一万本ノック

@phaimu

一万本ノック

「行くぞ康太!」

「オス!」

 康太は兄の慶太からのノックの球を取った.六十八球目.一万球まではまだ遠い.

「行くぞ!」

「オス!」

 六十九球目.しかし,康太はその球を取りこぼしてしまった.

「あッ」

 康太がグローブからこぼれた球をみる.

「今日はもう終わりだな」

「もう一回だけ.もう一回だけ」

「だめだ.明日もできるだろう.それにこの一回で終わると約束したんだ.約束はまもれ」

「分かったよ」

 康太は少しすねた様子で慶太に言った.

 康太と慶太は毎日河原に来て,ノックを打っている.一万本ノックを達成するためだ.それは康太の小学校のうわさから始まった.なんでも一万本ノックを達成すると野球の神様が現れて野球の神になれるという.そんなバカなことはあるかと康太は最初思っていた.しかし,康太の所属している少年野球団の山田が一万本ノックを達成したと言い出した.「野球の神様は出たのかよ?」「野球の神になったのか?」そんな野次を山田は受けた.しかし,そんな野次は山田の打撃を見て一瞬にして吹き飛ぶことになる.山田が練習試合で打率十割でホームランを打ったのである.たちまち山田は有名人になった.その内テレビ局が来て天才少年山田対現役でメジャーリーグのピッチャーとの直接対決の番組が放送された.その直接対決で見事山田はメジャーリーガーからホームランを打ったのだ.打たれたメジャーリーガーの呆然とした顔がお茶の間に放送され,山田の渾身のキメ顔も同時に放送されたのだった.

 山田は康太の親友だった.山田は周囲の人間には野球の神様に会ったかどうかは曖昧にしていたが,親友の康太にだけは真相をしゃべってくれた.

「本当に野球の神に会ったのか?」

 康太が聞き山田が答えた.

「本当さ.詳しく聞きたいのかい?」

「ぜひ,聞かせてくれ」

 山田から聞いた話は次の通り.一万本ノックを達成すると,野球の神様が現れる.ただし,二人だ.打者の神様と投手の神様だ.一万本ノックを達成した山田は,二人の神に尋ねられた.

「私たちのどちらかがお前に力を受け渡してやろう.ただし,どちらかしか選べない.心して考えよ」

 山田は悩んだ挙句,打者の神様に力を伝授してもらうことにした.力を伝授した打者の神様が言った.

「俺は力を授けたから天界にもどる.あとは投手の神しか残らないが,天才打者は人間界に一人いれば十分だろう.投手の神,あとは頼んだぞ.一万本ノックを達成するものが現れたらそのものにお前の力を与えてやれ.天才投手も一人いれば十分だろうから,力を授けたらお前も天界にもどれ.また,俺もお前と野球やりたい」

 そう言って,打者の神は空高く昇って行ってしまった.

 山田が康太に言う.

「先着一名だぜ.やるなら今しかない.康太.俺とお前でコンビを組んで一緒に甲子園に行こうぜ.お前が最高のピッチャーになってくれれば優勝間違いなしだ」

「分かった」

 そんなわけで康太の一万本ノックの挑戦が始まった.

 康太は晴れの日も雨の日も雪の日もノックを受け続けた.始めは数十球でこぼしてしまっていた球もだんだんこぼさなくなってきた.ついには千本ノックも易々と達成できるほど康太は成長した.しかし,その内問題が起きた.一万本ノックを達成するには一日では足りないのである.兄の慶太もさすがに日をまたいでノックに付き合うことはできなかった.康太が絶望に暮れていたそのとき,

「俺がノックを打とう」

 天才打者の山田がノックの相手をかってでた.

 慶太は河原に自転車で向かっていた.康太と山田がノックを初めて今日で四日目だ.計算上は今日の昼頃には一万本ノックが達成されることになる.慶太は河原で山田と康太の姿を見つけた.康太の服はもうボロボロになっている.山田も肩で息をしていてなかなかに辛そうだ.

「山田君,今,何球目だい?」

「これが,......最後の一球です」

 肩で大きく息をしている山田と康太の姿を見て慶太は感動のあまり泣いてしまった.小学生の二人が一万本ノックなどという荒唐無稽な挑戦をしている.そして,今その記念すべき一万球目のノックが行われようとしている.なんて自分は幸運なんだ.これは人類史を変えるかもしれないと慶太は思った.

「行くぞ,康太」

「こい!」

 気合の入った康太の声が聞こえる.山田が球を打った.茶色のグラウンドに球が着地し,バウンドする.しかし,着地した場所に石があった.本来康太の左手に行くボールはイレギュラーを起こして反対方向にバウンドする.そんな,こんなときにイレギュラーするなんて,なんてついてないんだ.慶太は思わず目を覆うとした.しかし,康太はキャッチした.グローブをはめていない肌色の右手でボールをキャッチしたのだ.

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお康太あああああああああああああああああああああああ」

 山田が絶叫して康太に抱き着く.慶太も山田の後を追った.康太,山田,慶太は河原のグラウンドで抱き合いながら大声で絶叫した.心の底からの歓喜の瞬間.これからの人生でもう訪れるのことのないような快楽物質の分泌が三人の脳内で起きていた.

「さわがしいのう」

 投手の神が現れた.

「あれだ.康太.あれが投手の神だ」

 山田が投手の神を指さして言った.

 康太は泣いていた.一万本ノックを達成し,ついに投手の神が登場した.俺はもう成功した人生を約束された.スーパー投手.甲子園優勝.プロ野球入り.メジャーリーグへの挑戦.そしてワールドシリーズの優勝.今ここでそのすべてが決まったのだ.康太の感情は高ぶるところまで高まっていた.

「康太よ.お前を最高の投手にしてやろう.お前はどんな投手になりたい?」

「どんなときでも,投げる球は剛速球で誰も打てない球を投げられるピッチャーになりたい」

「分かった.その願いかなえてやろう」

 まばゆい光があたりを覆った.慶太が目を開けたときには,きれいな服をしている康太と元気そうな山田の姿があった.

「サービスで二人とも元気にして,康太の服も直してやったぞ.我に感謝するがよい.それでは我は天界に帰る.さらばだ人間たちよ」

 そう言って投手の神は空に昇っていった.

「本当に俺はスーパー投手になったのか?」

 康太が言った.

「とりあえず,橋の下に行ってボールをコンクリートに向かって投げてみろよ.そうすればわかるさ.俺も慶太さんもキャッチャーじゃないから球取れないからさ」

 山田が言った.

 康太が橋の下に行き,コンクリートの壁に向かってボールを投げたところ,驚くべきことが起きた.厚さ一メートルを超えるコンクリートをボールが貫通したのである.時速は優に千キロを超えていた.

「すげえぞ,康太! こんな剛速球を投げられれば,どんな打者も打てない! 俺たちは最強コンビだ」

 山田が歓喜の声を上げた.慶太も自分の弟が超絶なるパワーを手に入れたことに喜んで,またもや絶叫していた.

 しかし,それから康太が野球をすることはなかった.どんな状態でも康太の投げる球は時速千キロを超えており,取れるキャッチャーが一人もいなかったのである.

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