スミレが咲く前に

山崎香澄

スミレが咲く前に

 三月一日。雲一つない青空から、暖かい太陽が顔を出す。神様が味方してくれたようだ。ひんやりと冷たい風がポニーテールにした髪を揺らす。辺りを見渡すと、地面もところどころ顔を出していた。ここ、札幌はようやく雪解けが始まったのだ。ゆえに、ドラマによくある桜吹雪の卒業式は夢のまた夢である。


 今日、この校舎に入れるのは卒業生と関係者だけ。在校生は入れない。ここ数年で全校生徒の人数が急増し、体育館に入りきらなくなってしまったのだ。


 私は会長として送辞を任されている。緊張からなる胸の鼓動が心地よい。


「絶対に泣かない。笑顔で先輩方を送り出す。」


そう自分に言い聞かせて、重たい玄関の扉を開けた。



――――――――――



 一時間程の式が終わり、各クラスで最後のHRをしている。相棒になったカメラを肩に掛け、廊下で待機していた。


 送辞はというと、失敗することもなく読み切れた。自分に堂々の満点をあげたいぐらいの上出来だった。ただ、退場で卒業生の顔を見る度に、涙で視界が歪んでしまった。涙もろい一面が、ここぞとばかりに出しゃばったのだ。涙をこぼしていないので、泣いてはいない。一回目は大目に見るとしよう。


 「「「さようなら。」」」


自分だけの世界に、教室の元気な声が入ってきた。先輩方は卒業アルバムを持ち、先生のもとへ向かう。最後のメッセージを貰いに行くらしい。あっという間に私の居場所が分からなくなってしまった。いや、そんなことを思っている暇はない。


 私には、自分自身が課した大切な使命がある。すみれさんを探さなければいけない。制服の右ポケットに手紙が入っているのを確認し、走り出した。



――――――――――



 職員室前の壁には、祝電が掲示されている。そこに菫さんはいた。スカートのポケットに手を入れ、たった一人でそれを読んでいたようだ。「卒業しても先生に会いに来ます」「ねぇ、あとは誰がいたっけ?」という、今日ならではの会話を耳に入れずに。最後まで菫さんらしい。


 乱れた呼吸と高鳴る鼓動を整え、声をかけた。


「菫さん、ご卒業おめでとうございます。最後なので……、手紙を書きました。どうぞ。」

「ありがとう。」


いつもの、優しい笑顔だった。


 ――長いようで短い二年間、私のわがままに付き合ってくれたこと。校内で見かける度に勇気を貰っていたこと。菫さんは他人思いで、かっこよくて、笑顔が素敵なこと。卒業してしまうと寂しいこと。そして何より、菫さんは私の『推し』であること。


 手紙には沢山の想いを詰め込んだ。一週間前から何回も書き直して完成した、私からのメッセージ。


 実は、この中に一つだけ嘘がある。菫さんは『推し』なんかじゃない。入学して間もないあの日、初めて声をかけて目が合ってからずっと、私の『好きな人』なのだ。「まさか私が同性を好きになるなんて、普通じゃない」と一人で悩み苦しんだ時期もあった。それでもやっぱり、私が好きなのは菫さんだった。


 でも、今更そんなことを言っても仕方がない。菫さんを困らせるだけ。そう気付いてしまった私なりの優しさ。


 うっかりと口を滑らせてしまわないよう、グッと堪えた。


「先輩には沢山お世話になりました。」

「いやいや、自分もありがとう。」


 会話が途切れないように、頭の中にある言葉を選んで訊ねてみた。


「進路、きっと決まってますよね。道外ですか?」

「道内だよ。」

「よかったぁ。道外だったら寂しくて泣いてましたよ。」


今日で会うのは最後だと決めていたから、道外か道内かなんて本当はどうでもいい。


 そんな本心は笑顔の仮面で隠しておいた。



――――――――――



 二人の近くを女子サッカー部の先輩が通りかかった。それに気付いた菫さんが駆け寄り、声をかけた。


香澄かすみちゃんとの写真、撮ってくれる?」


 まさか、この言葉を聞く日が来るとは。快く受け入れてくれた先輩に、スマホを手渡している。私の右に立った菫さんに合わせ、まっすぐにスマホのレンズを見た。どうやらピースはしないらしい。距離感がつかめず、トンと肩が触れた気がした。


「撮るよー。はい、チーズ。」


 先輩方に笑顔で「ありがとうございます」と言い、ゆっくりと誰もいない方へ歩き出す。


 もちろん、このまま二人の時間が永遠に続いてほしいと思っている。しかし、自分自身が成長するためには、菫さんから離れて前に進まなければいけない。頭では分かっているつもりでも、なかなか行動に移せなかった。それが今日、卒業という節目に決着をつけられる。


 ふと振り返り、菫さんを見つめる。決して大きいとは言えない、こぢんまりとした背中。なぜかそれが、たくましく見えた。


 謙虚。誠実。この二年間、スミレの花言葉のような人を追いかけてきた。私の青春を作ってくれた人。心からの感謝を込めて。


「どうかお元気で――。」


想いが声になって出てきた。これでようやく、私の中で区切りを付けることができた。


 一つ深呼吸をし、前へと再び歩き始めた。



――――――――――



 あれから何人の先輩方を見送ったのだろう。ちゃんと笑えていただろうか。人影が減り、私の仕事が終わったのを悟る。先生から昼食のお弁当を受け取ることにした。


 静かな教室は、自分だけの咀嚼音と放送の切ないオルゴールで満たされている。歌詞が分かる曲に感情移入してしまい、涙が溢れ出た。今日で制服を着た先輩方に会えるのが最後だった、という実感がやっと沸いたのだ。鼻水をすすり、涙をなんとかこらえようとしても止まらない。


 最終帰宅時刻を知らせるアナウンスが校内に響く。次第に、卒業生の笑い声が遠くなった。「行っちゃった……。」そう思う頃には、泣き疲れて心が空っぽだった。机を見ると、涙と鼻水を吸い込んだティッシュと、三分の二も残っているお弁当が広がっていた。



――――――――――



 誰もいない帰り道は切なさで一杯だった。快晴だった空は、灰色の雲が埋め尽くしている。舞い降りてくる雪が、私を慰めているようだった。


 菫さんとの思い出。辛いこと、嬉しいこと、全てがこの校舎に詰まっている。私の美しくも儚い恋が幕を下ろしたのだ。


 スマホの電源を入れ、菫さんのラインを開く。『削除』の項目に触れたつもりが、何かの手違いで軽快な発信メロディーが流れた。


 今切ったら『キャンセル』の文字だけが残ってしまう。せめて切れるまで待って不在着信にしよう。歩みを止め、耳にスマホを当ててみる。普段から返信が遅い菫さんのことだから、きっと通話にも気付かないだろうな……。


 十回ほど繰り返されただろうか。メロディーが止み、辺りの雑音が聞こえるようになった。やっぱり繋がらなかったか。


「もしもし。菫です。香澄ちゃん、だよね?」


裏返ってしまった声が耳に飛び込んできた。きっと、慌てて電話に出てくれたのだろう。私は空を見上げ、ゆっくりと目を閉じる。まぶたには菫さんが目を丸くしている姿が浮かんだ。


「はい、香澄です。突然でごめんなさい。実は伝えたいことがあって――。」


さっきのミスが菫さんを呼び寄せた。きっと神様が「まだやらなければならないことが、君にはあるだろう?」と準備してくれたのだろう。大きく息を吸い、にわかに頭によぎった言葉を声に出してみる。


「初めて会った日からずっと、菫さんが好きでした。」


 一粒の涙が頬を伝うまでに、そう時間はかからなかった。

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