催花雨
浪岡茗子
催花雨
狭い室内を、ピルピルとさえずりながらヒバリが飛ぶ。器用に旋回を繰り返すようすを見ていた男は、視線をさげた。
「もう大丈夫そうだな」
両手をあげ小鳥を追いかけていた子どもの足音がピタリと止んだ。枯れ草を集めてのせたような頭がぎくしゃくと振り返る。
「それって、このコを放すってこと?」
男は、灰青の眼を丸くする子どもにうなずいてみせた。
この辺りでは珍しく雪の降った朝。ぐったりとしていたヒバリをみつけたのは、積雪にはしゃいで外に飛び出したこの子どもだった。ちいさな躰に薄く雪を被らせ凍死寸前のうえ、獣の爪にやられたのか、翼には大きな傷がある。
――これはダメだ。
経験から冷静に判断する。しかしヒバリは、子どもの手の中で小さくひとつ鳴いたのだ。
それを聞いた子どもが、男にすがるような目を向ける。
「師匠、助けて」
「もう無理だ」
「でも、まだ温かい。生きてる!」
応えるように、再びピッとみじかく鳥が鳴く。
くるりと背を向けると、炎の揺れる暖炉に薪をくべる。
「俺は鳥の医者じゃないからな。なにもしてやれることはないぞ」
まだ戸口に突っ立ったままの子どもを、顎でうながす。
「そのままじゃ、おまえの手がそいつの熱を奪って殺しちまう」
子どもはあわてて、小鳥のための寝床を用意した。
それから子どもは、かいがいしく鳥の世話を続けた。
幸いにも、血に染まった翼の骨は、折れてはいないようだ。それでもひとのように膏薬を塗るわけにはいかない。煎じた薬を薄め、こわごわとくちばしに一滴垂らす。すると水滴は、わずかな隙間に吸い込まれていった。
朝起きると真っ先に干し草を敷きつめた小箱をのぞいて、ヒバリの息を確かめる。それが子どもの日課となった。
雪をかき分けて地を掘りおこし、朽ち木をひっくり返す。
冬の寒さに耐えて眠る虫を探す子どもに、「鳥一羽のために、春を待つ虫たちを殺すのか」と、男は意地の悪い質問したことがある。
冷たい地面で膝を抱えてしまった子どもはその夜、スープに浮いた羊肉を長いこと眺めていた。やがて小指の先ほどの小さな塊を口に入れると、何十回と噛みしだいてからしっかりと飲みこんだ。
翌日も虫取りに精を出す子どもの横顔は、昨日までとはどこか違っていた。
ヒバリを保護すると決めた際、男は子どもとふたつの約束をかわしている。
回復したら、必ず野に返すこと。もうひとつは、鳥に名前をつけぬこと。
それは、その日が来たときのこんな
唇を噛んでうつむいた子どもの頭に、ヒバリが舞い降りる。
「……いま?」
子どもは不安げに、窓の外へ首をめぐらせた。日はとっくに高く昇っているはずだが薄暗いのは、透明度の低いガラスのせいだけではないだろう。
急に動いた足場に驚き、ひと声啼いた鳥が高く飛びあがる。部屋をひと回りしてから今度は細い肩にとまると、羽繕いをはじめた。
「いや、今日はやめておくか」
外套と傷だらけの革鞄を手に戸口へと向かう。
「どこ行くの? いっしょに行く!」
「すぐに戻る。おまえはそいつと留守番していろ」
くつろぐ鳥を気遣い動けない子どもを残し、男は素早く家を出た。
集落に唯一ある雑貨屋の扉を開くと、入れ違いに少年が駆け抜けていく。
「お待ちっ! 配達はどうするつもりだい!?」
店の奥から怒鳴り声が追いかけるが、その背には届かなかった。
肩をすくめた女店主が、カウンターの内側から男を苦笑で出迎える。
「いらっしゃい。――まったく。あの軽い頭には、遊ぶことしか入っていなのかね」
「そういう年頃だろう」
「まあね。ちゃんと帰ってきてくれりゃあ、まだいいか。どっかのだれかさんみたいに、十年もかかるようじゃ困っちまう」
ふん、と鼻を鳴らした店主から目を逸らし、男は使い込まれて飴色に光る天板に鞄を置いた。
なかから油紙の包みを取り出すと、放るように店主に渡す。
「腰の調子はどうだ?」
「これのおかげで、この冬も寝こまずにすんだよ」
「それはなにより」
男はうっすらと笑みを浮かべた。
「ああ、この前の注文だね。ちょっとお待ち」
店主がいったん奥に引っこんでしまったので、男は店内の棚に目をむける。そこには、彼が調合した薬が並んでいた。
酔い覚ましや熱冷まし、下痢止めなど。集落の外れまで、医者を呼びに行くほどではない傷病のための常備薬が置いてある。このひと月ほどで、あかぎれに効く軟膏の減りが鈍くなったようだ。そろそろ虫刺されの薬が多く出る季節になる。かゆみ止めのチンキに必要な薬草は、まだ在庫があっただろうか。
「先生! これは表の馬車に積めばいい?」
不意に明るい声が男の思考に割って入った。木箱を抱える腕で押し開けた扉から、この店の娘が顔をのぞかせている。
「ああ。いや、自分で運……」
荷物を受け取ろうと手を伸ばしたが、空を切る。
「いいの、いいの。あたし、きっと先生より力があるわ」
抽出に使う酒や油が入った瓶などだ。それなりに重いはずの箱を、娘は細腕で軽々とかかげてみせた。
「あと、酢漬けも入れておいたわ。前にあげた分がそろそろなくなるころでしょう?」
「それは助かる。あれがあると、メシが進むんだ」
もちろんそのままでもうまいが、細かく刻み、肉を焼いたときに出る油で炒め、からめて食べるのもいい。冬のあいだの貴重な食料となっていた。
「なくなったら言って。いつでも届けるから」
器用に片目をつむってみせた娘の姿は扉のむこうへ消え、戻ってきた店主が封書を、ついと男の前まで滑らせた。
「また王都からだよ。恋文かい? ずいぶんとご執心じゃないか」
裏にある封蠟印は鷹の羽。それを見れば、色めいた便りでないことはわかっているはずなのだが……。
「戻るんじゃないだろうね」
封を開けずに手紙を懐にしまう男に、店主は眉根を寄せて尋ねる。
それに小さく首を横に振って答えると、店主は大きくうなずいた。
「それがいい。軍医なんて、いつ戦場に駆り出されるかわかったもんじゃないさ。あの子がまた独りになっちまったら、かわいそうじゃないか」
男の眼裏に、戦死した兵士の遺品を届けに行った家の中で、寝台に横たわる母親の手を握って息を吹きかけていた子どもの姿が浮かぶ。いくらがんばっても、氷のように冷たくなったそれに、再び血が通うことはなかった。
「それにさ」
少々色をつけて渡した代金をかぞえながら、店主はにやりと口角をあげる。
「おまえさんみたいなコブ付きでも、この村にとっちゃあ貴重な男手なんだよ。そうだ! 来月の祭りなんだけど――」
「雲行きが怪しくなってきた」
長くなりそうな話を、鞄を持ちあげて遮る。実際、窓から射し込む光はいっそう弱くなっていた。
挨拶もそこそこに店を出ようとした男の足が止まる。
「よくできてるだろう。三日前に都から来た行商人が置いていったんだよ。土産にどうだい?」
彼の視線の先に気づいた店主がすかさず売り込みを始めたので、品と引き換えに数枚の硬貨を棚に置き、今度こそ扉を開けた。
表では、雑貨屋の娘が馬車に繋がれた馬を撫でていた。
二言三言交わし帰路につく。
風が湿った土の匂いを運んくる。雨雲はすぐそこまで来ているようだ。
家の前で、子どもが鈍色の雲に覆われた空を見あげていた。
「なにをしているんだ。降ってくるぞ」
いつもなら声をかける前に荷下ろしを手伝いに走ってくるのだが、今日はそれがない。
いつもと違うようすに男が近づくと、上を向いたまま瞬きをひとつした子どもの顔に雨粒が落ちた。
「……鳥が」
水滴が涙のように頬を伝う。
「洗濯物を……雨が……戸……忘れて……」
雨が地面に模様を描くように言葉をこぼす。
ヒバリは天候など気にせず、久しぶりの空へ飛び立ったのだ。
「しかたない。いつかは返す約束だっただろう」
名前をつけなくても情は移る。覚悟していたとはいえ唐突に訪れた別れを慰めようと手をのばす。
男の指先が震える肩に届く寸前、子どもはごしごしと拳で頬をこすった。
「これでよかったんだ。もとの生活に戻れたんだから。それが医者の仕事なんでしょう?」
「ああ、そうだな」
「雨、だいじょうぶかな」
「いくらでも雨宿りできる場所はあるさ」
「……家族に会えたかな」
男は、遠い空を見やる子どもの視界の邪魔をする、湿気を含んで重たくなった前髪をすくった。
急にひらけた視界を不思議そうにして、子どもがおそるおそる頭を触る。硬い感触をみつけてむしり取った。
開いた手の中にあったものは髪留めだった。
「これ……」
さきほど男が雑貨店で買い求めたものだ。銀色のサンザシの花がついている。
「会えなくてさみしくなったら、新しい家族を作ればいい。まあ、まったく同じようにとはいかないだろうが」
しりすぼまりに早口で言うと、馬の
本格的に降り出した雨は、とうぶん止みそうもない。
「ほら、早く中へ入れ。風邪ひくぞ」
馬を連れ納屋へとむかう男を、走って追い越した子どもが振り返った。
「生姜湯を作っておくね!」
「生姜の量を間違えるなよ」
「はちみつ、たくさん入れてももいい?」
「好きにしろ」
急かすように手を振ると、どこで覚えたのか「了解」と右手をあげて敬礼をする。
そのぴんとのびた指の先で、一足先に咲いたサンザシが雨滴をまとう。
どこかからさえずりが聞えた。
―― 完 ――
催花雨 浪岡茗子 @daifuku-mochi
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