第15話 私たちは強い

 予想に反して、畑の中は元の静けさを取り戻していた。葉の陰に隠れながら、畝だけが盛り上がったがらんどうの農地を覗き見る。肥えた土が月明かりに黒光りしていた。

 薄闇の中心で、ふうっと白い影が立ち上がった。人だ。背を丸くして、緩慢な動作で足元を払っている。泥を落としているのだろうか、ひとしきり足元をはたくと、背中を伸ばして空を見上げた。月明かりに寂しげな瞳が反射した。

「青太郎!」

 叫んだときには身体が飛び出していた。柔らかく膨らむ土に、ぼこぼこと足跡をつけて駆け寄る。小さな身体をすくい上げるように抱きしめた。

「こんなに服が破れて……何をされたんだ」

 青太郎は何かを言いかけてやめた。唇を固く結ぶ。顔を柴田の胸に押し当て、背中に腕を回した。柴田は小刻みに震える背中をゆっくりと擦った。

「……電気で合図しようとしたとき、母に見つかったんです」胸から顔を離した青太郎が、訥々とつとつと話し始める。「父が、畑が騒がしいのに気付いて、僕を疑いました。絶対しゃべったら駄目だって分かってたけど、力を使われて頭が痛くなって、それで……」

「それで良い。お前は自分の命を守ればいい」

「僕は畑に放り込まれました。数えきれないくらい身体がうごめいてるところに」

「……悪い、先生が音を出してしまって、一斉に実が落ちたみたいなんだ」

 謝っても謝りきれるものではないが、柴田はとにかく頭を下げた。そして地面に、潰れた実の破片が落ちているのを見つける。

「これ、お前が倒したのか」

「はい。寝ているところを起こされたようなものだから気性は荒いけど、昼に比べたら動きはゆっくりだから、なんとか潰せました。少し力も使いましたけど」

 そうか、と胸を撫で下ろしながら、柴田はあることを思い出す。

「そうだ、大変なことが分かったんだ」

「なんですか?」

「清水先生、知ってるだろ。ほら、去年隣のクラスで担任をしていた」

「もちろん知ってます。だって僕が誘導して種に――」

「なってなかったんだよ。今日、アパートで亡くなってるのが見つかった」

 青太郎は目を瞠る。

「さっき襲われた身体は全部黒かったろう? おそらく今生えている野菜は全て、一昨年の担任の菊田先生だ」

「まさか」

「ひとりで一年は保つって言ったよな? もし去年、種が手に入っていたら、もっと作物がよく育っているんじゃないのか。妙な気はしていたんだ。これだけ土地を耕していながら、家の前だけしか育てていないなんて。……これは大変なことだ。もし俺の考えが正しかったら、彼らは食糧不足に陥っている。飢えているんだ。だから――」

 そのとき柴田の顔面に光が差し込まれた。思わず目を逸らす。微かに覗き見た光の中に、頑強な体の影を認めた。

「父が追ってきました。先生、こっち」

 駆け出した青太郎のあとを追った。薄闇の中、青太郎は畝の起伏を避けるように右へ左へ蛇行しながら、畑の中を進んでいく。それに倣って柴田も蛇行して駆けた。

(くそ、足が沈んで歩きにくい)

 柴田が顔を顰めたときだった。一瞬、青太郎の姿を見失った。と、五メートルほど前方に姿が浮かぶ。柴田はほんの僅か安堵した。その安堵が、なぜ青太郎の姿を見失ったのか、という疑問を掻き消したことに気付かぬまま。

 唐突に視界が沈んだ。膝が折れたと思ったが、視線が地面より下に沈んだ瞬間、自分が落ちていることに気付いた。悲し気な視線が目に入った。声を上げる間もなく視界が暗転した。


 スコップが土に刺さる小気味良い音が鼓膜に響く。湿った土の匂い、生温く倦怠する春の夜気――夢うつつに身を任せていた柴田は、突如身体に降り注いだ砂の感覚に、声を上げて目を醒ました。

 起きたようだ、と頭上から男の声がする。丸く切り取られた濃紺の星空の背景に、三つの首が覗いた。葦原家の三人――柴田を食おうとする化け物たち。

「――あまり動かれると差し障りがあるもんで、胸まで埋めさせてもらいました。怪我はないので声は出せますけど、辺鄙な場所なんで誰にも聞こえません」

 父親の声は落ち着いている。家庭訪問のときと同じ、真に相手をいたわるような話し方だった。穴の縁に立膝をつくような格好で、柴田を覗き込んでいる。

「お前たちは離れていなさい」父親の声に首が二つ引っ込む。「さて、先生。私の話を聞いていただけますかな」

 柴田は沈黙した。それを了解と受け取った父親が、長い息を吐いて話し始める。

「私らがいくつ嘘をついて、どう騙したのかなんてまどろっこしい話はしません。聞いてほしいのは、なぜ柴田先生を食べないといけないのかということです」

「……人間しか身体が受け付けないんだろう。青太郎から聞いた」

「それは、おっしゃる通りです。私らは人間の身体を胚の時点まで戻し、植物胚と融かして種にする。それを植えて育て、成長した果実を食べるんです。その果実には私らの身体が必要とする栄養が全て詰まっています。そしてその栄養素は人間の必要なものとは異なっている。だから給食で出るような食べ物は身体が受け付けないし、逆に言えば、この果実だけを食べれば生きていけるんです。完全食というやつですな。――でもね、言いたいのは、そういうことじゃありません」

 父親は立ち上がった。ぱらぱらと土の破片が穴の中の柴田に降りかかる。

「なぜここまで周到な準備をして、危険を冒してまで人間を食べなければいけないのか――これを聞いてもらいたいんです」

「……生きるためだろう」

「それは正しいようで違う。私らはね、生きなければならないんです」

 生きる、と、生きなければならない――柴田にはその違いが咄嗟には理解できなかった。

「この力が脳波に関係していると青太郎から聞いたでしょう? 私らの脳には人間にない器官が備わっているんです。ある者は融果体と名付けました。融果体は、生きている間は無意識に抑制されているんですが、死ぬと制御できなくなるんです」

「それは、つまり周囲の人間が」

「一瞬で融けてしまうでしょうな。普段私らが意識的に解放するときの比じゃない。……厄介な仕組みだと思うでしょうが、これだけ特殊な力を備えているのだから、リスクがあっても当然だとは思いませんか。実際このリスクを恐れて、自死を選ぶ者は極端に少ない。その結果、必死で人を食べて生きて、子供を産み育てるんです。そして老衰する年齢に達すれば、融果体は自然に腐って、周りを破滅に追い込むことなく生涯を終えられる。よくできているでしょう、この身体は」

 理にかなっている、と柴田は思ってしまった。子孫を繫栄させる――つまり自らの種の遺伝子を出来うる限り残す、という生物の究極の目的に、彼らは実に適応している。しかし人間心理として、同じ人間を食すというのは、柴田にはどうしても理解できないことだった。

「……あんたらは心が痛まないのか。健康な身体を選別して、自分たちの都合のいい状態になるよう精神をコントロールして、最後には優しい言葉で自分たちの正当性を主張する。餌の死を悼むような顔をする。同じ人間として、何も思わないのか」

「……化け物ですから」

「それで許されるとでも――」

「私たちは強い」

 大太鼓のような父親の低声が腹に響く。

「……青太郎から聞きましたよ。命の尊さを教えるために教師になったんですってね。動植物を大切に育てて、食事に感謝して、お祖母さんがいらっしゃったような、命の輝く、美しく慈愛に満ちた庭で暮らすのが理想なんでしょう」

「なぜ庭のことを」

「脳波を少々共鳴させれば分かりますよ」

 そんなことはどうでもいい、と父親は吐き捨てる。

「美しい庭? ――馬鹿言わないでくださいよ。大切にするのは可愛らしい動物でしょう? 匂やかで美しい花でしょう? 害虫は殺す、雑草は抜く、栄養になる生物の命は育てて奪う――人間はそういう生き物なんですよ。全ての行動は人間自身のためです。それなのに、動物を保護したり、美しい自然を守ったり、尊い命が自分の身体を作っていると言ったりすることが善だと思い込んでいる。そう錯覚しなきゃ生きていけないんです。人は弱いんだ……」

 枯れた語尾を萎ませながら、父親は蹲る。長い溜息を吐き出した。

「……だから私らは自分を化け物だと言うんです。強いと自負するんです。構造も精神も人間とは違う。生きるために命を奪うことに目を背けてはいない。私は家族を生かすために、あなたを殺す化け物です」

 月明かりに照らされた父親の眼には、迷いも同情もなかった。清々しいまでの化け物としての自覚を目の当たりにして、ふと頬が緩み、笑みが零れる。(彼らには俺を殺す理由がある)しかし納得しかけた次の瞬間、柴田の全身を襲い始めたのは震えだった。冷え切った体内を温めようとしている。柴田の身体は、死を受け入れることを許していないのだ。

(俺はどうすれば生きられる)

 そもそも何がいけなかったのだろう。青太郎をクラスに迎えた、虐待を疑って葦原家に乗り込んだ、青太郎と二人で逃げ出す計画を立てて、そして裏切られた。

(裏切られた――?)

 柴田は首を捻る。確かに柴田は青太郎を信じていたし、こうして穴に誘い込まれた。だが青太郎が嘘をついただろうか。いや、何一つ嘘をつかれた記憶はない。少なくとも言葉としては。

「青太郎……」

 何度も暗い穴の中で柴田が呟くのを見て、父親は察したように言葉をかける。

「息子にはね、なんにも説明していないんですよ。演技が拙いから見破られる恐れがあったので。でも途中から察していたのかもしれませんね。詰問したときも、畑に入れと言ったときも観念したような顔で抵抗する気がなかったようでしたから」

 柴田は悲痛を顔に浮かべる。父親に対しての憤怒ではなく、どうしようもない状況で、本能的に自分のすべきことを悟ってしまった青太郎に対して。

「……青太郎と話したい」

 父親は迷うように辺りを見回しながら、「少しだけなら」と青太郎を手振りで呼び寄せた。

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