月陰を噛む



 扉が開いた途端に蝉の声が襲いくる。



 頭蓋骨の中で共鳴し、脳髄を侵蝕するかのようなそのひび割れた音は、暑さに酩酊する私に追い討ちをかけるようだ。


 先程まで薄暗く冷んやりとした本の森の中にいた所為もあって、ねっとりとした纏わりつくその湿度は足を進めるほど身体を重く感じさせた。

 呼吸する度に熱い気体が肺に入り込む。


 ああ、蝉の中で泳いでいるようだ。


 それなのに大人になってからは、その姿を探すも見つけられた試しがない。

 見つけたところで醜怪な姿に怖気おぞけを震うだけなのだから、あえて探すまでもないと分かっていてもつい首を巡らせ樹々に目を凝らし音の出処を見つけようとしてしまうのは、怖いもの見たさ故なのだろうか。それとも幻聴ではないと、確かめたいからなのだろうか。


 大人。


 歳を重ねれば自然と大人になるのだと信じて疑うことのなかった無垢で幼い頃。また同時に大人になれば同じ人をずっと、愛し続けられるものだと信じていた。


 だが現実は、どうだ。


 時は流れるまま、自然と肉体は歳を取るだけで精神的に自分は何一つ変わることなく、周囲を見回しても似たような感傷を持つ人は少なくなかった。歳を取ってみて明らかになったのは、法的な指標をなくした場合、何をもって大人と呼ぶのか分からないということだった。


 そのうえ……。


 次の瞬間、あるものを目にして恐怖に脚がすくむ。


 実に蝉が恐ろしいのは、醜怪な見た目でも耳障りな鳴き声でもない。地面に落ちている死にゆく蝉を見つけた時である。


 何故なら仰向けになり脚を縮め、すっかり乾涸びて見えたその身体を、こちらがかわそうと身じろぎする僅かの間に予想もつかせぬ拍子でもって翅を震わせ身体全体で鳴き声を上げながら、闇雲にこちらに向かって来るその断末魔は、繁殖行為を終え生きる目的なぞとうに失った蝉でさえも、この先に待つ何かを感じているように思えて、ぞっとするからだった。


「……ああ此奴こいつ、まだ足掻いてるんだ」


 絶望的な気持ちで地面に落ちている醜怪な影を見ていたら、耳元近くでそう囁く声に振り返る。


 間近に顔があった。

 目と目が合う。

 ふっと愛しげに細められたその眼差しに、胸が締め付けられる。


「……早かったね」

「うん。急いだから」


 汗に濡れたシャツで背中から包み込むように私を抱きすくめ、交差するように両腕を回し私の頭の上に顎を乗せた恰好で彼は「朝にも此奴こいつ、ここに居てさ」と放った言葉に蝉は応えるように苦悶に満ちた音で、ぎぃと鳴いた。


「同じ蝉じゃあ、ないんじゃない?」


「いや、同じだよ。翅が欠けてるの分かる? ほら、あそこ。朝に見た時にはもう欠けてたから間違いないよ」


 そうなのか。

 この蝉は……。


「ねえ、部屋に入ろう」


 回す腕に力を込め頭の上に唇を寄せた彼の少し甘えたようなくぐもった声が、私の身体の中心を貫く。


「……蝉、こっち見てるよね」


 頭の上で押しつけられた彼の唇が、柔らかく笑むのが分かった。



「大丈夫でショ。蝉に見られても」




 彼と出会ったのは、大学の図書館だ。


 仕事を辞めた私が日常を持て余したとき、近所の大学の図書館にふらりと足が向いたのは昔を懐かしむ為だったのか、それとも今を憂いているからだったのか……その両方なのかは分からない。

 見知った人が居ないということも、学生達が自分より少なくとも十歳近く歳が下であるというのも、実際に自分が学生だった頃とは違って変に肩肘張らずに過ごすことが出来ると気づいたこの場所で、私は自分を、現状を、忘れるために本を開き続けていた。


 お互いの出逢いは偶然なのか、それを装っていたのかは秘めたままに。

 目が合うようになって。

 微笑み返すようになって。

 言葉を交わすようになり。

 姿が見えない日には寂しく思う。

 誰か親しくする人を見れば胸が痛むようになる頃に、そこに年齢は関係ないのだと気づくのは、遅すぎた。


 大人だから、なんだというのだ。


 薬指に契った法的な契約も拘束も、理性を失くした恋の前には無力だと知るのは、愛と恋は別物だと区別のつかない無垢な幼な子には、到底無理な話である。


 つまり、この世界に大人なぞは存在しない。幼な子が無垢ではなくなるだけだ。


 彼が、私が、溺れているのは恋なのか快楽なのかは分からないが何も考えずに夢中になって、あらゆる体液にまみれてお互いをどろどろに貪り合う気持ちの良い行為が繁殖行為であることに笑いを禁じ得ない。


 私の嬌声に混じる微かな思い出し笑いに、それまで執拗に身体を舐め回していた彼の舌が止まる。

 乱暴な手つきで身体を返され背後から組み敷かれた瞬間、明後日に私の子宮に戻す予定の受精卵に何故か思いを馳せたものの、また直ぐに忘れて快楽に没頭するのだった。



「暫く会えないかも」


 夜の始まりを予感させる空の色を見ながら身支度を整える私が、水を飲む彼にそう告げた時、こちらを見返す彼の目に浮かんだのは諦めなどではなく、激しい嫉妬だったことに安堵する。

 ……安堵、してしまう。


「旦那さんにバレそう、とか?」


 首を横に振った私を、引き寄せ抱きすくめるその腕の中で「そうじゃないけど」と言葉を濁す。


「いっそのことバレたらって思わない?」


 身体を寄せ合いお互いの顔が見えないのを良いことに、彼の問いかけに曖昧な返事で誤魔化すこのやりとりを、去り際の挨拶のように使い始めたのはいつからだろう。

 きつく抱きしめる彼の匂いを深く吸い込み目を閉じた時、少し前に図書館で目にした光景が蘇った。


 見知らぬ人が、愛しげな眼差しで一冊の本に白い紙を挟んで書架に戻す、その柔らかで物静かな佇まいと優雅な手つき。


 背表紙の色だけで、どの本なのかも分からない挟まるその紙に、何が書かれているのかあるいは何も書かれていないのか、どうあっても知る術はない今この場で、それを知りたいと思った。


 突然込み上げてきた涙は、何を想い誰に向けたものなのだろう。

 


 部屋の外、もう動くことのなくなっただろうあの蝉に、私は自分を重ねる。

 








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