第13話 穴と人間
「よう、
留置所から出た直後に、やけに馴れ馴れしい調子の声が聞こえた。
一度立ち止まり、その顔をまじまじと見つめる。下卑た笑みを浮かべて、イチヨウを見下ろす若い男。ホワイトフィールドがお気に入りの、頭が悪く躾がなっていない若い秘書。
十秒ほどその軽薄な顔を見つめた後、イチヨウは無言でその前を通り過ぎた。お前などに構ってやるつもりはないとでも言うように。
「おいおい、無視すんなよ。これからは同じ旦那のとこで働く仲間なのに」
「··········なかま?」
無礼な男を無視して通り過ぎようとしても、女の脚では叶わない。若い秘書に目の前を塞ぐように回り込まれ、イチヨウは足を止めざるをえなくなった。
「仲間? 私が?」
「そうだろ。一緒にブラックウッドを殺してやった仲間じゃないか。これからはホワイトフィールドの旦那に世話になるんだろ。仲良くやろうぜ。ま、旦那の一番は譲らねえけどな」
若い秘書が胸を張る。誇らしげですらあった。
イチヨウは大きく目を見開いた。五秒ほどその若い秘書の顔を見上げて、それから声を上げて笑う。
高い声で、明るく、華やかに。目尻を下げて、唇の両端を引き上げて、口は小さく開く。音は「あ」と「は」だ。「あ」を一つに対して、「は」は四つ。その次は「は」だけを二つ。その次は「あ」を一つに「は」を四つの組み合わせにする。
「あははははっ、ははっ、あはははは!」
「何笑ってんだよ?」
「う」が一つに「ふ」が三つの組み合わせに切り替える前に、若い秘書が戸惑ったようにそう言った。
目尻を元の位置に戻して、唇を引き結ぶ。次に出す声は、地に這うような低い声だ。
「私がホワイトフィールドの世話になる? 冗談じゃないわ。私には考える頭があれば意見を言う口もある。私は人間よ。ホワイトフィールドの
「はあ? 何だよそれ。意味わかんねえ」
「わからないなら教えてあげるわ。可愛い坊や」
今度は唇の端だけを引き上げる。目尻は下げない。声色はむしろ優しげに、小さな子供に絵本を読み聞かせるような調子にする。
「あんたはね、女と同じよ。ホワイトフィールドの
若い秘書が大きく目を見開いた。信じられないという顔をしている。
「自分は男だからって油断してたのね。あんたは
「はあ? はああ!? ふざけんなよ、旦那はそんな人じゃ――――」
「だったら証明してみせなさい」
救世主は、
聖書の一節には、女は口を閉ざして黙るべきだと、女は男に従うものだと記載されていた。
――――認めてなどやるものか。そんなものが、聖句などと。
「あんたが
若い秘書が、イチヨウの視線から逃れるように目を伏せた。
三十秒ほどその顔を見つめた後、イチヨウは彼を押しのけて歩き出した。
――――一週間後。
とある週刊誌が、エドガー・ホワイトフィールドのスキャンダルを記事にした。
熱愛報道である。相手が女ではなく、いつも傍に侍らせていた若い男性秘書で、しかもその秘書本人がホワイトフィールドとの熱愛を認めたというので、騒然となっていた。
しかし、エドガー・ホワイトフィールドはこれをきっぱりと否定した。すぐに問題の秘書を解雇し、あの秘書が勝手にのぼせあがっているだけで、自分は彼を愛していないと宣言した。自分勝手で一方的な劣情を向けられて迷惑している、私は被害者だと言い切った。
そしてその三日後。エドガー・ホワイトフィールドは殺害された。犯人は、彼に切り捨てられた若い男性秘書だった。
あの秘書は何一つまともな仕事を与えられず、また本人に仕事をするだけの能力もなかったが、常にホワイトフィールドの傍に侍っていた。
だから、男性秘書は、ホワイトフィールドの行動範囲や、警備の人間の数、そして、最も警備が薄くなる瞬間を知っていた。
ホワイトフィールドのお気に入りの、
物陰に身を潜めていた男性秘書が、拳銃を片手に飛び出した。
「愛してたのに!!」
運転手は、主人の盾になろうとしたのだと言う。だが、男性秘書が引き金を引く方が早かった。
エドガー・ホワイトフィールドは、胸を撃ち抜かれて死亡した。犯人である男性秘書はホワイトフィールドが倒れたのを確認した後、すぐさま己の頭を撃ちいて自殺した。
「馬鹿な子ね」
これらの事件を、イチヨウは週刊誌の記事で知った。
ダスティン・ブラックウッドの失脚後、次の権力者として注目を集めていたエドガー・ホワイトフィールドの死。ただの病気や怪我ではなく、痴情のもつれから発生したこの事件は、死者が二人居るにも関わらず、どこか面白おかしく書き立てられていた。
「自分を捨てた
あんな男のために、死んでやる必要などなかったのだ。
「私は
男を殺して、そのまま逃げれば良かったのに。
マリオネットの糸切れて 三谷一葉 @iciyo
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