蛇と林檎
石濱ウミ
雪片
書架の前に立ち、背表紙を眺める。
何気なく手に取って開いた本から、はらりと一枚の紙が落ちた。
静まり返る図書室では、その密やかな音でさえも誰かの耳に障るように思えて胸がどきりと跳ねる。屈むようにして床から拾い上げた時にはもう既に、その紙に書かれていた文字を目で汚してしまった後だった。
まるで耳元で囁くように書かれたその言葉は、僕に向けられたものではないと分かっていても身体はあの日を思い出して熱を持つ。
……好き、です。
降る雪が、音という音を吸い取る。
耳の奥が痛くなるほどの静寂が、たてる衣摺れの音さえも瞬く間に雪に押し込め、互いの息遣いだけが宙に漂う。
目に映る月のないその凍りついた仄白い世界は、何処までも
「うん……」
バス停の天井からぶら下がる裸電球の、拙い灯りが照らしだす彼女の横顔に、ちらりと目を向ける。
自分の気持ちを読まれたのかと思った。
何を言われたのか、遅れて知る。
吐く息の白さが、朱に染まる眼の縁が、マフラーに埋もれた口元が、それらすべてを愛おしいと思った。肩に触れるコート越しに彼女の肉体を感じて身体が熱くなる。
「……もう会えないんだって思ったら、なんだか言わなくちゃって……」突然、こんなこと言われても迷惑でしたよね。
マフラーに埋もれ恥ずかしそうに小さく笑む顔を見ることは叶わないが、微かに震えている両手は寒さで
なんとなくお互いに好意を持っているのは、知っていた。
いや、実際のところは、もしかしたら同じ気持ちを抱いているのではないかと思ったことがあると言うのが正直なところだった。
「どうして……もう、会えないなんて思うの?」
「だって、先輩……今日、久しぶりに学校来たのだって大学の合格報告でしょ? このまま卒業式まで会うこともないし……卒業したら、それこそもう……会えない」
彼女は、そう言って僕の方を向いた。
どこか怒っているような泣くのを堪えているような顔で、真っ直ぐに向けられた無垢な眼差しに耐えられなくて僕は、目を逸らす。
また、音が消えた。
雪は変わらず灰のように、ひらひらと舞い落ちている。
前に向き直った彼女の横顔を、その滑らかな頬を、盗み見た。向けられる好意を良いことに僕の視線は、これまで幾度となく彼女を汚していたことを、彼女だけが知らない。
そう。今だってこうして触れる肩は、厚いコートに包まれているのに僕の視線はそれを
先ずは、アイボリー色のマフラーを。
落ちる長い髪を指先ではらい細い首に息は触れコートを剥ぐと、制服が現れる。
ブレザーのフロントボタンを一つひとつ、ゆっくりと外したら下衿の辺りから袖ぐりに手を差し込み両腕に這わせるようにして脱がし床に落とす。
ネクタイを緩め、ひと息に抜き取ると覗く白い肌の先を知りたく、シャツの小さなボタンをもどかしげに開けてゆく。
スカートに仕舞われたそのシャツの裾を、乱暴な手つきで引き出すとその勢いは――。
「……あっ」
彼女の声に、びくんと身体が跳ねた。
向けられたその顔は、真っ直ぐに前を向いたまま。バスのヘッドライトが、夜の始まりを引き裂き近づいて来るのが見えた。
立ち上がる彼女の腕を引き寄せたくとも、僕の両手はポケットの奥深くにあって出せそうにもない。
「サヨナラ……先輩。お元気で」
ちらと見せた一瞬の笑顔と共に、彼女は僕の前から去った。
彼女とは、あれきり。
僕は再び本に紙を挟むと、書架へ戻す。
誰かに向けられたその密やかなひと言が、届くことを願って。
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