第14話 闇夜の雑踏
五月最初の日曜日が、決行の日となった。
あの日――
ともかく二度訪れ、一度目は家の間取りの把握に、二度目は畑の位置の記憶に努めた。
柴田の計画は強気だった。
まず日曜の夕暮れどき、葦原夫婦が農作業を終えたのを見計らって敷地に立ち入る。青太郎の合図で畑に侵入し、証拠となる植物を確保する。青太郎がカギを開けておいた物置部屋から家に入り込み、二階へ上がり、青太郎に植物を渡す。そして青太郎の苦悶の声を録音し、そのまま警察と関係各所に通報をする。
(家の中で夫婦に見つかってしまってもいい)
青太郎と二人でどうにか窓から外に出られれば、柴田は虐待されていた子供を保護した担任の先生となるのだから。警察でも児童相談所でも、第三者の目に虐待の証拠が映り、青太郎が証言すればいいのだ。
(祖母ちゃん、見ててくれ)
柴田は葦原家が目視できる繁みに身をひそめながら、夕闇の中に祖母の姿を思い描いた。
祖母は声を上げて笑わない人だった。いつも静穏に目を細めていた。美しい庭を持ち、自然を大切にしていると近所から評判だったが、祖母は賞賛されるたびに顔を伏せて、悲しそうに目を閉じた。
祖母ちゃんのように命を大切にしなきゃいけないと教えたいんだ――勢いでそう言ったのが高校二年のとき。高校三年の夏、祖母は暑さに堪えられず倒れた。そのとき、入院中の祖母の口から、遺産の全てを柴田に譲るよう計らったと聞いたのだった。祖母は笑いもせず、泣きもせず、大学に行きなさいと言った。柴田は泣いた。大学資金をくれたからではない。謙虚に静謐に生きてきた七十年余りの生涯に、感服したからだった。
その夏の終わりに祖母は亡くなったが、息を引き取る直前、思いがけず笑顔を見せた。ごろごろと喘鳴をたてながら下顎を動かしている最中に、なんとなく口角が上がっていた、それだけのことなのだが、柴田にはそれが満足そうな笑みに見えた。
(なんで笑ってんだよ、祖母ちゃん)
死ぬことはこの世で一番の苦しみのはずだ。たとえ抗えないと理解していても、どうしようもない状態が身体から喜怒哀楽を失わせるのではないか。結局祖母は笑んだまま亡くなった。祖母が満足した理由が、柴田には未だ分からない。
視界の上方で、灯りが明滅した。階段中腹の明り取りの窓。青太郎からのサインだ。夕食を終えて両親がくつろぐ段になったら、電気を明滅させることになっていた。
柴田は繁みから這い出した。姿勢を低くしながら家へと近付く。途中で一階の居間からかすかな物音が聞こえたが、窓から外を覗く者はいなかった。
柴田は家のすぐ脇の畑に身体を滑らせた。
きゅうりに似た蔓植物の陰に身を隠す。目星をつけていた場所だ。柴田は一旦深呼吸をしてから、這うように目的の畝まで進んでいった。
(五本指のシシトウ……これだ)
それは紛れもなくシシトウだった。ただ尋常ではないのは、へたの部分が五本連結して熊手のようになっていることだった。先もかぎ爪のように鋭く尖っている。
柴田はズボンのポケットから布袋と小さなハサミを取り出す。音をたてないようそっとへたの部分に手を近付け、収穫を始めた。
三つ目の収穫を終えたときだった。唐突に太ももを振動が襲った。
(くそ、電話か)
顔を顰めると同時、ざああと潮騒のような響きがあたりに降り注いだ。
異様な音。しかし潮騒の正体を確認するより先に、鳴り続けるバイブ音に焦って、ポケットを弄った。着信は高橋からだった。通話ボタンを押して耳を当てる。先ほどの異様な潮騒は、途端に静まっていた。葦原夫婦が気付いたような気配もない。
「もしもし、なんでしょう、今忙しいので――」
「大変なんです! ついさっき警察から電話が掛かってきて……清水先生が、アパートで亡くなっているのが見つかったそうです」
柴田は声が出なかった。高橋はその沈黙をごく自然な反応として受け取った。
「驚くしかないですよね……。三月に突然退職したあと、県外のマンションに引っ越していたらしいんです。でもちょうどひと月経った今、家賃が支払われていないと気付いた大家さんが部屋を訪ねると亡くなっていて。そこそこ良いマンションみたいで、ドアも分厚いし、臭いもほとんど漏れなかったせいで、一ヶ月も誰も気づかなかったようです。家具や家電は何一つなくて、自殺するつもりで入居したのだろう、と。清水先生……」
すすり泣く声を耳にしながら、柴田は電話を切る。
(そんな……。だって清水先生は)
思考を働かせかけたとき、地面が震えた気がした。潮騒とは違う、もっと地面を擦るような、群衆の雑踏に似た感覚。それは柴田を目掛けて押し寄せてきていた。
「うわっ」
突如、指先に痛みが走る。地面から手を離して指先を触ると、細く引っ掻いたような傷から、鮮血が滲みだしていた。無我夢中でスマホのライトをかざす。じわりと血が滴って地面にぽとりと落ちた。血を追うように光を下げ、柴田は驚愕した。
「指が、指が」
柴田は震える脚で立ち上がった。前方に、あの五本指のシシトウが無数に這っていたのだ。緑の皮が破れ、中から鋭い爪を持った人間の指が覗いている。
「ああ、黒い、黒い」
夢中で駆ける。既に柴田は実から飛び出た身体たちに取り囲まれていた。鋭い爪を伸ばした指、歯を剥き出しにして罠のように待ち構える口、転がりまわる眼球は黒目を常に柴田に向け、土まみれの足は地面を揺さぶって追いかけてくる。噛みつき、引っ掛き、蹴ろうとするそれらは、月明かりに照らされて真っ黒な肌を露わにしていた。まるで日に焼けて焦げたような――。
柴田は喘ぎながら、這う這うの体で家へと向かった。
(音をたてたのが悪かったんだ)
やつらは生きている。宵闇の静けさを引き裂いたバイブ音に驚いて、一斉に落ちたのだ。柴田は畑を脱出し、家の裏手へと回り込んだ。遠く背後で地面を這うざわめきが聞こえたが、足を緩めても近付いてはこなかった。どうやら畑からは出られないらしい。
満足に思考が働かないまま、月明かりに浮かんだ白壁を手で触れ、伝っていく。台所に当たる小窓が二つ、そこから五歩進んだところに、物置部屋の窓があった。
(ここだ)
すりガラスの向こうは真っ暗だ。柴田が窓枠に手を掛けて、微かに力を込めると、ぞり、と砂で軋んだような音を立てて窓が開いた。
と、そのとき、顔に何かが吹き付けた気がした。びりびりと静電気に似た痺れが、部屋の中から外へ漏れ出している。
「青太郎か? 先生だ。ちょっと大変なことになったんだ。でも持ってきたぞ。ここに――」
「ここに息子はおらへんよ」暗闇に聞き覚えのある関西訛りが響く。「勝手に入ったらあかんでしょう、先生」
ごく優しい女性の声。間髪入れずに、蒼白の顔が浮かび上がる。
柴田は割れんばかりの勢いで窓を閉めた。上を見る。先ほどまで二階についていたはずの電気が全て消えていた。
「青太郎っ」
柴田は来た道を駆け戻った。
計画がバレていた。見透かされていたのか、詰問された青太郎が漏らしたのか。とにかく夫婦は柴田の行動を先読みしていたのだ。とすれば合図をしたのは青太郎ではない。
――種となるはずの相手と共謀して、家族を破滅させようと企んだ青太郎を、夫婦はどうするのだろうか。
(……躊躇しないだろう)
なぜなら彼らは化け物だから。人間を育て、喰らう。あまつさえ息子を囮にして、上質な種集めに奔走する化け物だから。
(だが青太郎は違う)
特殊な身体に生まれついただけだ。愚直に親の言うことを聞いてはいるが、本心では自己の存在を疑っている。蔑んでいる。だからこそ柴田を助けようとした。
ふと足を止めた。頬に生ぬるく吹き付ける風に人声が含まれている。苦しげな呻き。ふと、何かを訴えるような幼い表情が浮かんだ。
畑の方からだった。柴田は姿勢を低くして、地獄の雑踏が待ち構えているであろう畑の中へ、再び踏み込んでいった。
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