イケメンには裏がある

鶴森はり

ヤンデレ予備軍

 予定のない残業。セクハラ紛いの行為をする上司。故障するコピー機。昼食のパンが売り切れで食べ損ねる。二日かけて仕上げたデータ破損。


 一週間、運勢が最悪だと思えるような災難が次々と襲いかかった。疲労とストレスは蓄積し、身体が鉛のように重かった。


「これ、よろしくお願いします」

「わかりました」


 地味な同僚の男が書類を渡して、立ち去る。それを見送ってから、壁に貼り付けたカレンダーを確認した。


 金曜日。今日が終われば休日が来る。


「せんぱぁい」


 無心となり虚ろな瞳で、コピーされていく紙を眺めていれば声がした。


 甘くて柔らか、はしゃいだ後輩女子である。


 桜子にとって職場のオアシス、癒やしの存在。

 いつも通り笑顔を向けたいが、頬は動いてくれなかった。まるで板でも入っているかのよう。


「せ、先輩。お疲れですね」


 駆け寄る姿は、さながら大型犬。ふわふわとしたクリーム色の髪を揺らした後輩が、心配そうに顔をのぞき込んだ。


 幼い言動に、派手な外見により一部の人間から誤解されている彼女。心ない社員から悪口を叩かれることも、ある。

 しかし、へこたれる様子はない。強い娘である。

 地獄の一週間、大変だったろう彼女の目の下に隈ができているを知っている。

 化粧で隠して健気に頑張る姿。


 桜子は優しさに目頭が熱くなった。


「君だけだよ、私の癒やし」

「だいぶ、やられてますね」


 訳のわからない発言に、後輩は苦笑しつつも労うように背中を擦る。

 暖かい手のひらに、先輩としてしっかりしなければと気合いを入れた。

 

 本来、気を遣うべきなのは桜子である。


「先輩。もう家に帰る予定なんですよね」

「うん、疲れたから、風呂入って寝る」

「そう、ですよね」


 歯切れが悪い返事だ。迷うように目線を彷徨わせた。何かを秘密にするように「ゆっくり休んでくださいね」と微笑んだ。

 別の目的があったのでは。桜子に配慮したのだろうと、思い切って自ら尋ねた。


「どうしたの? 困りごととか、あったなら言ってね」

 

 あなたのためなら火の中、水の中。

 重すぎる続きは、空気を読んで心に仕舞った。


「実は今日、合コン予定なんですよ。別に彼氏とかいらないんですけど、人数あわせで来てくれるなら、食事代タダでいいって」

「え、そうなんだ。良かったね」

「それで、あと一人、欲しいらしくて」


 言い淀む姿。さすがに察する。

 つまり桜子にも頼みたい、ということであろう。


 確かに、これから参加というのは遠慮したい誘いではあった。とはいえ、かわいい後輩の頼みを無下にするのも気が引けた。


「もちろん、お金はいりません。お店のお酒が、美味しいって噂で」

「行く」


 即決である。


 家で化粧を削ぎ落とす勢いで拭き、つまみと麦酒をあおりたい気分ではある。

 だがしかし。そこに美酒、しかも無料となれば拒む選択肢はないも同然。


 何より頼られているのだ、応えてやるのが先輩の務めだ。


 終始不安そうにする後輩に、平気だと言い聞かせる。

 すると、安堵したように胸をなで下ろした。花が咲いたように微笑み「ありがとうございます」と頭を下げる。兎のように跳ねる姿はあいくるしい。


 やはり引き受けて正解であったと嬉しくなった。





 後輩のためなら。何でもできる。


 そのときの自分に嘘はない。だからこそ、彼女の横を陣取りつつ食事を楽しむつもりであったのだ。


「お姉さんって可愛いっすよね」


 夜。身支度を調えて、二人揃って約束の飲み屋へと出向いた。


 二人とも彼氏を探す訳ではないので、隅っこに座った。場の空気を壊さないように和やかに、飲み会はスタートした。はずだった。


 目の前の男。金髪に染めて、耳には銀色に光るピアス。派手な姿をした年下は、何故か桜子に狙いを定めていた。


 輪を外れた桜子に、わざわざ近づいた。

 サラダをつまもうとした手に態とらしく触れたり、机の下にある足同士を偶然装いすり寄せたり。熱っぽい目線を投げ続けている。


 推定、年は三つぐらい離れている。

 恋に年齢など関係ないとは思うが、好みでもない。彼も、他にかわいい子がいるのに物好きである。


「桜子さんって、お酒好きなんすか」

「ええ、まぁ。ほどほどに」

「俺は嫌いなんですよねぇ。なんつうか、苦いっていうか。身体にも悪いし、ジュースとかの方が旨いし。桜子さんも止めた方がいいっすよ」


 素っ気ない返事の桜子に比べて、男はよく口が回るものである。


 上から発言に、営業用の微笑みでお茶を濁す。怒りを表面に出さないようにするのだけは長けている。

 社会人になり身についた特技は、役には立つが、使えば虚しくさせた。


「それとも、酔いたいとか」

「そうかもしれません」

「期待してもいいっすか」

「……はい?」

「酔う気ってのは、お持ち帰りとか」


 随分と、発想豊かなお坊ちゃんですこと。


 思わず嫌味が浮かんだ。外には溢さず飲み込めば、頬が引きつった。


 自分も恋愛経験が豊富とは言い辛いが、そこまでぶっ飛んだ思考はしない。

 その理論だと酒を飲む人間は、お持ち帰りを望んでいる。などという暴論になる。

 

 そんな世界は御免である。


 面倒な人に絡まれた現実に、ため息をつきそうになる。

 

 すると隣に座った後輩の小指が、自分のそれに触れた。

 目を向ければ、彼女が心配そうに様子を窺っており「ごめんなさい」と言外に伝えていた。

 彼女も困っているらしく無視を決め込んだ顔で、口を一文字に結ぶ。

 

 様子に気付かないのか、別の男は面白くもない話題を永遠と提供し続けていた。

 

 頭が良いのが自慢したいのか、と辛辣な思い。

 心にゆとりがなくなりかけているのを感じた。

 

 駄目だ。そろそろお暇しよう。盛り下げるかもしれないが、我慢の限界がある。

 折角の美味しい食事も、これでは台無しである。


 男のものであろう刺激臭に近い香水に耐えつつ、口を開いた。


「すみません。私たち、帰りますね」

「えぇ、早すぎじゃん。もう少しいてよ」

「いえ、明日は予定があって。朝早くてですね」

「大丈夫だって。ね、ちゃんと送っていくし。女の子二人で帰るのは危ないって。襲われちゃうよー?」


 目の前の男、どうにもしつこい。


 後輩も帰り支度していたが、男の嘗めきった台詞に固まっていた。小声で「大丈夫かは私と先輩が決めるんだけど」と呟いたのが聞こえた。


 天使のように優しい彼女でも怒るのだと、場違いな感想を抱いた。

 現実逃避である。


 どう乗り切るか。頭の中で次なる一手を考え倦ねていると。


「――あぁ、いたいた。こんなところで何してんの。探しちゃったじゃん」


 よく、通る声であった。


 軽薄。明るく振る舞ったそれに聞き覚えはなかった。だが耳によく馴染む。


 自然と目を向ければ、背の高い男が桜子へ、手をひらひらとさせていた。まるで旧知の間柄であると言わんばかりに。


 隣で立ち上がった後輩に目配せした。ぶんぶんと勢いよく首を横に振る。彼女の知り合いではないようである。 


 とはいえ、自分も身に覚えがない。人違いではないかと、見つめた。


 艶やかな黒髪に赤のメッシュ。琥珀色をした瞳。日本人離れした容姿は、人形のように整っていた。


「さ、帰ろ? 心配したんだから」

「あなた、は」


 桜子を遮り、得体の知れない男は近づく。迷うことなく肩を組み、頬同士がくっつく程に寄せられたと同時。


「話あわせて。帰らせてあげる」


 男の唇が、桜子の耳に掠めた。


 悲鳴を飲み込めば、愉快げに喉を鳴らす。どこか猫のような魅力を持つ男は、心底桜子の反応を楽しんでいるらしい。


 小声で囁かれた言葉がなければ、即刻突き飛ばしていただろう。


 正直、薄ら寒いものを感じた。あまりに人離れしている。態度も飄々としており、よりいっそう浮き世離れしていた。


 関わってはならない。本能が告げる。


 だが、琥珀に捕らわれた身体は、自分のものではないかのように凍り付いていた。ぞわりと総身が粟立つ。拍動する音が、やけに大きく聞こえた気がした。


「あの、あなたは、どなたでしょうか?」


 参加者の女がしおらしく尋ねた。上気した顔、潤んだ瞳を上目遣い。

 奇妙な男に対して女の武器を最大限に使っている。見目麗しければ、突如乱入してきた輩でも構わないらしかった。


 可能ならば立場を代わって欲しい。


 獲物を狩らんばかりに他の女も騒ぎ始めた。


 面白くないと、不満なのは男のみである。混乱して戸惑うのは桜子、後輩という何とも妙な空間と化した。


 皆をどうやって黙らせるのか。

 些かの興味で、真横にある端正な顔を横目で眺めた。


 目を細め、唇が弧を描く。裏があると思わせるに十分な怪しい笑みであるはずなのに、妖艶で誑かす魅力があった。


 事実、向けられた人間たちは感嘆の声を上げて、熱っぽく蕩けた表情をする。


 ますます恐ろしい。何が目的なのか。


「俺はね、この子の彼氏。迎えに来ちゃった」


 やけに甘ったるく、しな垂れかかる。


 婀娜っぽさに桜子は数秒固まり、徐々に内容をかみ砕き、意味を飲み込んだ。


 誰が、誰の。

 私の。彼氏。


 長く細い指が桜子の頬をつつき、同意を求めてくる。自分が彼氏だろうと。


「勝手に合コンに行っちゃうんだもん。俺、怒ってるんだから。寂しかったなぁ」


 嘘泣きをしつつ、しなを作る。

 自分より大きい成人男性がかわいい子ぶる。


 普通なら見られたものではないが美丈夫のおかげで、あいらしさすら感じさせた。


 男が猫のごとく擦り寄ると、女子から落胆が伝わってきた。明らかなブーイングはなくとも雰囲気は重い。


「ほら、帰るよ。彼氏なら、俺がいるでしょ」


 流れるように指を絡ませて手を繋ぐ。乱暴ではない。エスコートのような優麗で、無駄が一切省かれた動き。


 出会って一分も満たない人間だ。皮膚が引っ付く感覚も不快感があった。

 何より自分よりかなり大きな手のひらは飲み込まれているようで、落ち着かない。恐怖が勝っていた。

 

 不安要素は残るが、このまま店から脱出するのは良い。

 その前に、一端足を止めた。思惑を知ってか、彼もすんなりと従う。


「帰ろ、送るよ」


 桜子は、呆然と立ち尽くす後輩に声をかける。隣に不安因子が微笑むが、置いていくよりはマシなはずだと言い聞かせた。

 何かあれば自分が身代わりにでもなればいい。


「はっはい」


 彼女は頭が取れる勢いで頷く。バッグを引っ掴み、小走りで近づいてきた。

 男とは逆、桜子の腕に抱きつく。どこか威嚇するように美麗な男を睨んだ。


「これ、お金。まぁ空気悪くしたお詫びだと思って受け取ってよ」


 自称彼氏は、まるで紙くずでも捨てるかのように札を机にばらまいた。

 下品な動作だと蔑み、文句の一つ溢そうとして。


「いいんすかぁ」


 男の、これまた欲に塗れた完成が響き渡った。見れば全て一万円。それが十枚。


 明らかに飲み代の代金ではない。


 ことの重大さに気付き、思わず金銭感覚が狂った自称彼氏に声を荒らげる。


「何をしてるんですか。こんな、こんなの!」

「いーよ。別にそれぐらい」

「ふざけないでください」


 五千円程度ならば財布から取り出すつもりであった。借りなど作るべきではない。


 しかし十万となれば、手取りが少ない給料の上に月末の今日。

 とてもではないが、今すぐには返せない。後日ならば可能だが、数日も関係を繋いでおくのはリスクを伴う。


 ただの、通りすがりの、善人――甘い妄想に浸るほど桜子は愚かではない。

 見返りを要求されるのが恐ろしい。


「どうして君が怒るの? 俺の金なのに」

「あとから返すからです」

「いらないよ。あれぐらい」


 いよいよ怪しさと不気味さが頂点に達する。

 十万円を容易く出せる、知り合ったばかりの女に。裏があるとしか思えない。


「ほら、行こう」


 微笑むと、促すように肩を抱く手に力が込められた。加減をしているのか痛みはしないが、拒否を許さぬ空気。


 桜子は唇を噛み締めて、渋々外へと出た。





 大男と後輩に挟まれた状態は、さぞ滑稽であろう。

 生温い外気に晒されると同時に通りすがりの人たちからの脚光を浴びた。

 とてもつらい。


「あの、離れてもらえません?」


 もちろん、後輩ではなく。自称彼氏に対して頼む。


 だが言われた本人はキョトンとトボけた顔してから、からりと笑った。


 肩に回された腕はそのまま、空いた手が桜子の手の甲から指をなぞる。流れるように絡ませて、恋人繋ぎをした。手慣れている。


「やぁだ」


 甘えた声。猫を彷彿とさせる雰囲気と顔立ちの良さに誤魔化されそうになるが、相手は成人男性だ。普通は距離を取られる。

 顔が良いと、得をするらしい。


 悲しい事実だ。平凡より下の自分の容姿を嘆くつもりはないが、目の前の男のせいで意識せざるおえない。


「それに、お金返してもらってないし」


 ……わかっている。だが。

 腑に落ちないのは何故だろうか。十万なんて大金を勝手にバラ撒いて返して、というのは、理不尽だと思うのは、間違いなのか。


 何が正しいか不明になりつつも、助けられたのは確かだ。と自分を納得させてため息をついた。


「あの、ちょっと待っていただいても? コンビニでおろすので」

「は? えっまじ? お人好しすぎない? 大丈夫?」

「……どういう意味ですか」

「クソ真面目すぎて。うそぉ、え? 本当に? 正気? 高い壺とか買わされるタイプ? 一人で生きていける?」


 殴っても許される気がしてきた。 


 馬鹿にしているとしか思えない発言の数々だが、本人は至って本気らしく、困り眉で問いかけた。


 信じられないものでも見るかのような目に、桜子は頬が引きつった。恐らく自分も同様の目をしていに違いない。


 お前こそただの飲み会で十万投げるとか頭大丈夫か。


 悪態をつきそうになるのを、こらえた。冷静になれと呪文のように唱えてコンビニへとさっさと歩き始める。


 こんな輩とは、早々に別れるべきである。


「待って待って。お金はいらない」

「お金以外で返すつもりないので」

「まぁまぁ。お願いを一つ聞いてよ」


 それでも律儀についてくるのは何故か。桜子の怒りを察したのか。それにしては男は余裕の態度を崩さない。


「俺、実は君のこと狙ってたんだよね」

「……はぁ?」

「あ、間違えた。そうじゃなくてさ、友達になりたくて」


 一度吐いた言葉は戻らない。そんな基本的なことも知らないらしい。


 男は、何事もなく続けるが桜子は違和感を覚えて首を傾げた。


 今の言い分だと、以前から認知されていた。と、とれる。

 しかし、目立つ姿形の彼など記憶にはない。


「失礼ですけど、どこかでお会いしましたか?」


 考えてもわからなければ質問するしかない。


 おずおずと口を開いた桜子に、男が初めて笑みを消した。いじけたように睨む。


「毎日会ってるのに、酷くない?」

「えっ」

「俺、二人とは顔いつもあわせてるけどなぁ」

「へぁ⁉ わ、わたしもっ?」


 後輩は不機嫌に威嚇していたが、突然矛先を向けられ、驚きに声を上げた。


 思わず顔を見合わせる。かわいい後輩も覚えがないらしく、戸惑っていた。


「今日だって、話したでしょ。これお願いしますーって」

「…………あーッッ!」


 一拍。間を置いて後輩が、ハッとした。あんぐりと口を開ける。


 大声が響き渡り、注目されたが、そんなことすら気にならないらしい。「でも、え、全然、は? なに、それ」とぶつぶつと独り言に集中している。彼女一人、合点がいったらしい。


「だ、だから、十万出せたの? おかしくないですか? だって、いくら社長の息子だからって。今は一般社員ですよね?」

「俺、生活費以外のお金って使ったことないんだよね。物とか買っても無駄じゃない? いつか壊れるんだし。あと暇つぶしに始めた副業とかで、お金は腐るほどあるんだよねぇ」

「む、むかつく……読書が趣味とか言ってませんでしたか?」

「あぁ、あれ? 嘘。必要なら読むけど」

「意味が分からない、怖いんですけど」

「なんで?」

「十万を、たかだか飲み会に投げるって、やばいですよ」

「別に。欲しいもののためなら、何であれ幾らでも差し出すよ」


 後輩と彼は打ち解けたようだが、桜子だけはついていけていない。


 散りばめられたヒントを掻き集めて、どうにか男の素性を推理した。

 

 共通の知り合い。一般社員。社長の息子。将来は社長になる有能な人間。趣味は嘘だが読書。それから。

 

 ――これ、よろしくお願いします。

 

 電流が走る。夕方での出来事がフラッシュバックした。

 

 書類を渡してもらうとき。


 同僚。黒髪に黒縁眼鏡をかけて、いつも俯いている。マスクを常時つけて。業務連絡しか喋らない。それでも有名なのは、有能ってだけじゃなく。彼が。


 社長の息子、だから。


「ど、同僚の……?」

「そうでーす」

「……うそぉ」

「ほんと」

「だ、って。眼鏡してないし。性格違うし。髪もメッシュだし」

「今コンタクト。会社で、この髪は駄目だから隠してんの。態度は、仕事中にこんなんだと、他の人困るでしょ」

「そ、それは」

「それに。興味ない奴らと関わるのは面倒だしね。仕事できれば文句言われる立場でもない。今は」

「まっ、まって。情報が追いつかない」


 目が回る。


 大人しい同僚だ、気が合いそうな趣味だな、と思っていた過去が遥か遠くに追いやられる。がらがらと崩れさっていく黒髪、黒縁男子。


 一体、何がどうなっているのか。


「というか、回りくどくありませんか? こいび……友達になりたいなら、さっさと会社で言ってくれれば、先輩は優しいから応えてくれますよ」

「そ、そうよね!」


 後輩の呆れ混じりの疑問に、深く同意する。


 彼のやり方は、まどろっこしいのだ。

 どうやって飲み会を聞きつけて場所特定したのか、非常に気になるが。

 そもそもの話。友人になりたいにしては、行動が逸脱している。

 十万を犠牲にしてまで、この状況を作り上げなきゃいけない理由とは。


「そんなの、決まってるじゃん」


 ふわり。まるで恋する少女のように、無邪気に微笑む。潤んだ瞳がきらきら瞬き、細まる。まろい白い頬が赤を咲かせる様は、誰もが見惚れる。

 事実、桜子と後輩は息を飲み、口を閉ざした。瞬きすら惜しいと眺めた。


「それはね」



 純粋で無垢の笑みとは真逆。

 するりと彼の細い指が、桜子の頬から首筋をなぞった。誘うかのように、甘い刺激を与えるように触れる。名残惜しげに離れる動作すら、含みを持たせて。


 くらりと目眩を起こす桜子に、蠱惑的な瞳を向けた。色情を感じさせ、強引に熱を上げさせるような、強烈な視線。


 息を呑み、動くことすらできなくなる。

 が、それも数秒で終わりを告げた。


「――逃げられないようにするためにだよ」


 十万払わせて、逃亡する人ではないのは知ってた。絶対切れない繋がりを結んで、枷をはめて、逃げ道を潰して。俺から離れないようにするには、これぐらいしないと。本当ならいっそ、足でも切り落として閉じ込めて、俺だけを見つめてくれるようにしたいんだけど。

 

 ……。

 

 早口のあと。沈黙が。続いた。

 

 ぎぎぎっと軋ませながら後輩に振り返る。


 後輩は首をゆるく横に振った。手遅れです、と言わんばかりに。


「逃げましょう」

「そうしよう」


 間髪なく頷き、一斉に走り出す。

 パンプスでは速度が出ない、痛いなど泣き言は吐いている暇はない。「あはは、冗談だって!」という声は聞こえない。


 冗談ではない、あれは確実に本気であった。


「落ち着いて。今のところ俺がしたのは精々、君に近づく男を排除したぐらいだから。まだ」

「不安を煽るしかない発言なんですけど⁉」

「今のところが物理的な手段は取らないよ、まだ」

「笑顔で追いかけてこな……足早⁉ ひぃ!」

「つーかまえたっ」


 語尾にハートマークがつきそうなほど、甘ったるい声とは裏腹。かわいげなど皆無の図体が、のしかかってきた。相手は成人男性、桜子の体は瞬く間に飲み込まれるかのようにホールドされた。両腕を封じ込める奴の力には到底かなうわけもなく。暴れようが、びくともしない。


 食われる。本気で思う。先程の発言のせいもあるが、体の大きさに加えて、反撃も許さない圧倒的な力の差。恐怖以外のなにものでもない。


「せんぱいを離しなさいよ!」

「俺も先輩ですけどー?」

「私のせんぱいは、せんぱいだけなの!」

「ありがと、そんな風に思ってくれるなんて。先輩、感激ー」

「あんたのことじゃないって言ってるでしょぉ!」


 かわいい後輩が果敢に立ち向かっているが、同僚は加虐的な色をのせて笑うのみ。こちらの反応を楽しむ姿、いたぶって遊んでいる。おそろしく趣味が悪い。



「そーいえば、この先にお気に入りの飲み屋があるよね。奢るから行こーよ」

「なんでっせんぱいの行きつけ知ってるの!」

「あそこ、お酒も美味しいけど食事もいいよね。俺が好きなのは馬刺しとあまーいだし巻き卵」

「それはせんぱいの好物!」

「そう、俺の好物」

「だぁかぁらぁー……っあんたじゃないつってんでしょッ!」

「化けの皮が剥がれてるよ、こわーい」

「こぉの……!」


 のらりくらり。本題から外れて会話が絶妙に噛み合わない。こちらからの話は躱すくせに、逃がす気がないとは。かなり、たちの悪い男である。


 桜子は二人の言い合いから空へと目線をうつす。星と月が綺麗だなぁ、と現実逃避。


 ここで逃走しようが男は同僚なのだから、月曜日には顔をあわせる。その事実に絶望しつつ、これから起きる大変な出来事に涙を流すしかなかった。

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イケメンには裏がある 鶴森はり @sakuramori_mako

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