アルカルロプスの少年
大橋 知誉
アルカルロプスの少年
ハンナを乗せた恒星間宇宙船アルファ号は目的地である、うしかい座μ星、通称アルカルロプスの系内へ入った。4時間前にコールドスリープから目覚め、ようやく調子が戻って来たとろだ。
あと一時間ほどで同乗者のユウマを起こす時刻となる。
窓の外を見ると、3つの太陽が目視でも識別できた。
アルカルロプス系は、1つの大きな恒星のまわりを小さな2つ連星が周る、3つ太陽を持つ天体なのだ。
その太陽たちの周りには現時点で八つの惑星が確認されており、そのうちの第四惑星から我々地球人は電波を受信した。
その電波は、単純なオンオフの信号だったが、ひたすら2から19までの素数を繰り返し送ってきていた。
それは、ここに数学のわかる者がいるぞ、と我々に伝えてきているものだった。
地球からアルカルロプスまでは約114光年の距離がある。
ちょうどコールドスリープ機能を備えた恒星間宇宙船が完成し、行先を探していた人類にとっては、申し分のない目的地だった。
船は片道運航だった。
目的地にたどり着けさえすればよい。
その先にあるのが仮に “死” だったとしても誰も気に留める者はいなかった。
とにかくどこかへ向かえればよかった。
なぜなら、人類にはわずかな時間しか残されていなかったからだ。
年取った太陽は膨張を続け、その終焉へと向かっていた。
地球の地上も灼熱地獄と化し、人類は残された植物と生き物のを連れて、かろうじて地下都市で生き延びている状況だった。
これまで移住の地を求めて系外惑星の調査を行って来たが、地球の生態系をまるごと移動できるような距離に該当する惑星は存在していないことがわかった。
人類は移住の望みを捨て、地球と共にその歴史に幕を閉じることを選んだ。
ただし、わずかな人数でも生き延びる可能性を託して、今回の恒星間宇宙船の開発が進められてきたのだ。
ハンナは恒星間飛行計画の第一号 アルファ号の船長だった。成績優秀で宇宙訓練学校を卒業した彼女が選ばれることは必然だった。
他の乗組員は、一般公募された。
志願して来たのは、生物学者であり医師でもある多田ユウマを含む、十五名の学者たちだった。
こうして彼らは、人類の夢を乗せて地球を旅立ったのだが、出発してから数ヶ月もたたないうちに、参事は起こった。
乗組員たちの間に原因不明の呼吸器疾患が相次ぎ、懸命の治療むなしく、太陽系を出るころには、ハンナとユウマ以外の全員が亡くなってしまったのだ。
ハンナとユウマは引き返すことも検討したが、アルファ号は大気圏に再突入させると使えなくなってしまう。
次にいつ恒星間宇宙船が作られるのか先は見えない。
そう、地球に戻ることは、人類が誰一人として系外へ脱出せずに滅亡することを、高い確率で意味していた。
ハンナとユウマはこのまま旅を続ける道を選んだ。
この世を去った仲間たちは、船内の施設で火葬にし、遺灰は宇宙へと帰した。
地球にはこの件は報告しなかった。
ハンナたちは託された夢だった。夢は夢のままで終わらせるべきだ。
二人きりになってしまったハンナとユウマは予定よりも早く眠りにつき、アルカルロプスを目指した。
ここにもしも未知の文明があるのならば、こうして多くの犠牲を出しながら、人類と離別してやって来た甲斐があるというものだ。
コールドスリープから目覚めたハンナが真っ先に確認したのは、第四惑星からの素数の電波だった。
それは今なお続いていた。
地球で人類がこの電波を受信してから、この信号は途絶えることなく続いていたのだ。
そのことがハンナを少し不安にさせていた。
変化がない、ということは、これを送った主はもういないのかもしれない…。
ただ、アルカルロプスの太陽はそんな不安もほんの些細なことに思わせてくれるほど美しかった。
この景色を見れただけでもハンナは目的の半分は達成できたと感じていた。
早くユウマにもこれを見せてやりたいと気持ちは焦ったが、その前に確認することが山ほどある。
ハンナはひとつひとつ、この宇宙船の現在の状況を確認していった。
おおむね、船内は正常運用のようだった。
この船には、到着した先で必要となれば使用可能な植物の種、人間を含む動物の精子や卵子が積まれていた。
これらを使うかどうかはハンナの意思に託されていた。
もしもこれらが、到着した先の生態系を破壊する可能性が少しでもあるのであれば、ハンナは迷うことなく、これら全てを破棄する心構えでいた。
「ジーニー。ざっと見た感じ全て正常に見えるけど、間違いない?」
「はい。ハンナ。あなたたちが眠っている間、全ては正常に運用されてきました。」
「長い間ありがとう。」
「いいえ。ハンナ。私にとって時間の流れは意味を成しません。でもあなたと再び会話ができて嬉しいです。」
この船に搭載された唯一のAI、この船そのものと言ってもよい「ジーニー」が男性とも女性ともつかないやさしい声で言った。
「私も嬉しいわ、ジーニー。ところで、ユウマの起床プログラムは正常に動いている?」
「はい、ハンナ。ユウマの起床プログラムは全て正常です。あと5分で完全に目覚めます。」
ハンナはユウマが眠っているスリープポッドルームへ向かった。
薄暗い部屋に昆虫の繭のような形のベッドが横たわっている。
うっすらと青色の光を放っているゆりかご。この中にユウマが入っている。
ハンナはユウマのゆりかごの横に腰かけて、彼が目覚めるのを待った。
時間になると、ゆっくりとポッドの扉が開いて、ベッドがせり上がって来た。
友人の寝顔を見てやろうと、ハンナは覗き込んで、そして、悲鳴を上げた。
そこに横たわっていたのは、ミイラだった。
ハンナは自分が見たものが信じられずに、後ずさって、ユウマの成れの果てが視界から消える位置へと移動した。
「ジーニー、何が起きているの? ユウマのポッドは正常だったんじゃないの?」
震える声でハンナはジーニーに問いかけた。
「はい。ハンナ。ユウマのポッドは正常です。たった今、正常に覚醒し、全身スキャンを行っています。」
「い、生きているの?」
「はい。ハンナ。ユウマの生体反応には異常はありません。何か問題がありますか?」
「いいわ…全身スキャンを続行して。」
「了解いたしました。」
ハンナは恐る恐るユウマの元に戻った。
やはり彼はミイラの姿になっていた。
勇気を出して、顔を近づけ確認をする。
ミイラは呼吸をしていた。
生きている。
ジーニーが感知できない何らかの不具合があって、こんな姿になってしまったのだろうか?
「ハンナ。」
ジーニーが話しかけてきた。
「ただいまユウマの生体スキャンが終了しました。」
「それで?」
「生体反応に異常はなく、呼吸や心拍、脳波に乱れはありません。ただ…全ての細胞が著しく老化しているようです。」
なるほど…これはミイラではなくて、老人なのね。
ともかく生きている。
ハンナは横たわる老人の手を取ると優しくさすった。冷たかったが、死人のそれではなかった。
「ご存じのとおり、私は30分おきに乗客の生体スキャンを行っています。ユウマの前のスキャンは今から23分前に行われました。その際には、このような老化現象は認められませんでした。」
「それはどういうこと?」
「原因は現在調査中ですが、おそらく起床プログラムの最終段階でこのようなことになったのではないかと推測されます。」
「そんなことがあり得るの?」
「わかりません。これは如何なる想定も超えた状態です。現在全力で調査を行っています。」
「ありがとう。ユウマが目を覚ます可能性はあるの? このまま眠ったまま?」
「ユウマは既に覚醒しています。ただ、実際に目を覚ますまでに少々時間がかかっているようです。医務室に運びますか?」
「お願い。」
ユウマが横たわっているベッドに車輪が出現し、ひとりでに進みだした。
ハンナはその後を追った。
自走するベッドに横たわっているのは、見知らぬ老人だった。
ユウマはハンナより9つ年下の若き学者だった。こんなに若い人がこの船に志願してくるとは思っていなかったので、資料を見てまずびっくりしたことを覚えている。
謎の呼吸器疾患で肺から大量の出血をしてしまったサイダーさんやリリスさんを血まみれになりながらも最後まで治療していた勇敢な人。
彼には絶対にアルカルロプスの太陽を見せたかった。
よぼよぼのおじいさんの目になっても、彼には見る権利があるのだ。
「ユウマ、着いたのよ。私たち、アルカルロプスに着いたのよ。」
ハンナは医務室までの道のり、ずっと声を掛け続けていた。
医務室に到着すると、ベッドは壁に設置された機器とドッキングをした。
ユウマの脳波、呼吸、心拍がモニターに映し出された。
どれもこれと言って大きな異常は認められなかった。
ベッドの背もたれ部分がゆっくりと持ち上がって、ユウマの上半身が起き上がった。
それと同時に、ユウマの目がゆっくりと開いた。
すぐに彼のものとわかる緑の瞳がそこにあった。限りなく青に近い緑。ユウマの目の色だ。
そうして、ハンナはこの老人がユウマであると実感することとなった。
老人はゆっくりと首を動かしてハンナを見た。
「ハンナ…?」
わずかに聞き取れる声で老人が言った。
「ユウマ…、そう、ハンナだよ。」
ハンナはベッドに腰かけると、ユウマの顔を覗き込んだ。
「アルカルロプス?」
「そう、アルカルロプスに着いた。でも事故があって…」
ハンナはユウマに現実を告げるべきか一瞬迷ったが、すぐにわかることだと思いなおして、正直に伝えることにした。
「あなたの体は想定上に年取ってしまったみたいなの…」
それを聞いて、ユウマはしばらく微動だにせずにいたが、やがてうつむくと、自分の両手を見下ろした。
しわくちゃで鶏がらのようになった両手だった。
ユウマはふうーっと長く息を吐くと、顔をあげた。
「アルカルロプスの太陽は見えるかい?」
なんだか本当に老人みたいな口調で彼は言った。
「見えるよ。見に行く?」
ユウマが頷くと、ベッドがひとりでに車いすの形に変化した。
車いすは、ユウマの脳波をキャッチして、自動で好きな方向へ動いてくれる。
ハンナは太陽がよく見える場所へユウマを連れて行った。
ほどよい距離があるので、直視しても眩しくはない。
二人はしばらく黙って太陽を眺めていた。
ハンナはこの絶景を画像に収め、アルファ号が無事アルカルロプスに到着したことを地球に向かって送信した。
この連絡が地球に到着するのは少なくとも114年後となる。
そのころ地球にどれほどの人類が生存しているのか、はたまたこの通信を受信できる設備が残っているのか不明だったがとにかく送った。
乗組員の状況については触れずに送った。どっちにしても、ハンナたちを直接知る者は既にこの世にはいないだろう。
第四惑星には3日後に到着する予定だった。
ユウマは一日中うとうとして過ごした。
咀嚼がままならないので、食事はハンナがペースト状の料理を加工し、食べさせた。
自分より年下のはずの友人の口に、あーんと言いながらスプーンを運ぶのはおかしな感じだったが、二人はこの食事の時間を楽しむようになった。
排泄や入浴の介助は全自動のベッドがやってくれていた。
ハンナはユウマのためなら、なんでもやってあげたい気持ちではあったのだが。
ハンナはひとり黙々と惑星への着陸準備を進めていた。
訓練どおり、生存している乗組員全員を連れて行く計画を変えようとはしなかった。
ユウマを連れて行くのは不可能だとは頭では解っていた。
だけど、この船にひとり彼を置いて行く気にもなれなかった。
第四惑星に存在するかもしれない文明については、素数以外、何一つ手掛かりがなかった。
この距離から見ても、高度文明を示すようなものはまだ見えてこなかった。
もしも高度な文明を持った生命がいるとしても、意思の疎通は全く取れないと考えた方がよい。
あちらから電波を発信しているということは、コミュニケーションを取りたがっている可能性が高いかもしれない。
が、送ろうと思って送ったのではない可能性もある。
攻撃性の高い種族で、電波でおびき寄せて捕食するなどの可能性も…、SFじみているが捨てきれない。
人類が用意したファーストコンタクトの方法は……当たって砕けろだった。
どうせ引き返せないのだ。行って確かめるしかない。
第四惑星の大気は、成分・濃度共に地球と類似しているとの調査結果が戻ってきている。
ただし、これは超音波によるチェックなので、どこまで信じるかはハンナ次第となる。
3日後、ついに第四惑星が肉眼でとらえられる距離まで近づいてきた。
第四惑星は翡翠色の惑星だった。
徐々に近づいてくる第四惑星を前に、ハンナはある決断を迫られていた。
ユウマを置いて行くか、ハンナも行かないか。
二人で行く、という選択肢は…残念ながらどうがんばってもなさそうだった。
「ジーニー、どうしよう。私にはどちらも選べない…。」
「ハンナ、私には決断する権限がありません。」
「そんなことはわかっている…。」
「ユウマ本人に聞いてみたらどうです?」
そうだ。彼と話し合うのが最適だ、ということはハンナにもよくわかっていた。
しかし、それを何だかんだと理由をつけて避けていた。
彼女は恐れていたのだ。
ユウマに「置いてかないで、連れて行ってくれ。」と懇願されることを。
彼女はユウマを置いて行くこともできないし、このままあそこへ行かないということもできないのだった。
とうとう、アルファ号は第四惑星の静止軌道に入り、いつでも着陸できる体制となった。
積んできた燃料も底をつき、ここから再びどこかへ飛び立つことも、もうできない。
ここが、ハンナとユウマの終着駅だ。
ハンナは目視で確認できるようになった惑星の表面を観察した。
その面には、常に分厚い雲がかかっており、見える範囲で地表が見える箇所はなかった。
これでは地上に太陽光が届かないのではないか?
本当に生命はいるのか? ましてや高度な文明なんて。
人類のように地下へ潜ったのかもしれない…。
それは充分に考えられることだった。
「よし、決めた。」
ハンナは自分自身に言うと、ユウマの部屋へと向かった。
ユウマには第四惑星がよく見える部屋を用意していた。
ハンナが入ってくると、ユウマはゆっくりと彼女の方を見た。
「行くんだね。」
ユウマはそう言った。
ハンナは小さく、でもはっきりと頷いた。
「僕のことは心配いらいないよ。君には必ずあそこに行ってほしいんだ。」
ハンナは無言でユウマの傍らに腰を下ろした。
「僕と共にここに残るかどうか悩んでいたんだろう? ダメだよ。君はあそこに行くんだ。君が行かないと僕は報われない。」
ハンナは静かに涙を流した。
「ユウマ…本当は私、ひとりになるのが怖い…。」
「僕も怖いよ…。ああ、でも僕らにはジーニーがいるじゃないか。」
「はい、ユウマ、ハンナ。私はいつでもあなたたち二人と共にいますよ。」
その呑気な声にハンナは少し微笑んだ。
「ハンナ、君は誰よりも勇敢な人だよ。僕はそれを知っている。だから行ける。」
ユウマは木の枝みたいになった手を伸ばして、ハンナの手に触れた。ハンナはその手を握り返した。
この瞬間、もしかしたら、この宇宙に残った人類は彼ら二人きりかもしれない。
私のたったひとりの家族…。
ユウマの手を握りながらハンナの中にそんな思いが駆け巡った。目の前の老人が愛おしくてたまらない気持ちになった。
ユウマも同じ想いであることが、彼の眼差しから感じられた。
「ハンナ…君は美しい。その顔をよく見せて…。」
ユウマは消えそうな声でそう言った。
彼がそんなことを言うなんて、本来の彼の性格を考えると意外だった。
ハンナはできるだけ悲しみの気持ちを抑えて、彼に自分の笑顔を見せてやった。
ユウマも皺くちゃな顔で微笑んでいた。
「真夏の天使…」
ユウマがぼそりと言った。何のことだかはわからなかった。
二人はしっかりと抱き合って、これが最後になるであろう抱擁を噛みしめた。
ただし、お互い別れの言葉は声に出しては言わなかった。
ハンナは後ろ髪ひかれながら着陸用のカプセルの前へとやってきた。
惑星と宇宙船を往復できるような乗り物は搭載できなかったために、ここからの道のりも、ハンナが持っているのは片道切符のみだ。
もしも、行きつく先に協力的な高度な文明があれば、またこの船に戻ってこれるかもしれにないが、可能性は限りなくゼロに近いと思われた。
カプセルは一人乗りで、それぞれには1ヶ月分の携帯食料と固形にした水が積まれている。
それが当初の人数分ある。
ハンナは乗客のいなくなったカプセルを先に惑星へと落とした。
それらが破損したり、地上の生物(それらが存在すればだが…)に荒らされなければ、1年以上はあそこで生き延びることができる。
カプセルには永遠の眠りにつけるための装置も搭載されていた。
万が一、たどり着いた惑星で生きていくことが困難だった場合、ハンナは自分の意思で眠りにつくことができるのだ。
自分のカプセルに乗り込んだハンナは、しばらく微動だにせず、ただただ座っていた。
どうしてもカプセルを発射させるボタンを押せなかったのだ。
1時間ほどそうして座っていただろうか。
ジーニーもハンナの心境を察したのか、声をかけてこなかった。
ハンナはやっと気持ちを整理して、カプセルの発射ボタンを押した。
ハンナを乗せたカプセルは勢いよく飛び出し、アルカルロプス第四惑星へと落ちて行った。
このカプセルは、内側から見ると外が透けて見える素材でできているので、地上に着くまでの様子を中から観察することができる。
大気圏に突入すると、カプセルの外壁が一気に高温になり、ハンナの視界は赤く染まった。
その時間は数十秒で終わり、やがて彼女は分厚い雲の中を落ちて行った。
とても奇妙な雲だった。
様々な濃度の翡翠色が重なってできた雲なのだが、地球のものとはかけ離れていた。
どのような成分なのかは不明だが、何だかドットの荒い画像の中にいるように見えるのだった。
高速で落下しているはずなので、その見え方はハンナの理解を超えていた。
ここで、母船から通信が入った。ジーニーだった。
「ハンナ。重要なお知らせです。」
ジーニーの淡々とした声が言った。
「たったいま、ユウマの生体反応が全てなくなりました。」
その意味を飲み込むのに、一瞬の時間がかかった。そして、その意味を理解すると、ハンナは声を出して泣き始めた。狭いカプセルの中で、できるかぎり体を縮めて、おいおい泣いた。
ユウマが逝ってしまった。こんなことなら、最後まで看取ってあげればよかった。
いくらあの状況でも、こんなに早く逝ってしまうなんて思っていなかったのだ。
ハンナは独りになってしまった。
「最後は…ユウマの最後はどんなだったの?」
ようやく落ち着きを取り戻し、ハンナは聞いた。
「直前まで何の問題もなく、正常に生命活動を維持していました。そして、いつものように眠りに入ると、そのまま徐々に消えるように生命活動が停止してしまいました。」
ユウマは眠るようにこの世を去ったらしい。
きっと安らかな顔をしているだろう。そうハンナは自分を納得させるしかなかった。
「ユウマの肉体はどうしましょう?」
「あなたが火葬にすることは可能なの?」
「その行為は許可されていません。」
「じゃあ、コールドスリープ状態にするのは?」
「それならば可能です。」
「じゃあ、ユウマを眠らせて。」
「はい、ハンナ。…が、…んですか?」
「なんて? 最後の方が聞き取れなかった。」
「ハ……、通信……ふ……です。」
どうやら通信が不安定になってしまったようだ。
ハンナはジーニーと通信が途絶えるということ全く想像していなかったので、パニックに陥った。
「まって! ジーニー? ジーニー、応えて。いやだ、ジーニー?」
何度呼びかけてもジーニーは返事をしなかった。
ハンナは完全に孤立してしまった。この雲を抜けたらまた通信が復活するだろうか?
「ジーニー? ジーニー? 返事をして!? 私を一人にしないで!? お願い!!」
ハンナは子どものように泣いた。狭いカプセルの中で、どんどんパニックの波が押し寄せてきた。
冷や汗が全身から噴き出し、じっとしていられないほどの不安がハンナを襲った。
限界ぎりぎり。上部のハッチをこじ開けて外に出たい衝動をやっとのことで押さえていると、急に視界が晴れて、ハンナの目の前に、想像を絶する巨大な空間が現れた。
それは、どう見ても人工的に作られた、空間だった。
ハンナのカプセルは、ほぼ水平の角度でその空間に突入していた。
文明の存在する惑星へやってきたという感動よりも先に、ハンナはこの光景に度肝を抜かれてしまっていた。
それはどう見ても、ハンナが幼いころに通っていた、学校か保育園かの玄関にそっくりだったのだ。
ただし、全てが数十倍…いや百倍はあるのではと思えるほど巨大なのだ。
数キロ先にそびえたっているのは靴箱だった。
そこに子どもの靴がいくつも並べられている。
遠目で見ると、それは本当に子どもの靴箱だった。
だけれど、高層ビルのように巨大な靴箱なのだ。
この惑星の生物は、超巨大なのか?
いや、それにしてもこれらは地球のものに似すぎている。
私に母星の光景を見せようとして計算が違ってしまったのか? その可能性は多いにありうると思った。
ハンナは自分のポットの行先を確認した。
どうやらこのカプセルは、あの靴箱の上に置かれた水槽の中にちょうど入りそうだった。
このカプセルはある程度硬いところにも着地可能だが、水上ならばもっと安全だ。
パラシュートが付いているので、開くタイミングを合わせれば、うまくあの水面に降りられるだろう。
あれが本当に水面だとしてだが…。
ハンナは長年の感を頼りに、水槽の中へちょうど入るよう、パラシュートを開くタイミングを推し量った。
「いまだ!」
絶無妙なタイミングでパラシュートが開き、ハンナのカプセルは水面へ向けて落下していった。
ぼちゃーんと水しぶきを上げて、ハンナのカプセルは着水した。
どうやら本当に水の上らしかった。
少し沈んでから、ハンナのカプセルは水面へと浮かび上がった。
すると、真下から、見たこともない巨大な魚が、ハンナのカプセルへ突進して来ているのが見えた。
クジラよりも大きな…金魚だった。
巨大な金魚は、ハンナのカプセルを餌と間違えて食べようとしているのだった。
「ああ! ダメ!」
そう思った瞬間には、ハンナはカプセルごと魚に食べられていた。
一瞬あたりが真っ暗になり、恐る恐る目を開けると、ハンナは見知らぬ場所に立っていた。
いや…見知らぬ場所ではない…。
さっきの学校だか保育園だかの玄関だ…。
視界に色がなく、モノクロの世界だった。
ハンナはヘルメットの遮光装置が壊れているのかと思い、頭に触ってみたが、ハンナはヘルメットをしていなかった。
そういえば、カプセルの中からいきなりこうなったので、ヘルメットを装着していなかったのだ。
呼吸は正常にできている。
もしかしたら、カプセルの中で気を失って夢を見ているのかもしれない。
「ジーニー? いるの?」
耳に装着した通信機が生きているのかどうか不明だったが、ハンナは話しかけてみた。
通信機からは何の音もしなかった。ノイズすらない。
ハンナはあきらめて、靴箱の上の水槽を覗き込んだ。
そこには3匹の金魚がいて、ゆうゆうと泳いでいた。
ハンナの乗ったカプセルらしきものは見当たらなかった。
ハンナはぐるりと回りを見てみた。
子ども用の靴箱。金魚の水槽。壁や天井には、ハンナも知っている星のお祭りの飾りが取り付けられていた。
向こう側の壁には、子どもが描いたと思われる絵もいくつか飾ってあった。
ここは…保育園だ。
ハンナは玄関から続く廊下に進んでみた。
すべてがモノクロだった。
先に進むと、教室がいくつかあった。
その一つを覗いてみると、少年が一人、長方形の紙を持って何かをやっているとろこだった。
人間の子供だった。
少年は、ハンナの気配に気が付くと、顔を上げてこちらを向いた。
少年の顔を見て、ハンナは息が止まるほど驚いた。
すべてがモノクロの世界で、少年の目だけが、鮮やかな緑色をしていた。限りなく青に近い緑。ユウマの目の色だ。
ユウマ!? ユウマなのだろうか?
「誰のお母さん?」
少年は不思議そうに言った。
ハンナが何と答えていいのか迷って黙っていると、再び少年が口を開いた。
「迷子なの?」
その無邪気な問いに、ハンナは思わず微笑んで、頷いた。
「そうか。ぼくもよく迷子になるんだ。ここはね、保育園だよ。南町保育園。」
「そんなんだ。間違えて来ちゃったのかも。」
「その服、かっこいいね。」
少年がハンナの宇宙服を指さして言った。ハンナの宇宙服は真っ白なボディースーツだった。
確かに少年から見たらかっこいいのかもしれない。
ハンナがもっと話をしようとした瞬間に、少年は急に立ち上がって窓の方へと駆け寄り、園庭へと出て行ってしまった。
そこで視界がぐにゃりとゆがんで、今度は雑木林の中にハンナは立っていた。相変わらず世界はモノクロだ。
辺りはむせ返るような暑さで、けたたましく鳥なのか虫なのかが鳴いていた。
これは…映像でしか見たことがなかったが “夏” というやつだろうか。
そう言えば、ユウマはジパラヤグ地方出身だ…。
農業を行っているジパラヤグ地方では、人工的に季節を作っている。
前方の木に少年がよじ登っているが見えた。
右手に網を持って、危なっかしい動作で木にしがみついている。
ハンナは少年の元に駆け寄った。
それは、さっき保育園で出会ったユウマとそっくりな少年だった。
ハンナが見ていると、少年が足を滑らせて木から落下した。
「あぶない!」
咄嗟に叫んで、ハンナは少年の体を受け止めた。
少年の重みで尻もちをついたが、おかげで二人ともケガをせずにすんだようだ。
少年は、いてて…と言いながら立ち上がると、ハンナを振り返った。
やはり緑の瞳だけに色がある。
「あれ? 前にいた人? お家には帰れたの?」
「うーん…帰れていないのかも…。」
「まだ迷子なの? 大人なのに?」
「そう、大人なのに迷子なの。私はハンナ。あなたは?」
「ユウマだよ!」
予想していた名前だった。やはりこの子はユウマなんだ。
どういう状況なのかさっぱりわからないが、ハンナは子ども時代のユウマと話をしているのだ。
また視界がゆらいだ。
今度は、民家の庭先にハンナは立っていた。
向こうにテラスのようなものが見えたので行ってみると、ユウマが一人で座って果物を食べていた。
ハンナが歩いてくるのに気が付くと、ユウマは果物を置いて、裸足のまま走って来た。
緑の瞳だけに色がついている。
「また来たの? どこから来たの? 前は急に消えちゃったから、もしかしてハンナは天使なんじゃないかと思ったんだ。」
ユウマは果物の汁がついた手でベタベタとハンナの宇宙服を触った。
心なしか背が高くなっているような気がした。
「この前、私と会ったのはいつ?」
ハンナの問いに、ユウマは一瞬困った顔をした。
「前の夏だよ。大丈夫? きろくそうしゅつなの?」
ユウマは覚えたての言葉を使ったようだ。それが可愛らしくてハンナは微笑んだ。
「ユウマはいくつなの?」
「6歳だよ!」
ここでまだ世界がゆらいだ。
ハンナは再び雑木林に立っていた。頭上からけたたましい音がした。
これは…前にここに来た時も聞こえていた音だ。資料で聞いたことがある。おそらく「セミ」という虫の声だ。
向こうにユウマが見えた。彼は小さなケースに虫を捕まえて、満足気に眺めているところだった。
ハンナに気が付くと、ユウマは走って来て彼女に飛びついた。
「ハンナ! ハンナはどうして夏にしか会えないの?」
「私にもどうしてこうなるのかわからない。ユウマはいくつになったの?」
「7歳だよ!」
ユウマは顔をあげると、不安そうな顔をした。
「またすぐ行っちゃうの?」
「うん…たぶん。」
「やっぱりハンナは天使なの?」
「天使? ちがうと思う。」
「じゃあ、何で消えちゃうの?」
ユウマが少し悲しそうな顔をしたところで、また世界がゆがんでしまった。
これは、何なのだろうか? アルカルロプスの異星人がハンナに見せているものなのだろうか?
だとしたら、何故、ハンナの記憶の中にある景色ではなく、ユウマなのだろうか?
このユウマを通じて異星人と会話することができるのか?
次の場面は、学校の体育間のような場所だった。
モノクロだとどうも古びて見える。
ユウマは独り、体育館でボールをついていた。
ハンナに気が付くと、ハッとして、ボールをつくのをやめた。
「私はね、素数に導かれてここに来たの。」
ハンナは思い切ってユウマに言ってみた。
「素数?」
「私たちがね、アルカルロプスと名付けた星から、素数が送られて来て、だから私はここに来たの。」
ユウマは本気で「?」という顔をしていた。
あれ? 違うのかしら?
また場面がゆがんだ。あれは異星人がユウマの姿を借りて私に接触して来ているものではないのだろうか?
次の場面では、ユウマは自宅の庭で、ケースに入れた昆虫をいじっていた。
何だかずいぶん大きくなったように感じた。
少年はハンナに気が付くと、虫をほっぽり投げて駆け寄って来た。そして、逃がさないとでも言うかのように彼女にしがみついた。
「前に、ハンナが言っていた素数ってやつ…。何のことかわからないから調べて、僕、覚えたんだ。2、3、5、7、11、13、17、19…」
「すごいじゃない。」
「何度も唱えたのに! やっぱり夏にしか来ないじゃないか!」
世界はゆらき、ハンナはまた一年後へと飛んだ。
この子は本物のユウマだ。
ハンナは、毎年の夏のひと時、ユウマに会うことを許されたのだ。
彼女はそう解釈した。
これがいつまで続くのかわからないけど、ハンナには彼に伝えるべきことが山ほどあった。
「ユウマ、私は天使とかそいったものではないけれど、未来を知っている。これからする話をよく聞いて。」
10歳になったユウマは頷いた。頭上では相変わらずけたたましくセミが鳴いていた。
「人類は、やがて星と星の間を旅する宇宙船を作る。」
「みんなを他の星へ移動させるのはやめたんじゃないの?」
「そうね…そうなんだけど。アルファ号という数人が乗れる宇宙船を作るのよ。」
ここで時間が飛んだ。
ユウマは部屋で何かを読んでいた。
「ハンナ! 僕、調べたんだ。あまりニュースになっていなかったけど、アルファ号は本当に作られている。」
ユウマはハンナに飛びついて、タブレットに移ったアルファ号の写真を見せてくれた。
「そう、これがアルファ号。だけど、アルファ号の計画は失敗する。」
ユウマは怪訝な顔でハンナを見返した。
「アルファ号は失敗するの。ユウマ、あなた、もしもアルファ号に乗りたいと思ったとしても…うん、たぶん乗りたくなる。でも決して乗ってはいけない。」
「どうして?」
ハンナはユウマに自分が体験したこと全てを語るべきか悩んだ。
ユウマにアルファ号の存在を話さなかったら、もしかしたら、ユウマはあの船に乗らなかったかもしれない。
いや、ハンナが話をしなくてもいずれ彼はあの船に乗るのかもしれない。
どうしたら、いい?
悩んでいる間に視界はゆがみ、次の夏になった。
ユウマはまた自分の部屋にいた。
「虫取りはもうやめたの?」
「うん。」
声が低くなっていた。ユウマは思春期を迎えていた。
もう駆け寄って来てしがみついてはくれないようだ。
「話の続きをしてよ、ハンナ。どうしてアルファ号に乗ってはいけないの?」
ハンナはたまらず泣き始めた。ハンナが泣き出したので、ユウマは驚いた顔をした。
次の瞬間。別の夏にいた。
ユウマは庭にいた。
ハンナがまだ泣いてるのがわかると、そっと側にあったベンチに座らせてくれた。
いつのまにかユウマはハンナより背が高くなっていた。
「アルカルロプスの素数を人類がキャッチしたよ。君が言ったとおりに進んでいる。どういうことなの? 全部話してよ。」
ユウマにどう話せばいいのかわからなかった。
どう話をしても、彼はアルファ号に乗ると言い張りそうだった。
彼に乗るのをやめさせるにはどうしたらいい?
「アルファ号の計画は失敗する。船に乗った人はみんな、死んでしまうの。だから乗ってはいけない。」
「なぜ、君はそれを知っているの?」
ユウマは砂浜に立っていた。また時間が進んだのだ。
ハンナは目の前に広がる景色を見て驚いた。
そこは海だった。地底に作られた海。ハンナの故郷にはないものだった。
「アルファ号の船長候補が発表されたよ。」
ユウマが振り返った。彼は立派な青年になっていた。
「君は、ハンナ・エヴァンズなの?」
ハンナは頷いた。
もうユウマに全て話そう。彼の顔を見ていてそう思った。
「そう。私は…私は、アルファ号の船長。ハンナ・エヴァンズ。アルカルロプスの素数を追って長い旅をしてきた。」
ハンナは話した。
ここまで来た経緯を包み隠さず。
それには、ユウマの時間を何年か使ってしまった。
その間にアルファ号の計画は着々と進んでいるようだった。
「じゃあ、ハンナは今、アルカルロプスの惑星の中にいる、ということ?」
すっかり大人になったユウマが言った。
「そういうことだと思う。」
「なぜ、ハンナはここに来たのかな?」
「わからない。あなたをアルファ号に乗せないためかな。」
「僕に会うためにじゃない?」
そう言って彼は笑った。
ハンナ・エヴァンズが正式にアルファ号の船長として任命された時期だった。
「アルファ号への搭乗を志願したよ。」
ある時、唐突にユウマが言った。
「ダメよ! 私の話を聞いてたの? あれに乗ってはダメよ!」
「僕が乗らなくても君は行くんだ。君が行くなら僕も行くよ。」
「何のために今まで話してきたと思っているの?」
「ずっと考えていたんだよ。なぜ、君が出現したのかって。アルファ号に乗って君と僕は行く。そして君はアルカルロプスで僕に会う。そして、その僕はまた君と一緒にアルカルロプスへ行くんだ。」
視界がゆらいで、また一年が経った。
ユウマは自分の部屋にいた。ハンナに気が付くと、彼は急いで彼女を抱き寄せた。
かつてハンナにしがみついていた本能がそうさせたようだった。
「時間がないよ。もうすぐ僕はアルファ号に乗って君と共に出発する。そしたらこれは終わる気がする。」
ハンナもそう思っていたので頷いた。ユウマは話し続ける。
「これは無限ループだ。アルカルロプスにいる何者かが作ったのか、それとも自然現象かはわからないけど、僕たちは無限ループの中に入った。こうして繰り返していれば、僕たちは無限に存在する。わかる?」
ハンナはその意味がわかったが、ユウマを行かせたくなくて泣いて首を横に振った。
ああ、でもよく知っている。この頑固者は絶対にアルファ号に乗ってしまう。ハンナのよく知るユウマがそこにいた。
「ねえ、ハンナ。泣かないで。僕がやってきたことを全部君に伝えたいけど、たぶん時間がない。君がハンナ・エヴァンズだって知ってから、実は、何年もかけて、アルファ号を飛ばせないようにいろいろやってきたよ。でもどうしてもダメなんだ。このループに入ってしまったら、もう抜け出せない。僕たちはもう、飛ぶしかないんだよ。」
それを最後にユウマのいる景色は消えてしまった。
気が付くと、ハンナはアルファ号の医務室にいた。
点滴をつけられてベッドに横たわっていた。
身体を起こすと、ジーニーがすかさず話しかけてきた。
「心配しました。ハンナ。気分はどうですか?」
「ジーニー? 何かがあったの?」
「それは、私もハンナに聞きたいことこです。」
「先に、そっちの状況を話して。」
「はい、ハンナ。あなたが惑星に落下していき、通信が途絶えたすぐ後に、私は後方より未確認の飛行物体が近づいてくるのを感知しました。スキャンすると、それはあなたの乗った着陸用カプセルでした。どのような経緯でそちらからカプセルが来たのか不明でしたが、私はカプセルを回収しました。続いて、あなたが先に落としてした無人のカプセルも漂流して来たので、全て回収しました。カプセルの中のあなたは、意識を失っていましたので、こうして医務室に運び、治療をしていたところです。それが、約四時間前のことです。」
ハンナはジーニーの報告の内容を頭の中で整理しようとしたけれど、できなかった。これは人知を超える何かが働いたとしか思えない。
「ユウマは?」
「あなたのご指示どおり、コールドスリープ状態にしています。…その、生きてはいませんが。」
ハンナは腕につけられた点滴を抜くと、急いでスリープポッドルームへ向かった。
ユウマのポッドの前にくると、そっと横に腰かけて、ポッドに耳をつけた。当然、中からは何も聞こえなかった。
「ユウマ…。あなたは私に会っていたの? どこが始まりなの? この私も無限の途中なの?」
ハンナはユウマに語りかけ、しばらくその姿勢でじっとしていた。
「ハンナ。ユウマを出しますか?」
「いいえ。ユウマはこのまま眠らせて。」
ふと見ると、ユウマの生体チェックのモニターにエラーが羅列していた。
「ジーニー。ユウマの生体チェックはもうしなくていいわ。ただ、眠らせて。」
「はい、ハンナ。…あの、そろそろ何が起こったのか教えてくれませんか? 着陸カプセルが落下してからあなたを回収するまでの経緯が不明で、状況処理が終了できません。」
私の話を聞いてもおそらく、処理は終了しないわ…と思いながら、ハンナはこれまで体験したことをジーニーに話した。
話し終えると、しばらくジーニーは黙っていた。こんなことは初めてだが、ジーニーは少々困惑している様子だった。
「ハンナの話が事実だとすると、ほんの数秒の間か、もしくはここで目覚めるまでの数時間で、あなたはユウマとの時間を体験し、彼がアルファ号に乗る直前まで見届けて、ここに戻って来たことになります。」
「そうなるわね。」
「私の知る限り、それは不可能です。ただ、人間の脳は、夢を見ている間や、極限状態に陥った際などに、数日分…数年分の体験に匹敵するような情報量を、数分、もしくは数秒で処理することが知られています。ユウマに関する記憶は、惑星に落下する間に見た “夢” の可能性は考えられますか?」
「どうかな。私だったら…この件に関しては、人知の及ばないことが起きた…と処理して、これ以上深く考えないようにするけど。」
「ハンナ。それは実に人間らしい思考です。」
「ありがとう。誉め言葉として受け止めておくね。それはさておき、この惑星に誰か居るのか居ないのかはわからないけど、我々は全力で侵入を拒否されたようね。全部戻って来たんだから。」
その代わりに、その者たちは、私とユウマに無限の時間をもたらしてくれたのだ。とハンナは心の中で付け加えた。
「侵入を拒否…。そのとおりですね。」
ジーニーは淡々と現実を受け止めていく。ジーニーにとっては、人類の夢を乗せ百年以上の年月をかけてここへたどり着いた…などという背景は、あってないようなものなのだ。
「そしたら、その意識に敬意を払って、我々はこの惑星にこれ以上干渉するのはやめましょう。」
「わかりました。具体的にどのような対応をしますか?」
「ちょっと考えさせて。」
ハンナはアルファ号の顛末について、アルカルロプスの惑星が良く見える、ユウマが使っていた部屋に籠って考えた。
見下ろす翡翠色の惑星には、何もないようでいて、確実に何かがあるようだった。
じゃないと、あんなことは起こらないだろう。
こんなに拒むのだったら、なぜ、素数を使って我々を呼び寄せたのだろうか?
呼んでいるつもりはなかった?
ユウマが私を呼ぶために素数を唱えていたから?
………。
ハンナは半日以上、いろいろと考えを巡らせていた。
「ジーニー。決めたわ。」
「はい、ハンナ。」
「この船に積んでいる、全ての生体の種を破棄して。」
「それは人類の精子と卵子も含みますか?」
「含みます。この船に存在する地球由来の生体が、かの惑星に混入する可能性を全て消していきます。」
なぜかハンナはジーニーの口調を真似して言った。とても人間の口からは言えないような指令だったからだ。
「はい、ハンナ。わかりました。ただいま、全ての種の破棄が完了しました。破壊した種は全てケース内に密閉しています。」
「それでは、この船で生きているのは私だけね。」
「はい、ハンナ。そのとおりです。」
その回答は、冷たくハンナの心に響いた。
ハンナは自ら永遠の眠りにつくことも考えたが、できる限り、この船で生きてみることを選んだ。
船ごと破壊されなかったということは、ここにいるのは許されたと解釈できた。
予定よりも人数が大幅に減ってしまったので、彼女が彼女の寿命を生きるために必要なものは充分に足りそうだった。
船は惑星の静止軌道上にあるので、隕石の衝突など極端なことがないかぎり、ハンナの寿命よりも先に惑星に墜落する心配は考えなくてよさそうだった。
でも、念には念を入れて。
「ジーニー。あなたの最優先事項を、人類の保護から、あの惑星の生態系の保護に切り替えて。」
「切り替えました。」
「うん。じゃあ、アルファ号の耐熱シールドを無効にして。空調は私の行き来する範囲だけでお願い。」
「はい、ハンナ…。これで、万が一この船があの惑星に墜落した際には、大気圏で燃え尽きます。」
「よろしい。」
ハンナは満足して、お茶を入れると、アルカルロプスの惑星がよく見えるお気に入りの席に座った。
それから、ハンナは85歳でその生涯を終えるまで、静かに一人で暮らした。
最後はそっと眠るように。彼女は安らかに息を引き取った。
ハンナが亡くなると、ジーニーは彼女の最後命令のとおりに、アルファ号の全ての電源を落とした。
アルファ号が再び目を覚ますことはもう無い。永遠に。
(おしまい)
アルカルロプスの少年 大橋 知誉 @chiyo_bb
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