第2話

今回は運命愛について語ろうかとも考えたが、運命愛は筆者から見て、残念ながら既に破綻した理論なわけであり、ここではその運命というものをニーチェと似た視点から、少しだけ変化をつけて語ろうと思う。


 まず、運命愛とはニーチェが提唱した哲学用語だ。彼曰く、この世に存在する原子は永久の時を彷徨い続ければ、いずれは今と同じ配列になると言う。ここで感の良い方は察したかと思うが、この世には原子が突如として他の姿に変化する崩壊という現象がある。神はサイコロを振らないという言葉はあまりに有名であるが、今やこの言葉は量子力学によって否定されているように、ニーチェの言う事も同じ要領で否定される。

 ニーチェの主張は同じ配列に原子が並ぶなら時は循環していて、いずれ今と同じ人生を人は過ごす。その人生を愛すことができるように生きることこそが生きる意味であるというものだが、先述した通り、時は循環しない。

 ニーチェの名誉のために言っておくが、ニーチェの時代に量子力学という学問は確立されていない。そのため彼がこのように考えたのも無理はないだろう。


 では、ニーチェが唱えた運命愛という概念は物理法則に反するため、学ぶ価値がないのかというと、とんでもないがそんな事はない。彼の思想が私にとっての運命感に大きな影響を与えたように、過去の神話を科学万能の時代に学ぶように、物理法則に反しているため学ぶ価値がないと切り捨てるのはあまりに浅はかな考えではないだろうか。

 哲学は他者に回答例を与えるのが役目だと私は考えている。その答えを与えるためには空論として存在している哲学に触れてみるのも悪くない。


 さて、哲学者というものは婉曲な言い回しや、多くの全体を踏まえ、自分の論理を固めようとする癖があり、私もその端くれだと考えているため、話が長くなった。それを謝罪するとともに、本題に入ろう。


 運命というものは人間に付き纏う外的要因だと私は考える。今の世界にはある種哲学用語とも言える親ガチャという言葉がある。運命とはその親ガチャも含む外的要因そのものなのである。

 この運命というものを主観として、運命側から人間を見ると、人間には三種類の人間がいると私は考える。

 運命に愛されたもの、運命に見放されたもの、運命に嫌われたものの三種類だ。哲学は比喩を駆使して、多くのことを短く言い表そうとする。では、この三種類をもう少し具体的に語るとしよう。

 まず、運命に愛されたもの。これは外的要因の多くが自らの味方となっている人間のことである。自らが夢を持ち、親が自らの夢を助け、環境すらもが自らの後押しとなる。これが運命に愛されたものだ。自らの環境を見直してみて欲しい。個人により差異はあれど、運命に愛されたものはそう少なくはない。

 次は運命に見放されたものを見ていこう。運命に見放された人間は運命に愛されず、嫌われなかった人間とも言える。先述から予測できるように、運命に見放さられたものは、自らの夢を持ったとして、身内に協力されなかったり、環境的に困難な状態の人間のことを言う。おそらく、日本人であればこれが最も当て嵌まる人間が多いのではないだろうか。

 最後に、運命に嫌われたものを見ていこう。これについては言葉を飾っても仕方がないのではっきり言うが、運命に嫌われたものは夢を持ったとして、身内も環境もが自らの敵となる。これについては具体例があるので語らせてもらおう。


 筆者の周りにはそれなりに優秀な人間がいて、これから語るのは筆者の友人の話だ。

 彼は非常に優秀で中学時代、学年で五本の指には入るほどのものだったが、ある時、彼の両親が離別した。これがただの離別なら話は別だったのだろうが、この離別は残念ながら世間一般が予想するであろうものよりも酷かった。

 まず、離別の原因は父親の不倫だ。この父親というものが厄介で、不倫相手の女に貢ぐものだから、まず子供達に支払いをするのをやめた。次に父親が目をつけたのは子供の保険だった。父親はこれを解約し、子供の学費と将来の保険が消えた。母親は大した稼ぎ手ではないし、元々子供の夢には興味がなかった。

 彼は医者になるという夢があったが母親はその夢を、金がないといい、諦めるように説得したそうだ。それからの彼は非常に荒れていたのを今でも覚えている。


 正直、自分が運命に愛されているのならここで読むのをやめ、さっさと勉強に励んだ方がよほど生産性がある。だが、私は運命に嫌われたものにある種の答えを差し出すために今回、筆を取ったわけだ。


 先日もニーチェのツァラトゥストラを引用したが、今回も人に答えを与えるために彼の言葉を借りるとしよう。とはいえ、彼の言葉を借り、そのまま答えにするのでは哲学徒ではなく歴史学者と言われてしまう。そのため、この答えには筆者の主観が多分に混ざることを許して欲しい。

 ツァラトゥストラという名の仙人が道を歩いていた時のことだ。彼は路上で喉元を蛇に締め上げられている男を見つけた。ツァラトゥストラはその男を見て、助けるのではなく、その蛇を噛み殺せと大声で叫ぶ。勿論、もし路上で蛇に締め上げられている人間が居れば、助ける方が望ましいだろう。だが、これは哲学。つまりは何かの暗喩なわけだ。

 ここで私の言う運命に嫌われた者たちが出てくる。蛇を運命、男を運命に嫌われたものと見ると、この全ては繋がるではないだろうか。

 男は運命に苦しめられ、運命は彼を締め上げる。そして、男は最終的に蛇を噛み殺すわけだが、その時の男は快楽に満ち足りた表情をしていたと言う。

 これを運命とそれに嫌われた人間に当てはまると、運命に嫌われた人間は己が運命を噛み殺し、自らを助く訳である。


 要約しよう。答えを出そう。


 運命に嫌われたものは、自らの手で運命という蛇を噛み殺さなければ、自らを助けることはできない。ツァラトゥストラが男を助けなかったのは、自らを助くのは自分のみであると言うことを語るためである。


 筆者は運命を一種の神と呼ぶ。つまり、運命という神に嫌われた我々は運命という神を食い殺す獣になる訳だ。それ故に、運命に嫌われたものを筆者は神喰らいの獣の子フェンリルのこなどと形容する。

 フェンリルの子らは、神を喰らうことでしか生きられない。もし、君が運命に嫌われた者なのならば、君が助かる術は、君が運命に争い、運命を食い殺すしかないのだと私は謳おう。

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五分で読める 誰でも哲学 桃園 蓬黄 @N4Luto

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