海の底の花





 ぽってりとした肉感的な唇が開く。


 濡れる舌がちらと覗いたと思ったらすぼみ薄い皺を寄せ歪むと、艶かしく蠢いたしばらくの後きゅっと窄む。そしてまた開く、窄む、蠢くを繰り返す。

 その光景に釘付けになり、ややもすれば、ぬるりと唇を舐めとる舌に気を取られ自分の食事は疎かに、飲み物だけが喉を滑り落ちていた。


「……何?」

「いや……別に」

 こいつ、食べ方がエロいんだよな。


 気取らせまいとするものの、自然と視線は再び口元に引き寄せられ思わず喰い入るように見てしまう。


「食べないの? 腹減ったからって、そっちが誘ったのに……それとも何かあった?」

「何もないな……食べるよ。腹減ってるし」

「ふーん?」

 訝しげな上目遣いでこちらを見ながら、口の中に滴るタレのついた肉を放り込む。舌が無自覚に舐める唇は脂で照る。


 馴染みの定食屋で頼む、お決まりの生姜焼き定食を前に長い髪を無造作に一つに結え無心に食べる様子を見れば、相手が自分のことを露ほども意識していないのが分かる。

 それもそうだ。

 生まれた時から隣同士である。

 家は勿論、産院でも隣同士。

 さらには、お互い社会人になってもうだつの上がらない実家暮らし。

 それもあってこうして結構頻繁にどちらからともなく声を掛け合い、飲みに行ったり食事をするのも、幼馴染の腐れ縁である気安さなんだろう。

 ……まあ、そんなもんだ。

 

「ところで、最近どうなの?」

「あー……一人暮らし? 始めるらしいよ」

「らしいって……ああ、妹ちゃん? 大学生になるのね」

「……ん」


 ご飯を掻き込むように頬張り、肉を口に入れ咀嚼する俺に向かってニヤニヤと悪戯そうな笑みを浮かべて言う。


「嫌われてんの?」

「知らねーわ」


 添えられた千切りキャベツを、もりもりと平げながら「まあ、色々あるよね」と飲み込み、ポテトサラダに箸をつける。


「……そっちは? 最近」

「んー。大学の図書館ってさ……あ、まあ普通にどこの図書館でもそうだろうけど……曜日だったり時間帯だったりで利用する人は大概同じ顔触れになるから、お互いに暗黙の了解っていうの? 何となく座る場所って決まってたりするじゃない? この席はあの人、あの席はこの人がいつも座ってる。自分はいつもこの席、みたいに。だから偶々たまたま普段と違う時間帯だったり違う曜日に来ると、みんな戸惑うんだよね。当たり前なんだけど大抵、自分がいつも座っている席に違う人が居るから。それって知らないうちに席を共有しているからなんだけど、それを目にした人は必ず『不本意ではありますがお貸ししましょう。ですが本来そこに座るのは自分ですよ』って顔に書いてあるんだよね」


「あぁ、まあ……そうだろうな。お前は仕事でずっと居るにしても、そういうのも何となくつい見ちゃうよな」


 利用する外部の人、学生、知らず同じ席を共有していることもあるだろう。当たり前のことだが、ある日唐突にそのことに気付かされると、自分の居場所を盗られたようで、ぎょっとしたりするものだ。


 付け合わせの冷奴が苦手な俺が、そっと器を動かすと前から見慣れた手が伸びてきて、いつもの様に空になった器と入れ替える。

 俺は代わりに、こいつの苦手な櫛切りのトマトを箸で摘んだ。


「……で、わたしなんだけど」


 この前置きには、聞き覚えがあった。

 その不穏さに一瞬、箸が止まったのを見られていないことを心の隅で願いながらトマトを口に入れた後、漬け物の胡瓜に箸を伸ばし音高らかに歯で噛みながら顎で続きを促す。


「久しぶりの彼氏が出来た」

「……あ、そう」

 やっぱり、な。

 そうじゃないかと思ったんだ。


 すっと心が冷えるのを感じる。


 目の前には少しだけ頬を緩ませ、お椀の味噌汁を口につける顔があった。

 それを見ていたら、言うまいとしていた言葉が口から飛び出していた。


「好きって感情をぶつけるのは、結局のところエゴの押し付けなんだって前に言ってなかった?」

「わたしの方から好きって言った訳じゃないから」

「じゃあ何? 好きって言われれば、お前はなんとも思わない男とでもヤレんだ」

「……極論」

「でも、そうだろ?」

「そう、なんじゃない? 本当に好きな人とは、わたしは一生無理だと思ってる」


 睨むように俺を見返すその顔に、何故か強く性的な興奮を覚えて思わず目を逸らす。

 それからお互いに黙々と、食べ終えるまで口も利かずに店を後にしたのだった。



「そうだ、これ。面白かった本。分かってると思うけど又貸しになるから、早めに」


 お互いの家の近くまで来た時、突然思い出したように鞄の中から一冊の本を取り出すと、押し付けるように俺に手渡した。


 社会人になって、どんな時よりも疎遠になった頃、何とか繋がりを持ちたくて本の貸し借りをするようになったのは、どっちから始めたんだったろうな。

 今この場で、この手を握りしめて離さなかったらまた、何かが変わるのだろうか。

 目の前にいる、こいつが本当に好きなのは、誰なんだろう。


「俺さ、共有しても良いよ」

「……何を?」


「さぁな」

 手に持つ本を上げて背を向けた。それぞれの家の門を開ける音が、夜の深まり始めた住宅街に響く。



 ずっと、ずっと別の女で紛らわしてきた欲望は、この先もおそらく満たされない。


 部屋に入り窓を開ける。


 手に持っていた本を机の上に置いた。

 俺はこの先どこに行こうにもこの家に帰る度に、これからも向かいの部屋の窓を見て胸を痛めるのだろう。



 摘むことは叶わない。

 まるで海の底に咲く花のようだ。









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