中世オリンピック2

コンスタンティノス8世のギリシア・ローマへの傾倒と、それへの反動としてロマノス3世アルギュロスから続いたキリスト教への傾倒は、帝国の財政を破綻寸前に追い込んだ。これにより帝国の軍事力は弱体化することとなり、再び外敵の圧力が強まることとなる。11世紀の終わり、イスラム系の強国セルジューク朝が小アジアに進出し、東ローマ帝国はこれに対抗できずに次々と領土を削り取られていく。ブルガリア帝国も再建されて再び北方から国境を侵食するようになり、東ローマ帝国の領土は小アジア北西部とギリシアを中心とするバルカン半島南部が残るばかりとなってしまう。東ローマ帝国は、衰退どころかもはや滅亡への流れに乗ってしまったと、自ら覚悟せざるを得ない状況となった。


その流れに対する大きな抵抗力が、西ヨーロッパのゲルマン人社会からもたらされたのは、コンスタンティノープルの市民にとっては意外だったかもしれない。キリスト教の教義解釈の差異から、西方のカトリック教会と東方正教会が分裂してすでに300年以上が経っている。東方正教会の守護者を自認する東ローマ帝国にとって、カトリックを奉ずるゲルマン人たちは宿敵とさえ言ってよかった。そのゲルマン人たちが東ローマ帝国を滅亡から救うべく、西方からやって来たのだった。十字軍である。


1096年、ローマ教皇の大号令の元に集ったフランスやドイツの騎士たちは、長らくイスラムの支配下にある聖地イェルサレム獲得を目指し、大規模な進攻を開始した。この進攻は、西ヨーロッパのカトリック=ゲルマン世界が東方に拡大しようとする最初の試みであった。セルジューク朝の分裂により組織的な抵抗が出来なくなっていたイスラム軍に対し、十字軍は破竹の進撃を続け、1099年に当初の目標であったイェルサレムの占領に成功する。イェルサレムを中心とする中東各地には、十字軍に参加した諸侯らの領土、後世で言う「十字軍国家」が確立された。東ローマ帝国の軍勢もこの十字軍の勢いに乗り、小アジアを中心とする領土を回復することに成功する。しかし、東ローマ帝国を救った十字軍は、今度は帝国に大きな災禍さいかをもたらすことになる。



新たな指導者サラディンを得て再び勢いを取り戻したイスラム勢により、イスラエルは奪還される。イギリス王リチャード1世を中心とする十字軍はサラディンと激戦を繰り返し、結果的に両者の協定により、キリスト教徒のイェルサレム巡礼が認められる。聖地獲得という大義名分が大幅に薄れた十字軍だったが、東方拡大へのエネルギーが失われたわけではない。次に結成された十字軍はヴェネツィアの経済人たちによって巧みに誘導され、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへと矛先を向けることになった。「異端」のキリスト教に固執する東ローマ帝国こそ、カトリックの真の敵である、と。もっともヴェネツィアにとってそのような信仰の差異は大した問題ではなかっただろう。ヴェネツィアは東地中海での覇権をコンスタンティノープルと争い続けてきたのだ。


いずれにせよ十字軍に参加した騎士たちは奮い立った。長らく東西に分裂していたキリスト教とヨーロッパ世界の統一と、ギリシア文化の後継者の地位、そしてコンスタンティノープルの(資金に窮する騎士たちにしてみれば)莫大な富が彼らを突き動かした。結果、コンスタンティノープルは占領され、略奪され、無数の蛮行の果に東ローマ帝国は一度滅ぶことになった。十字軍諸侯らはコンスタンティノープルを首都とする「ローマ人の帝国」(一般的には「ラテン帝国」の名で知られる)の再興を宣言する。東ローマ帝国の貴族らは各地に逃れて亡命政権を樹立し、ラテン帝国に対抗した。


十字軍は思想も利害も異にする様々な勢力の集合体である。このため十字軍同士の小競り合いも耐えなかった。特に聖地獲得という共通目的が達成された(あるいは失われたと言っても良いかもしれない)今となっては、十字軍内部での対立はますます先鋭化していった。最大の十字軍国家であるラテン帝国では、その傾向はますます顕著であった。最も対立が激化する要因となったのが、帝国領土内における各諸侯の領地分配である。特にギリシアに領地を獲得することは、連綿と続くギリシア文化の守護者としての地位を獲得するものと見なされた。このためギリシア各地の領地分配は混迷を極めた。


ラテン帝国の十字軍諸侯の中で、最初にギリシアに領地を確立させたのは、十字軍の中心的指導者の一人モンフェラート侯ボニファーチョ1世だった。武勇に優れ、騎士たちからの人望も厚い彼は、ラテン帝国建国において自分がその皇帝の地位に選ばれることを疑っていなかった。しかし彼は選ばれなかった。コンスタンティノープルに強力な指導者が立つことを、ヴェネツィアが望まなかったのだ。結果、十字軍の指導者層の中でもどちらかといえば凡庸なフランドル伯ボードゥアン9世が皇帝となった。その代わりとしてボニファーチョが自らの領地として要求したのがギリシアである。ボードゥアンはこの要求に対する返答を何かと理由をつけて先延ばしにし続けた。業を煮やしたボニファーチョは自らの軍勢をギリシアに集め、テッサロニキ王国の成立を宣言した。ボードゥアン側は軍事力でこれを抑えることは不可能と判断し、ボニファーチョのテッサロニキ王位を承認する。これで形式上はテッサロニキ王国はラテン帝国に臣従する立場ながら、事実上独立国としての地位を確たるものにする。



その後、テッサロニキ王国は旧東ローマ帝国勢やブルガリアと戦いながら次第に覇権を広げていった。テッサロニキ王国の支援と保護のもと、新たな十字軍国家であるアカイア公国やアテネ公国が建てられ、ギリシア半島の大半がこれらテッサロニキ系列の十字軍国家の支配下に入ることとなった。しかし東方正教会を信奉するギリシア人たちは、カトリックである十字軍諸侯による支配を快く思ってはいなかった。テッサロニキ王国が旧東ローマ勢に敗れて滅亡すると、ギリシア人たちの反十字軍傾向はますます強くなっていった。残されたアカイア公国・アテネ公国は彼らギリシア人勢力の支持を得るべく、共同で古代の祭典を復活させることを決める。後にいう、中世オリンピックである。


オリンピックはかつてのオリンピアの地ではなく、アテネ近郊で実施されることとなった。このように決まった理由は、4年に一度の開催年が迫る中、失われたオリンピアの場所は未だ不明であり、200年前の建設途中の闘技場がある「オリンピア」も本物かどうか誰にも判断がつかなかったからである。アテネ近郊の丘に競技場が建設され、隣接してキリスト教の教会が建設された。中世オリンピックは、古代オリンピックのようにオリュンポスの主神ゼウスに捧げる祭典ではなかった。あくまでキリスト教における「唯一絶対の神」に捧げる祭典とされたのである。


1229年、第1回の中世オリンピックが開催された。最後の古代オリンピックから836年が経っていた。アカイア公国・アテネ公国内のギリシア人や十字軍騎士たち、そして聖職者たちに加え、ラテン帝国や遠く離れたフランスやイギリスの騎士たち、さらには各地から聖地イェルサレムに向かう途中の巡礼者たちなど数千人が参加者に名を連ねた。徒競走や槍投げ、レスリングといった古代から続く競技に加え、騎馬競走や弓術試合などの競技が行われたが、最も観客の注目を集めたのが馬上槍試合であった。対戦相手を殺すことが目的ではなく、武器も刃を鈍らせたものが使用されたが、極めて危険な競技であることに変わりはない。現に第1回大会だけで50名以上の負傷者と7名の死者を出している。それでも槍の一撃を受けて騎士が馬から落ちるたび、そしてその騎士が猛り狂う馬に蹴り飛ばされて手足や首が奇妙な方向にじ曲がるたび、観客からひときわ大きな声援が上がるのだった。


この「オリンピック」に対し、最も強く反発したのが旧東ローマ帝国勢の一人、エピロス専制侯テオドロスである。自らをギリシアの守護者と称するテオドロスは、十字軍によるこの中世オリンピックが「神と祖先への冒涜ぼうとく」であると訴え、8万の大軍を率いて海路アテネへの進軍を開始した。オリンピックへの参加のため、多くの騎士たちが戦闘準備もせずにアテネに集結していた。テオドロスには絶好の機会であった。しかし戦いは起こらなかった。海上を進むテオドロスの艦隊に大嵐が襲いかかったのだ。辛くも嵐から逃れた数隻の船を残し、艦隊は全滅。テオドロスは遺体すら見つからなかった。「オリンピックの休戦」を破ったために、神の罰が下されたのだと人々は噂した。



※この物語はフィクションです

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オリンピック異聞 @06R

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