針と糸とエナジードリンク

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針と糸とエナジードリンク

 双極性障害そうきょくせいしょうがい――気分障害に分類される疾患の一つ。抑鬱よくうつ状態とそう状態または軽躁けいそう状態が繰り返される。薬で治療可能だが、再発しやすい傾向にあるため、長期に渡る再発予防治療が必要である。原因は脳内の情報伝達の乱れによるものだと考えられている。

 ADHD――発達障害の一種。不注意と多動・衝動性を主な特徴とする。前頭葉や線条体の情報伝達物質の機能障害が想定され、遺伝的要因も関連すると考えられている。日常生活に支障をきたすため、環境への介入や薬物治療が必要である。


 目の先には、天井に火災報知器の緑の光のみ。掛け時計の秒針の音は、残酷な時間の流れの象徴と言えるだろう。暗闇の中、ただ時間だけを労する。眠ることの出来ない夜は、とても辛いものだ。

 暇に耐えかねた俺は、ベッドの横の照明をつけ、裁縫箱に手を伸ばす。おもむろに赤の糸と針を手に取ると、糸を針に通し、針を除菌シートで消毒した。太ももの皮膚に薄く針を通して少しずつ縫っていく。脚に実る鬼灯の実。

 世間では、これをボディステッチと呼ぶ。決して自己主張の類ではない。その証拠に、俺は年中長袖だ。他人に隠し、社会に混じって生活をする。夏は暑い。体育の授業なんて地獄だ。

 玉留めをして糸切りばさみで端を切る。玉留めをしなくても糸は抜けにくいらしいが、何となくだ。裁縫用具を箱にしまう。

「そろそろ薬が効いてくる頃だろう」

 市販の睡眠導入剤で今日も目を瞑る――


 七時半に騒々しいアラームが朝を伝える。目覚めは人より悪い。ぐったりとしながらスマホの目覚ましを止める。

「……あと十分」

 二回目の目覚ましが部屋に響く。スマホに手を伸ばし、スヌーズをかける。

「……もう十分」

 そうやってどんどんスヌーズは長くなる。電車に遅れるとは分かっていても、ベッドから降りることが出来ない。

 やっとの思いで寝室を出て、キッチンへ行き、冷蔵庫を物色する。食欲が全くない。何か食べなければ、と思いながらもエナジードリンクだけを取り出した。睡眠薬で眠り、カフェインで起きる。こんな生活を続けて早八ヶ月。俺は自力で社会に適合することは出来ないらしい。今日は抑鬱状態みたいだ。

 もう夏だと言うのに、僕は冬服に袖を通す。もちろん「偽る」ためだ。他人に腕や脚の刺繍は絶対に見せない。朝だというのに、さすが七月。もう汗ばんでいる。死装束が制服というのも粋だろう。

 時計に目をやると、針は八時を指していた。

「やべっ。遅れる」

 急ぎめで駅へ向かう。いつもと変わらない時間に、いつもと変わらない道のりを自転車で駆ける。毎日繰り返される日常。

「あ、筆箱。家に忘れた」


 そんな日常を終わらせるべく、俺は安全柵を越える。二時間目の休み時間、屋上。えらく澄んだ空を見上げて「この空も見納めか」なんて思っていたら、後ろから声をかけられた。

「自殺するの?」

 振り向くと、自分と比べ物にならないくらい顔が整った一人の男が立っていた。柵越しの彼は、俺を止めようともせず、ただ微笑んでいた。

「ああ」

「先客ってことかな」

 すると彼はいきなり柵を乗り越え、俺の横に並びこう言った。

「僕も自殺するつもりだったんだけど……」

「するつもり『だった』?」

「君を見ていたら飛び降りる気が失せちゃった」

 彼は笑って自己紹介をしだした。

「僕は有馬弥咲ありまみさき。見た目は男だけど性別は女。性同一性障害せいどういつせいしょうがいなんだ」

「なんでそれを俺に?大事なことなんだろ」

「別に隠してる訳じゃないしね。まぁ気まぐれってやつだよ。そういえば名前を聞いてなかったね」

 彼は初対面の俺に名前を聞いてきた。死のうとしてる奴に。

「ああ、柴﨑しばさき柴﨑行雄しばさきゆきお

「よろしく、柴﨑」

 しばらくの沈黙。破ったのは俺。

「お前、変わってるな。現在進行形で死のうとしてる奴に名前を聞くなんて」

「別に助けようなんて、素晴らしいことは思ってないよ。というか、そんな資格なんて僕にはない。ただなにかの縁だと思って」

 そして彼は言葉を継いだ。

「柴﨑。突然だけど、僕のために生きてくれないか?」

「どういうことだ?」

 つまりはこういうことらしい。俺が今、前へ踏み出したら彼もそれに続いて飛び降りる。弥咲の命を助けたいのならば、踏みとどまる選択をしろ、と。

 全く、彼は卑怯だ。自分は「助ける資格がない」と言っておきながら、俺にそれを与えた。といっても、未来ある青年を見殺しにする勇気が俺にある訳ないのだ。

「ずるいな」

「まあね」

 彼は笑う。そして俺は彼の提案に乗った。

 俺はただ、自殺しない言い訳にすがりついただけなのかもしれない。真上に広がる澄んだ空は、どうやら明日も見ることになりそうだ。


 そんな奇妙な出会いを経て、今の俺の命がある。もちろん彼のも。彼は俺が初めて気を許した奴だ。自分を偽らずに、ありのままを伝えることの出来る、初めての相手。

 一件があった後、俺は心療内科へ行き、ADHD、双極性障害の診断を受けた。確かに、気分の浮き沈みは激しかったし、忘れ物も多かった気がする。今は毎日、五種十二錠の薬を飲んで生きながらえている。別に生きたいなんて思ってもいないが。

 結局、治療によって症状が改善することはなく、現状を維持している感じだ。毎日のように、なんのために生きているんだと、何度も何度も考える。いっそ死にたいとまで。

 だが彼は、弥咲はそんな俺を肯定してくれた。彼には俺の全てを伝えた。精神疾患を患っていること、ボディステッチをしていること。きっと普通の人は、この時点で俺を拒絶しただろう。彼には感謝をしてもしきれない。


 目の先には火災報知器の緑の光。暇に耐えかねた俺は、ベッド横の電灯を付け、裁縫箱に手を伸ばす。糸切りばさみ、白い糸、針を取り出し、消毒する。脚のホオズキは糸切りばさみで取り払い、左腕に新しく白い菊を縫い上げる。上出来だ。処方された睡眠薬で今日は眠る――


 朝。今日は夏服に袖を通す。躁状態。家を出て、自転車を漕ぎ、駅に向かう。駅の近くの駐輪場に止めていたら、後ろから声をかけられた。

「今日は夏服なんだね」

 振り返ると、見慣れた、やけに整った顔。彼は俺の腕を見て一言。

「菊?いいなぁ、器用で」

「家庭科は五だからな。家庭科『は』」

 二人は笑い合う。作り物ではない、本心からの笑顔。俺は自転車の鍵を閉め、改札口へ向かった。

「あ、体操服忘れた」


 ホオズキの花言葉は「deception(偽り)」 白いキクの花言葉は「truth(真実)」

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