第16話 僕は化け物

 生命の危機に瀕したとき、身体にパニックを起こさせないよう神経が鈍感になることがあるが、このときの柴田も同じ状態だったかもしれない。暗い穴の底に胴を埋められ、これから命を奪うと言われてなお、柴田の精神は頭上の星空のように、遠く静かなところで、ただ最期の命を瞬かせていた。


 ふと全身に痺れが広がった。それが妙に心地良くて、思いがけず笑みがこぼれる。

「……寒いですか。顎が震えてます」

 気遣う幼い声は、最初に自己紹介をしたときと同じく淡々としている。

「寒くはないよ。ただ、少し怖い」

「僕も同じです、なぜかは分からないけれど」

 二人は沈黙する。夜風が俯く青太郎の髪を揺らし、一呼吸おいて、柴田の顔に柔らかく吹き降りた。

「……ずっと祖母のことを考えていたんだ。自然が好きで、かわいらしい犬や美しい植物に囲まれて暮らしていた。でも祖母は満足しなかった。微笑まなかった。目を細めて、悲しい顔でこう言うんだ。弱くてもいいの――」

「優しければ」

 柴田は瞠目する。青太郎の声が、ほんのわずか祖母の声に重なったのだ。

「――そうだ。俺はその意味が分からなかった。祖母は素晴らしい人間だ、弱いはずがないと思っていた。……でもお前の父さんに言われて、ようやく分かったよ。祖母だけじゃない、人間はみんな弱かったんだな」

 青太郎の目が光る。月明かりを映したのだろう、まどろんだ瞳とかすかな微笑をたたえた表情は眠ったように穏やかだった。

「祖母は分かっていた。美しい光景のために踏みにじられる命のことも、最低限生きるだけでさえ他者の命なくしては不可能であることも、それを知っていながら目を背けないと生きていけないほど人が弱いということも。だから笑わなかった。罪滅ぼしのように」

 そう言った柴田の脳裏に、転校初日、深々と謝罪のように頭を下げた青太郎の姿がよみがえる。(同じだ)祖母も青太郎も、命を易々と踏みにじってしまう人間の宿命に気付いていた。だから祖母は、せめて優しくあろうとしたのだ。それが自身を納得させるだけの弱さにすぎないことを知りながら。

(同じ……?)

 澄み切っていたはずの柴田の心に、波紋が広がる。

 さくり、と土を踏む音が響いた。父親が顔を覗かせる。

「もうよろしいですか」そう言って手に持った薄い板切れを見せる。「蓋をします」

「待ってくれ! もう少し、せめてあんたらの顔を」

 父親は怪訝そうにしながらも母親を呼び寄せる。三人が同時に穴の中を覗き込んだ。

 ――僕は化け物です。

 月明かりの逆光にぼんやり浮かぶ三つの顔。

 ――私らは強い。

 他者の生を貪ることを自覚した、強い化け物。

 ――人は弱いんです。

「……なぜ、泣いているんだ」

 彼ら三人の眼からは大粒の涙がこぼれ、頬を伝っていた。

 指摘された三人は、はっと互いを見交わす。父親は拭った涙を物珍しそうに眺め、それから乱暴に木板を穴へ覆いかぶせた。五枚ほどの板を重ね合わせ、最後のひとすじを塞ぐ前に細かい種粒を撒きいれる。間髪入れず隙間なく穴が塞がれた。


 一片の光もない洞に、激しく言い交す声がこだまする。

(お前がやりなさい)

(父さんがするって言ったじゃないか)

(あんたが独りでも生きていけるようにね、仕方ないのよ)

(いやだ、そんなの)

(母さん、青太郎の脚を)

 どさり、と板の上に人がくずおれる音がした。

(終わるまでは家に入れないからな)

 啜り泣きを響かせながら、足音がふたつ遠ざかっていく。

「そうか、結局俺は最後まで分かっていなかった……」

 葦原家を化け物一家だと思っていた。おのずから素性を暴露されたことで一層、自分たちとは遥かに違う強い存在であり、だから柴田を――人間を弱いと批判する権利があるのだと信じ切っていた。

 だが彼らは、自らの生存のための食糧を確保するだけで、こんなにも心をやつしている。これだけの力があれば複数人を襲うことも容易なはずなのに、長い時間をかけて最低限飢えない食糧を選別し、その選別法も「食糧」側の被害が少なくて済むよう注意している。

「……弱いんだ、彼らも」

 自らを化け物と呼ぶ。強いと自負する。そうやって、生まれ持った特異な力を、人間を食らうという宿命を、彼らもまた肯定しなければ生きていけないのだ。彼らは人間なのだ。

「青太郎」返事はない。「命は平等に尊ばれないみたいだ。……そうだよな、この世のあらゆる命が、誰も傷つけずに天寿をまっとうしようとしたら、みんな死んでしまう」

 だから生きるために命を食らう。心が壊れぬよう目を背ける。美しいものに視線を移す者もいれば、自らが化け物だと開き直る者もいる。

「青太郎」微かに、はい、と聞こえた。「先生を食べなさい。人が生きるには犠牲が必要だ。今回はそれが物を言う肉の塊だった、それだけのことだ」

 わあ、と堰を切ったようにむせび泣く声が響く。――良い声だ。なんのしがらみも抑圧もなくこぼれ出した八歳の感情には、どんな大芝居もかなうまい。柴田は次第に痺れで感覚を失いつつある意識の中で、教え子を目いっぱい褒めようともがいた。が、無明の闇の中で四肢を封じられた男にできることなど、もはやないように思えた。

「先生……僕は、柴田先生を食べるよ」

 言われた男は、すでに自らが先生であることを思い出せない。

「本当は食べたくない。こんなに僕を思ってよくしてくれる人を……。でもそれはわがままなんだ。先生を逃がしても別の人を食べるだけだ」だから、と哀訴の声が洞に反響する。「僕のことを化け物だと言って、先生、お願い」

 化け物――暗い穴の中でまどろむ男には、聞こえてきた言葉が何を意味するのか分からなかった。ただ「青太郎」と「化け物」――その言葉のつながりには覚えがあった。

「……青太郎、お前は、化け物だ」

 不思議と酷いことを言っているとは思わなかった。遠くで「ありがとう」という声が聞こえたからでもあったが、もっと根源的に「青太郎」が「化け物」であることが重要だと思ったから。

 にわかに睡魔が襲ってきた。瞼を閉じる。もとより闇の底、一片の光など差し込まないはずなのに、視界は徐々に明るさを増していった。天国のようだ、と思った。だが視界には誰の姿もない。(よかった)男は思わず微笑しながら、明るみへと思い切って飛び込んだ。


 曙光が頬を撫ぜるように照らし温めた。青太郎は起き上がって辺りを見回し、ため息をつく。畑の作物が軒並み立ち枯れていた。

 唐突に身体の真下から、コン、と乾いた音がした。優しくノックするような音。青太郎は板から土の上へ身体をずらし、一枚の板切れを持ち上げる。巨大な穴の中で、支柱もないのに真っすぐ伸びた茎が丈夫な枝葉を腕のように広げ、生まれて初めての朝日をめいっぱい浴びていた。それが眩しくて、思わず目を逸らす。

「……僕は、化け物だ」

 呟いた少年は、罪を懺悔するよう俯いたまま立ち上がる。小さな身体を軋ませながら、しかし確かな足取りで家路へと歩み始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕は化け物 小山雪哉 @yuki02

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ