白い鴉
屋根の上、
離れていてもすぐにそれと分かる真っ黒な姿は何ものにも染まることがなく、どんな色さえも塗り潰すことの出来るその黒い色は、色の溢れるこの世界とはあまりにも異質すぎて嫌でも目につくのだった。
だからというのか、たった一羽の
……いや、そうじゃない。
『
その言葉は呪いとなって、あたしの胸にいつまでも拭い去れない滲みとなっている。
まだ、うんと幼い頃のこと。
近所に住む歳上の女の子が、まるで特別な秘密を語るように言ったその言葉を未だに忘れられないのは、その屋根の上の
たとえそれが偶然だと分かっていても偶然とは言い切れなくなってはしまったのは、その
突然すぎる死を目の当たりにしたあたしは、
屋根の上、何もかも見透かすような澄まし顔で見ている遠くその先には、何があるのだろう。
次の瞬間、見上げるあたしの前で飛び立つ
「……ただいま」
居間の扉を開けると、休日の夕方には珍しく兄がソファで寛いでいる姿があった。
スマホ片手に、たいして観ていないテレビに映っているのは古いSF映画のようだ。
「おー、お帰り」
ちらと一瞬スマホから顔を上げて、あたしを見る。
「……なんで、いるの?」
「そこは察しろ」
「馬鹿なの? 聞いてるんだけど」
「ふッ……笑う。明日、引っ越しだろ? 平日で手伝いに行けないから、今日のうちに何かあれば手伝ってやろうかと思ったんだけど……おまえ朝から出掛けてるし、何も無さそうだからせめてゆっくり顔でも見ておこうかと思って」
「なんだ。また、てきとーに付き合ってる彼女と別れて、暇してるのかと思った」
「なんだよ、ソレ。てきとーって、またって」
スマホに何か打ち込みながら苦笑いする兄は、またちらとあたしの方を流し目で見た。
「ねぇなんで、すぐに別れるの? どうして本気ですっごく好きな人と付き合わないの?」
「……何が? なんで? オレはいつだって本気なんだけどなぁ」
ソファに並んで腰を下ろしテレビの画面に映る、皺々のお爺ちゃんみたいで頭ばかりが大きく奇妙な身体つきの宇宙人がクロゼットに押し込められるのを観るともなしに見ながら、同時に兄の顔をそっと盗み見る。
スマホを見ている最中とはいえ、そこには確かに一瞬の間があった。
「初めて観た時もさ、感動とかよりも怖い、気持ち悪い古い映画だと思って観てたけど、あたし……いま何でか分かった……この映画でいちばん気持ち悪いのってさ、この宇宙人こんな姿形なのに……口の中……ホラ、見た? 人間と同じ……綺麗に揃った歯と舌があるんだよね。それが違和感というか嫌悪感を抱かせるっていうか。いっそのこと空っぽなら良いのに」
「ああ……だな。ははッ。言われてみれば人間の入れ歯が入ってるみたいだよな」
「で、何で?」
「……何? どうした?」
それまで対して気にも留めていなかったくせに急にスマホを切ると、心配そうな顔であたしに向き直り「何かあったのか?」と真剣な様子で聞く、兄のことを大嫌いだと思う。
そうやって本当は、自分のことも周りのことも良く見ているくせに、鈍感なフリをして色んなことから目を背けている優しくて狡い兄の、あたしに向けるその小さな幼い子供を見るような眼差しも。
六歳も年が離れていると、いつまでも小学生に見えるからだと言うが、あたしが実際に小学生だったのは、もう随分と前のことなのに。
そう。あたしが兄のことを嫌いになったのは、その小学生の時だ。
六年生だった。
冬、バレンタインデー。
学年が上がるにつれ周りで誰が誰を好きとか、そういう話題が増え始めた頃。普段にも増してこの日に浮き足立つ同級生が、分からなかった。放課後に待ち伏せまでしてチョコレートを渡したいと思う……もっと言うなら男の子を好きになる気持ちが分からなくて、自分とは縁遠いものだと思っていた。
誰にも渡す予定はない、と言うと皆一様に白けた顔であたしを見ていた。
いや、今なら分かる。
あれは異分子を見る目。
蔑み、憐れむ目。
兄にチョコレートを渡すために、家にまで押しかけてくる自分のことしか考えていない人達のことも、よく分からなかった。
あたしよりもうんと歳上なのに、小学生のあたし達と変わらないと思うと奇妙な気持ちになったのを覚えている。
見ているうちに何か分かるかもしれないと、女の子が家の呼び鈴を鳴らす度に外へ出てチョコレートを受け取る兄が思うのは一体何だろうとあたしは、二階にある自分の部屋からその様子をしばらく観察することにしたのだった。
女の子達は、どの子も変わりのないように見えた。
みんな、同じ。
恥ずかしそうにしているところも、チョコレートを手渡して満足そうにも、不満そうにも見えるところも。
そんな兄はチョコレートを受け取る度、相手によって嬉しそうに笑って見せたり困ったような笑顔を向けていたが、女の子が背を向けた途端、ちらりと斜め上に視線を送る。
癖なのか、何かあるのか。
兄の視線の先を追ってそこにあったのは、隣の家の窓。
その窓には、あたしと同じように兄に気づかれないように下を覗いている兄の幼馴染の姿があった。
兄が視線を向ける時には姿を隠し、兄が見ていない時には真剣な顔でその様子を見ていたのだ。
その人と目が合う。
あたしに気づいたその人は、人差し指を唇に当てて、そっと微笑む。その顔は、あたしに
その瞬間あたしは、またも呪いにかけられたのを知る。息も出来ないくらい心臓が痛くなったから。
家の前でチョコレートを貰う兄が、本当に貰いたい相手が誰なのか分かってしまったと同時に、覗き見ていた人のその微笑みの意味を知るのは、あたしだけの秘密となった。
その人が兄に向ける眼差しで、わたしのことを見てくれたら良いのに。
それでも、あたしはまだ恋を知らない。
自分のどうにもならない感情を持て余すような、自分ばかりを押し付け本能のまま突き動かされるような恋を、あたしは知らない。
もしかしたら、あたしは一生、その感情を知ることは無いのかもしれない。
だから、あたしは兄が嫌いだ。
恋に堕ちていることを自覚しているのに、そうなることを畏れて前へ踏み出すことが出来ないあの人を、あたしに呪いをかけたあの人を、いつまでも待っている優しくて狡い兄のことが大嫌いだと思う。
兄は、まだ心配そうにあたしを見ている。
古い映画の中の子供は、あたしがどれだけ歳を重ねても、変わることはない。
おそらく兄と同い年のあの人も、あたしのことを見る目が変わることはないだろう。
「……何でもないよ。だけど、実際にはどっちが狡いんだろうなって思ってるだけ」
「……え?」
それだけ言うと顔を俯かせたまま、ひとり兄をソファに残し、自分の部屋へ行くためにその場を後にする。
階段を上り、兄の部屋の前を通り過ぎようとして足を止めた。
そっと扉を開け、中に入ったのはどうしてだろう。
机の上にあった本を、ぱらぱらと捲ると途中に白い紙が挟まれていた。兄は栞を使う人ではないので不思議に思い、手に取り表裏を返して見ても、そこには何も書かれていないのだった。
本にはあの人の勤める大学の名前。
だとすれば、それは本を貸したあの人が挟んだ物なのだろうか。
それを思った時ちょっとした衝動が、あたしを突き動かした。
その白い紙の片隅に小さく文字を書く。
何かをせずにはいられなかった。
明日からの一人暮らしが、その不安が、期待が、諦めが、あたしを壊したのかもしれない。
その紙を机の上にあった本にもう一度挟み直すと、気付かれないうちに部屋を出て扉を後ろ手に閉める。
心臓が早鐘を打つ。
あたしが書いたものだと分かるだろうか。
それとも挟まる紙に書かれた文字は、別の誰かを思い起こすだけのものなのだろうか。
本の中の黒い小さな文字が、
あたしは、
そこに居るだけで目を引き、理由もなくあの人の胸の中をざわざわと音を立てる、そんな存在にあたしは……。
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