五分で読める 誰でも哲学
桃園 蓬黄
第1話
神は死んだ。
この言葉はあまりに抽象的ではあるが、確かに的を得ている。
ニーチェのツァラトゥストラの一幕で語られたこの言葉だが、台詞の印象が強すぎて、台詞が一人歩きし、本来の意味は置いてけぼりになっているのが現状だ。
今日はこの言葉を噛み砕き、哲学らしく人々にある種の答えを差し出してみようと思う。このある種の答えには存分に筆者の主観が混じるが、主観なき哲学の主張というものも珍しく、そして味気ない。だから、哲学のある種の結論に主観が入ることは決して間違ったことではない。
まず、この言葉を噛み砕く、本来の意味、隠れた意味を理解するためには、この言葉がどんな場面で使われたのかを説明しなければなるまい。
先述したが、この言葉はニーチェの著書、ツァラトゥストラでの一幕である。この話はツァラトゥストラという仙人が山を降り、里を旅するという内容でその旅の中で主人公、ツァラトゥストラは里で多くのことを語る。この台詞もそんな旅の一欠片であり、最も輝いている話の断片として、所謂世間というものに周知されている。
前置きはこの程度にして、語るべくを語るとしよう。
ツァラトゥストラは太陽に両手を伸ばし、平伏した様子の老人を見て声をかけた。ツァラトゥストラにはその老人の動きがあまりに奇怪であったのだ。すると老人は「神に祈っている」と宣う。ツァラトゥストラは稲妻が走ったかの如く、衝撃を受けた。
この老人はまだあのことを知らぬのか。神は死んだのだ。
こうして登場した有名な台詞は今や、その意味を内服しない形骸化した台詞として世間に広まっている。それもそのはず、神は死んだという抽象的かつ比喩的な発言をする場面すらも比喩的な言い回しで構築された文章なのだ。これでは、本来の意味を掴むのは難しい。なので今回は本書と主観を交えて、この言葉を分解、観察したい。
まず、この神という言葉を具体的な言葉に変えようと思う。神という言葉は多くに語られる存在であるが、この場の神という言葉は特定の神を指す代名詞ではない。結論を言うと、この言葉は絶対的価値観という言葉の比喩なのである。
古来より、神というものは人智を超えた存在に説明を与えてきた。四季が訪れるのは、春の神が冥界に半年ほど住まわねばならないから。太陽が降るのは狼に追い回されているから。人が死ぬのは神の恨みを買ったから。
列挙していけばキリがないが、人間は己の無知を神という言葉で埋めたわけだ。それが、どうだ。中世が終わり、近世、近代と時代が移り変わるにつれて、科学は発達した。人類は宇宙にすら手を伸ばし、月にも降り立った。
つまり、科学が発展するにつれて、神という存在に説明を求めなくなったわけだ。これまで神という便利な言葉は我々に多くの合理性を与えていた。それが科学の発達によって、科学的な理論に起きかえられているうちに人々は神の存在を忘れていった。
今では当たり前だが蛍は朝露などから生まれはしない。しかし、当時、蛍は朝露から生まれると本気で信じられていたのだ。これが信じられなくなったのは誰かが蛍の幼虫という存在を発見したからに他ならない。
そして人はいつしかこう思うようになった。
この世の万物は科学で成り立っている、と。
この考えを物理主義というが、今の人類はほぼほぼ物理主義の体現といったような文明を築き上げてはいないだろうか。勿論、この世には宗教というものが未だ存在する。だが、過去の時代、絶対的な答えとしてそこに君臨していた神という存在の威厳は今や見る影もない。
これこそが、神の死そのものな訳である。この世の絶対的な価値観であった神は科学の発展により、失墜した。神は死んだという台詞はまさにこの言葉を的確に表した比喩なわけである。
人は自らの手で神を、絶対的価値観を破壊した。そして新たな価値観として科学万能を築き上げたわけである。科学の答えは人類自らの手で切り開かねばならない。人々が新たに作り上げた神は人々が組み上げねばならない。
さて、答えを差し出し、人々を導くのが哲学者の使命なわけだが、ニーチェは神は死んだと言い残し、あとはダンマリだ。これでは哲学者の仕事をしていないという筆者の主張はさておき、今回はその答えを差し出さすことを目的に私は筆を取ったのである。
絶対的な価値観を失った人類に待っていたのは、存外平和な暮らしだった。神という最大規模の精神の支えを失ったのにだ。ここで新たな神という存在、科学という存在が出てくる。
今の時代。太古の時代に精神的な支柱として君臨していた神という存在は科学という名の神に引き摺り下ろされたのだ。
今の時代でいう科学は過去の時代には神学というものだった。科学の支柱である数学という理念は神の御技を解き明かすために研究され始めた概念だ。そしてその概念に神は殺された。
結局、今の時代も変わらないのだ。人は心の安寧を知ることで得る。知ることは世界を知ることなわけである。世界を知ること、これすなわち生きることである。
物事の本質をよく知ることは、生きることに繋がる。これが学ぶ意義なのだ。
神は死んだ。生きるための支柱であった神は人々が殺した。それでも人は立ち上がり、歩かなければいけない。小鹿のような震えるその足で、一人で、この長い長い道を歩いていかなければいけない。
その杖として、この世界には科学というものがある。長い人生を歩き切るには、その杖に寄りかかり休むことも必要だ。青年達は震える足で必死に立ちあがろうとする。その支えとして、人は多くを学ぶのである。
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