第16話 いつ出ていくか、それが決まった日
あれから二ヶ月が過ぎた。
基本的にダールトンの屋敷をベースにして、シロはよくミカと訓練をしていたし、クロは食べ歩きもしていたが、どういうわけかラーシアとコトネに呼ばれることが多く、アカも屋敷とラーシアの研究所を行き来していた。
不満はない。
やることは特にないが、やらなくても済むというのは気楽なものだ。
その日、屋敷の地下にある訓練場で、シロとミカ、そしてケイセが訓練をしていて、それを終えた。
――だから。
「ダールトン」
「アカ」
いつものよう煙草を吸いに執務室までやってきたアカは、煙草に火を点けると、口を開いた。
「ケイセの躰はほぼ完全に修復した。これ以降、問題が発生するとしたら、加齢による関節の劣化などだ。医者に頼め」
「そうか、……感謝する」
「俺としても、いろいろ考察しながら手入れできたから、それなりに楽しめたさ。長居をする理由にもなった」
「――なんだ、もう出ていくのか?」
「それはまだ未定だが、いつ出ていっても不思議じゃねえと思っておいてくれ。どのみち、じっくり腰を据えて研究できる場所は、ここにはねえよ」
「そうか。なら、そのつもりでいるが……借りを返せたとは思っていない」
「借り、ねえ。施術の際に俺が保険として細工をしたのにか?」
「それは私もケイセも同意しているし、お前は事前にそれを言った。本当に組み込まれているかどうか、知る由もない」
どのみち、敵対しようとも思っていない。
そして誰にも言わないだろうが、言うだけ言って、アカは特に細工をしていない。敵対しても大した障害にならないからだ。
「お前からは、与えられたものの方が多い」
「俺は気にしてねえよ」
「改めて、聞いておきたい。お前の目的はなんだ?」
「……以前、こんな話をしたな。水に対して風を与えて、火を熾すことはできない」
「覚えている。法則の話だったな」
「そうだ。俺たちは
「そうだな、雨は降るものだ。水が降ることを、雨と呼ぶ」
「だが、雨を止ませる方法はある」
「……方法はともかく、理屈を通すだけならば、雨の原因である雨雲を排除してしまえばいい――そういう話か」
「そういう話だ。そして、雨雲を排除することは、法則の内側で可能になる。今の俺がすべきことは、その境界線を見極めることだ」
「つまり、内側と外側のラインか?」
「そうだ。厳密には、どこまで内側から触れられるのか」
「……途方もない話だな」
「そうでもない。何しろ、あらゆる術式、つまりは魔術に触れ、考え、研究している限り、そのすべてが手がかりだからな」
「そうか、余計なことを聞いた」
「気にするな」
長く留まるような人――ではなく猫だが、ともかく、そういう感じは受けない。冒険者と旅人の違いは、きっとそういうところにある気がする。
仕事ではなく。
それ以外でも動く。
ノックの音があった。
「失礼しまーす」
「ムシロ?」
「お客様っス。スーツっぽい、きっちりした服の女性で、アカさんを出せって、丁寧に言われて、入り口で待ってるけど、どうします?」
「ああ、そりゃ確かに俺の客だ。入り口のホールで対処する、聞き耳は立てて構わないぜ。古い知り合い……というか、同僚だよ、そいつはな」
「そのわりに、嫌そうな顔だ」
「ダールトン、今は一緒に仕事をしていない同僚を相手に、明るく挨拶をできるほど俺は無責任に見えるか?」
「――はは。少なくとも、明るく挨拶ができなくなるくらいには、無責任に仕事を放りだしたらしい」
「ふん」
そうでもないと言いながら煙草を消したアカは、そのまま部屋を出てホールへ。玄関で直立したまま待っている髪の長い女性の元へ、ゆっくりと階段を下りた。
「見つけたか、ミドリ」
「アカ」
距離は少し離れる。というのも、猫の位置と彼女の顔の位置からして、離れていないと視線を合わせるのが疲れるからだ。
「何をしているのですか」
「あー……」
あまり感情が見えない声色ではあるが、少し厳しいというか、冷たい色が含まれている。
「あなたには与えられた役割があったはずですが」
「役割? あのくらいの仕事、俺じゃなくたってできるだろ」
「そうですね。あなたでなくてもできます」
肯定された。
これはまずい。
アカの視線が周囲を泳ぐ。
「あー、あーなんだ、ミドリ、俺が聞くのも何だが、いつ気付いたんだ?」
「半年前です」
「半年前」
こうして外を出回るようになって、十年と少し。
「え? お前、半年で終わらせたのか?」
「四ヶ月です。アカの捜索に二ヶ月かけましたから」
「よんかげつ」
つまり。
つまりだ、この女は、十年ほどの間にたまった、本来アカがやるはずの仕事を――いやそれ自体は大したことがなく、毎日やっていれば一時間で済むようなことでしかないが、ともかく、その十年分を四ヶ月で終わらせたらしい。
終わらせてくれたようだ。
「ゴメンナサイ」
「次はやりません」
「いや、冗談じゃなく、そんなに気付かれねえとは思っていなかった」
「隠れていたずらをするのは、昔から変わりませんね。引継ぎをしたくなかったのは、行先を悟られたくなかったからですか」
「そうだ」
「次からは、私に報告するように。あの方の許可は取ってあるのですね?」
「もちろんだ」
「目をそらさない」
「…………本人に確認してくれ」
「アカ」
「地下にスライドは発生がなかった。――そう伝言を頼む」
「……、……わかりました。一ヶ月はここで過ごすように」
「断る」
「アカ」
「嫌だ面倒くせえ。俺はすぐ逃げる。すぐだぞ、すぐ」
「次はまた探せと?」
今度こそ、アカは顔を逸らした。
無言のプレッシャーが続いたが、なんとか耐える。そう、耐えるのだ。相手を見てはいけない。
「……結構」
まだだ。
まだ駄目だ。
ここで安心してはならない。まだ顔を見る段階ではないのだ。それで失敗しただろうアカ、そうだ顔を逸らせ。横からのぞき込んでくる無表情に気付かぬ振りだ。
「わかりました、あの方にはそう報告しておきます。――ただし」
「……なんだ?」
「落ち着いたら一度、顔を見せなさい。次に逃げる時は一度だけ、手を貸します」
「その条件なら、一度だけ、飲もう」
「よろしい。――みなさま、お騒がせいたしました。失礼いたします」
綺麗な一礼をして、背中を向け、そのまま出ていく彼女の気配が消え、しばらく無言の時間を過ごしてから、アカは周囲を見て。
――床に、ごろんと寝転がった。
「ああー、見つかったかあ……よりにもよってミドリかよ、疲れたあ」
「お疲れっス。でもあの人、だいぶ優しい感じだったっスよ?」
「知ってる。ほかの言い回しで誤魔化しても無駄なのはわかってるから、俺だってこうして強引にやるしかねえんだよ」
「男って、そういうとこ卑怯っスねえ。結局は、わかってくれってことでしょ?」
「それもそうですが」
廊下の奥からやってきたのは、シロだ。
「それがアカさんの甘さでもありますよ」
「ズブズブじゃないっスか……」
「男は初めての女に弱いですから。本当にそうなのかは知りませんけれど」
「おおう、そう言われればそういう感じもあったっスね」
「シロ」
「聞いてましたよ」
「ならいい。ダールトン、そういうわけだ。三日……いや、五日後くらいには出る」
「ほう? 今すぐではないのか?」
「あいつが展開していった、追跡系の術式を全部解除してからだ」
「おい……」
「俺が気付いたのは三つ、それ以外にも二つは潜ませているはずだからな。どうせ行先は知られるだろうが、追跡系術式にやられるのはごめんだ」
「なら、その間にあいさつ回りくらいしておけ」
「そのくらいの余裕はありそうだ。――明日からな」
今日はもう疲れたと、動こうとしないアカを、シロが抱き上げた。
シロにとっては、どうでもいい話だ。
何故って、アカが行く場所に行くのは当然だから。
※
ミドリには報告義務がある。
しかし、主人とも呼ぶべき少女は、柔らかい絨毯の上で寝転がりながら本を読み、手の届く低いテーブルには菓子類が並び、いつだって話を聞いているかどうかわからない態度だ。
「――とのことです」
「うん、そう」
そんな二つ返事。
これで、ちゃんと重要なことは聞き逃さないし、ミドリとしても、報告をした、という事実が作れていればそれでいいし、また次に聞かれた時、同じ話をすることにも抵抗はない。
「報告は以上になります」
「はいはい、ありがとね、ミドリ」
「では――いえ、失礼、もう一つありました」
「うん、なあに?」
「アカからの伝言です。――地下にスライドは発生がなかったと」
「あ、そう」
それではと、改めて一礼したところで。
「――待て」
少女は勢いよく上半身を起こした。
「地下に、スライドは発生がなかった?」
「はい、そのように」
「誰から」
「ファズカ王国にまで移動していたアカからの伝言です」
「ファズカ……? どこだっけ」
「ここからだと、かなり遠いでしょう」
「うん、そりゃそうだ。でもなんでアカがそんなとこいるの? ……ん? そういえば、最近は布団に重みが足りないとか思ってたけど、アカいないの」
「もう十年ほどになります」
「そっか、そっか。……え、なんでまた」
「許可は取ったはずですが」
「あたしが? ……、……ああ! あははは、確かにそうだ。ちょっと出てくると言ったアカに対し、いっといでと口にしたのはあたしだな!」
「…………」
さすがに言葉の意味合いが違うだろうと思ったが、ミドリは黙っておいた。
「しかし、妙な伝言だね」
「私には理解が及びませんが」
「あたしの知識にもないよ。ただ、少なくとも発生がなかったのなら、過去のことだ。地下とは、おそらくダンジョンだろう。スライドというのが何かは、まだわからないけれど、そこはアカもまだ調べている途中じゃないかな」
こうして会話ができる機会は、まあそれなりにあるが、むしろ好ましい状況だ。二つ返事よりは、よっぽどためになる。
だからミドリも足を戻し、少し離れた位置に正座をするよう視線を合わせた。
「私は
「違うだろうね」
「はい」
「あたしの知識にないってことは、今まで読んだ本にも記載がほぼないと考えていい。数千年前の話になるんなら、こりゃ狐の姫様の領分だ」
だが。
「あいつ、答え合わせはするくせに、正解は出さないからなあ……」
「おそらくアカも、それがわかって探しているのかと」
「ダンジョンの存在は、まだ明確な理由がつけられていない。ダンジョン内部における魔物は、上層であれば気にするほどではないにせよ、下層ではダンジョン特有の魔物が数多く発見されている」
「そちらは書物に記載されているのですか?」
「そうだよ、
「しかし現状、ダンジョンは使われていません。冒険者、あるいは国が意図して開放もしていません。これは地下に主だった資源がないことを指しているのかと」
「うん、その通りだ。けれどね、資源がないというよりはむしろ、資源の取得に生産性がないと考えるべきだ。もしもそれが可能ならば、やっているけれど、そのために消費する人数の方が大きすぎるから、できない」
「計上される損失の方が多ければ、確かに生産性はありませんね」
「ごろつきが入れる場所でもないよ」
「では、牢獄としての役割はいかがでしょうか」
「実際にそれをやっている国もありそうだね」
だから。
「あたしはかつても、似たようなものだと思うね」
「――つまり、予想される数千年前であっても、ダンジョンを利用して何かをしていなかった、と?」
「一層を戦闘訓練で使うくらいはあっただろうけどね。そこから奥は、たぶん限られた数人くらいだろうし、そういう連中は書物にして残そうだなんて思わない」
「そうなると、アカの伝言は疑問がありますね」
「そこだよ。それでも、だ――危険があるのは承知の上で、それでも、地下にスライドって現象は、存在していなかった。地上にはあったんだろうね」
「……避難経路」
「そう考えるのが自然なら、かつて地上で起きていただろうスライドってやつが、一体なんなのか。これはとてもじゃないが、想像が難しい代物だろうね」
「調べますか?」
「――いや、アカに調査報告はさせておこう。調べてもいいけれど、あたしへの報告はしなくていいよ。自分で調べるから」
「楽しめそうですか」
「それが難しければ難しいほど、あたしにとっては面白いパズルさ」
「わかりました。それでは失礼します」
「うん、ご苦労様」
これでまた調べものに没頭するだろうが、アカもここまでは読んでいるはずだ。そうでなければ、伝言なんてしない。
逆に言えば。
伝言した以上の理解は、たぶんアカも至っていないし――それを探る理由も、まだアカは口にしていないのだろう。
だが。
アカのやろうとしていること、やりたいこと、その目標をミドリは知っている。
いずれ達成されることを願っている。
――甘いのだろうか。
いや、間違いなく甘い。
そうでなくては、十年分の仕事を代わりに片付けた上で、逢いに行ったりはしないから。
理論を通した彼と剣を通す彼女の旅 雨天紅雨 @utenkoh_601
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