見ざるもの

 ノイズが走る。視界の中を黒い虫が這い回るようにうごめいている。意識はすぐにはっきりしたが、臓物を抉られて圧迫されている気持ち悪さと痛みが雑ざり、吐き戻しそうになった。

蝋の臭いが鼻を掠め、耳には鈴の音色と、恨みがましく続くボソボソとした声が聞こえる。


倒れた俺のからだの上に、人の形をした黒い影がのし掛かっていた。


 全身真っ黒な体から、ポタポタと黒いインクのような液体が俺の肌に垂れる。そのたび、タバコを押し付けられて焼き焦げるような痛みに襲われた。



_____『ドウ、シ、テ』



どうして?


そりゃこっちが聞きたい。

お前はなんだ、誰だ。これは一体なんだ?どうして俺は、ここにいる?


【我は竜の子なり、しかし為らざる者。名を贔屓ひきと称す】


 繰り返し聞こえる。俺を責める声が迫り、何かの黒い腕が伸びグッと俺の首を締め、身体に鉛の塊が乗っかってくるような重みが襲う。



【汝、重き宿命を背負わさんとす】



 喉の中に異物を突っ込まれて、気管を詰まらされるような圧迫と苦しみが襲う。夢ではないかのように、現実に起きているように、苦痛が襲う。


 このままだと俺は死ぬ。だが、いくら喉を潰されても、息が続かなくなっても、いつまで経っても、死が見えてこない。これだけ呼吸の自由を奪われてるって言うのに。



【重き宿命はもたらさんとす。汝の命を磨り潰しても尚、続く。我ら九子を見立てた時、汝は、その形を取り戻す】


何か…言ってやがる。聞こえてはいるが、意味が分からない。何を話しているのかが。


俺は死ぬのか、もうそうなってるってのか?


どうせ逃げれもしないなら、死んだ方がラクってもんなのにな。


この意識がなくなって、死に行くまでは、時間がかかるってことなのか。




_____「やあ、ヤス」



………?ルイ……?


 あいつの声がふいに聞こえたと思った瞬間、目の前にあった真っ黒い影が散り散りの灰になり、首にかかった力が嘘のように消えていった。


 視界が眩しく光が入り、真っ白になったかと思うと、目が慣れてきて人の頭のようなもんが俺を見下ろしている。ようなもんっていうより、人の頭なんだが。


スッと伸びる髪質のいい髪、右側の目を髪の毛で隠すような前髪の伸びかたが気になる、まだ幼さが残る素朴な顔立ちの、コウルイの顔が見えた。



早上好おはよう、ヤス」


……お前、なんでいるんだ……?


「びっくり。昨日ヤスがこの近くの路地裏に倒れてたって、運ばれてきたから。何処かのチンピラにでも襲われたんじゃないかって」


チンピラにやられて倒れてた…だって?そんなわけがあるか。俺は昨日……そうだ。俺は昨日、地下に行ってたんだ。その辺の路上で寝てるわけがない。


「地下?…ヤス、あんなところに行こうとしてたの?ここの地下は良いところじゃないから、行っちゃダメって言ったのに」



……言ってたか?


俺はどうやら、地下のチンピラに取っ捕まってこっちの路上に放り出されたもんだと思われてる。だがそうじゃない。俺は、確かに地下に行った。この辺の何処かにあるエレベーターに乗って、下へ降りて、それで、異様なものを見た。この場所に巣食う"あり得ないもの"というのを。



「荷物はあそこにあるので全部?財布もカメラも取られてなかったみたいだよ。運が良かったね」


 部屋の隅に俺の持っていたカメラと肩からぶら下げる鞄があるのが見える。財布の中身までは見てないけど、貴重品が何も盗られていなかったから珍しいとルイはニコニコしながら言った。


 俺は軋む備え付けのベッドから立ち上がり、バッグの上に置かれたカメラを手にし、すぐにあるものを確認する。


………やっぱり、夢じゃない。あれは現実に起きたことだ。そう確信を持てるものが、カメラの中身にあった。

あの時、ヨミに手渡されたインビジなんとかってカメラのフィルムだ。入ったままになってやがる。


あの野郎、俺に一体何しやがった?


「おーいルイ~いるかー?ヤスの具合はどーだー??」


 ノックどころか勝手に鍵開けて入ってきたのはユーハンだ。

相変わらず胡散臭い雰囲気が出てる。


「大丈夫みたいだよ」


「ったく大丈夫かよ?ヤスになんかあったら、阪口に殺されるのは俺なんだぜ?」


勝手に開けて入ってくるな。


「良いじゃん、管理者なんだからヨ!」


ちょっとでいい。誰か俺に、安全なスペースを誰かくれないか。


「なんだよ、一体何処の奴等に絡まれたんだ?ヤスはよそ者なんだからよ、カモの標的だぜ」


 俺はそこまでボケッとしてねぇ。それに俺は昨日、エレベーターで地下に連れてかれたんだよ。多分この辺にあるどっかのな。

 俺が倒れてたってんなら、近くに女はいなかったか?そいつがそもそもの元凶なんだけど。


「女?何々、こっちに来てもう現地妻作ったのか?」


ちげーわど阿呆。

おかっぱ頭で、目がやる気のなさそうな感じで、背がこんくらいの…ちょうどルイぐらいのだ。


「いって~な、殴るなよ。夢でも見たんじゃねぇ?地下に行くエレベーターなんてハイテクなもん、こんなでたらめ建築物に取り付けられるわけねーて。女はその辺にいるが、俺が見つけてきたわけじゃねーから知らねぇよぉ」


 エレベーターがない??嘘つくな、確かに俺は見たぞ。地下にだって行った。

地下に行ったとはっきり言うと、ユーハンはめちゃくちゃ驚いて俺の肩を掴んできた。



「地下に!?お前、どーやって行ったんだよ!?だから路地に転がってたのか!?」


 だから、エレベーター使って行ったっていってんだろ。何度も言わすな。


「バカ野郎!!撮影は昼!!この地区一帯だけって言っただろ!!」



 だから、変な女のガキに連れていかれたんだって言ってんだろ!!…って言い返そうと思ったが、もうめんどくさいから言うのを止めた。



「あんなとこに入って五体満足で出てこられたのは運が良すぎだっつーの!!町内会の耳に入ってなきゃいいが……いや待て、お前をあそこから引っ張り出して路地に捨てたのが町内会の誰かだったら??やべぇ!!よそ者入れたって知られたら俺殺される!!…今から夜逃げして間に合うか…」


「落ち着いてユーハン。そうだったらまず、ヤスの目の前にいるのは僕達じゃないし、会長に会ったときに何か言われてるはずだよ。チンピラに襲われたぐらいに思ってるさ」


 状況が飲み込めてない俺よりもユーハンの方が夜逃げを考えてパニックになってるのを、唯一動じてもいないルイが嗜めて、本人はパニックが残りつつも我に還った。


 地下は異民シュンハイと言われる奴等の生活区域。そこに立ち入るのは禁止されてることじゃないが、色々ルールがあるらしい。

 まず向こうの奴等は昼間にこっちの九龍領域には立ち入れないし、よそ者は地下に立ち入ることすら厳禁。かと言って地元の奴等ですら立ち入らないらしい。


 だからユーハンは怒ってるんだとルイに言われたが、そんな忠告は一切聞いてない。学校で噂レベルでそんなとこがあるって聞いたぐらいだし。…でも、もしあそこで起こったことが夢じゃないなら、地元の奴等ですら行かないってのは身をもって知った。


でも、ここの奴等は、あれを知ってるのか……?



「何はともあれだよ、ヤスが無事でよかった。今後外歩くときは、市街沿いを通った方が迷わないし安全だよ。とりあえず、ご飯でも食べに行かない??カレンも心配してたし」



 話をさっと切り替えてルイから外食を提案される。

確かに腹は減ったが、あまり整理のついてない頭のまま行く気にはなれない。

ちょっと一服させてくれと残ってたタバコに火を点けた。



「全くよー。くれぐれも問題は起こさねぇようにしてくれよ!!怒られるだけじゃ済まねーんだぞー特に俺は」


「まあまあ」


あいつらの声を背に、考える。

あれは夢だったのか、それとも現実だったのか。


これだけでかい要塞だ。九龍城の下に地下という区域がある事になんら怪しく思わないが、あそこはどうにもおかしかった。


 あのグェイってのを抜きにしてだ。あそこには人の気配が全くなかった。近くに居住区域がなかっただけなのかもしれないが、生気が全体的に感じられないというか、なんというか、絵の中の空間を始終眺めてるような感じで。


空気も少し異様で、身体が重くなったような気がして、肌に触る風とか空気の流れに滑り気があるような………とにかく、こっちの感じとまるで違う。



 出来るなら、もう行きたくねぇ。阪口が言ってた、やばいもんってのはこの事なのかもしれない。とんでもない箱の一端を見てしまった気がする。



『ヤス』


……あいつは、一体誰だ?あの声を思い出す度に、妙な感じがしている。



_____



「なーんだ、元気そうじゃない!来たばっかでリンチ受けたって聞いたから、もっとボロボロになってると思ってたわ」


 飯を食いに連れ出されて、ルイとユーハンの他にルイの彼女のカレンも混ざって定食屋で飯を食った。汚い店だが、味はそこそこ美味い。厨房のところに吊るされてるなんかの肉にハエが寄ってきてるのが不衛生ではあるが。



「ルイ、もっと食べなさいよ。食が細過ぎて見てられないわ!胃だけは昔から成長出来てないのね!」


「うんー…あんまり食欲湧かない体質でさぁ」


「お前ってあんま食わねぇよな。ヤスとカレンを見ろよ、同じ量食ってるぞ」


 皆が言う通り、折角外食に出てきたってのにルイの膳にはお粥と三個の餃子しかない。それに対して俺達三人は多すぎるのかってぐらいの量で炒飯やら肉料理やらがっつり。


おい、具合でも悪いのか?



「平気だよ。これは、昔からだから。胃が少し人より小さいだけさ」


「ねー心配になるでしょ?だから身体も強くならないのよ!!身長だって伸びないし!」



昔からってのは、お前らは幼馴染みみたいなもんか?


「そーよ。ルイは孤児院育ちだけど、私はパパとママがその施設で働いてたからついていって、一緒によく遊んだわ」


「昔は大人しかったのに…」


「何?大人しかったのに??大人しくなくなったから、何???」


「何でもございません」


へらっと笑いながら誤魔化すルイを、キッと睨み付けるカレンを見て、「いちゃつくな~」とユーハンがビール飲みながら茶化す。

カレンは一般家庭で育ったらしい、じゃあ子供の頃からずっとスラム育ちだったのかと聞くと、中華丼を頬張りながら違うと答えた。



「別にうち貧乏じゃないし、出身も香港なの。私の名前英風でしょ?パパの友達にイギリスの人がいてね、その人の娘の名前を取ったんだって~。由来そんなの?って感じ」


なるほど、外から来たってことか。


「それでね、仕事の関係で私が5才の頃にこっちに移って来たの。最初は、嫌で嫌でしょーがなかったわぁ。外から見ると、でっかいお化け屋敷みたいだし」


「あー。だから最初の頃、お母さんが離れようとすると大泣きしてたんだ?」


「なんでそんなこと覚えてんのよ!!」


「記憶力はいいから。昨日のことのように覚えてるよ。僕らの事までお化け扱いしてたよね」


「…それであんた達は、面白がって私を散々脅かして来たわよね。わざと気持ち悪くてでかい虫を見せてきたり、突然追いかけてきたり、暗い倉庫にわざと閉じ込めてきたわ」


「それは記憶にないな」


「あんたに限って忘れたとは言わせないわよ!!」


 今じゃたくましくルイの首根っこを掴んで凄んでやがるってわけか。ふーん、やっぱりここにいる奴等は、基本的に普通なんだな。違法行為に手を染めてる連中ばっかりかと思えば、飯屋もあるし、色んな子供も入れば主婦も老人もいる。孤児院や老人ホーム、学校まで完備されて、電気や水道のインフラもハチャメチャながら通ってる。


入ってみれば、ただの普通の町。狭いのと不衛生な事以外は。


「ハイヨー、フカヒレスープオマチー」


「親父ぃ~スープは主食の前に持ってくるだろフツー!」


「イラナイナラ、サゲルヨ」


「いやいやいるって!!ヤス、スープ来たぞ」


 おう。今頃スープかよ、普通は主食と一緒かその前に………………うぉっ!!!!?


回されてきたスープを受け取った際、お膳を持った店主の姿を見て、思わず席を立って声をあげてしまった。ビックリした三人の顔が、俺を見上げている。


「は?何々??」


「ヤス?」


「なぁんだよどーしたよ??変なハエでも飛んでたか??」



…………俺の目がおかしいのか??



 他の三人は普通に見えるのに。ふと見た店主の顔、着ている白い調理服に、いるはずのないものがびたっと張り付いている。


それに誰も気づいてない。こうやって対峙して、店主の黒く覆われた顔が首をかしげてこっちを見ているのに。


 キーーンッと耳鳴りと頭痛に襲われる。黒く虫のように這いずる三匹の"それ"は、なにも知らない店主の身体に纏わりついて、蠢く。


 でっかいゴキブリが顔と服に張り付いているのなら、こんなにでかいのがいるかって話だ。

じりじりと炭の塊みたいなのに見えるが、邪気を纏っているからそれだって分かる。地下で見たものと…同じだ。



 なんの冗談だ、目に何が起きてるってんだ。



ドクドクと波打つ頭痛に耐えきれずぐっと目を瞑った。またユーハンの声と肩を揺さぶる振動が来るまで瞑ってた目を開けたら、普通に呆然としてる店主の顔と姿があって、あれは、どこにも居なかった。



「おい?大丈夫かよ?なぁ??まだどっか悪いのか??」


胡散臭いツラだが、心配の言葉をかけてきたユーハンに、なんでもないと答えた。一瞬だが、こんなに冷や汗が出たのは、初めてかもしれん。

立ってしまった席にゆっくり戻りつつ、挙動不審に店内を見回し出した俺を見て、前に座ってた二人も、心配そうに俺に声をかけてきた。



「ヤスってば、襲われた時のショックとかが残ってるんじゃない?お医者さんに診てもらったら?」


「そうだねカレン。また診てもらった方がいい。起きてから何か症状が出てくることもあるからね」



いや…悪いな。大丈夫。なんか、ハエが飛んでたから、驚いただけだ。

ここであんな変なもんを見たと言っても、余計頭がおかしくなったと思われるだけだろうから嘘をついた。


ユーハンは「無理すんなよ?虫はそこらにいるから慣れるんだぜ」と言い、肩を叩いてきた。

二人は始終俺を気にかけるように会話をしつつ、食事を終えた。




_______



途中までルイと一緒に帰って別れ、自分の家に帰って来た。

ドッと疲れた。ただ飯を食いに行って、戻ってきただけなのに。あらゆる物の周りを気にしてびくびく歩かなきゃならなかった。


 家具も最低限のものしかない、狭い部屋の中のベッドに寝転がる。はぁっと大きく息を吐いてそのまま眠りに入ろうとしてふと、斜め前の荷物の山を見た。


 持ち物は取られてないと言ってたが、あまりよくチェックしてない。カメラの中身を確認しただけだ。

重い腰を上げて起き上がろうとして、ふと綺麗に畳まれた、俺のシャツに目が行く。昨日着てたシャツだ、ルイが世話してくれてたってんだからルイが畳んでくれたのか。………?なんだ、これは。


畳まれたシャツの胸ポケットの部分に、折った手紙が差し込まれていた。

それを広げ中身を確認すると、そこには数枚の中国紙幣が入っていた。


これは…報酬だと言うことか?結局、あれが一体なんだったのかよくわからねぇ。…確かめてみるか。あれが夢じゃないってことを。

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九龍城_魔窟の撮影師 作者不詳 @humei-9g30

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