口移す



 蜘蛛の巣が光を受けて金色に輝いている。


 駅まで歩く道すがら、道路沿いのシラカシの街路樹に張るその巣が綺麗に見えて思わず足を止めた。


 巣の真中で、頭を下向きにじっとしている蜘蛛のその腹の、ふっくりとした楕円を横切る黄色と緑青色からなる縞模様を見ながらも腹部裏面に目を惹く鮮紅色の紋があるならば、その個体はメスだ。

 それも成熟した雌だという。


 なるほど。

 ……目の前、腹を見せているのは雌、だ。


 艶かしい鮮紅色が、昨晩を思い出させた。


 月明かりに浮かぶとろりとした白い肌に、開かせたその足先を紅く染めた爪を咥え舌で転がしたその感触が蘇り、朝もまだ始まったばかりの薄い青空の下に自身の下腹を疼かせ口中の唾液を誘われる。



 彼女との再会は、全くの偶然だった。


 出張から帰る途中、普段は使わない駅の構内ですれ違った瞬間、その姿に思わず後を追いかけたのは日常をんでいたからに違いなかった。

 会社と自宅の往復に。

 変わり映えのない毎日に。


 今しかない、と思った。

  

 あの頃いつも目で追っていた彼女を、その真っ直ぐに伸びた背中を、他の男に向けられていた横顔を、見間違える筈は無かった。

 いつだってすれ違う間際、緊張していたあの日々が十年近く過去になろうとも身体は忘れてはおらず、あの頃と全く同じように強張る両肩を、震える両脚を、気取らせまいと大股で彼女の背中を追い越し、ちらとその顔を覗き見て確信したその時……。


「あれ?! やっぱり、そうだった。久しぶり。オレのこと分かる? 同じ高校だったんだけど」


 ……声を、掛けた。


 分からない筈は、ない。

 そんな変な自信があったのは、何しろオレは彼女が常に見ていた男と、いつだってつるんでいたからだ。彼女が目を合わせないように慎重にその男を盗み見た視線を逸らすたびに、その先にオレはいた。


 はっと目を見開き、オレを睨む。


 盗み見ていたことを、オレに知られたあの頃みたいに。

 彼女の白い肌が、その首筋が赤く斑に染まるのを見て、ぞくりと背中が震える。

 

 そう、この表情カオだ。

 驚いた時に、怒ったような顔つきになるのも、少しのことで肌を赤く染めるのもまた、彼女だった。


 ……変わらない。


 変わったのは、抑えきれない想いをひとり悶々と抱えて妄想の中で何度も彼女を蹂躙し、その想像の中でいやらしく身体を開いていた彼女を想う後ろめたさを、そんなこともあったと過去として割り切ることが出来るようになった自分だ。

 大学に入った途端に付き合う女が出来て彼女のことなどすっかり忘れ、少しも思い出しやしなかったのに、今になってすれ違っただけであの頃に引き戻されたのは、おそらく疲れていたせいだ。そして変わらない彼女の姿に過去の自分が蘇り、一人きりになると持て余していた疼く闇い欲情をこっそりと排泄していたあの日々を憐れみ、遠く懐かしんだからに違いなかった。


 今度飲みに行こうよ、なんて軽い社交辞令をどこかで都合良く真に受けたりしないかなんて考えないこともなく連絡先を交換しながら、長い髪を分けて覗くその俯き加減の白い首筋から目が離せないのは構内の照明のせいだと自身に言い訳をする。


「えー? ずっと実家暮らしなんだ。なんで? そういえば、噂で聞いたけどアイツも実家だったっけ。そうなの? まさかそこから離れられない理由が腐れ縁のアイツ……なんて」


 軽い冗談のつもりだった。

 失敗した。

 彼女の顔を見て、すぐに分かってしまう。

 その、まさかとはね。

 それならもう、笑うしかなかった。


「……ふはっ。こじらせてんの、な」


 その言葉を受けて、救われたような彼女の笑顔を見た時、このところ互いに嫌気が差しているくせにどうにもならない長い付き合いの女と別れる理由が、出来た、と思った。


 ちょっとした避難先。

 それだけの筈だった。


 意外と簡単に彼女と二人で会うようになったのは、初恋の彼女とはいえ、まだオレが大した感情も向けていない相手は失うことを恐れなくて良いから楽だったからだ。

 楽しかった。

 笑顔を貼り付け格好つけてるクソみたいな毎日が、つまるところオレを大人にしたんだとあの頃の不器用なのが当たり前だった青臭いオレを嘲笑う。

 手に入れたかったあの頃を、手に入れたようで楽しいけれど、苦しかった。


 なぜなら、実際には怖かったのだ。


 長く付き合った女と別れる理由なんて本当のところは、どうだって良かった。懐かしの初恋の彼女じゃなくても、何だって良かった。

 オレの方から手離す為に、少しでも早く理由が欲しかっただけだ。

 これまで必死になって頑張ってきた自分を否定されるようで、置き去りにされるのが嫌で、向こうからいつ別れを告げられるのかと毎日びくびくとその日を待っているのが怖くて堪らなかったから先に手を離したいだけだった。


 手離した途端、楽になった。

 同時に分かっていた筈のそれらが真実だったと突きつけられたようで苦しくて、悲しかった。


 笑えない。


 あの日から、笑うとこじゃなかったと気づく頃には、ちょっとした避難先にする筈だった懐かしの初恋の彼女は、既に無くしてしまったオレの色んなものの変わりになっていた。


 つまりは、オレの全てに。


 


「……送るよ」


 背を向けて服を着る彼女に声を掛ける。

 ふっと笑って振り返り気味にオレを見るその顔が、その眼に映るのが、その胸の中にあるのが、自分だけのものなら良いのに。


「あーあ。いい歳して、面倒なヤツ好きになっちゃったな」


 声に出して言ってみると彼女も笑うし、自分も少し楽になる。

 飲み物を片手に二人で歩く夜道に、街灯に照らし出された蜘蛛の巣が見えた。

 少し前、彼女を初めて抱いた日の朝に見た蜘蛛の巣ではない。

 なぜならその蜘蛛の巣の端に複数のオスの姿があるからだ。雄は雌の成熟前から雌の網に居候し、交接のタイミングを待つのである。


 『分かっていると思うけど、いちばん好きじゃなくて良いなら』

 彼女と関係を始める前に告げられたひと言が、ふいに思い出された。

 

 蜘蛛の巣の端、その網に居候している動かないように見える雄も、雌の成熟を、最終脱皮にあわよくば交接するそのタイミングを、じっと待っているのだ。そしてまたそれ以前にも以降にも、侵入しようとする雄を排除しようと行動する。当たり前だがどんな世界でも、雌を巡り闘争を経て交接する相手が決まるのだ。


 負けたら終わり。

 

 彼女の家の前、タイミングを見計らっていたように隣の家からアイツが出て来くるのを目の端で捉える。

 ちょっとした衝動だった。

 手に持つ飲み物を口に含み、彼女がアイツに気づく前に、自分の方へと引き寄せその唇に口付けた。

 彼女の白い喉が暗闇で上下し、オレの口移した液体を嚥下するのが見える。


 どうだ? 

 お前は今、どんな顔をしている?

 相手が、オレだと知って。


 実のところあの頃も、今も、オレはアイツが大嫌いだった。

 手に入れようと思えば、どんなものでも手に入れられるくせに、どんなものだって手に入れてきたくせに、彼女の想いを知っても決して手を出さない。

 傲慢で、自尊心が高く、決して本心を見せることのないアイツは、ひょっとしてオレと少しも変わらない単なる臆病者じゃないのか?


 オレは変わった。

 その筈だった。


 ――自分に自信がなくて未だにこじらせてるのは、オレもだ。


 蜘蛛の巣には、交接した雄がそのまま網に居残ることもあるのだという。


 

 彼女を抱き寄せる男の姿に、アイツの端正な顔が歪んだように見えたのは、果たしてオレの願望だろうか――。



 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蛇と林檎 石濱ウミ @ashika21

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ