回覧板

λμ

白き深淵

 急な腹痛に見舞われたタケオは、公園のトイレに駆け込み、小綺麗な便座に腰を下ろした。寄せては返す荒波。酷いものだった。脂汗が滝のように流れ、苦悶とも悲鳴ともつかない声が漏れ、最後には、


「……死ぬかと、思った」


 誰に向けるでもない言葉が口をついて出た。海はすでに凪いでいる。ため息にもならない微風。引っ込みつつある額の汗を手の甲で拭い、上目向いて、人に公衆トイレという安息の地を与え給うた近隣の市議会あたりに感謝の祈りを捧げつつ、トイレットペーパーをいくらか頂戴する。不浄を払い、流し、ついでに額の汗も拭いておこうかと手を伸ばし、


「……ん?」


 タケオは引き出したトイレットペーパーに首を傾げる。


『草: 五百 明日葉あしたばさん。石:二十 会議所にあります』


 文字列である。印刷ではなく、手書きだ。マジックかなにかで書かれたのだろう。

 気付いて観察してみると、そのトイレットペーパーのロールは、何やらゴワゴワしていた。巻き直されたということだろうか。


「……え? 何のために?」


 タケオはするするとペーパーを巻き取っていく。


『草:三百 コウスケさん担当。 草を捨てる際は、半透明の袋でお願いします』

 

 なんだろうか、この、どこかで見たことがあるような文面は。

 文面を読みつつ、カラカラと巻き取って行くと。


『――公園区 回覧板 (水ニ流スベカラズ)』


「……は!?」

 

 タケオが思わず手を引くと、トイレットペーパーはそこでプツンと切れた。


「……お、お、落ち、落ち着け……」


 波が、さざめき始めた。


「いやいやいやいやいや……いや、待て」


 風もなく、換気も悪く、折しも外は炎天下。じっとりと浮かんできた汗は、個室に籠もる暑さのせいか、波のせいか、それとも――。


「草……草って何だ? こっちは三百、こっちは百……会議所にある? ……ウッ」


 波が、うねりだした。タケオは震える手でスマートフォンを出し、『草 隠語』と検索した。高波が四方八方、渦を巻いた。


「た、た、た、大麻……!?」


 では、この『石』というのは?


「大麻……樹脂……」


 ゴクン、と喉を鳴らした。

 この痛みは、胸の奥の心臓か、腹の奥か、どちらだろうか。


「ふっ、グッウゥ……」


 波に揉まれて沈みそうだった。だが、このを使うわけにはいかない。タケオは首を巡らした。ホルダーがもう一つ。開いた。空。

 荒海に雷鳴が轟いた。


「な、な、ナムサン……!」


 幼き日に覚えた魔法の言葉を唱えたが、無力であった。

 タケオは膝に肘を立て、顔を覆い、恐怖と絶望の内に呟く。


「なんだよ、回覧板って……! ふつう、普通、回覧板は回すもんだろ!? それをこんな――!」

 

 ホルダーに手を乗せて気付いた。


「……回すって……え?」


 たとえば、三回とか、四回とか、そう伝えられて、この個室で、を回すとか。

 タケオは膝の間から便器を覗いた。もう流れていってしまった。サイフォンゼット式便器の、白き深淵の向こうへ消えてしまった。

 どうすればいい。

 ここにいていいのか。

 ああ、神よ……。

 また波が高まり始めていた。


 タケオがスマホで通報し、手の混んだ悪戯と知るまで、あと二時間――。 

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回覧板 λμ @ramdomyu

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