昔話 山ん婆の子守歌

やまの かなた

第1話

 春の気持ちのいい日。

縁側に続く庭にも花の蜜を求めて小さな蝶達が飛んで来る。

黄色の菜の花、桃色の蓮華草。

青い空はどこまでも晴れていて風も優しい。

遠くに

目をやれば山々が薄い水色に霞んで、それはそれは美しく見える。

こういう日には大人達は外に出て働き、子供達もみんな外に出て遊んでいる。

だけれども、今日も私は婆様の傍にいる。

大好きな大好きな絹婆様の傍にいる。

婆様は年寄りだからいつ死んでしまうか解らない。

私の大好きな婆様はすぐにも消えてしまいそうなきがする。

婆様、婆様、どこにも行かねーでけれ。

婆様、婆様、死なねーでけれ。

いつまでも、いつまでも長生きして私に昔話こ、話してけれ。



幼い私は天気の良い夢のようなあの日も、陽の当たる縁側で婆様の話こを待っていた。


私の大切な婆様の名前は絹。

婆様にぴったりの名前だ。

私は婆様があんまり大好きだから、夜寝る時も婆様の隣に寝る。

夜、寝る前の昔話こ聞くのも大好きだ。

一つ終わってもまだまだと。

二つ終わってもまだまだと話こせがむもんだから、お終いには呪文が始まる。


大根というものは根も葉もたーべてねー婆さん、一つ。

大根というものは根も葉もたーべてねー婆さん二つ。


その呪文を唱え始めると、どんなに私がせがんでも話こは終わりだという印だ。

だから、私は諦めて呪文を聞きながら眠くなり、だんだん瞼が重くなって夢の世界へ入って行くのだ。


婆様は縁側の近くに敷いた座布団にちょこんと座って気持ち良さそうにお茶っこを飲んでいる。


「婆様。話こ聞かせてけれ。」と言うと、私を見てニッコリ笑ってまた一口コクンとお茶っこを飲んだ。

「今日はいい天気だ。それなのに外に遊びにも行かねーで、話こ聞きてーが?」と言って婆様はまた笑った。

私は聞きたくて聞きたくて、さっきからウズウズしていたのでコクンと頷いた。


「この話こはの、特別な話こなんだ。この婆がまだお前のように小さかった時に婆様から聞いた話こなんだ。この婆の名前は絹だ。知ってるか?この絹にも小さい頃があって婆様がいたんだぞ。ああ、懐かしいな-、あの婆様の名前はりんと言う名前だった。お前はあの頃の私と同じだの。ああ、そうだヨ。想像出来ないだろ?私も昔は、おめえとおんなじで婆様の話こを聞くのが大好きだったんだー。」

婆様は昔を懐かしみむような顔をした。

きっとめんこい童子の絹に戻っているのだ。




(絹婆様の昔話)

私の婆様の名前はりんと言う名前でネ。

本当に名前の響きの通り凛としたお人だった。

その婆様が、「絹や、これから話す事は只の昔話ではないヨ。このお婆の身に起こった本当の事なんだヨ。それからナ、この話は誰にも話した事がないんだ。」とそう言ってらした。

どうして?と聞くと、

それは、山ん婆様とかたーく約束したからサ、と言ってらした。

だけど、もういいだろう。

あの頃の人達はみんな、あの世に行ってしまったし、山ん婆様だってこんなめんこいワラシコに話すのは許してくれるだろうからネ、と言ってニッコリ笑った。

この話は、あんまり不思議な話だから、私一人の胸にしまって死んでしまうのも、もったいないからネーって笑って話した。

私(絹)は上に兄様が三人いて、ずーっと年が離れて生まれた女の子が私だった。

リン婆様の外孫は他にもいたけれど、いっつも婆様の側にいて婆様が大好きだったのは私(絹)が一番だったと思う。

母親より父親より婆様が好きで、私は自分も年をとったら婆様のようになりたいと思ったもんだ。


私(絹)の実家は大きな店だった。いろんなものを商う店で奉公人が沢山いてネ。お客様もたくさん来て町でも五本の指に入る程の大きな店だ。

この店はりん婆様の力でここまで持ちこたえたと誰もが思っていたし、皆がそう言っていた。

リン婆様はいつも着物をスッキリ着て、背筋をピンと伸ばしてニコニコしてなした。

もうかなりの年寄りなのに側に行くと、よもぎのいい匂いがしてたっけ。

リン婆様は毎日二回、朝と夕方によもぎを入れた婆様だけの大きな桶風呂に入りなさる。だから年寄りでも、いつもいい香りがしていたんだヨ。

そしてあの日リン婆様が、「絹や、おまえ、山ん婆って知っているかい?」と聞くので、「うん、恐いんでしょう?」と私は答えたヨ。

するとりん婆様は、「いいや、恐い人ではないよ。」と言いなさる。

「婆様は山ん婆に会った事があるの?」と聞くと、

「ああ、会ったサ。」と自信たっぷりに答えるので、私(絹)は驚いて、

「山ん婆は本当にいるの?」と聞いたら。

「ああ、本当にいたサ。」とまた自信たっぷりに答えた。

りん婆様は嘘をつかない人だから、この話は本当だと思った。

「山ん婆は恐かった?」と私が聞くと

「ああ、最初は恐かったネー。食われるかと思ったヨ。」という。

「山ん婆とどんな約束をしたの?」私はワクワクドキドキして婆様の話こを夢中で聞いた。

「山ん婆サーはネ、自分のいる所を知られたくないようだったのサ。それが私にはわかるんだヨ。絶対人に言うなと口止めされた訳ではないが、山ん婆サーの気持ちがわかるから、今まで誰にも話した事はなかったんだヨ。だけど、あれから何十年経ったかネー。私はいつあの世からお迎えが来てもいい年だ。絹や、お前のクリクリした目を見ていたら、この世からあの世に行ってしまう前に、置きみやげに話してみたくなったんだヨ。きっと山ん婆サーも許してくださるだろう。」

リン婆様は遠くを見る目をして話し始めた。

「他の人は、こんな話を聞いたら作り話だと思うだろうネ。絹や、私の名前を知っているかい?」

「婆様の名前はりんでしょう?」と言うと、「私の本当の元の名前はハルというんだヨ。今はそれを知る人は誰もいないけれどネ。あの頃の私は思い出しても哀れな娘だった。ハルと言われた私は里ではきっと神隠しに会ったと噂されただろうヨ。一度だけちょっと帰った時に、奉公に出ていると言ったけれど山ん婆サーの事を話す訳にもいかないから何も詳しく話さないでまた出て来てしまった。結局、おとう、おかあともそれが最後だったんだ。それからはしばらくは年に一度、暮れに贈り物をしていたが、あの後、結局一度も里には帰らずじまいだった。絹や、小さなお前には今はこのお婆の気持ちは解らないだろう。お前が年取って婆様になった時に解るかも知れないネ。今のリンという名前は山ん婆サーにつけて頂いた名前なんだヨ。元の名前はハルといったんだヨ。」

「婆様は名前を二つ持っているの?」

「そうだヨ。」

「名前を二つ持っているっていうのはどんな気持ち?」

「そうさネ。昔を思い出すと見る夢があるんだヨ。ハルというもう一人の女(私)があの遠くの村で今も潮風の吹く浜辺で腰を曲げて働いているような気がする時があるんだヨ。そのハルに私は夢の中で近寄って行って言うんだヨ。もう一人のあんたは今ではこうして何不自由ない暮らしをしているヨ。だからハル、お前は安心していいんだヨ。何も嘆く事はないんだヨってネ。するとハルは嬉しそうに笑って涙を流して喜ぶんだ。あのままだったら、きっとこの私はそうなっていただろうからネ。」

そう言うと、婆様

は遠くを見るような目をした。

「あれから随分長生きしたネー。死ぬつもりで家を出てから何十年も生きて来たんだネー。絹や、今でさえこれから話す事は嘘のように聞こえるだろう。お前が私の年になる頃には本当の昔話になってしまうだろうネ。近ごろじゃ私の頭もすっかり霞がかかって来て、あれは本当の事だったのだろうか。夢を見ていたんだろうか。それとも、自分が頭の中で勝手にこしらえた昔話だったんじゃないかと自信がなくなる事があるんだヨ。そんな時はこれを見るんだヨ。」

そう言って、小さな黒光りしたそろばんと年月を経ているがまだ美しい錦の細帯を見せてくれた。それを大事そうに撫でながら、「これを見て、ああ、あれは本当の事だったんだと確かめるんだ。絹や、何て言ったってこれは山ん婆サーから本当に頂いた物だからネ。山ん婆サーにはもう一度会いたかった。今でも会いたいヨ。胸が苦しくなる程会いたいヨ。」

そう言うお婆様の目には涙が滲んでいたっけ。


(りんの思い出)

あの頃、ハルは十六になったばかりだった。

あの当時、その年になると女としては一人前と見られた。

ボチボチ嫁入りの話が出たり、そうでなければどこかに奉公に出るのが普通だった。

ハルも年から言えば奉公の口や嫁の口があってもいい頃だったが、ハルが喜ぶような話は一つも来なかった。ようやく知り合いの婆さんが遠慮がちに持ち込んで来た話というのは誰もが見向きもしないような年のいった甲斐性のない男との話だった。その男は村の中でも貧乏で有名だったから、両親がカンカンに怒ってはねつけていたので、奥の部屋の暗がりで小さくなっていたハルの耳にも聞こえて来た。

何でハルに奉公の先もなく、嫁の口も無いかと言えば、その頃のハルの顔や体にはひどいブツブツがあったんだヨ。実の親でさえ目を背ける程のブツブツで赤く腫れて、どうしようもない顔をしていたんだヨ。一番味方のおっかさんでさえ最後には、「何の祟りかネー。ご先祖様の誰かに殺生をした人がいたのかネー。何の因果で、この子だけが辛い思いをするのかネー。」と溜息混じりに言う程だった。

おっかさんは哀れなハルの為に、それに効くと聞けば何でもやってくれた。いろんなところから薬を買って試してもみたけれど、どれも駄目だった。ハルのブツブツは生まれながらのものじゃなかった。子供の頃はきれいな肌だったのに、年頃になるとポツポツ出て来て、今に治るだろうと思っていたが増々ひどくなる一方だった。

同い年の娘達の誰もが、きれいになったネと言われる年頃にだヨ。

姿、顔形を気にする年頃にだヨ。怪談のお岩さんのように真っ赤なブツブツの顔をしてごらん。もうあの頃のハルは家の中に閉じこもって外に出ないようになってしまった。

だけど家の中もハルにとっては心の休まる場所ではなかった。けれど、おっかさんは不憫に思ったんだろう。無理に外に出そうとはしなかった。

ハルには兄と妹がいたけれど、兄や妹がハルの顔をチラッと見て目を背けるのがはっきりわかった。それ程ひどかったから、とにかく奥の部屋で一人閉じこもる事が多くなっていた。

ハルの家は漁師だったから外に出て手伝う仕事は山程あったが、ハルは外に出て手伝う事をしなかった。親達も途方に暮れただろう。

そんなある日、同い年で一番仲の良かった友達のフクちゃんの嫁入りが決まったと家族が話しているのがハルの耳に飛び込んで来たんだヨ。相手は彦一だという」。

そこまで話すとお婆様は、胸を抑えて悲しそうな顔をした。

「こんなに年をとった今でも、あの時の事を思い出すとここんところがギューッと痛くなるんだヨ。実はネ、絹お前だけに話すけれど、ハルはネ、ほんの小さい頃から近所に住む四つ年上の彦一が好きだったんだヨ。何故だか大層かっこよく男らしく見えてネ。彦一は漁師としても立派だったが、子供の頃から優しくてネ。小さい頃のハルにも何かと優しくしてくれたんだ。それが嬉しくてネ。いつか彦一の嫁さんになりたいナー。なれたらどんなにいいだろうと心の中で温めていたんだヨ。誰にも話した事が無いからもちろんハルの気持ちは誰も知らないヨ。彦一もフクちゃんも、おっかさんもおとっさん、誰もハルの心の中は知らなかったと思う。ハルは自分の心の中の一番奥の小さな秘密の部屋にその気持ちをそっと隠して誰にも話さず、そのけぶりさえ見せずに来たから、それは大切な大切な思いだったからネ。それにハルは口数の多い方じゃなかったんだヨ。でもその後、ブツブツが出て醜くなるまでは小さい頃は決して暗い性格ではなかったんだ。恥ずかしがり屋だったからネ。自分の心を人に言う事なんてなかった。

でもあの時、よりによって仲良しのフクちゃんが彦一のお嫁さんになると聞いてしまったんだ。」

そこまで言うと、お婆様はしばらく黙った。

目尻に涙が滲んでいるのがわかった。

それから弱った気持ちを立て直すように、


「仕方がないヨ。醜くなってからはフクちゃんとも会ったりおしゃべりする事は無くなっていたしネ。それに、今じゃあの若かった彦一もフクちゃんも年寄りの爺さん婆さんになっているだろうし。もう、とっくに亡くなっているかも知れない。もう七十年も昔の、大昔の事だものネ。絹や、あの頃のハルを思い出すとあまりに哀れで、可哀想で、お前だけにはあんな辛い思いをさせたくないとつくづく思うヨ。絹や、そんなに悲しい顔をしないでおくれ。私は今こうして幸せな一生を送れて来たんだから。絹から見て、今のお婆は不幸に見えるかい?そうじゃないだろ?それなら安心して、お婆の話を聞いておくれ。」


「その頃のハルの家はここから幾つも村や町を隔てた遠い遠い小さな漁師村でネ。男の人達は沖に出て漁をして、女達は浜に出て戻って来た船からあがる魚をさばいたり、それを干したりするのが主な仕事だったんだヨ。野菜も自分達が食べる分を少し作るだけのそういう村だった。この辺のように平野でどこまでも田んぼが広がっているような所ではなくて、海浜沿いに細く家が建ち、その後ろはすぐに山が覆いかぶさるようにすぐ近くまで迫っていた。そういう所でハルは生まれて十六まで育ったんだヨ。特にすぐ後ろにせり出している山は白神山と言ってネ。大昔から神様が住む山だから、誰も決して山に足を踏み入れてはならないと言い伝えのある山だった。冬になると男達は海が荒れて沖に出られなくなるんだ。そういう時は何人か連れ立って山に狩りに行くが、その時でも他の山々には入ってもいいが、白神山だけは入ってはいけないと堅く約束され禁じられていた山だった。その山の裾には誰も入れないように二重にしめ縄が張られていた。その昔、迷信だと笑い飛ばして入ったよそ者の男達二人が一人も戻って来なかったという話は本当の話だという。それ以来、その縄は村の者達によって常に新しく張り直されてその禁を破る者は一人もいなかった。

今思うと、きっとその昔、魚の捕れない年が続いた頃、姥捨ての慣習がこの村にもあったのだろうと思う。耕す土地の殆どないこの村では魚をとって米を買うしかなかったから。魚がいつものように取れなくなると死活問題だったのだろう。今じゃそういう事はないだろうが、昔は年寄りから順に捨てられ、また生まれるとすぐ口減らしに生まれたばかりの赤子を死なしてろくな弔いもしないであの山に置いて来たという事もあったのだろうヨ。村人の心の中にはそれを恐れる想いもあって死んだ人の霊が眠る神の山というようにしたのではないかと思うんだヨ。

絹や、可愛いお前には苦労はさせたくないものだヨ。だが、人が生まれて死ぬ迄に一度も辛い思いをせずに過ごす事なんて出来ないものなんだヨ。いつかお前がもっと大人になって何か大変な事があったらお婆の言葉を思い出すんだヨ。お前を脅かしたくないが、不幸ってネ、突然やって来る事があるものなんだヨ。まるで大津波のように襲いかかってくる事もあれば、嵐や雨のようにこれでもか。これでもかと次から次へと叩きつけるようにやって来るかも知れないんだ。そんな時は、あーあ、死んでしまった方がどんなに楽だろうと思うかも知れない。だけど絹やそういう辛いその時はお婆のこの話を思い出して考え直すんだヨ。」


あの時のハルはどこにも出口がなかった。

こんな自分には辛い事ばっかりでこの先も良い事は一つもないと思ったんだ。

あの頃には誰一人私の心を救ってくれる人もいなかった。唯一の味方の婆ちゃんも前の年に亡くなってしまっていたからネ。顔だけじゃなく体中もブツブツが増えて痛痒くどんなに薬を塗っても治る兆しはなかった。顔は真っ赤な赤鬼のように膨れ上がっているのだもの。実のおっかさんだって暗い部屋の中でダンゴ虫のように丸くなってうじうじしているハルにはもうお手上げだったろう。そこに、彦一とフクちゃんの縁談の話だ。ハルには残酷な話だった。

ハルは思ったネ。この先、自分はどうすればいいんだろう。今でもこんなに苦しいのに、そのうちあの二人に可愛い赤子が生まれただの、その子がこんなに大きくなっただのとういう日が必ず来る。そんな時、ハルはこの赤鬼のような顔で生きて行けそうもないと思ったんだ。今すぐにも煙のように消えてしまいたいと思った。死ぬにはどうしたらいいだろうと考え始めた。夜、眠らずに考えた。海に身を投げる事も考えたし、鴨居に縄をかけて首を吊る事も考えたが、どちらも多くの人に見られると想像したら、死んだ後も醜い私の顔を多勢の人目にさらす事になる。それは絶対に嫌だと思ったんだ。

私はネ、人の目にさらされずに死ぬ事だけをずーっと考えていたんだヨ。そして決心したのサ。

夏のあの夜、皆が昼間の疲れで寝静まった頃、そっと家を抜け出してあの禁じられた白神山に入って行ったんだヨ。しめ縄をくぐってネ。その日は月も出ていないで真っ暗な闇夜だった。真っ暗な山はそれは恐かったヨ。それまでは虫や蛇が恐くて草むらに入るのは慎重なほうだったが、その時は虫に刺されたってこれ以上醜くならないし、蛇に噛まれたってどうせ死ぬだけだ。何も恐いものはない。そう思ったんだ。

誰にも見つからない白神山の山奥に出来るだけ入ろうと思って暗闇の中を無我夢中で登り始めたんだ。道なんてある訳ないし、あったとしても闇の中だ。顔に突き刺さる草を構わず掻き分けて急な登りは草の根元を掴んで無茶苦茶登って行ったんだ。


そう言えば小さい頃、おっかさんがよく言っていたっけ。

「山には山ん婆がいるんだヨ。

山に迷い込んだ人にやさしい顔で宿を貸して夜中に旅人が疲れて寝込んでしまうと、その隙を狙って殺して食べるんだヨ。きっとこの白神山にも山ん婆がいて、山の上から目玉をギョロギョロさせていつも私達を見ているんだヨ」って。

おっかさんはその話をする度にきまって最後には、あの張り巡らされたしめ縄の先には決して入ってはいけないヨと恐い顔で念を押すのを忘れなかった。

大人達の心の中にも本気であの山は特別な山で、入った者は生きて帰って来る事はないと信じられていたんだ。

だから村の若者でさえ、肝試し入ったりする者もいなかったと思う。そんな事をしたら、例え無事に帰って来る事が出来ても沖での仕事に必ず祟りがあると信じられていたからだ。

だけどあの時のハルはそんな事を考える余裕はなかった。

とにかく誰にも知られずに死ねる所を求めていたのだから。誰にも知られないでさえ死ねたらと。ハルはこう考えながら登った。

自分はそんなに悪い子ではなかったし、このブツブツは親のせいでもない。もしも神様というものがいたなら、その神様の意地悪のせいだ。誰も人っこ一人立ち入らないここでなら醜い姿でも骸になっても絶対に人に見られる事はないとネ。あの時は月も星も雲に隠れて真っ暗闇だった。とにかく、この夜の明けぬうちに山に登ろう。奥に入ろうと必死だった。

手探りで急な坂を上へ上へと進んで行った。恐いも恐くないも何が何だかわからぬまま無我夢中だった。闇の中っていうのはまるで夢の中のようだ。自分の息遣いがゼーハーゼーハーいうのだけが聞こえている。かなり疲れが出て来たがここで立ち止まる訳にはいかない。

ああ、私はこのまま死ぬんだナーと思った。このまんま力尽きて死ぬのもいいかナーと思った。どれだけ登ったのか、どれくらい進んだのか見当もつかない。

足の力も、手や腕の力も、もう駄目だと思い始めた。こうしている自分が夢の中にいるような気さえして来る。

ああ、私はここで死ぬのかも知れない。おっかさんは私が死んだら泣くかも知れない。おとっつあんも馬鹿者と思うだろう。だけどハルのような者が嫁にも行かず奉公にも出ないで家の中に閉じこもってうじうじしていては兄さんにも嫁が来ないだろうし。妹だって嫁の貰い手がないだろう。いっそハルが消えていなくなった方が家族の為なのだ。これが一番いい事なのだ。

そんな事を考えた。

しまいには、一番哀れなのはこの自分で、そんな自分が可哀想で可哀想で、オイオイ泣きながら登った。こんなに遠くまで来たら誰にも聞かれる事はないだろうと声を出して泣いた。思いっきり声を出してエーン、エーンと大泣きに泣いた。

今の今までこらえにこらえていた悲しい苦しい悔しい思いが、声と涙になって体から飛び出して行く。こんなに我慢していたんだヨ。

ハルは今までこんな風に泣きたかったんだヨ。ハルは思いっきり泣ける事が気持ち良かった。だけど、きっと今の自分はさぞひどい顔をしているだろうとも思った。

赤いブツブツで醜い上に涙や鼻水でグショグショになり、それを草や土のついた手で拭っているのだもの…と思ったりしたが、なにせ真っ暗闇の中だ。誰の目も気にせずにいられる事が久しぶりに気持ちを楽にしてくれたのサ。あの死にたい、死んでもいいという気持ちはこんなにも恐いもの知らずにするんだネ。


一回ほんの少し息を整えただけでそれからまた登り始めた。まだまだこんな所では死ねない、もっともっとこの力が尽きるまで上に登らねば死ねないと強い心持ちになったり、そうかと思うとじぶんはまた、なんでこんな可哀想な星の下に生まれたのだろうと声を出して泣いてみたり、それを繰り返して進んで行ったんだヨ。

その内に泣くのにも飽きてしまって、もう後は無心というか只々、上の方へ、上の方へと登って行ったんだ。倒れる所が死に場所だと思っていたんだネ。戻りたいという気持ちは少しもおきなかった。だって、元に戻ってもあの苦しい惨めな日々が待っているだけだもの。後悔は無かった。首を吊ったり、自分から死ぬような勇気はなかったけれど、山のどこかで野垂れ死にするだろうとは思った。

その時が来たら、草に埋もれて静かに死んで行こう、そう思っていた。

親からも兄弟からも、ましてや近所のすれ違う人々が、あの顔をごらん、何てひどい顔をしているんだろう。可哀想に、そんな目で見られるのは絶対終わりにする!!その決心は堅かった。人からそう思われるぐらいなら死んだ方がずっとずっとましだとハルは堅く思っていたんだヨ。

時間がどれほど経ったか見当がつかない。まるっきり真っ暗闇の中だもの。もうフラフラして自分が生きているのか死んでいるのかも解らないようになっていた。

その時、どこからかウーウーと獣の唸る声が聞こえてハルはギクッとした。

それも一匹や二匹ではないんだヨ。恐ろしい唸り声がハルの周りを取り囲んでいる。

ウーウー、ウーウー、ウーウー。

ああ、これが最後なのだと思ったネ。

これが山の神様の祟りという事なのかと思った。人々が話していたっけ。

山に入った者達は一人も帰った者がいないって。それは、この獣達に食われる事だったのか。この自分もこの獣達に食いちぎられて一生を終わるのだ。この体を食いちぎられるって痛いだろうナ、恐いナと思った。

が一方で、ハル!それを覚悟で来たんじゃないか!!と自分を叱りつけた。

だけどやっぱり背筋が凍る程恐い。

ハルは震える声で精一杯言ってやった。

あんた達!!何も恐くないよ!

私はここに死にに来たんだ!

お前達がこの白神山の神様なら、さあ早く私を殺して食べておくれ!!

骨も髪も残らず食べておくれ!!

私をこの世界からすっかり消しておくれ!!

ハルの声は震えてかすれていたけれど精一杯言ってやった。

本当はすごくすごく恐かったけどネ。

そう言うと、その獣達は本当にハルのすぐ近くまで近づいて来たんだヨ。

気配でわかるんだヨ。

獣がハッハッハッと吐く息とか臭いでわかるんだヨ。獣臭い嫌な臭いだ。

だけど、いっこうにハルに飛びかかって来ないんだ。

すぐ飛びかかれる所にいる筈なのにハルの出方を伺っているようなんだ。

そうなると噛みつかれた時の痛みや苦しみを考えて、また急に恐ろしくなって来た。

一気にやられる方がずっといい。だが、なかなか、かかって来ないのサ。

そうなるとおかしい話だがハルは獣達から逃げるように上へ上へと這いながら進み始めたんだ。獣達もジリジリ追って来る。

ハルは追い立てられるように上へ上へとまるで獣達に下から急かされるように登って行ったんだヨ。

この先、どうなるのか。

山の頂上まで行ったら、そこで一斉に飛びかかられるのか、そんな事を考えながら逃げて行った。

心は逃げているが、体はすっかり疲れ果てて、やっとの思いで這うようにしか進んでいなかったと思う。もうクタクタだったからネ。


その時、信じられない事だが、上の闇の中にポツンと光が見えたんだ。

人っ子一人いない筈の山の中にだヨ。

最初は狐火だろうかと思った。

だがゆれてはいない。

これは気のせいだと思って目をこすって見た。

でもやっぱり灯りは消えずに灯っている。

これはきっと神様の灯りだ!!山の神様が宿る所に違いない!!

そう思うと無我夢中で走った。

自分の中にまだこんなに力が残っているのが不思議な程、力が出たんだ。

走った。走った。夢中で走った。

木にぶつかっては転び、岩のようなものにぶつかっては転び、それでも起き上がって滅茶苦茶に走った!

獣達も一緒に後から追いかけて来る。

ハッハッと吐く息遣いではっきりわかるんだ。この獣達に追いつかれて食われるのが先か、神様の家に辿り着くのが先か、とにかくあんなにがむしゃらに走った事はないネ。

あんな思いはその後にも先にもなかったネ。

灯りがもうすぐ目の前だ!という所まで来ると後から追いかけて来た獣達が一斉にハルの背中に飛びかかって来た。

その時、間違いなく獣達がハルの背中や顔を越えて飛びかかった!!と思ったのだ。

ハルの顔のすぐ近くに獣の吐く臭いが追って来た!!もう駄目だ!

ギャー!!

ハルはあらん限りの声を張り上げて気を失ってしまった。

気が遠くなりながら、私は死ぬんだナと思った。



どれぐらい経ったろう。

明るい光の中でハルは目を覚ました。

途端、あの恐ろしい事が蘇ってここが死んだ後の世界なのかと思った。

ハルの体の周りはフワフワ柔らかい真綿に包まれている。

これがどういう所なのか。本当にこれが死ぬという事なら、そんなに悪くはないなと一瞬思った。

天井を見ると、どうやらここは古ぼけた小屋のようだ。

その小屋の中の長持ちのような大きな木箱の中に入れられ全身を柔らかい雲のような真綿に包まれて眠っていたのだ。

私は死んだのだろうか?

ここは極楽なのかナ?

考えてみればハルは地獄へ落ちるような悪い事はしていない。

人に意地悪をしたり、人を困らせるような事はしなかった。

でも、あの世ってこんな所だったのか?ハルの体は魂だけになってしまったのだろうか?

手を見るとハルの手はきちんとある。

顔を触ってみると顔はある。

残念な事に顔のブツブツも手に触れる。

死んだら今度は美しい娘に生まれ変わるというのは儚い夢なのか?

体を動かそうとすると背中が痛い。手首も腕も痛い。起き上がろうとすると背中から腰にかけてバリバリに痛くて動けない。

すると「痛いだろう?無理をしないで体を休ませてあげるんだネ。」とどこかから声がした。声のする方を見ようとすると首筋もズキンと痛む。どこもかしこも痛くて少しも体を動かせない。ハルの体はどうなってしまったんだろう。

恐る恐る、「私は死んでしまったんですか?」と聞くと、フッフッフッと笑い声がする。

その笑い声が近づいてすぐ近くまで来た。

上から覗き込んだその声の主は灰色の着物を着た白髪のお婆さんだった。

すぐに山ん婆か?と心の中で思ったが口には出さなかった。

そのお婆さんは笑っている。少しも恐くなさそうだ。

ハルは思い切って小さな声で、「あなたは誰ですか?山ん婆ですか?」と聞いてみた。

こうなれば何の恐いものがあるものかと心を奮い立たせてネ。


「ああ、そうだヨ。私が山ん婆だヨ。」と相手は言う。

ハルは体は大人になっても心はまだまだ子供だった。

恐る恐る、「私を食べるんですか?」と聞いていた。

フッフッフッ。

山ん婆は又笑いながらハルをジロジロ見て、


「ああ、いつかはネ。だけど、今は食べないから安心していいヨ。山ん婆が何でも誰でも見境なく食べるというのはあれは嘘だヨ。山ん婆にも好みがあるのサ。美味しくないものは食べないヨ。今のお前はまずそうだ。お前はこの山に死にに来たのかい?」と聞いた。」

ハルは声を出さずにコクンと頷いた。


「ここに着いたからには死にたい時にはいつでも死ねるヨ。だが急ぐ事はないヨ。ここはあの世も同じだ。生きている人間は他に誰もいない。のんびり、ゆっくりしていられる所だヨ。お前が死にたい訳は聞かないが、まあクヨクヨしないで体の痛い所を治すんだネ。それでもどうしても死にたくなったら、私がすぐにも食べてあげるヨ。」と言ってニヤリと笑った。


ハルは小さい時から大人達に聞かされて頭の中に描いていた山ん婆とは随分違うナと思った。まだ、この山ん婆の事は何もわからないけれど、どうしてなのか不思議に安心感が生まれて来てまた、フワーッと眠くなった。

眠たそうなハルを見て山ん婆は「眠たかったらいくらでも眠るといいヨ。」と言った。

ハルはまた、トロリトロリと甘い眠りの中に入っていった。

本当に安心してあれこれ考えないでいくらでも、いくらでも眠れる。

何たってここ

はあの世なのだもの。

トロリトロリ、スヤスヤスヤスヤ、そしてまた。トロリトロリ、スヤスヤ、スヤスヤそしてまた、うつらうつら、浅い眠りの中でこのまま眠っていんだヨネと思った。

本当にいつまでも眠っていていんだヨネと思いながらまた安心してスヤスヤ眠った。


家にいたあの頃はこんなに眠った事はなかった。

いつもいつも悲しい思いが突き上げて来て何もかも悲しくて苦しくて、起きている時も寝ている時も悲しい情けない思いが全身を覆っていて、あんまり苦しくて歯をギリギリ噛んで布団を被って声を出さずに泣く毎日だったっけ。

ハルはここ何年分かの眠りを取り戻すかのように眠った。

スヤスヤスヤ、トロリトロリ、うつらうつら、トロリトロリ、もうこのままずっと眠っていたい。

トロリトロリ。次に目覚めると、辺りは夕方になろうという時刻のようだった。

陽の傾きでそれが解る。

ハルは目が覚めてもボンヤリとしていた。

この先の事が全く考えられなかった。

すると何か美味しそうな良い匂いが漂って来た。

これは焼き魚の匂いだ。こんな山の中でそんなものがあるのだろうか。

体の節々はまだ痛かったが思い切って起き上がってみる。

蜘蛛の巣のような真綿で繭のようにくるまれて薄い着物一枚で寝かされていたのだ。

まだフラフラする。

「お腹が空いたろう?」

声がして山ん婆サは大きなどんぶりにたっぷりのお粥を入れて持って来た。

魚を焼いたものと漬物も添えてあった。

お粥を食べる前に山ん婆サは厠の場所を教えてくれた。

フラフラしながら厠に行って来た。

小屋の中も厠も、こざっぱりと清潔にしてあった。

お粥と焼き魚と漬物は美味かった。全部、ペロリと食べ終えた。

山ん婆サがきっと自分で食べようと残しておいた分まで食べてしまっただろう。

山ん婆サは笑いながら、「いいよ、いいよ、元気が出た証拠だ。」と笑っていた。

それから、「お前の名は何というんだネ?」と聞いた。

「ハル…」とボソッと言うと、

「その名前は忘れるんだネ。お前はここで一度死んだのだから新しい名前をつけてあげよう。」

そう言うと少し考えて、


「今日からお前はりんだ。」

「ハルは死んだんだ、もういない。イイネ。それからりん。ここにいたければ私を怒らせない事だヨ。何をしなければならないか、それを自分で考える事。解らない事は教える。恐がらないで聞くがいいヨ。それと私が言いつけた事は黙ってする事。一生懸命する事。それだけは守ってもらうヨ。嫌ならまた山を下りてもらう事になるヨ。」と言った。

(その時の山ん婆サの顔は少し恐かった。)


このようにして、ハルからりんになった私は、山ん婆サと暮らす事になったのサ。

山ん婆サは水を汲んでおけ。小屋の中をきれいにしておけ。と言うけれど、その前に一つ一つ教えてくれたので、やり方を教わると何も難しい事はなかった。

小屋の中には不要な物は何も無くて、サッパリと片付いていて掃除しやすかったし、厠も岩と岩の間を利用してうまく出来ており行水の残り湯を最後にかけ流す事でいつも清潔に保たれている。

何よりも驚いた事はどこからどう引いてあるのか小屋の外の岩場に竹の筒を通して冷たい水が始終流れている事だった。それで何をするのにも楽で仕事がしやすかった。

それだからだろう。

山ん婆サーは毎日、朝と夕方に行水をするんだヨ。山ん婆サはきれい好きなんだヨ。

人一人が座ると頭まで入れるような棺桶のような樽にすぐ側のへっついで沸かした湯を大きな鍋で一つ入れる。それに樽の半分程になるように水を入れると出来上がり。

その湯の中にすぐ隣の物置の大きな麻袋から、からからに干してあるよもぎの葉を一掴み入れる。するとたちまちいい香りが立ち登る。薬草風呂の出来上がりだ。


私がこっそり見ていると、山ん婆サはその中に着物を着たまんま、ドポンと入ったかと思うと首まで浸かるんだヨ。初めて見た時は驚いたネー。それから、着物を着たまんま髪も顔も首も洗ってあっという間に出て来た。まるでカラスの行水のようだ。

最初はびっくりしたけれど、朝も晩もはいるのだからそれでいいのかも知れないと思うようになった。

灰色の着物も、その度に着替えるのでいつもサッパリして薬のようないい匂いがするのサ。濡れた着物は樽の中でザブザブッと洗って干すんだヨ。灰色の着物はネ。袖は筒袖で着丈も短めで子供の着物のように紐が付いている。しかもその紐は長くて巾も少しある紐だ。その紐をグルグル巻いて後ろで結ぶと帯の代わりになるのサ。本当に無駄のないように作ってあるんだヨ。

山ん婆サは自分がサッパリすると「お前も行水するといいだろう。着替えはここにあるのを使っていいヨ。」と棚を指した。

そこには同じ灰色の着物の替えが何枚も畳んで置いてあった。

りんも山ん婆サに習って大きな樽に新しく湯を沸かし同じように水を割って湯加減を見てみた。ちょうどいい。

同じように麻袋から一掴みよもぎを入れた。

その様子を見ていた山ん婆性サは、「お前の湯にはこれも入れた方がいいネ。」と言って違う袋から別の薬草も少し入れてくれた。

それは後で知った事だが、どくだみや三七草という薬草だったのサ。

(が、その時はよくわからなかった。)

少し迷ったけれど、りんも思い切って着物を着たままで入ってみた。

着物を着たままで風呂に入るなんて初めてで最初は変な気がしたが、山ん婆サを真似てそのまんまで顔を洗い髪も洗った。薬草のいい匂いがした。

何だか薬で体全体が包まれているような気分になった。

耳も髪も首も体も着ている着物の上から手で洗った。りんもあまり長くならないようにカラスの行水のように早く上がった。

上がった後は素早くかけてある柔らかい布で体をふいて山ん婆サの灰色の着物を借りて着た。

その着物は何度も何度も洗濯されているので見た目よりもずっと柔らかくポタポタして凄く着心地が良かった。紐をグルグル巻いて結ぶと体にぴったりとなじんで着心地が最高に良くてりんはいっぺんに気に入った。

濡れた着物は山ん婆サに習って樽の残り湯でよーく洗い、ギューッと絞って表の干し竿にピッピッと伸ばして干した。山ん婆サのする事を見ていると全て納得がいく。

こうして紐も衿も裾の端々も丁寧に伸ばしてポンポンと叩いて伸ばして干すと、乾いた時にピンと伸びて畳みやすいのだ。

樽の中の残り湯は厠を掃除しながら流す。一石二鳥なのだ。改めて厠の掃除をする必要もない。りんが来てからは一日に四度、厠を掃除する事になる。

樽もゴシゴシ洗いすっきりした後は水切りをして、天気の良い時は陽当たりの良い所に持って行って干しておくようにと言われた。

りんは喜んで言う通りにした。それにしても行水の何と気持ちのいい事か。

それからは、りんは暇があると小屋の外に出てよもぎを摘んで歩いた。

薪にする細い木も集めて歩いた。外に出て初めて自分がいる所がどういう所か知った。

ここは山のてっぺんではなかったが、大分上の方だ。周りの山々を見ると、この場所が高い位置にある事がわかる。見える山々に向かってオーイと呼んだらやまびこが帰って来るだろう。

山ん婆サの家は岩の突き出た窪みに北から背中を守られるように建ててあった。

前方は南向きで陽当たりが良く、なだらかな斜面になっている。その開けた場所の少し先は、まるでこの場所を人の目から隠すように雑木が茂っている。

その木々の隙間から遠くに海が見えた。

海だ!私がいた所だ!

私はあそこからここまで登って来たんだ!

そう思うとまた忘れかけていた胸の奥がギューッと痛んだ。

いや、あのハルは死んだんだ。あのハルはもういない!私はりんだ!

そう自分に言い聞かせてそれからは海の見える雑木の方にはいかない事にした。


山ん婆サは無駄話は一切しなかった。

りんの素性や、何故死にたくなってここに来たのかも一切聞かなかった。

だが、りんが何か尋ねると何でも解り易く教えてくれた。

山の中で食べられる物や毒のある物等、いちいち摘んで教えてくれた。

お陰でいろんな事が解った。

だけど山ん婆サはいつも時々フッといなくなる。

最初の時はどこへ行ったんだろう?このまま戻って来ないのではないか?と随分心細く思ったものだが、いつの間にかまたフワッと戻っている。

そして何もなかったかのように風通しの良い所で横になって眠っていたりする。

りんは山ん婆サの姿を見ると安心する。

(山ん婆サー、私は淋しかったヨ。出掛けるなら一言言って出掛けてヨー。)と心の中ではそう思ったが黙っている。

そんな泣き言を言ったら、この子は駄目な子だと思われるに決まっている。

それからりんは、山ん婆サのいる時も、いない時も何をすればいいのか先々を考えて掃除をしたり、よもぎを摘んで干したり、薪を拾ったり、いつも休みなく動き回るようにした。

その方が嫌な事を考えないで済むからだった。

ある時、山ん婆サはまた、フッといなくなった。

しばらくすると、大きな袋に繭をたんと入れて戻って来た。

どこから、こんなにたくさんの繭を?それも一人で?と思って不思議な事だらけだが黙っていた。

山ん婆サは大きな鍋に湯を沸かさせて繭を茹で始めた。

私は繭を一つ二つ見た事はあるが、茹でるのを見るのは初めてなので大層驚いた。

りんは黙って山ん婆サのする事を見ていた。


山ん婆サは茹でた繭をひょいと一つ手の平に乗せると私に見せるように指で糸の端っこを見つけ引っ張る。糸は面白いように次から次とクルクル伸びて取れる。

ああ、繭はこんなふうに出来てるのか。こうして糸を取るんだという事がわかった。

白い糸を糸車に巻きながら取って行くと最後は茶色い芋虫のようなものがコロンと出て来る。

それを別の小さな鍋にポイと入れる。

山ん婆サは後ろで見ているりんに、「やってみるかい?」というような仕草をした。

りんはもちろん山ん婆サに代わって糸取りをやってみた。

初めての事でもあり、おもしろい、おもしろい。糸先を見つけてはそれをカラカラ回る糸車に巻いていった。糸を取った後は中に入っていた繭の子を小さな鍋に入れる。。

山ん婆サは糸の結び方もわかるようにゆっくりやって見せる。りんにも難なく出来た。

夢中でやっていると、


「初めてにしては上手いもんだ。」と山ん婆サが言った。初めて褒められた!

褒められると心が躍る。心が躍ると体も躍る。どんどん、どんどん糸を巻いて行く。陽が西に傾く頃には、その日茹でた分は全部糸を巻き終えてしまった。

小鍋に山のようになった繭の子はどうするのだろう?そう思っていると、それまで横になってくつろいでいた山ん婆サが起き上がって棚の下の方から大きなどんぶりを三つ持って来た。

それに繭の子を分けて入れ始めた。途中からは訳のわからないりんにやらせた。

それを見ながら山ん婆サは、「きちんと平等に分けるんだヨ。」と言った。

りんはこれを私に食べろというのだろうか?と心配したが、

「分けたかい?分けたら外の大きな切り株の上の置いておいで。」と言った。

不思議だナー?何の為に?と思ったが黙って言われる通りにした。

次の朝、気になって切り株を見に行くとどんぶりの中身はきれいに無くなっていた。

三つの丼は竹のといから流れる水で洗って元の場所に片付けておいた。

それからは山ん婆サが分けておくようにという物は多い日も少ない日も、きちんと三つに等分して切り株の上に置いておく。するといつの間にかまるで洗ったようにきれいに無くなっているのだった。

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