肺を満たす煙草の煙を味わい、咳き込んだ。煙草は疲れてクタクタになった体をどうにか誤魔化してくれる。


 それでも誤魔化し切れないときは、この辺じゃ肉まんと同じぐらい簡単に買える"ブツ"を使う。俺みたいなろくでなしなら、誰しもが通る道だ。


ここに来てからそんなブツは一度も使っていない。なのに俺は、快楽と絶望と狂気の中にだけ存在する、"ありえないもの"を見る事になった。



 ヨミが連れていったのは、阪口が行ってはいけないと言っていた九龍城の地下、侵入禁止の看板と鉄格子で張り巡らされた暗い地下通路。


 ゴミとジャンク品ばかりがここにあると思っていたが、そこには…煤のように黒く、虫のように這い回ってて汚水を啜り、落ちたゴミを食べている人でも動物でもない、"何か"だ。


 俺には、それがはっきりと見えた。肉眼では見えないものが、カメラのレンズを通すと、そこに映るんだよ。



「ここではそう珍しいものじゃないよ。見える人は少ないけどね」



 グェイ

本来はこの世に存在していない、あの世に巣食う魔物。人間の脳ミソと欲望が大の好物だが、それ以外は、汚物を喰うことしか許されない化け物。それを、俺に退治してもらいたいと言って来た。


 最初は何を言ってるのか、脳ミソがブッ飛んじまってるのかと思った。帰り道が分からないせいで、黙ってついていく以外になかったが、連れて行った先には、生きたまま人間の頭にくっついて脳を食らう化け物がいた。



その周りにはさっき言った通り、集るように他のグェイが集まっていて、酷い有り様だった。



それをどうしたって?



____「"撮るんだ"ヤス」




 意外にもやベー事に首を突っ込まされてるんじゃねぇか。


 ボブカットから細いうなじを見せた背中が振り向いた。浮世離れした美貌と奈落の炎を覗くような瞳が俺を見る。



「こいつはもうダメだよ。逃げるなら外の方が良かった。こんなところに逃げ込むなんて、きっと素人だ」



どういうことだよ?



「この間、銀流街で騒ぎを起こした奴らの逃げ残りかもしれない。それ以外も有りうるけど。そんなことより、このままにしとくとグェイが集ってくるから」


 簡単に言いやがる。どうかしてる。

文句を言っても、ヨミは良いから撮れと俺に指し示すだけでそれ以外の選択肢を与えない。


仕方なく、頭蓋骨が砕けた頭部に引っ付いた黒い何かに向けて、カメラを向けた。


 蒸し暑く汗ばむ手先で、カメラのフォーカスを合わせる。黒い何かは男の体の所々に引っ付いて、うごめていてたが、俺達には何故か反応しなかった。

だが、脳を食らうそれは、ぼやっと黒い煤を纏う体を動かして俺の方を向いた。



 肉眼では見えなかったものがそこに見える。黒いもやに包まれていた下に、胎児のような姿をしていて、カラカラに骨まで痩せ細った化け物が、男の脳みそを歯にくっつけて、ぼんやりと俺を見ていた。



 恐ろしいというよりも、気持ち悪いその正体に声をあげそうになる口を食い縛った。



 これは一体、なんなんだ?俺にはどうして、こんなものが見えてる?


 化け物の剥き出した目がギョロっと動いて、ケタケタと笑い始めた。周りにいた奴らも笑っていた。笑う声が重なりあって、耳の中にウジが沸いてくるような気もした。



 直視しているものに堪えきれず、俺はシャッターのボタンを切った。その瞬間、まぶしい光とむせかえる焼き焦げるような匂いが充満し、叫び声が辺りを転げ回っていく。



 嫌な臭いが辺りを包む。シャッターの光を浴びて、いくつかの個体は煤を撒き散らしてただの炭になり、生きた個体はゴキブリのように這いずり回る。

 それを隣にいたヨミがいくつか容赦なく足で潰し、俺も足元にカサカサやって来たものを踏み潰した。


感触はまるでスナック菓子を踏んだようなあっさりとした感触だ。呆気なく潰れて砕け、そして磨り減って消える。




「そのフィルムで撮ってこの世界に存在を引っ張り出す。幻惑同然の化け物をどうこうできるようになるってわけ。けどまだ、全部はやれないか」



 俺は何をするって言うんだ?今みたいなもんを撮り続けろってのか、それともそこの死体処理か??


「前者。最近数が増えてね、駆除できる撮影師シェイニィロウシが、色々あって不在なの。 この階層は、ギリこっちの管轄なんだけど、そういう理由でほったらかしてたら増えたの。赤猫チーマォ達がやってくれればいいんだけどね」


あいつは一体なんだ?見てくれは現地人っぽかったが。


「説明しても分かんないだろうからしない。この下に元々住んでた奴らってことにしといて。だいたいこれで分かったよね?」


…今までの人生、ここまでとは言わずも、世界の何処かに繁殖するカビのようなものを見てこなかったわけじゃない。


 阪口は俺がここに来る事を止めたい感じだったし、東洋一のスラム街にこういう一面があるわけがないと花畑な脳ミソはしてねぇ。


んで、こんなことをいつまで続けさせるつもりだ?俺にも仕事があるんだが。



「この先に探し物と、片付けておきたい場所があるの。グェイが増えすぎてなかなかそこまで行けなかったからさ。…つか、あんたそこまで忙しくないでしょ」



一日中風景画撮ってる訳でもあるまいしと生意気に痛いところを突いてくる。確かにそうだけどよ。


「まだこの先にもいるから、片っ端からやっちゃって。ただの虫でも」


 ズリズリと黒い墨を靴底から剥がすように地面に擦り付けて、ヨミは目の前に開いてる通路の穴を進み出す。


おい、この死体どうすんだよ?



「ほっといたって行き着く先は同じだよ」


……誰かに取りに来させるつもりなのかもしれん。さすがに遺体の処理は御免だ。


 悪臭が付きまとう蒸し暑い空間からさっさと脱出し、ヨミについて行きながら、予想以上に視界に映ってくる黒いモヤを適当にシャッター切りながら進む。



 ただの幻覚か虫と思えばいいが、正体を聞いた後だと気持ちが悪い。それに、時々変な声を出してたり、俊敏に動き回ってるのが更に嫌悪感を増す。


その中を涼しい顔で歩いているのが、まだ高校生ぐらいの女のガキだ。その辺で拾った新聞紙を丸めて、俺が撮って転がしたグェイを時たま叩いてる。ゴキブリが出ても気にしないタイプだな、絶対。



「ゴキブリは嫌いだから」



…今の、口に出てたか?頭の中で思ったつもりだったが。



「家は同居人がゴキブリ対策しっかりやってるから出ないけど、こんな所だとバルサンどんだけ焚いても無駄遣いだよね」


それが難点なんだなーとかあまりにも呑気な声。お前、こういうの慣れてるのか?



「九龍人なら大抵。グェイとは知らずとも、心霊現象なんか日常茶飯事。心霊スポットもあるぐらいだしさ」


ありそうだな。俺は霊感ないからまるで分からんが。ないのにこれが見えてるってのもおかしな話だが。


「着いた。案外近くて助かったわ」


 話してるうちに目的地に着いたらしい。着いた先には、水の滴る音と空調パイプの音が遠くに聞こえるがらくたでふさがった道だが、懐中電灯でそれを照らしてよく見ろと言う。


「こういうのを穢れって言うのさ。がらくたの中に何がある?」


 人間が二人分の広さの道にはがらくたが詰まれてる。その道の先は黒くて何も見えんが、さっきと同じで異様な空気があるのが分かった。そしてそこに、まるで何か違うものがあったような気もしてくる。



「道の向こうは空間が分断されて塞がってる。ここは偽物の空間」


偽物の空間?


「グェイは万物をねじ曲げる。事実を虚実、嘘を真にするように。だからここは、入ったら二度と出られない魔窟って呼ばれてる。そこにあった道を無くしてしまうことだってあり得るから」



俺が見てる場所は、本当じゃないって事か?何でそんなことが出来る?



「普通の基準からそろそろ外れてよ。そういうものなんだよ」


どうしろと?


「カメラ見て。撮るべき場所が分かる」


 言われるがままに突っつかれた自分のカメラのレンズを覗いた。レンズを通しても、空間が何か違うものに変わってる訳じゃないが、詰まれていたがらくたが変な様子を見せる。


 おもちゃから家電、紙くずまでのガラクタの隙間から黒い姿のグェイが這い出してるのは序の口、おもちゃの顔についた目玉が蠢いていたり、電子レンジの中に顔があったり、紙の文字がうようよと動いているのが見える。


 思わずレンズから目を話してがらくたの山を見直すが、そんな様子はない現実の無機物があるだけ。どっちが幻覚なのか、分からなくなってきたが、このままボケッとしててもしょうがないから、シャッターを切った。



 眩しい光が視界を数秒間覆った後、また現実に視界を戻す。

じわじわと崩れて、溶けてなくなっていくがらくたの山と、煤のように消えていくグェイの粒子が舞った。そして……そこにはないはずの情景が、空間をねじ曲げてそこに入り込むように組み立てられていく。



 そこに出てきた広い通路には、使い捨てられた線香だらけの地面に幾つかの寂れた廟と、何かの大仏の様なもの、華やかな金色の亀の置物が中心にあって、淀んだ色をした水晶玉が奉られてる。



「上出来だねヤス。やっとここまで来れた」


 ヨミはその場所に躊躇なく入り込んでいくと、何処からともなく風が吹き、消えていた蝋燭に火が灯って明るくなった。今のは、なんの現象だ?自動的に蝋燭の火がつくシステム?そんなからくりがこんなとこにあるわけねぇのに。



だいぶ奥まった所だが、ここはなんだ?


竜生九子ジュオロンジーズーを奉る廟だよ」


竜生九子ジュオロンジーズー?


「竜が産んだ九子の霊獣の事。…うちの守り神みたいなもの。ここには、贔屓ひきって亀を奉ってる」


 こんなとこに来たかったのか?奉ってるってわりにはずいぶん荒れてる。手入れしてないみたいだが。…気味が悪い場所だな。


 俺とヨミしかいないのに、四方八方から視線を感じる。


「グェイがいたせいで随分長く、来ることが出来なかったんだからそりゃ荒れるよ。ヤス、この水晶を撮ってくれる?」


 今度はそんなまじない物を?なぁ、さっきから思ってたんだが、こんなことして変な呪いとかにかかったりしねーだろうな??



「何さ、怖いの?」


こんなの見たら多少はチビりそうになるだろと言いかけたが、ニヤニヤしたムカつく笑い方を見て、別に。と一言返事だけにしておいた。



「平気さ。むしろ、良いことがある。贔屓ひきが起きれば、この辺一帯にグェイは入ってこれない。定期的にここを片付けるつもりが、色々あって出来なくてさ。それで、赤猫の奴が怠慢だって怒って、マジ勘弁だよね」



 そろそろ教えろよ。お前は、何者だ?

普通のガキが、こんな現実的じゃないことを知ってるわけねぇだろ。



贔屓ひきを呼び戻してくれたら、教えてあげる」



 黒い空間に灯る赤い蝋燭の炎のような色をした瞳が怪しげに光る。

朽ちかけた祠の前にある淀んだ水晶玉が微動だにせずそこに待ち続ける。



カメラから覗くと、そこに一体、何が映るのか。


緊張と好奇心と恐怖が混じる。悟られないように表情を保ちながら、構えた。


 鈴の音と吹く筈がない風が吹いて、蝋燭の火が一斉に揺れた。自然に起きた風でも、なんかのファンが回ってできた風でもない。___何か大きなものが動いて出来た風だ。



 枠が視界の端に見えるレンズの向こう。水晶玉が写るはずのレンズの向こうには、があった。


祭壇で囲まれたこの空間に、狭苦しく収まった何かが俺を睨み、思わずサンダルを履いた足が無意識に後退る。



 戦艦のような分厚い甲羅の体に、そこから覗く顔のようなもの。体には黒い液体が纏わりつき、ベタベタと波打っている。



神か仏


そんな類いにも見えない。これは、祟り神だ。穢れてしまった神だ。俺はそれを目の前にして写真なんて撮ろうとしてる。こんなの、もう正気でもなんでもねぇ。




 あいつはを奉ってると言ったが、俺が見ているこれはそうじゃない。

この場所に。そんな気がした。



____『………你在……重复』


 それは黒い液を口から垂れ流しながら、俺に何か語りかけてくる。俺にはわからない中国後で。その声だけで俺の体に地鳴りのような振動が伝わってきた。


_____『一次又一次……地复活…获得身体和记忆』


 何を言ってるのか分からないが、俺に何かを語りかけいるのだけは分かる。シャッターを押そうと思っても、なかなか指が動いてくれない。


 俺は恐怖で、固まってた。大抵のことは問題ねぇ、やってやると息巻いていた若い自分ですら腰抜かして逃げ出そうとするぐらいには、今の俺も、かなりきつい。やつに纏わりつく黒い液体が徐々に俺の足元に迫ってくるのも、じわじわと距離をつめて骸のように痩せた体を這いつくばらせて、囲む。




____『你……死定…了。你肯定杀了我们,恢复记忆……杀了你的女儿』



ふいに意識が、亀の口のなかに飲み込まれていく。体はここにあるのに、ただ意識だけが真っ黒な闇のなかに飲み込まれる。



あぁ、まずい。これは。

そう思っても、逃げることが出来なかった。



____『是的………你复活是为了……杀死你的女儿』



 迫り来る亀の顔と声、地面を覆い隠す黒い沼のように広がった液体の中から這い出る何かが俺の足の周りに集まってきた時、後ろからヨミの声が割り込んだ。


「ヤスッッ!!」


グッと力強く捕まれた肩。視界と亀の顔の間を何かが横切り、亀の顔が雄叫びを上げて遠ざかる。


その瞬間、俺の指も無意識のうちにシャッターを切っていた。


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