真夜中の、禁断の味
小林左右也
襖の向こうから
美味しそうな、いい匂いがする。
ふと、眠りから覚めたわたしは、ぼーっと天井を見つめていた。
……美味しいものを食べた夢を見た気がする。
豆電球の薄明かりの中、むくりと起き上がる。目覚まし時計に目を向けると、ちょうど日付が変わったばかりだった。
その襖で隔てられた部屋の向こうから、何やらいい匂いがする。
「……?」
三つ年上の兄の部屋が、襖を隔てた隣にある。
兄は中学三年生。受験勉強だといって、毎晩のように遅くまで起きていた。
そして、時折、あまり嗅いだことのない美味しそうな匂いが漂ってくることに気付いていた。
前から気になっていたけれど、受験勉強をしているから邪魔をしてはいけない。一応気を遣っていたわけだけど、今日は気になって仕方がない。
わたしは布団から這い出すと、襖の端に手を掛けた。
「お兄ちゃん」
声を掛けると同時に、襖を半分くらい開く。途端、「うおっ!」という兄の声が上がった。
「なんだよ、勉強の邪魔するな」
「あー、やぱり! カップ麺食べてる!」
「おまっ! しー! 母さんにバレる!」
焦った兄は、必死に隠そうとしているが、机の上に置かれた赤い蓋は目立ち過ぎた。
そう。我が家では、滅多に食べることが出来ないカップ麺を、兄はこっそり食べていたのだ。
「頼む……! 母さんには内緒にしておいて」
焦る兄の反応が面白い。今なら兄は、何でも言うことを訊いてくれそうだ。
「じゃあ、わたしにもちょうだい」
「えー……じゃあ、ひと口だけだぞ」
「うん!」
渋々手渡されたカップ麺には、大きなお揚げが麺を覆っていた。そこから覗く白い麺。澄んだお出汁に黄色いたまごと、小さなかまぼこが散っている。
お出汁を吸ったお揚げを目にした途端、口の中に唾が沸いてくる。
まだ手付かずのお揚げに箸を付けると、すかさず兄からブーイングが飛んできた。
「おい! ひと口だけだぞ」
「はいはい、わかってる」
もちろん、ひと口では済まなかったことは言うまでもない。
そのカップ麺の名前が赤いきつねで、緑のたぬきという仲間がいることを知ったのは、高校生になってからだった。
そして、社会人になった今、このカップ麺にはずいぶんお世話になっている。
「どうして明日の午前中に必要な資料の作成依頼が、前日の定時過ぎてからくるかなあ……」
社内に誰もいないのをいいことに、ぶつぶつと文句を垂れる。
定時を過ぎてからの急な会議の招集と、急な資料の作成を押し付けられて、今日も残業。時計を見ると、時刻は午後21時になっていた。
「……取り敢えず、小腹を満たしますか」
腹が減っては戦は出来ぬ。まずは腹ごしらえが必要だ。うん。
デスクの引き出しを開ける。そこには、赤と緑のラベルのカップ麺がひっそりとわたしを待っていた。
「うーん……」
迷う。どちらも、何度も食べたことがあるのに、いつもどっちにしようか迷ってしまう。
「……よし」
わたしは決意した。今日は赤いきつねにしよう。
赤いラベルのカップ麺を手にすると、堪らずにんまりしてしまう。
緑ちゃんも、近々食べてあげるから、待っててね。
ここだけの話だけれど、わたしの好物はカップ麺。
実家にいる頃は、滅多に食べることができなかったから、その反動もあるのかもしれない。
色んな美味しいカップ麺はあるけれど、特に好きなのは、この赤いきつねだ。
甘めのお出汁。じゅわっと染み込んだ大きなお揚げ。もちっとしたお出汁が染み込みやすい麺。うん、堪らない。堪りません!
湯沸かしポットには、たっぷりお湯を用意済み。
パリパリとラベルを剥がして、お出汁の粉の封を切る。
そこに熱々のお湯を注ぐと、ふわりとお出汁の匂いが上がった。途端、お腹の虫がぐるぐると音を立てる。
お湯を注いでから5分間が待ち遠しい。
でもここはしっかり待たないといけない。うどんはお出汁が染み込んで柔らかくなったの方が好きだから、6分待つのがマイベスト。
前にフライングしたら、まだうどんが固くて、お出汁染み染み派のわたしにとっては、ちょっと悲しかったから、ここはじっと辛抱だ。
そして、6分が経った。
「いただきます……」
軽く両手を合わせる。蓋をそろりと開いて、大きなお揚げを割り箸で、いったんお出汁の中に沈め、また引き上げる。
誰もいないのをいいことに、お揚げを丸かじりする。途端、じゅわっと甘しょっぱいお出汁が口の中いっぱいに広がる。
「ん、んんっ!」
ちょっと熱かった。でも熱々のお出汁が、疲れた身体に染み込んでくるようだ。すかさず、少しふやけたうどんをすする。
あちち。きっと舌を火傷した。今度はふうふうと吹き冷ます。
夢中になってお揚げを頬張り、うどんを啜り、お出汁を飲む。あっという間に食べ終わってしまってから、わたしは失態に気が付く。
「七味……忘れてた」
仕方がない。もううどんもお揚げもないが、まだお出汁はある。
残ったお出汁に七味唐辛子をパラパラと振り入れる。心地いい熱さのお出汁をひと口。微かに鼻を抜ける七味唐辛子の風味を味わって、ふうと一息ついた。
「あー美味しかったぁ」
すっかりお腹は満たされ、身体もポカポカと温かい。このまま微睡んでしまいそうだけれども、まだまだ仕事は残っている。
「……もうひと踏ん張りしますか」
よし! と気合を入れると、パソコンのキーボードを勢いよく叩き始めた。
色んな美味しいカップ麺があるけれど、わたしはやっぱりこの赤いきつねが一番好き。
わたしに禁断の味を教えた兄は、最近お腹がぽっこりし始めてきたらしい。奥さんに「カップ麺は月に1回」と言われて、お正月に会った時、嘆いていたっけ。
この赤いラベルのカップ麺は、きっと当時の兄にとっては、受験勉強を頑張るための元気の源だったんだろうな。
今のわたしにとっても、この赤いラベルは元気の源だから。
それになりより、真夜中にこっそり食べた禁断の味。
大人になっても、忘れられない味なのだ。
真夜中の、禁断の味 小林左右也 @coba2018
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