んでない。

早く死にたいと思って更に登ろうとすると、婆様二人がこっちを見ている。ギョッとした。

こんな山の中に何故?と思ったが、それは優しい婆様達だった。

その少し前まで、ここには姥捨ての風習があってあの当時、捨てられた年寄り達のうちまだ生きていた婆様がいたのだ。

とても信じられない事だが、十年以上もしかしたら二十年も二人は力を合わせて少しばかりの畑を作ったり、知恵を出し合ってまだ長生きしていたのだった。

二人の婆様はこの山に迷い込んだ娘を迎え入れてくれた。

娘はその二人の婆様と一緒に暮らすようになった。二人の年寄りは物知りで娘の知らない事をいろいろ教えてくれた。娘は二人の婆様の手足となってよく働いた。

やがて二人の婆様はだんだん弱って寝付くようになった。かなりの高齢だったからそれは自然だったろう。娘は二人の看病を甲斐甲斐しくしてあげた。

一人の婆様が死ぬともう一人の婆様も後を追うように亡くなった。

娘がここに来て三年目には結局また一人ぽっちになってしまった。」


そこまで話すと山ん婆サの瞑った目尻に涙がツーッと流れた。

りんはその娘というのは山ん婆サですか?と心の中で聞いたが、口には出さなかった。

山ん婆サは四日もすると、起きると言い出したが無理をするとかえって長引くと聞いた事があります。お願いですからせめてあと一日養生して下さいと言って床上げを一日伸ばした。

五日経つとふくらはぎのはれも大分引いて来た。決して若くはないのに体力の回復力の強いのには驚いた。


山ん婆サが久しぶりに外に出ると、犬達が喜んで飛んで来た。

どの犬も心配したんだヨーと言っているのがよくわかる。嬉しそうに甘えている。

山ん婆サは伸びあがると自分の背丈より大きな白い犬達に囲まれて嬉しそうだった。

「お前達が何ともなくて良かったヨ。本当に良かったヨ。」そう言いながら犬達を撫でている。犬達も嬉しそうだ。まるで本当の親子のようでりんは胸が熱くなった。

一週間もすると、まるで何事もなかったかのように元の暮らしに戻った。

あの後、山ん婆サは元の山ん婆サに戻ったが、りんの心の中には何かいいようのない気持ち、山ん婆サに対する(家族にさえ抱かなかった)温かみが残った。りんにはとても大切なものだった。


しばらくすると、また山ん婆サは白い着物を着てどこかに出掛けて行った。

そして帰りにはまたいろいろな物を背負って帰って来て、リンが用意してある湯に浸かるとサッサと眠ってしまう。

人の相談を受けたり病を治すという事は、随分精魂を使い果たすものなのだろう。りんは疲れ切って眠る山ん婆サを見て思った。

するとそれに気付いたのだろうか。うっすらと目を開けて、「障気にやられるんだヨ。」と言った。


「下界には障気が澱んでいるんだヨ。私がこのきれいな山に住んでいるから特に感じるのかも知れないが。大勢の人の住む下界には、その人達の心から吐き出す恨みつらみの障気が満ち満ちているんだヨ。ああ、普通の人にはわかりゃしない。りんにもきっとわからないだろう。だが、不幸な事に、私にはそれが見えるし肌にも目にも沁みるんだヨ。人の心の中に蠢く悩み苦しみの根っこも見えるんだヨ。だから、それなりの解決策を教えたりする事も出来るし、その人の心に添って楽になるような言葉をかけてあげる事が出来るんだヨ。だが、その人達のうらみつらみを聞いてここに帰って来る頃には障気を浴びて、私の心と体はボロ雑巾よりひどくなっているという訳なのサ。」と笑った。

りんは、この人は優しい人なんだ。本当に優しい人なんだと思った。


明くる日、元気を取り戻した山ん婆サはいきなり、「りん、お前、そろばんが使えるかい?」と言い出した。

その頃、村には寺子屋や、手習い所というきちんとした所はなかった。

お寺の和尚さんが時々教えてくれるだけで、それも葬式や通夜や法事があると中止になった。まして女の子だったりんはまともに習いに行った事がなかった。

いろはにほへとは最後まで言えるし、ひらがなの字ならどうにかたどたどしく読めるけれど、書くのは苦手だった。ましてそろばんなど触った事もない。

年に何回かするめや干魚の買い出しに来る商人が蔵に摘まれた品物を見て、パチパチと珠を弾く姿を遠くから見た事はある。

そう話すと、山ん婆サは珍しく真正面からりんの顔をじっと見た。

りんの目を見るというより目の奥の心の中を見ているようでりんは少し恐くなった。


山ん婆サには私の何が見えるのだろう?

今までの事が見えるのだろうか?

それともこれからの事が見えるのだろうか?

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