やっこちゃんの犬

綿引つぐみ

やっこちゃんの犬

 やっこちゃんは犬を飼う。

 むくむくの犬だ。

 飼い主のおじいちゃんがどこかへ行ってしまったので、おとうさんが引き取ったのだ。

 やっこちゃんは散歩する。

 散歩すると犬がよろこぶので、やっこちゃんは嬉しいのだ。

 ある日いつもの散歩道で、犬は突然立ち止まる。

 無理矢理引っ張っても動かない。

 むくむくの大きな犬は、やっこちゃんの力では、どうにもこうにもなりはしない。

 どこか遠くを見つめたまま、きちんとお座りをして、犬はやっこちゃんのことを、もう忘れてしまったようだ。

 犬の向く先、その遥かには森があり。

 でもその他に何もない。

 空に夕暮れがせまり、秋の空気は茜色で。

 とうとうやっこちゃんは犬を引くのをあきらめる。

 急いで、ひとりで、おしっこを我慢しているみたいな不安げな表情で、やっこちゃんは家へ駆け戻る。

「しようがないな」

「しようがないの」

 やっこちゃんが持ち帰った犬のその紐縄を見つめながら、おとうさんもおかあさんも、家の灯りを背にして真っ黒い。

 ──風がつよく吹く。

 からりと晴れた星の夜、やっこちゃんは寝床を抜け出すと、犬を連れ戻そうとひとりで外に出てゆく。

 そして朝のこと。

 裏戸の板を爪削る音に、おとうさんとおかあさんが戸を開けると、そこには一所懸命に尻尾を振るむくむくの犬がいる。

 しかしいるのは犬だけで、やっこちゃんの姿はどこにもない。

 いつまでたっても帰ってこない。

「しようがないか」

「しようがないわ」

 それからもう何百年も経って、むくむくの犬の子供たちは世界中に溢れているけれど。

 茜色の風の吹く今年この秋。

 誰もやっこちゃんのことは覚えていない。

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やっこちゃんの犬 綿引つぐみ @nami

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