オリンピック異聞

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中世オリンピック1

オリンピックは本来、古代ギリシアで行われた天界の主神ゼウスに捧げる4年に1度の競技祭であった。この開催地となったのが、神々の住むオリュンポス山に由来する名を持つオリンピアである。オリンピアのゼウス神殿には、世界の七不思議のひとつに数えられる高さ12.4メートルものゼウス像が鎮座していたという。アキレウスが創始したという伝説もあるオリンピックだが、実際にいつどのように始まったかについてはよくわかっていない。紀元前776年に行われた大会が、記録に残る限りおそらく確実に行われた最初の大会とされる。この祭典はギリシアで最も神聖視されていた。その長い歴史の多くの割合を都市国家ポリス同士の争いに費やしたギリシア人たちだったが、オリンピック開催期間とその準備期間にあたる約3ヶ月の休戦は律儀に守られた。


ギリシアが古代ローマの支配下に入ってからも競技会は続いた。ローマ人たちにとってギリシア文化は強い憧憬しょうけいの対象であった。ローマの貴族たちはギリシア人家庭教師に子弟を教育させ、子弟が成長した後にはアテネやロードスへと留学させた。貴族だけでなく平民たちにもギリシア由来の様々な外来語が浸透していたのだから驚く。名実共にギリシア文化を受け継いだローマでは、当然ギリシア文化の中枢たるオリンピックにも関心は集まる。オリンピックはギリシア人以外参加できなかったが、ローマ人たちはトロイアの英雄アエネイスの末裔を称して参加を認めさせた。その後も北アフリカ、シリア、ガリアなど、次々と領土を拡大させ続けたローマ全土から、様々な「ギリシアの英雄の末裔」たちが参加者に加わり、オリンピックは盛況を極めた。出場者の中には悪帝との評(その真実性には疑問の余地があるが)で知られるネロの名も残る。なおこの時代からすでに競技での不正行為がしばしば摘発され、問題になっていたのは近代オリンピックと全く同様である。



コンスタンティヌス帝以降のローマ帝国は旧来の多神教的世界観を捨て、キリスト教化していく。同時に多神教的世界観の最たるものであったギリシアへの憧憬も鳴りを潜めていく。その中でもオリンピックは規模を縮小しながら開催されたが、テオドシウス帝によるキリスト教国教化の翌年である393年の大会を最後に、1000年以上続いたこの神聖な競技祭はついに廃止された。オリンピアのゼウス神殿はその巨大な像とともに破壊され、かつての神聖な都市は徐々に土に埋もれていった。


ローマ帝国はこのときすでに緩やかに、しかし着実に衰退を進めていた。「救世主キリスト」の名をもってしてもその流れは止められなかった。統治基盤の弱体化によって国境を守る軍事力の維持が次第に困難になり、ゲルマン人たちが続々と国境を破って帝国領土を荒らし回った。ヨーロッパに現在見られるようなフランスやイギリスといったゲルマン系の国家が成立したころには、ローマはもはやコンスタンティノープルを中心とする東半分しか残っていなかった。西半分はすでにゲルマン人たちに呑み込まれ、発祥の地ローマすらすでに失われていたのである。残された東ローマ帝国は「ローマ」という拠り所を失い、再びギリシアへの憧憬を強めていった。ギリシア文学や哲学が盛んに取り立てられ、ギリシア人有力者が貴族階級として政権の中枢を占め、公用語までもがギリシア語コイネーに統一される。


その後も東ローマ帝国は常に外敵との戦いに明け暮れることになる。ゲルマン人、ペルシア人、ブルガール人、スラブ人、そしてイスラムが国境線を破り、帝国と領土を奪い合い、帝国全体を疲弊させていった。長期的には衰退の流れにあった東ローマ帝国だが、数回に渡りこの流れを逆流させ、中世を通じて大国の地位を守り続ける。この支配の元ではるか古代から続くギリシア文化は再び繁栄することとなった。そしてギリシア文化の中心であったオリンピックの再興も幾度となく試みられたが、すでにギリシア人にも浸透して久しいキリスト教(コンスタンティノープルを中心とするギリシア正教会)の影響も強く、古代の異教の祭典が復活を遂げることはなかった。そういったオリンピック復活への試みの中で、最も実現に近づいたのが11世紀前半のコンスタンティノス8世によるものである。



東ローマ帝国にとって10世紀最大の脅威は北方のブルガリア帝国だった。度々大規模な侵攻を仕掛けるブルガリア帝国は、一時ギリシア北部にまで進出し、東ローマ帝国内のギリシア人を恐慌状態に陥らせた。10世紀の終わりに即位した東ローマ皇帝バシレイオス2世は、このブルガリア帝国に苛烈な反撃を加え、ついにこれを滅ぼしたことから「ブルガリア人殺しブルガロクトノス」の異名を持つ。まさに衰退の流れを大幅に逆流させた皇帝であった。彼の弟であるコンスタンティノス8世は副帝の地位にあった。しかし副帝とは名ばかりでほとんど実権を与えられず、その関心は専らギリシア・ローマの文化に集中することになる。


バシレイオス2世が子を残さず急死したことで、コンスタンティノス8世は正帝の地位に上ることとなる。すでに政治への関心を失っていた彼は、正帝となってからますますギリシアとローマの文化に熱中した。その情熱と長きに渡って兄の影として過ごしてきた過去への反発が、ある種歪んだ形での野望を生み出すこととなったのは、無理もないことなのかもしれない。平和と呼ぶにはあまりにも外敵が多かったが、ブルガリア帝国の滅亡で最大の脅威は去っている。もはや彼が兄に匹敵するような存在感を、外敵との戦いに求めることはできなくなっていたのだ。


正帝となってほどなく、彼は古代ローマの剣闘競技を復活させる。首都コンスタンティノープルの広場を改修する形で闘技場コロッセウムが設けられ、ここで敵の捕虜から選抜された者同士が剣闘奴隷として殺し合いを演じさせられた。ときには帝国軍の兵士や将軍が、さらには皇帝自身が剣闘奴隷や猛獣と戦ってみせた。コンスタンティノス8世は、政治能力は皆無であったが軍人として無能だったわけではない。60歳を超えているとは思えない筋骨隆々とした肉体が、剣闘奴隷や異国の猛獣たちを打ち砕く様は、コンスタンティノープル市民を次第に熱狂させていく。無論、この血なまぐさい興行に眉をひそめるものもいた。コンスタンティノープル教会の聖職者たちである。彼らは直接に剣闘を批判することはしなかったが、「キリストの誕生以前に始まった野蛮な行為」は慎むべしと信者たちに説いた。多くの信者はその言葉を聞いて大いにうなずきながら、変わらず闘技場に足繁く通っていた。


そしてコンスタンティノス8世が正帝となって3年後の1028年、彼は翌年のオリンピック開催を宣言する。翌1029年は最後のオリンピックが開かれてから636年、仮にオリンピックが存続していれば4年に一度の開催年に当たっていた。開催への準備として、コンスタンティノス8世は古代都市オリンピアの調査を命ずる。かつての神聖な都市はすでに土に埋もれ、正確な場所は誰にもわからなくなっていた。ギリシア人学者らを中心とする調査隊が派遣されるが、数ヶ月の調査の後に山賊と思しき何者かの襲撃に遭い全滅する。一説によれば彼らはオリンピアを発見しており、それを皇帝に報告するために帰還する途上であったとも言われる。「異教」の祭典の復活を恐れたコンスタンティノープル教会が、彼らの発見をいち早く聞きつけ、口を封じたのだという。

調査隊の全滅の報せを受けた皇帝は一時失意の底に沈んだが、すぐに今度はオリンピアを発見した者に莫大な賞金を与えることを全国に布告した。ほどなくから「オリンピア発見」の報が次々と舞い込んでくる。コンスタンティノス8世はこのうちどれが「真のオリンピア」なのか、学者たちに検討させた。しばらくの後に学者たちはひとつの場所を「真のオリンピア」として皇帝に提示する。(後世で発見された実際のオリンピアの遺跡とはかなり離れた場所であったが)ただちに皇帝はこの場所に、オリンピックに相応しい新たな競技場を建設するよう命じた。しかしこの競技場の完成を見る前に、コンスタンティノス8世は病死する。次に即位したロマノス3世アルギュロスは教会の支持を得るべく、オリンピックの中止を宣言。「オリンピア」の競技場は建設途中のまま遺棄されることとなった。



※この物語はフィクションです

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