成金商家物語番外編

emoto

第1話 番外編

◇◇◇後日譚◇◇◇

 ◇初恋


「君はね、いい大人だというのに、何をしているのかね。はぁ、全く、心臓が縮み上がったかと思ったよ」

「……」

 アルフォンソは義父であるブランシュ子爵から説教を受けていた。メルセデスも同席をすると言ったが、子爵の希望もあって部屋の中は二人だけとなっている。

 成金中年の長年に亘って準備が成されていた計画が頓挫してから数時間後、慌ててベルンハルト邸へとやって来たブランシュ子爵の姿を見てから、大切なことを忘れていたとアルフォンソは思い出す事となる。

 アルフォンソは子爵夫妻へ別れと謝罪・お礼の手紙を朝一に届くようにしていたのだ。

 メルセデスも同様に、アルフォンソとジルヴィオ、コルトと一緒に王都を出る事になったが、探さないでくれという簡潔な手紙を父親に送っており、そんな手紙を同時に受け取ったブランシュ子爵は何事かと事情を聞きに来た次第であった。

 アルフォンソの話を聞いた子爵は深くため息を吐いて、心臓が縮み上がるかと思ったと文句を言う。

「手紙を書いたことを忘れて暢気に朝食を食べていたとはね」

「いや、何だ、すまなかった」

 アルフォンソは素直に頭を下げた。昨晩から想定外の事態が続いていたので、手紙を送っていたことをすっかり忘れていたのだという。

「君の計画には驚いた。嫁がせた娘を自分の弟に譲ろうとしていたなんてどうかしているよ」

「……」

「今まで自分の幸せを考えなかったの?」

「それは――考えなかったといえば嘘になる。だが、辛く、同じ境遇にあった弟を助け損ねた私が幸せになるなどありえないことだと」

「……」

「それに私はお前の娘と結婚をしてから、短い間ではあったが心穏やかに過ごすことが出来た。その、ささやかな思い出と共に余生を送ろうと考えていたのだ」

 頭を抱えながら自身の行いを振り返るアルフォンソに、子爵は呆れた視線を向ける。

「君は、本当に真面目で物堅い男だ。家族とはいえ、他人のためにそこまで出来る人はいないよ」

「そんなことはない。私は見た目通りのどうしようもない男だ。お前の娘には相応しくないだろう。だから、人柄もよく、若い弟に」

「まだそんな自虐的なことを言っているのか。もう、嫌になるねえ」

「……」

「僕が君を助けた騎士であったことはメルセデスから聞いたのかい?」

「そうだ。あの時は――」

「ああ、お礼はいいよ。手紙の中に書いてあったからね」

 子爵はアルフォンソの名前を覚えていて、騎士時代に助けた少年であることに出会ってすぐ気がついていた。一方のアルフォンソは十年前に知り合った時に体型に変化があった子爵を見て自分を救出してくれた騎士だと気がつかなかったのだ。

「メルセデスはね、君の行いを尊敬し、憧れていたのだよ。長年騎士隊の支援を続ける見たこともない男の行動を心の支えにして、国のために苦しい思いを堪えながら剣を握って来た。騎士を辞めたあの子は君に生涯お仕えしたいとまで言っていた」

「その話は本人から聞いていた」

「そう。まあ、親としては、メルセデスに女性としての幸せを知って貰いたいっていう願いもあって、嫁がせたほうがいいんじゃないかって思ってね」

「それは……余りにも残酷な行いだろう。歳が離れていて、尚且つ子供もいる男に嫁げというのは」

「そうかな? でもね、メルセデスの実態も知らない相手に仕えたいという話を聞いていて、気がついたんだ」

「?」

「あの子は見たこともない相手に恋心を抱いていると」

「は、はあ!? な、何を、馬鹿なことを!!」

 アルフォンソは顔を上げ、子爵を見る。真正面にあった義父は至極真面目な顔で語っていた。そこにからかいの色はない。

「城仕えの友人から聞いたんだが、メルセデスは王宮騎士時代に【氷の騎士】と呼ばれていたそうでね。その由来は主人であろうが一定の距離を保ち、心を見せないどころか、人と人の間に壁を作って近付くことを許さない冷徹な騎士だと裏で囁かれていたんだ。僕からしたら、他人とどう接していいのか分からないだけの不器用な娘なのだけどね。まあ、そんなメルセデスが熱烈にお仕えしたいってお願いを聞いた時に気付いちゃったんだよねえ。ああ、これは恋だなって」

「馬鹿、馬鹿だ。そのようなことがある訳がない!!」

「そう言うけどさあ、偶然ここにね、一通の手紙があるんだけどー」

「?」

 子爵は胸ポケットから一通の封を切った手紙を取り出す。裏にはメルセデス・ブランシュという旧名で署名が成されている。表は親展の印鑑が押されているだけで、宛名は書かれていない。

「これは君に、というか、騎士隊を支援している謎の資産家紳士への手紙だね」

「……どうして封が切ってある?」

「いやあ、中身が気になってしまってね!! はは。ほら、親展って印鑑が押してあるでしょう? 親が開いてもいいのかなってー」

「親展の意味が違うだろう!!」

 娘の手紙を盗み見る親が何処にいるのだと憤りながら、アルフォンソはメルセデスの書いた手紙を読み始める。

「……」

 アルフォンソはなんとなく読み始めてしまった手紙の内容を見て、即座に後悔を始めていた。

「……」

「読んだ? ねえ? 恋文だよね、それ。しかも情熱的な」

「う、うるさい!!」

 メルセデスの手紙には騎士隊への支援のお礼の他に、当時顔も知らなかった支援者への尊敬の気持ちが丁寧に綴られていた。アルフォンソはその文章から目を背け、恋文とも取れる手紙を素早く畳んで封筒の中へ入れる。

「その手紙はもし僕が騎士隊を立て直してくれた資産家の男に会うことがあれば渡して欲しいと預かっていたものでねえ。やっと渡せて肩の荷が下りた気分だよ」

「勝手に開封までしていて何を言っているのだ!!」

「それは、メルセデスの気持ちが何なのか知りたくてさあ。いけないことだと分かってはいたけれど。でも、そのお陰で予想は確信に変わったんだけどね」

 メルセデスは子供が産めないという事情もあり、既に跡取りがいる相手への結婚を了承させることは容易いことだった。

 こうして様々な事を経て、子爵はアルフォンソへ娘の結婚話を持ち出すこととなる。子爵家からの申し出なのでアルフォンソが断れないことも承知の上での強引な話だったと、今更ながら謝罪を入れた。

「お前の娘は何を考えていたのか。見たこともない男にこのような文を書くとは。それに騎士隊への支援だって、勿論初めは子爵への恩返しのつもりはあったが、途中から別の狙いもあったからで、そのように祭り上げるのは心外だ」

 アルフォンソが支援を続けていたのは騎士の増員を狙い、街の治安が良くなってフランツやジルヴィオが暮らしやすい場所になればという個人的な願いがあったのだ。

「色々とね、迷ったんだよ」

「は?」

「メルセデスにあこがれの君だよって言って嫁がせるべきか、言わない方がいいのかってね」

 憧れの人物へと教えればメルセデスは盲目的にアルフォンソへ献身をするだろうと子爵は分かっていた。だが、そのように愛されてもアルフォンソ自身はどう思うだろうとも考える。

「でも、結局アルフォンソ・ベルンハルトが騎士隊を支援していた資産家だとは言わなかった」

 散々迷った挙げ句、子爵は娘に結婚相手が少女時代から憧れている相手だということを言わずに嫁がせた。

「なぜならばメルセデスには、ありのままの君を愛して欲しいと思ったからだ」

「!!」

 子爵はアルフォンソとの十年間の付き合いの中で、かの悪名高いベルンハルト商会の成金男の性格を熟知していたので、思い切って賭けに出たのだ。

「君たち二人は真面目で不器用な、似たもの同士でお似合いだよ。稀代の悪徳商会長であるアルフォンソ・ベルンハルトの本質にあの子が気付いて本当に良かった」

「――ッ!!」

「これからもメルセデスを頼むよ、アルフォンソ君」

「……」

「アルフォンソ君はお返事も出来ないのかな?」

「き、気持ち悪いから、名前で呼ぶな」

「おやおや。僕達は親子なのに反抗的な態度を取るね。それに前から気になっていたが、子爵ではなくお父さんと呼びたまえ」

「うるさい!!」

 義父の手の平で踊らされていた事態が分かり、アルフォンソは羞恥に震えていたが、その様子を見て子爵は本当に良かったと聞こえないような小さな声で呟いた。


 ◇◇◇


「父上、少しよろしいでしょうか?」

「はい?」

 帰り際、ブランシュ子爵はメルセデスに呼び止められ、再び客間へ引き入れられた。

「メルセデス、どうしたんだい?」

「アルフォンソ様におかしなことを吹き込みましたね?」

「え?」

「父上とお話をしてから態度が変になっています」

「……」

 子爵は高く昇った日を眺め、いい天気だなあと呟いたが、ダン! と拳で机を叩かれて娘の方向に向き直る。

「アルフォンソ様が先ほどから目も合わせてくれないのです」

「……それは、ははは。あの子は人見知りだからねえ」

「父上?」

「て、照れているんじゃないかな?」

「……」

 子爵は話を終えた後、ジルヴィオとコルトと一緒に遊んでいたのだが、その間にアルフォンソと接触をしたメルセデスは素っ気ない態度を見せる様子を疑問に思っていた。

「朝は普通でした。なのに、父上と話を終えてからです。おかしくなったのは」

「……うん」

「つい先ほどまで、穏やかなお顔で過ごされていたのに、どうしてあのように不審な態度をするのかと」

「……」

 怒りで我を失っているのか、差し出された紅茶に茶葉が入っておらず、ただのお湯に子爵は砂糖を入れて一口啜った。

 アルフォンソは自分がメルセデスの初恋の相手だと分かり、照れているだけだと子爵は思っていたが、どう説明すればいいのか分からなかったので、視線を泳がせた状態で沈黙を耐え凌ぐ。

「何を言ったのでしょうか?」

「い、いやあ、悪いことではないよ?」

「まさか私の作った料理を間違って食べた弟が腹を下した話をしたのでは?」

「その話はしてないよ」

「では、兄の外れていたボタンを付けている途中に、自分のドレスまで一緒に縫い付けてしまった話を!?」

「その話もしていないって」

「では、いいえ、あの話は父上が知る訳が、しかし――」

「……」

 メルセデスは家事の一切を苦手としている。そのことは外に漏らさない方がいいことを子爵も知っていたので、一度も口外した事はない。

 穴が開きそうな程に父親を睨みつけるメルセデスを前に、どうして年下の娘に対してそのように初心な態度を取るのだとアルフォンソを心の中で責めていた。

「何を話したかは言えないけれど、気にするようなことではないよ。彼はメルセデスを愛している。それを確認しただけだ。何も心配をすることはない」

「……はい」

 メルセデスはその言葉を聞いて安堵の息を吐く。元氷の騎士様からの尋問が終わって安心した所で、子爵は一つの質問をぶつけてみた。

「まだ、騎士隊を支援していた男へ会いたいと思う気持ちはあるかい?」

「それは」

「複雑?」

「いいえ、お会いしたいです。お礼を、言いたい」

 その資産家に勇気付けられ、騎士を続けたからこそアルフォンソに会うことが出来た。そのことを含めてお礼を言いたいとメルセデスは語る。

「君は、全く真面目な子だね。ははは……もしも再会出来たら言っておくよ」

「お願いします」

「……じゃ、僕はこれで」

「父上」

「なんだね」

「父上は嘘を吐くときに空笑いをする癖があります」

「!!」

 立ち上がろうとしている中腰のまま、メルセデスを見る子爵の額には汗が浮かんでいた。

「どうぞお帰りになって下さい。また今度、アルフォンソ様がいない時に、母と一緒にゆっくりとお話を致しましょう」

「う、うーん」

 唸り声を上げながら子爵は家路へ着く。そのすっかり青ざめた顔を見て、夫人がベルンハルト家で何かあったのかと訊ねてきたが、メルセデスが怖かったとだけ呟いて部屋の中に閉じこもってしまう。

 その後、子爵が握るアルフォンソの秘密がメルセデスに明かされることはなかった。


 ◇成就


 空を見上げれば雲一つない青空が広がっている。

 アルフォンソは甲板にある犬を放てる広場に来ており、寝そべるようにして座る甲板椅子(デッキチェア)に体を預けている。手元にある丸い机には熱帯地方の果物がグラスの縁に挿してある真っ青な飲み物が給仕の手によって勝手に運ばれ、数分後には果物の盛り合わせも追加されていた。

 目の前にある柵の中で沢山の犬達が楽しそうに駆け回っている。その様子をアルフォンソは忌々しげに眺めていた。

 船旅二日目の予定はアルフォンソ以外皆予定が埋まっていた。

 メルセデスとジルヴィオは劇を見に行くと言って朝食を終えた後すぐに出かけて行った。アルフォンソも誘われたが、【くまのアルゲオさまといぬのラウルスくん】という子供向けの演目だったのでお断りをさせて貰った。

 フランツは船に出店している商会との取り引きに出掛け、残ったアルフォンソは犬と一緒に甲板までやって来て暇つぶしをしていた訳だった。

 周囲を見れば一人で熱帯果物(トロピカルフルーツ)を摘んでいるのはアルフォンソだけで、他は家族や恋人同士でキャッキャウフフと楽しそうに過ごしている。

「……」

 アルフォンソは周囲に聞こえないように舌打ちをして、真っ青な飲み物を口に含む。

 潮風と共に鼻先を掠める獣臭もアルフォンソをイラつかせる要因の一つでもあった。

 そんな中で、アルフォンソのお犬様は元気良く走り回り、時間を追うにつれて泥だらけになりつつある。広場の後方には犬専用の美容室があるので、しばらく遊ばせたらそこにぶち込もうと考えつつ、謎の青い果実汁を飲み干した。

 ◇◇◇

「すみませーん! すみませーん!」

「!?」

 顔に新聞紙を置いてうたた寝をしていたアルフォンソは肩を叩かれながら声を掛けられて、慌てて起き上がる。

「あ、おじさんだった」

「……」

 アルフォンソの隣にしゃがみ込んでいるのは十代後半位の年若い女性だった。小麦色に焼けた肌に袖のない上着に短いズボンという露出の高い服を纏い、薄い金の髪は結わずにそのままにしているという目のやり場に困る格好をしていた。

「なんだお前は」

「ナンパしようとしたらハズレだった」

「はあ!?」

「若いお兄さんだと思ったのになーおじさんだったかー失敗失敗」

「なにを言って……」

「おじさんの犬どの子?」

「……」

 隣にあった甲板椅子に座った女性は勝手にアルフォンソの果物を摘みつつ、走り回る犬達を指差して自分の連れて来た犬の説明を始める。

「私ねキャナルっていうの。おじさんは?」

「……」

「名前なんていうの?」

「……」

「ねえねえ、おじさん何で無視するのぉ?」

「うるさい!! 私に話しかけるな!!」

 不快感が最大値まで上昇し、思わず見知らぬ女性を怒鳴ってしまったアルフォンソはしまったと後悔をする。

 ところが、怒鳴られた女性は押し黙るどころか、突然笑い出した。

「私!! 私だって!!」

「は?」

「自分のこと私っていう男の人初めて見た!! さっきから思っていたけれど、おじさんさあ、お坊ちゃま育ちでしょう?」

「……」

「なんかね、この辺にいる男の人と違うー!! なんていうの? お上品?」

「……」

「それにーここはね、そんなきちんとした格好で来る所じゃなんだよー」

「は?」

「みんな楽な格好で来てるよ」

「……」

 確かに、言われてみればアルフォンソのようにシャツにベストというきっちりとした格好で来ている客はいない。皆、半袖に半ズボンという出で立ちだ。

「もしかして上層階に泊まっているお客さん?」

「……」

「ねえねえ!」

「お前には関係ない!」

「上に行けば行くほどお金持ちなんだよねえ」

「……」

 アルフォンソが宿泊をしているのは船の最上階にあるフランツが予約をして取った部屋だが、普段仕事で乗る時は中層階の部屋を取るので、内装などはアルフォンソも驚いた位だ。

「いいこと教えてあげるー」

「?」

「ここはね、下層階から中層階のお客様専用の犬広場なんだよー」

「!!」

「あ、やっぱりお金持ちの階の人なんだ」

「な!? 騙したな!!」

「嘘じゃないよ。上層階の人たちの犬広場は別の場所にあるんだって」

「……」

「おじさんね、一人だけ服装がっていうか、雰囲気違うから目立っていたよ」

「……」

 アルフォンソは前に仕事で乗った時に間違ってここに来たことがあったので、ここに来たのだ。まさか別の場所にもあることを知らずにいたとは、恥ずかしいにも程があると項垂れる。

「ねえねえ、今からお食事に行かない?」

「はあ!? 行く訳ないだろうが!!」

「ちょっとだけならいいじゃん! おじさん面白いからもっとお話したいのに~」

「断る!!」

「え~どうしてよ~?」

 女性の話が終わらないうちにアルフォンソは立ち上がって柵の外からコルトの名前を呼ぶ。近寄ってきたコルトを引き寄せ、足早に広場から去って行った。

 幸いにも女性は後を追ってこなかった。


 ◇◇◇


 フランツの部屋に戻り、アルフォンソは風呂場で泥だらけになったコルトを丸洗いする。

 犬と泊まれる部屋なだけあって専用の浴室や洗剤、タオルなど揃えられていた。

 二時間掛けてコルトを綺麗にした後、すっかり毛だらけになったアルフォンソも風呂に入る。

 泡風呂の素というものがあったので、浴槽に入れてお湯を溜めればものの数分で真っ白な泡だらけのお風呂が完成した。

 体の犬毛を落としてから浴槽に浸かる。

 泡からは甘い香りが漂っていて、今まで体に纏わりついていた犬臭さを全て拭ってくれるようなさわやかな気持ちになる。

 しかしながら、浴槽の中に入ってからこれは草臥れたオッサンが使うものではなく、子供や女性が楽しむものだと気がついてしまった。

 風呂から上がり、水分を綺麗に拭き取ってから、洗面所に置いてあったフランツの洗濯された服を勝手に着込む。

 部屋に戻ればコルトが腹を上に向けて寝台に寝転がっていた。

「お前はどこで眠っているのだ! そこはフランツの寝台だろう!」

 アルフォンソの怒号に体をビクリと動かして反応を示したコルトは起き上がってアルフォンソの近くに来て、手の甲に擦り寄って来る。時間を掛けて綺麗に洗ったからか、毛もふわふわになっていた。

「お前のせいでさっきは大変な目に遭った!!」

 アルフォンソは寝台の上に座りながら文句を言う。

「――何があったのですか?」

「!!」

 奥の部屋から出てきたのはメルセデスだった。どうやら先ほどからいたらしく、手には茶器の載ったお盆を持っている。

「……何か、甘い匂いがしますが」

「風呂の入浴剤だ」

「……どうしてこのような時間に風呂に?」

「こいつを洗って毛だらけになったからだ」

「犬専用の美容室があるのに? わざわざアルフォンソ様がコルトを洗ったと?」

「……」

「アルフォンソ様?」

 茶器を机の上に置き、隣に座ったメルセデスは何かを隠しているアルフォンソから情報を引き出そうと不審な点をどんどん突いてくる。

「あ、あれだ。犬専用の広場で女性に声を掛けられて、食事に誘われて」

「ほう」

「どう避ければいいのか分からずに、そのまま部屋に」

「逃げてきた、と?」

「まあ、そうだな」

「……」

 メルセデスはアルフォンソの瞳をじっと覗き込む。目は泳いでいないし瞳孔は閉じていないので嘘ではないと確信出来た。

「どうしてそのような事態に?」

「いや、どうも下層から中層の客が来る広場に行っていたようで、悪目立ちしていたらしい」

「左様でしたか」

「……」

 ピリピリとした空気に耐え切れなくなったのか、コルトはいつの間にか寝室から居なくなっていた。

 朝は穏やかな気持ちで過ごしていたというのに、どうしてこうなったのだとアルフォンソは頭を抱える。

「アルフォンソ様」

「なんだ?」

 メルセデスの指先がアルフォンソの手の甲へと触れる。

「――!?」

 アルフォンソは即座に手を引いて、顔を真っ赤にさせていた。

「……」

「……」

 すっかり無表情となってしまったメルセデスを見て、しまったと思った頃にはもう遅い。手が触れただけでこのような状態になってしまう自分を情けないとアルフォンソは落ち込んでいた。

「い、いや、違う!! 別に不快に感じて避けた訳では」

「存じております」

「そ、そうか」

 再びの沈黙。

 何か話さなければと思っていたが、何も浮かんで来なかったので、そのまま静かな時間を過ごす事となる。

 先に口を開いたのはメルセデスだった。

「アルフォンソ様は――」

「なんだ?」

「どうしてそのような何も知らぬ乙女のような反応をされるのでしょうか?」

「は?」

「ですから、このように」

「な!?」

 メルセデスはアルフォンソの手に指を絡ませ、ぐっと近くに寄る。するとみるみるうちにアルフォンソはたじろぎ、されるがままになっていた。

「何も抵抗なさらない」

「……」

 耳元でそっと囁かれ、アルフォンソの中の理性はガタガタと崩壊していく。

「な、何も知らない乙女はお前の方だろうが!」

「……」

 近付いていたメルセデスの体を押し返し、アルフォンソはなんとか自分を取り戻す努力をする。

 一方のメルセデスは【何も知らぬ乙女】扱いをされたにも関わらず、動揺の一つも見せないでいた。

「な、ま、まさか、違うというのか?」

「違う、とは?」

「他の男とこういうことを――」

 アルフォンソは数ヵ月前にメルセデスの初恋の相手は自分だと聞いていたので、勝手に男性経験がないものと思い込んでいたのだ。

(何を馬鹿なことを!! 他の男と経験があろうがなかろうがメルセデスはメルセデスだ)

 悲しいかな、男性の多くは処女信仰がある。そのような考えはつまらないものだとアルフォンソは首を強く振って否定した。

「何を考えているのかは存じませんが、私が愛している男性はあなただけです」

「!!」

「アルフォンソ様も同じ気持ちであると聞き、とても嬉しく思ったのですが、残念ながら愛とは形が見えません」

「?」

「なので、教えて頂けないでしょうか? アルフォンソ様の愛を」

 その言葉を聞いた瞬間にアルフォンソはメルセデスの体を抱き寄せた。

 人の体温を自分からこうして直に求めたのはいつだったか、思い出そうとしても記憶にない。

 一度体を離し、濃紺の瞳を覗き込む。頬を紅く染めた顔は艶めかしく、魅入っているうちに、黒い睫毛で縁取られた瞼は閉ざされた。

 再び体を寄せると、紅が引いてある唇に口付けをする。ただ口と口が重なり合っているだけなのに、背中の内側がぞくりと粟立って痺れるような感覚が駆け抜けていった。

 これ以上はいけない。そう頭の奥底で考えていたが、なかなか行動に移すのは難しく感じていた。だが、ここはフランツの部屋だ。ことに及ぶ訳にはいかないと自分へ言い聞かせながら、断腸の思いで何とかメルセデスの体を引き離す。

「アルフォンソ様、嬉しいです」

「――それは、良かった」

 メルセデスは初めてのアルフォンソからの愛ある行ために感動をしていたが、アルフォンソは余韻に浸る余裕はなかった。

 様々な荒ぶるものを抑えつつ、何とか紳士的な態度で返事をしながらアルフォンソは必死に耐えている。

 横に座るメルセデスはそんな夫の様子に気付かないまま、微笑みかけていた。


 ◇暗転


 あれからすぐにお買い物に行っていたジルヴィオとフランツが戻って来て、元の主に部屋を明け渡す事となった。

 夕食まで時間があるのでどこかに行くかとアルフォンソは聞いたが、メルセデスはゆっくり過ごしたいと言ったのでそのまま部屋に戻る事にした。

「今のうちに風呂にでも入っておけ」

「そうですね」

 一人になりたかったので妻に風呂を勧める。言葉通りに浴室へ行く後ろ姿を確認してから長椅子に座り、軽く息を吐いた。

 アルフォンソは先ほどメルセデスが言った事を思い出す。

 ――愛とは目に見えない。

 本当にその通りだと、その言葉を頭の中で反芻させていた。

 しかし、アルフォンソはメルセデスの愛情を受け取り、また捧げる相手として相応しいのかと疑問に思う。

 若い妻と並んだときに夫婦に見えないことなど、とっくの昔に自覚をしている。メルセデスも背筋をピンと張って忠犬のように三歩後ろを歩くので、端から見たら良くて主人と使用人、最悪成金男とその愛人に思われているだろうなと自虐的に考えていた。

 逆にどうすれば相応しくなるのかと思考を張り巡らせる。

(せめて自分があと十歳若かったら)

 若い頃は今のように痩せ過ぎておらず、暗がりで使用人とすれ違っても怖がられることはなかった。

(いや、待てよ。二十九の頃といったら仕事が急に忙しくなって、その疲労から抜け毛が激しくなった時期だ)

 たとえ十年若返ったとしても禿げ散らかしている自分では、メルセデスの夫として見劣りするだろうことが発覚して、アルフォンソはがっくりと肩を落とす。

 アルフォンソより頭一つ分低いメルセデスの身長は女性としてはかなり高い方だ。騎士を長年勤めていたとは思えないすらりとした均衡の取れた体はしなやかで、立ち姿はいつ見ても美しい。それに加えて漆黒の艶やかに流れる髪は珍しい色合いで、抜けるように白い肌を際立たせるものとなっている。切れ長の目は濃紺色で長い睫毛が縁取っており、一見すると冷たい印象もあるが、そのようなことはないことをアルフォンソは知っていた。

 メルセデスは清廉であらゆる意味で強く、逞しい、類い稀なる女性だ。

 このような完璧な女性が何故自分なんかに愛を誓ってくれたのか、アルフォンソは理解出来ないでいた。

 先ほどの口付けだって何の抵抗も見せずに受け入れ、静かに頬を染めて俯くだけだった。

 そんな妻の姿を思い出して急に恥ずかしくなり、頭を抱え込む。

(つまらない考え事は止めよう。不毛だ)

 そう考えが纏まった瞬間に部屋の照明が全て落ち、一気に暗闇の中となってしまった。

「!?」

 アルフォンソの考え事の終わりと共に部屋の灯りが消えたので、まさか自分のせいかと考えたが、そのようなことがあるはずはないと首を振って我に返る。

 この船の動力の全てはユーリドット帝国から伝わった魔石燃料が使われていると聞いたことがあった。これはハイデアデルン国の船なので、そういった不具合もあるのかもしれないとざっくりと予測を立てる。

 メルセデスは大丈夫だろうかと風呂のある方向を見た時、何かが倒れる音が浴室から聞こえてきた。

 アルフォンソは立ち上がって暗闇の中を小走りで進む。

「おい! 大丈夫か?」

「あ、は……えっと」

「入るぞ」

「え?」

「何も見えないから安心しろ」

「は、はい」

 洗面所の中も暗く、何も見えなかった。唯一メルセデスがいるという気配は感じていたが姿は見えない。

「怪我はないか?」

「はい。大丈夫、です」

「そうか。さっきの物音は一体」

「その、タオルを探そうとして何かを倒してしまったようです」

「タオルの置いてある場所は逆の位置だろうが」

 アルフォンソは声が聞こえる方を見て、メルセデスのいる位置を確認する。それからタオルの入っている棚の位置まで移動をして、声を掛けてから投げ渡した。

「……アルフォンソ様、ありがとうございます。それにしても凄いですね」

「何がだ?」

「この暗闇の中でも物のある位置を覚えているなんて」

「別に、明るかった時に見た物の位置を覚えていて、記憶を頼りに動いているだけだが」

「それは普通の人には出来ないことです」

「そうなのか?」

「はい。アルフォンソ様は空間認識能力が優れているということになります」

 普通の人間は暗闇の中で迷い無く歩くことは出来ないのだと知らされ、アルフォンソは不思議な気持ちになっていた。

「空間認識能力、か。初めて聞いたな」

「私も騎士隊の訓練で少しだけ」

「そんな事もしているのか」

「はい。暗闇の中での戦闘訓練ですね。それに目を閉じている方が感覚は研ぎ澄まされるとも言われているので、騎士としての能力向上のためにも行われておりました」

「なるほど」

「まあ、この通り私はあまり得意ではありませんでしたが」

「……みたいだな」

 そんな中で話をしているとメルセデスがクシャミをする。

「まさかまだ裸なのか?」

「はい」

 気付かないまま暢気にお喋りをしていた自分に苛立ち、アルフォンソは舌打ちをする。

「服はどこに置いた?」

 着替えを置くための入れ物の中には何も入っていなかったので、服のある場所を問いかける。

「洗面台の近くにドレスが」

 言われた通りに洗面台の付近を探れば、手触りの良いドレスがハンガーに掛かった状態で吊してあった。これは投げて渡す訳にもいかないので、手にしたまま声を掛ける。

「ドレスは見つけた」

「ありがとうございます」

「……」

「……」

 下着は別の場所にあるようで、メルセデスは取ってくれと言い出せず、アルフォンソは妻の下着を暗闇の中手探りで探す行為など、まるで変態のようではないかと考えていた。

 しかしこのままの状態では風邪を引いてしまうと思い、アルフォンソは変態になる決心をした。

「下着は?」

「……申し訳ありません」

「いいから早く言え」

「はい。ドレスと同じく洗面台の上に置いてあります」

「……」

 洗面台のつるりとした大理石の上に手を這わせてメルセデスの下着を探す。

 指先にレースの端の部分が触れるのが分かり、それが下着であると瞬時に理解する。

 そのまま獲物を見つけたとばかりにがっつり掴むのもどうかと思ったので、タオルを下着一式の上に置いてから手に取った。

 メルセデスの傍へ近付こうとすると、床が広範囲に亘って濡れていることに気がつく。

「髪の毛の水分を拭わないまま出てきたのか?」

「はい。浴槽に浸かっている時にいきなり灯りが消えたので、そのまま出てきてしまいました」

「……だったらドレスは着ない方がいいな」

「そうですね。今の状態だったら服が濡れてしまいます」

「先に下着だけ受け取れ。寝間着が棚の中にあったはずだ」

 タオルに包んだ下着をメルセデスのいる方向へ差し出したが、一向に受け取る気配がなかった。

「私はここだ」

「は、はい。申し訳ありません」

 メルセデスも下着を受け取る努力をしているようだが、イマイチ物や人の位置を把握していなかった。アルフォンソは裸のメルセデスに触れる訳にはいかなかったので、動けない状態が続く。落ち着かない心を抑えつつも、アルフォンソは左のつま先で床を叩いてメルセデスに位置を知らせていた。

「少し目が慣れてきまし――!!」

「なッ!?」

 目が慣れて周囲の状況が少しだけ分かるようになったメルセデスはアルフォンソに接近をする。が、濡れた床で足を滑らせたメルセデスは、アルフォンソの胸の中へ真っ直ぐに飛び込んでしまった。

 いきなり突っ込んできたメルセデスをアルフォンソは反射的に抱え込む。

「!?」

 直に押し付けられた柔らかい二つの物体の感触を受けて我を失いそうになっていたが、支えていた肩は冷え切っていて、濡れた髪の毛は既に冷たくなっているという妻の状態を感じてすぐに自分を取り戻すことが出来た。

「も、申し訳ありま」

「ま、待て、あまり派手に動くな!!」

 この暗闇の中でまた転倒でもされたら大変だと思ったアルフォンソは、胸の中の妻を大人しくさせた。そして上に着ていたジャケットをメルセデスの肩に掛けてから大切なものがない事に気がつく。

「すまん」

「?」

「今の騒ぎでお前の下着をどこかにやってしまった」

「……手を」

「て?」

「申し訳ないのですが、まだはっきりと周囲が見えないので、私の荷物がある場所まで手を引いて頂けると助かるのですが」

「あ、ああ。そうだな。そうしよう。私も助かった」

「助かった?」

「……なんでもない。行くぞ」

 メルセデスに責任を取って床に這いつくばってでも下着を探せと言われるのでは? という心配していたが、杞憂に終わった。

 暗闇の中で四つん這いになって妻の下着を探す変態になることを回避したアルフォンソはメルセデスの手を引いて部屋まで戻ることにした。

 それから数分後に部屋の明かりは回復を見せた。突然真っ暗闇になってしまった原因は、明かりを司る魔石を担当が追加していなかったことによる人災だった。

 平謝りをする客室乗務員に適当に相槌を打ちつつ、アルフォンソは短時間でかなり疲労してしまったと、眉間に皺を寄せつつ顔を顰めていた。


 ◇◇◇


 そんな一連の騒動をフランツに話せば、とんだご褒美でしたね、と爽やかに笑っていた。

 どこがご褒美だとアルフォンソは怒りながら、机の上にあったカップの中の物を一気に煽る。中身は酒で知らずに口に含み、喉に焼けるような熱さを感じて咳き込んでいた。

「もう部屋に戻る」

「そんなにふらふらな状態で危ないですよ。ここでお眠りになっては?」

「あの寝台に三人と一匹も眠れるものか!」

「ですが」

「うるさい!!」

「兄さん」

「お前も寝ろ!!」

「……」

 アルフォンソは夕食後フランツの部屋に商談の結果を聞きに来ていたのだ。ふらつきながら部屋を出て行くアルフォンソをフランツは心配そうに見送った。


 ◇日向


 フランツの部屋から何とか自分の部屋へ辿り着いたアルフォンソは、ムカムカと重い胸元を押さえつつ、居室の長椅子に座った。

「アルフォンソ様、お酒を飲まれたのですか?」

「酒だと知らずに一気飲みをしてしまったのだ」

「それはそれは」

 以前までは考えられない無用心さにメルセデスは呆れた返事をする。胸をしきりに撫でていたので、悪酔いしているのだろうと近付き、楽になるようにアルフォンソのネクタイに指先を掛ける。

「あまり近付くな」

 夫からの冷たい言葉を無視してメルセデスは首を絞めるネクタイを緩めている。一杯しか飲んでいないのに、他人に分かるほど酒臭くなっていることにアルフォンソは苛立ちを感じていた。

 目の前に用意されていた水を飲み干して、緩められたネクタイを外して机の上に小さく畳んで置く。

 それでも喉の渇きが治まらなかったので、メルセデスが剥いてくれていた果物を食べて、冷たく濡れた布巾で顔を拭うと気分は幾分かマシになる。

「もうお休みになりますか?」

「ああ、そうだな」

 のろのろと力ない様子で寝室へ行き、寝台の上に用意されていた寝間着に着替える。足元に雑に脱ぎ捨てた服はメルセデスが丁寧に拾って洗面所へと持って行った。

 髪の毛は整えていなかったので、そのままの状態で寝台の上に転がり、一部が夜空を眺められるようにガラス張りとなっている天井を見つめる。

 昼間は日差しを避けるために布が張っていて、夕方にシーツを交換に来る客室乗務員が外して帰っていたと隣に横たわったメルセデスが言っていた。

 会話もないまま、天井から見える満天の星を眺める。

 キラキラ光る星の大海の中で、一瞬尾を引いて流れる星の欠片が見えた。

「アルフォンソ様、今の見ました?」

「流れ星だな」

「ええ」

 ハイデアデルン国の王都は一年の大半が曇天で、星空が見えることはほとんどない。

「流れ星とは何か知っていますか?」

「あれだろう? 星が人々を見守る精霊の目で、流れ星が愚かな人々を嘆く精霊の涙だと」

「そう言い伝えられていますね」

 これらは古来より言い伝えられた伝承で、一般的に子供を寝かしつける時に話すお伽噺のようなものと認識されている。

 一方でその話を信じている者も多いと言われているが、精霊がいないと言われているハイデアデルン国でも稀に星空が見える時があるので、ただの作り話だとアルフォンソは思っていた。

「ですが、異世界では流れ星に願い事を三回復唱すれば、願いが叶うと言われております」

「あんな一瞬の間に三回も言えるものか」

「そうですよね。不思議な言い伝えです」

 そんな話をしている間にも夜空に星が流れていく。黙って空を見上げるアルフォンソの横で、同じく言葉を発しないまま大人しくしていたメルセデスは、突然笑い声を上げた。

「――やっぱり、駄目でした」

「一回も言えなかっただろうが」

「はい。このように必死になって滑稽ですよね」

 そんなことを言いながらも、メルセデスは胸の前で手を組み合わせ、次の流れ星に備えている。そんな真面目な様子を見て今度はアルフォンソが噴き出した。

「何をそのように真面目に願おうとしているのだ」

「秘密です」

「……」

 笑われたメルセデスはぎゅっと眉間に皺を寄せていたが、その表情を起き上がって覗き込んだアルフォンソの手によって揉み解される。しかし、しっかりと力が入っているので眉の間の皺が伸びることはなかった。

「欲しいものがあれば何でも買え、それに何かしたいことがあれば好きなようにすればいい。お前は自由に生きろ」

 結婚をする前は色々と口うるさく決まりを押し付けていたアルフォンソだったが、メルセデスと過ごすことによって大きく変わった。

 あれこれと決まり事の多かった今までの生活とは違い、これからは好きな服を着て、好きなように出掛け、誰にも囚われずに好きなことをして過ごせばいいとアルフォンソは言う。

「アルフォンソ様も願い事はありますか?」

「私は、そうだな……」

 ――とりあえず十五程若返って、それから三年後に来る頭皮の活動の衰退に備えたい。それから見た目もちょっとだけ良くして欲しい。それから背が高すぎて相手に威圧感を与えてしまうので、もう少し低くなりたい。

「……」

「アルフォンソ様?」

「いや、仕様もないことばかり思いつく自分に呆れていた」

「アルフォンソ様でも自分のことを仕方がない人だと思うことがあるのですね。意外です」

「私は仕方のない所ばかりだろうが。何を言っている」

「そのようなことはありませんよ。アルフォンソ様は素敵です」

「……」

 この誑(たら)しが!! と心の中で思いながらアルフォンソはメルセデスに背を向ける形で再び寝台の上に転がる。

 ギシリ、と寝台が沈んだと思えば、メルセデスがアルフォンソの顔を覗き込んでいた。

「気分はいかがですか?」

「ああ、だいぶ良くなった」

「吐くことが出来れば一番楽になれるのですが」

「いや、吐き気はない」

「そうですか」

 その言葉を聞いたメルセデスはアルフォンソの目に掛かっていた髪を指先で分け、自身も横になった。

「おい」

「なにか?」

「もう少し距離を置いて寝ろ。その位置は窮屈だ」

「……」

 メルセデスはアルフォンソの背中にぴったりと寄り添うようにして寝転がっている。薄い寝間着なので触れ合った肌に背中を通して体温を感じ、何とも落ち着かない気分になっていた。

「少しの間だけ、このままでいさせて下さい」

 アルフォンソは心の中の激しい動揺を悟られないように、言葉を振り絞る。

「お前は」

「はい?」

「私のどこがいいというのだ。自分のことながら全く理解が出来ない」

 ごろりと寝返りを打って背後にいたメルセデスから距離を取り、向かい合う形になってなら問いかけた。

「アルフォンソ様のことを気にするようになったのは執事の不渡り事件の時からでしょうか?」

「お前に酷い言葉で突き放したことしか覚えていないが」

 メルセデスと結婚をして半年経った時に起きた不渡り券を出してしまったという事件は、銀行省の人間である執事がベルンハルト商会の不正を調べるために起こした騒動だった。

 執事の嘘を見抜けなったアルフォンソは慌てて弟に財産を託し、自分は妻と子供だけを連れて逃げ出そうということだけを考えて、行動をしていたのだ。

 そして不渡り券を出した事が嘘だと判明するとメルセデスを連れて行こうとしたのは、子爵家の支援が目的だと言って冷たい言葉をぶつけてしまったことを、思い出さないようにと蓋をしていた記憶の底から蘇らせる。

「アルフォンソ様はそのように誤魔化していましたが、後から考えてみれば、私やジルヴィオを連れ出そうとしている時の顔は必死そのもので、自分で働いてでも養うと言っていた時の様子は演技には見ませんでした」

「まあ、本気だったからな。――あの時の私は本当に酷い言葉ばかり吐いて、本当に申し訳ないと思っている」

「いいえ。暴言を吐かれることに関しては慣れておりましたから」

「どういうことだ?」

 メルセデスは語る。

 騎士になりたての頃、巡回をしながら街の秩序を保つことを任務とする哨戒隊に在籍していた時に、貴族であり経験のない幼い少女に向ける仲間からの言葉は決して優しいものではなかったと。

「それは、辛い少女時代を送っていたのだな。そんなお前に止(とど)めを刺すようなことを私はしていた訳か」

「お気になさらないで下さい。私の兄弟の方がもっと酷いことを言います」

「は? あの上品そうな兄弟がか?」

「あれは見た目だけです」

「……」

 ブランシュ家の兄弟は十人居て、五番目に生まれたメルセデスと末が女であとは男だ。父親であるブランシュ子爵は貴族の子息に相応しい紳士道の伝授をしたが、最初に生まれた四人は始め庶民暮らしだったために、上品な身のこなしや女性を気遣う態度などを身に付けることは困難を極めていた。そんな中で後の兄弟も影響されてやんちゃに育った。面倒を見ていたメルセデスも随分と兄と弟達には手を焼いたという。

「弟や兄達は私に向かって脳まで筋肉で出来ている恐ろしい奴だと言うのです」

「……」

「詳細をご説明した方がよろしいでしょうか?」

「……いや、大丈夫だ」

 知りたいような、知りたくないような、そんな揺れ動く気持ちを持ちながら、アルフォンソは震える声でお断りをする。

 多分メルセデスは兄弟喧嘩なども力技で両成敗していたのだろうなと勝手に想像をする。

「話が逸れてしまいましたね」

「何の話をしていたのか」

「アルフォンソ様の好ましい点を述べようとしておりました」

「……いや、言わなくてもいい。お前の気持ちはよく理解したよ。私みたいな暴言吐きの中年にまで慈悲深い心を持ってくれるということがな」

「いいえ。アルフォンソ様への気持ちは哀れみの心ではありません。――あなたは、私の愛をちっとも分かっていない!」

 珍しく声を荒らげるメルセデスは起き上がって、濃紺の目を曇らせて心外だという表情を浮かべていた。不穏な瞳で見下ろされたアルフォンソもそんな妻の動揺に驚きながら起き上がり、間違った見解を言ってしまったとすぐに謝罪をする。

 眦(まなじり)に涙を浮かべるメルセデスの目元をアルフォンソは指の腹で拭い、小さく震える肩を抱きしめた。

「……見ての通り、私は小汚い中年で、お前は反対に年若く綺麗な女だ。そんな人間に愛されるなどと俄には信じられない話で、それに長年他人を疑って生きてきた私は自分に自信がない。だから、気後れをしてしまう」

「はい」

「お前のことを信じていない訳ではないが、なんというか、難しい感情が渦巻いていた」

「はい」

 メルセデスの中にある愛とは悲惨な境遇にあった自分への同情から生まれたものではないのかとアルフォンソは思っていたのだ。

 だが、それは違うと、メルセデスの悲痛な表情を見て、自分が間違っていたと気付くことが出来た。

「アルフォンソ様、さきほど流れ星に願ったことですが――」

「!!」

 メルセデスは小さな声でアルフォンソに伝える。

 その言葉を聞いたアルフォンソは、妻の体を寝台の上に押し倒した。


 ◇◇◇


 十二日間という長い家族旅行を終えて帰って来たアルフォンソとフランツは、山のようになっていた仕事の処理に明け暮れていた。

「フランツ」

「はい?」

「旅行中は色々と迷惑を掛けたな」

 フランツは仕事の時以外、ほとんどの時間をジルヴィオやコルトと過ごしていた。

「今回は新婚旅行のつもりで計画を立てていたので」

「そうだったのか」

「はい。ジルヴィオ君には悪いなあと思っていましたが、案外親離れ出来ているようで楽しそうにしていましたよ」

「それは良かった」

 アルフォンソが手を止めて話しかける間にもフランツは書類に目を落としたまま、会話を続けている。

 そんな働き者の弟を見ながら、窓の外を眺めた。外は晴天で雲一つない澄み渡った空が広がっている。

「今日はいい天気だな。空が澄んでいて綺麗だ」

「そうですね」

 フランツも手を止めて空を見上げていた。

「前に、ジルヴィオ君から空を描いた絵を貰ったことは覚えていますか?」

「ああ、覚えているが、それがなにか?」

「エリアスさんから聞いた話なのですが、空を描こうと言ったのはメルセデスさんなのです。兄さんが、この国では珍しい晴天に気がつかない程忙しく過ごしているので、描いて贈ろうと」

 前にジルヴィオから貰った空の絵は額に入れて寝室に飾ってある。そのような気遣いがあったとは知らず、胸の中が温かになり自然と顔も綻びる。

「確かに、言われてみれば今まで空なんか気にした事もなかった」

「心に余裕が出来た証拠でしょうね」

「そうだな。その通りかもしれん」

 フランツと二人で空を見ながら、今まで気付かなかった景色を楽しむ。

 暖かな陽だまりとなった午後の執務室で、アルフォンソは確かな幸せを実感していた。


 ◇法悦


 仕事から帰ってきたアルフォンソは、メルセデスに話があると言われていたので、夕食と風呂を済ませてから居間へ足を運ぶ。

 居間の長椅子に座るメルセデスは、何故か緊張の面持ちでいた。

 向かい側に座ろうとすれば、「こちらに」と隣を勧められてしまう。別に断る理由も無かったので言われた通りにメルセデスの隣に腰掛けた。

 メルセデスは氷水の入った器に浸けていた果実汁の瓶を取り出して、栓を抜いてからグラスに注いでいだ。

 アルフォンソとメルセデスは酒が苦手なので、二人の飲み物と言えば専ら紅茶か果実汁になる。

 風呂から上がったばかりで喉が渇いていたアルフォンソは、受け取ったグラスの中身を一気に飲み干した。

 蜂蜜が垂らされた柑橘系の飲料は、調子の悪い喉も癒やしてくれるかのような味わいだ。朝、擦れ声だったので、メルセデスが特別に用意をしてくれたのだな、と二杯目を空にしながら考える。

 それからは他愛も無い話をしながら時間を過ごす。

 会話をしているうちにメルセデスの顔の強張りは解れ、笑顔も見せるようになった。

 一体何の話をするつもりだったのか、と考え込んでしまう。

 そう言えばもうすぐメルセデスの誕生日であったとアルフォンソは思い出した。

 何か欲しい物があるのだな、と考え至ったが、普段から買いたい品があれば勝手に買うように言っているのに、真面目な奴め、と呆れてしまった。

 しかしながら、了承を得なければならない程の大きいな買いものなのか? とも推測をする。

 確か、数日前に知人が良い馬を買ったと言って見せびらかしに来たのだが、その時のメルセデスは、今までに見たことが無い程に目がキラキラと輝いていた。

 誕生日に馬が欲しかったのか、とアルフォンソは思い当たり、特別な日だからとか関係なく、早く言えばいいのに、と普段から遠慮がちな妻の顔を見下ろした。

 しかしながら、馬、と言っても最上等(ピン)から最下等(キリ)まで様々だ。

 きちんとした馬主からでも安いものは金貨十枚程で購入出来る。

 だが、この前のアルフォンソの知人が連れていたような馬ならば、金貨百枚から二百枚は軽くするだろうな、と値踏みしていた。

 それ程の出費をするとなれば、普段から買い物を好まないメルセデスは強請(ねだ)るのにも緊張をするのだろうな、とアルフォンソも納得をする。

 時計を見れば、日付も変わるような時間になろうとしていたので、そろそろ本題に移ろうとアルフォンソはメルセデスに話を振る。

「そう言えば、話とは何だったのだ?」

「!!」

 アルフォンソの言葉を聞いた刹那、メルセデスの顔が再び強張っていく。

 金貨何百枚相当の馬の一頭や二頭、買っても構わないというのに、メルセデスはなかなか口を開こうとしない。

 そんな妻を視界の端に入れながら、すっかり冷え切っていた果実汁の入ったグラスを手に取った。

「さっさと言え、私はもう眠い」

「も、申し訳、ありません。そ、その、アルフォンソ様に、ご相談が、あるのです」

 やはり、そういった類の相談事だったのだな、と緊張の面持ちをしている妻を眺める。

「欲しい物があれば勝手に買っていいと毎回言っているだろうが」

「い、いえ、そうではなく」

「なんだ?」

「欲しいものといいますか、お願い、と言った方がよろしいのか」

「は?」

 用件を口篭もるメルセデスをまどろこしいと思いながら、果実汁の入った杯の中身をくるくると回して玩(もてあそ)ぶ。

 日付が変わった事を知らせる鐘を聞いて意を決したメルセデスは、ずっと頭の中にあった要求を、アルフォンソに伝える事にした。

「アルフォンソ様、その、お願いなのですが、もうすぐ誕生日なので……」

「……?」

 アルフォンソは杯の中身を口に含みながらメルセデスの用件を聞いていた。

「私を、可愛がって頂けないかと思いまして」

「――!?」

 妻のとんでもない要求を聞いたアルフォンソは、口の中に含んでいた果実汁を噴き出してしまう。

「アルフォンソ様、大丈夫ですか!!」

「う、げっほ、げほ!!」

 果実汁が気管支に入り、涙目になりつつ咳き込んでいたアルフォンソは、メルセデスに背中を摩られているうちになんとか落ち着きを取り戻す。

「申し訳ありませんでした」

「全く、何を言い出すのかと思ったら!!」

 一通り文句を言った所で、しゅん、とした様子のメルセデスに気が付く。

 そんな妻の姿を見ていたら、何だか自分が大悪党のようだと思ったので、それ以上は怒らないでおいた。

「お前は、私に何を望むというのだ?」

「!!」

 アルフォンソの言葉を聞いたメルセデスはキラリと目を輝かせる。

 その表情は、この前馬を見ていた時以上に恍惚状態となっていた。

「あ、あの、普段から眠っているジルヴィオにしているように、頭や頬を撫でて下さい!!」

「は?」

 メルセデスは以前毎日のようにジルヴィオと共に眠っていた。

 そして、毎晩様子を見に行っていたアルフォンソは可愛い息子の寝顔を見ながら、頭や頬を撫でていたのだ。

 てっきりメルセデスも眠っているものだと思い込んでいたので、驚きと恥ずかしさが一気に襲ってくる。

「アルフォンソ様」

「!?」

 メルセデスはぐっと距離を詰め、アルフォンソの腕に手を回して身を寄せて来た。

 頭と頬を軽く撫でるだけで良いと言うのに、何故か体が上手く動かない。

 ぴったりと寄せられた部分だけが物凄く熱くなっているような錯覚も感じてしまう。

 その熱も、じわじわと体全体に広がる感覚に陥り、完全に硬直をしてしまった。

「アルフォンソ様?」

「……」

「お嫌、なのでしょうか?」

「い、いや。そう、ではない」

 もう、まともに妻の顔を見られない状態となったアルフォンソは、自分を落ち着かせる為に深いため息を吐く。

 顔を背けているアルフォンソにはよく見えてはいないが、メルセデスは何もしない夫を見ながら、悲しそうな顔をしているのだろうという事は、茹だった頭でも想像出来ていたのだ。

 身を寄せているメルセデスに視線を戻せば、潤んだ目でアルフォンソを見上げていた。

 そんな妻に、恐る恐ると手を伸ばす。

 艶々とした黒髪を手で梳くように撫でると、メルセデスは頬を上気させ、何かに酔っているかのような、うっとりとした表情を浮かべていた。

 触れていた指先を頬に滑らせて、柔らかく触り心地の良い肌を堪能する。

 それから好き勝手に色々な場所を触れて回っていたが、メルセデスは目を閉じた状態でされるがままだった。

 最後に下唇を親指の腹でなぞり、微かに震えていたものを、自らの口で塞ぐ。

 ――果たして、可愛がるとはどういう事を言っていたのか?

 アルフォンソは妻を強く抱き寄せつつ、唇を重ねた状態で考える。

 陶酔している中では、きちんと頭を働かせる事は難しいと、浮かんでいた疑問をあっさりどこかへと投げ捨て、行為に集中することにした。


 翌朝。

 隣ですやすやと眠る妻を眺めながら、これで良かったのか、と疑問に思う。

 メルセデスは無垢な触れ合いを望んでいたのでは、と。

 眠っている息子にするように、アルフォンソは起き上がってから妻の頭を撫でた後に頬に手を当てる。

 すると、ふるりと睫毛が微かに震えたので、慌てて手を離した。

 だが、それも遅かったようで、メルセデスは覚醒をする。

「アルフォンソ様……」

 メルセデスは離れていたアルフォンソの指先を握りしめ、その手の甲を自らの頬へ持って行って、再び目を閉じる。

 そして一言、呟いた。

「昨日は、勇気を出して言ってみて良かったです」

「……?」

「ふふ、こんな風に可愛がって頂けるとは、思ってなくて。得をしました」

「!!」

 アルフォンソは恥ずかしくて穴があったら入りたい気分であったが、手を握られている為に逃走が出来ないので、必死にその羞恥を我慢していた。

 本日もベルンハルト夫妻の仲は良好である。


 ◇絵画


「あ、あの、これは、少し派手なのでは?」

 メルセデスは鏡に映った己の姿を見ながら、羞恥を表情に浮かべつつ呟く。

「あら、あなたっていつも地味だから、派手な位が普通なのよ」

「そう、でしょうか?」

「そうよ!」

 いつもは首元までしっかりと詰まった露出の少ないドレスを纏い、髪の毛も一つに結ぶだけという地味なものとなっていた。

 そんな姿で毎回訪問をしてくるメルセデスが気になっていた公爵夫人はもっと華やかな格好をしたらどうかと提案し、突如として第一回ベルンハルト商会婦人改造計画が始まったという訳である。

 身に纏うドレスの色は、若い娘が好むような明るい青。胸元が強調されるような意匠であった。髪型はコテで巻かれ、結わずにそのまま流している。真っ赤な薔薇の髪飾りだけ耳元に挿されていた。

「あら、あなた、とっても綺麗よ」

「……」

「絵画の中の、金髪女にも負けていないわ」

「!!」

 困り顔だったメルセデスの表情が一気に引きつってしまう。

 今日、公爵夫人に呼び出された理由は、『ベルンハルト商会の会長は金髪美女の裸婦画を集めているらしい』という噂は真実かと聞く為だった。

 勿論メルセデスは否定した。家のどこにもそのような絵は飾っていなかったし、夫の不器用な愛情もしっかりと理解している。金髪の女性に傾倒しているような様子は無いときっぱりと噂を否定した。

 しかしながら、以前『金髪女性の裸婦画は所持している』とはっきり言っていたことを思い出してしまった。

 公爵夫人も言っていた。本当の趣味は人目を避けて楽しむものだと。

「きっと、旦那様は夜にこっそり部屋に篭もって、金髪美女の絵を見ながらお楽しみなのよ。でも、今のあなたはとっても綺麗。これならば、放っておかれない筈だわ」

「!!」

 メルセデスは夫と毎日のように一緒に寝ている訳では無い。もしや、夜を共にしない夜は裸婦画を見ながら一人で楽しんでいるのではと考え、心の奥にぐらぐらと黒い感情が沸き立つような気分となる。

「男性は、聖女のような悪魔も、悪魔のような聖女も、どちらも大好きなの。ありったけの感情を、旦那様に向けてみるといいわ」

「……」

「ねえ、メルセデス?」

 悪魔のような微笑を浮かべる公爵夫人の問い掛けに、メルセデスは重々しく頷いた。


 ◇◇◇


 仕事先から帰ってきたアルフォンソは、妻の迎えが無かったことを不思議に思った。使用人に出掛けているのかと聞いても、部屋に居ますという回答が帰ってくるだけで、首を捻る。

 珍しいこともあるものだと考えながら、首元のタイを緩めつつ私室の扉を開き、中へと入る。

「お帰りなさいませ、アルフォンソ様」

「う、うわっ!!」

 私室の扉を開けてすぐ目の前にメルセデスは居た。

 無表情で気配無く佇むその姿に、アルフォンソは驚いてしまう。

 魚のように口をパクパクと動かし、言葉を失っているアルフォンソをメルセデスは冷静な表情で見ていた。そして、感情の無いような冷えた言葉で呟く。

「アルフォンソ様のご帰宅が、思いの外早かったので、驚いてしまいました」

「だったら、慌てるとか、びっくりするとか、なにか反応を示せ!!」

 今までメルセデスが勝手にアルフォンソの部屋に入ることなど一度も無かった。

 妻の不可解な行動に眉を顰める。

「お、お前は、ここで、私の部屋で、何をしていた!?」

「少し、探し物を」

「はあ!?」

 悪びれもしないでメルセデスはアルフォンソの部屋で探し物をしていると言った。

「一体、何を探していた?」

「……」

 アルフォンソが具体的な問いかけをすれば、射抜くように見つめられていた視線も逸らされる。

「おい!!」

「それよりも」

「?」

 閉ざされた扉を背にしているアルフォンソの元へメルセデスは接近をする。そして、愁いを帯びたような表情で、夫の顔を見上げていた。

「今日の私を、どう思いますか?」

「なにを、言っている」

「アルフォンソ様にお気に召して頂けるように、着飾りましたが?」

「!?」

 アルフォンソも、いつもと違う装いをしているメルセデスについては気になっていた。だが、どうして部屋に居たのかと問い詰めるのが先だと思い、後回しにしていた。

「その前に、私の質問に答えろ」

「何を探していたのか、と?」

「そうだ」

 メルセデスにじりじりと追い詰められ、背後の扉との隙間がほとんど無くなっていた。アルフォンソはもう少しで体が触れ合ってしまうだろうという所まで迫られている。

「私が探していたのは金髪女性の裸婦画、です」

「はあ!?」

「まだ、お持ちなのでしょう?」

「何を言っている!?」

「逃げないでください、アルフォンソ様」

「!!」

 体を捩って扉の前から抜け出そうとしていたら、メルセデスの両手がアルフォンソを囲うかのようにしてドン! と音を立てて壁に付く。

「私という妻がありながら、物足りない夜は、お楽しみだったのでしょうか?」

「だから、お前は何を言っている!?」

「髪の毛を金に染めれば、他の女など、目も暮れなくなりますか?」

「!?」

 その時になってアルフォンソは思い至る。

 メルセデスは、裸婦画の女に嫉妬をしているのだと。

「お前は、勘違いをしている」

「どんな、勘違い、を?」

「金髪女の裸婦画はここには無い」

「!!」

「いくら探しても、無駄なこと」

 その言葉を言い終えると、更にぐぐっと迫られてしまう。柔らかな体を押し付けられ、ご褒美なのか拷問なのか、分からない状態となってしまった。

「どこに、どこにその絵はあるのでしょうか?」

「いいから、とにかく、離れろ!! それに、アレは、お前の気にするものではない!!」

 ぐいぐい体を押すが、メルセデスも力では負けていない。自分の非力さにアルフォンソは情けなく思ってしまう。

「……分かりました」

「?」

「アルフォンソ様が、隠していることについては、今後一切口出しいたしません」

 そんな風に、物分かりの良い口ぶりになっても、メルセデスは一向に離れようとしない。それ所か先ほどよりも接近しており、唇が触れてしまいそうな距離まで迫っていた。

「分かったなら離れろ、早く」

「いいえ。離れたく、ありません」

「……」

 普段のメルセデスは慎み深く、大人しい。口数も少なくて、アルフォンソの言う事にも従順であった。

 しかしながら、メルセデスは追い詰められた状況になると、即座に腹を括って大胆な行動に出てくる。

 そんなことを考えながら冷静に妻の行動を分析すれば、アルフォンソの所持する金髪女の裸婦画が彼女を追い詰めていた、ということにもなる。

 母親の恥ずべき行動を示している絵画は生涯隠しておくべきことだと思っていたが、このようにメルセデスを嫉妬させたままというのも居心地が悪いような気もした。

 アルフォンソも、腹を括る。

「あれは、母の絵……」

「え?」

「地下にある、金髪女の裸婦画とは、浮気をしていた母を描いたものだ」

「!!」

 呆然とするメルセデスの体をゆっくりと引き離し、事情を説明する。

 とは言っても、アルフォンソの母親が、若き画家、フランツの父親と不貞行為をしていたことはメルセデスも知っていることだったので、説明もそう長くは続かなかった。

 そして、すっかり勢いが無くなってしまったメルセデスの手を引き、地下の物置へと移動をする。

 アルフォンソは購入した四枚の絵をメルセデスに見せた。

「……フランツに、面差しがよく似ているだろう?」

「……」

 反応が無かったので背後にいた妻を振り返れば、顔を真っ青にしていた。

「おい、どうした!?」

 肩に手を触れたら、メルセデスはそのままストンとその場に座り込んでしまう。

 具合でも悪くなったのかと、アルフォンソもその場にしゃがみ込み、顔を覗きこむ。

「大丈夫か!?」

「ご、ごめん、なさい」

「は?」

「アルフォンソ様が、隠していたことを、暴くような真似を、してしまって、ごめんなさい」

「いや、いい」

 気にするなと言っても、メルセデスの顔色が良くなることは無かった。

「私は、卑しく、考えも浅い、みっともない、女、です」

「そんなことはない。自分を卑下するな」

 目の前で顔面蒼白となってしまったメルセデスと、背後で艶やかに微笑む母親の裸婦画を振り返って見比べてから、アルフォンソは苦笑をする。

「アレを、どうしようか、どうするべきか、ずっと悩んでいた。もしも良かったら、一緒に考えてくれると嬉しい」

「!!」

 アルフォンソはメルセデスの体をしっかりと抱きしめ、勘違いをさせていたことを詫びた。

「言っていただろう。私の好ましい女は、お前一人だと」

「ですが、アルフォンソ様のような素敵な方は、どこにもいないので、不安に、なってしまっ……!!」

 これ以上褒められたら恥ずかしいので、その口を唇で塞ぐ。

「ア、アルフォンソ、様!」

「なんだ。先に迫ったのはそっちで」

「いえ、そうではなく」

 珍しくメルセデスが抵抗するような素振りを見せるので体を離せば、背後の絵画を指差されたので振り返る。

「その、お義母様の絵と、目が合ってしまって」

「!!」

 口付けに夢中になっていたので、すっかり母親の絵については失念をしていた。舌打ちをしてから起立をして、メルセデスの手もぐいっと一気に引いて立ち上がらせる。

「続きは部屋でする」

「え!」

「そういう格好をしているお前が悪い!」

「あっ、こ、これは」

 顔を真っ赤にして、貞淑な妻に戻ってしまったメルセデスの手を引いて部屋に戻る。

 すっかり立場が逆転してしまったメルセデスは、夫の愛を存分に理解する事となった。


 ◇改悟

「あなたは、仕事と私どちらが大切なの?」

 静かな喫茶店で表情も崩さずに放たれた一言をフランツが意味を理解するのにしばらく時間が掛かってしまった。

 目の前に座るのは兄・アルフォンソの紹介でお付き合いをすることになった人で、家柄も良く性格も温和でひかえめな女性だ。

 そんな彼女がフランツに初めて冷たい一言をぶつけた。

「……勿論、お仕事が大切なのは理解しているわ。だってあなたはベルンハルト商会の重役ですもの」

 こうして逢瀬を重ねるよりも急に入った仕事を選ぶフランツを理解しているつもりでいたが、やはり何度もそういった事態が重なれば不満に思うこともあるという。

「もう一度聞くわ。あなたは仕事と私、どちらが大事なの?」

「それは……」

 金色の髪をしっかりと一つに纏め上げ、清楚な雰囲気のある女性は眉尻を上げながら静かに問う。

 フランツはアルフォンソの紹介してくれた女性に好感を抱いていた。八歳年下だが落ち着いており、話をしていて楽しい相手だった。

 しかし大人しい人と思っていたのは間違いだと思い直す。こちらを見つめる目線は決してひかえめなものではない。

「正直に答えて」

「仕事です」

 きっぱりと言い放ったフランツの言葉を聞いた女性は鞄から口紅を取り出して、机の上にあった紙ナプキンに何かを書いていた。

 そしてそれは首を傾げるフランツの前に差し出される。

 そこには【別れて下さい】という一言が紅い文字で書かれていた。

「ごめんなさい。あなたは紳士で、お話も楽しくて、こうして会うのが待ち遠しかったけれど、片思いだったみたいね」

 そう言ってフランツの返事も聞かないで会計紙を持って去って行った。


 ◇◇◇


 突然振られて気分も暗くなり、足取り重たく帰宅したフランツをメルセデスが出迎える。

「早かったですね」

「はは、まあ」

「?」

 曖昧に返事をして居間へと移動をする。

 一刻も早くアルフォンソに、紹介してもらった女性に振られてしまったことを謝罪の言葉と共に報告したかったが、生憎の不在でもやもやとした気持ちを引き摺ったまま、長椅子に体を預けた。

 向かい合った先にメルセデスも座り、手ずから紅茶を淹れてフランツに差し出す。

 お昼前に帰ってきたので昼食を食べていないと思ったのか、机の上には軽食も並べられている。まさか一軒目に入った喫茶店で別れ話になるとは思わなかったので、昼食も食べず終いだったのだ。

 メルセデスに礼を言いつつ、手を濡れた布巾で拭った後肉と野菜が挟まれたパンを齧る。

「髪を、切りましたか?」

「あ、はい。よく気付きましたね。彼女にも気付かれなかったのですが」

「左様でしたか」

「……」

「……」

 メルセデスはフランツに気を遣っているのか、こうしてたまに紅茶を淹れてくれたり、話しかけたりしてくれる。彼女なりにフランツと家族のように付き合おうと努力をしていることは安易に見て取れた。

 ただ、このようにメルセデスからの話題も乏しく、気まずい空間となることは珍しいことではない。

 噛み締めて飲み込もうとしていたパンが喉に詰まったような気がしてフランツは紅茶とは別のカップに注がれた冷たい水を一気に飲み干した。

 正直な気持ちを言えば、フランツは兄の美しい妻に苦手意識がある。

 冷たい印象のある双眸は常にこちらを見透かすような光を帯びているように感じ、背筋をピンと張って座るその姿には一切隙が無い。

 この世に生きる女性全てにあらゆる癒やしを求めてしまうフランツは、そんなメルセデスの前では変な汗を掻きっ放しだった。

 フランツがそんな尋問を受けているかのような家族団欒の場を凌ぐ技術を身に付けるのに、そう時間は掛からなかった。

「――あ、この前兄さんがですね」

「!!」

 フランツがアルフォンソのことを語りだした途端にメルセデスの温度の無い瞳が熱を取り戻す。

 メルセデスとの気まずい空間を凌ぐ秘策とは、アルフォンソやジルヴィオ、コルトの話をすることだった。普段は冷静(クール)な義姉も、愛すべき家族の話を始めた途端に表情が綻びるのだ。

「この前眼鏡を掛けていたら従業員に似合うと好評で、兄さんは老眼鏡に似合うもクソもないと言っていましたが、満更(まんざら)でもないようで、最終的にはメルセデスさんが選んでくれたと話し出したんですよ」

 アルフォンソは近年老眼を患っていたが、フランツがいくら矯正眼鏡を買うように勧めても「私はまだ老眼ではない!!」と認めようとしなかったのだ。

 ところがある日、腕を伸ばして距離を取った状態で書類を読み進め、尚且つ目を細めて文面を読み難そうにしているアルフォンソを見たメルセデスに老眼鏡を買いましょうと言われて、素直に買いに行ったという話を聞いてフランツは驚くこととなる。

「アルフォンソ様の眼鏡姿、まだ一度も見ていないのですが」

「そうでしたか。今夜帳簿でも持って行ってはどうでしょうか。多分眼鏡を掛けて読み始めると思いますよ」

「!! それは、いい考えですね」

 メルセデスは濃紺の目をキラキラと輝かせながらフランツの話を聞いている。

 フランツの兄は一見義姉の尻に敷かれているように見えて、実態はそうではない。メルセデスは従順な妻であり、夫の世話を焼きたがる普通の女性だ。

 かつてはその冷静な姿から【氷の騎士】とまで呼ばれていた女性をここまでデレデレにする兄こそ最強なのでは? とフランツは思うようにしている。

 しばらくアルフォンソの話で盛り上がっていると、使用人からアルフォンソの帰宅を知らされ、メルセデスと共に出迎えた。

 それから本日あったことを洗い浚い報告すると、顰め面で「そこは彼女が大事だと言え!!」と怒られてしまった。

「兄さん、私は女性とお付き合いすることに向いていないのではと思う時があります」

「何故そう思う」

「……」

 女性とお話しするのは楽しい。とても癒やされる。しかしながら、それ以上に家族と過ごす方が楽しいと思ってしまう、結婚適齢期の男としては困った感性を持ち合わせていたのだ。

「私の中で一番大切なのは家族で、その次に仕事で、お付き合いする女性はどうしても三番目になってしまうのです」

「……」

「折角探して頂いたのに申し訳ありませんでした。しばらくは仕事に集中したいと思います」

「まあ、それもそうだな」

 フランツの言い分はアルフォンソにも理解出来るものだった。幼少時より愛に飢えた者の悲しい性(さが)だと、アルフォンソは引き出しの中から出してあったフランツの嫁候補が書かれた一覧表を握りつぶしてゴミ箱に捨てた。

「フランツ」

「はい?」

「結婚を強要するようなことをして申し訳なかった」

 アルフォンソは弟に幸せになって欲しいから結婚出来るようにと促したのだということはフランツも分かっていた。

「私も他人のお節介で結婚をしたから、ついお前にも、と」

「その気持ちが、嬉しかったです」

「……」

 不倫関係にあった両親の元に生まれた自分がまともな家庭を築ける筈がない。フランツにはそういう考えも心の奥底にあった。

 俯く弟を見ながら、アルフォンソはもう余計なお世話はしないと言った。

 これで良かったのだと言い聞かせながら、フランツはアルフォンソの書斎を後にする。


 ◇◇◇


「……ということがありまして」

「あはは、最悪ですね、ヴェンデルさん」

 フランツはメルセデスの診察に来ていたヤナ医師と行きつけの酒場で話をしていた。彼女とはベルンハルト邸で軽く挨拶を交わす程度の顔見知りだったが、一年前に偶然酒場で会ってからこうして一緒に酒を飲むことがあった。

 国内で唯一の魔術医であるヤナ・フロイントはフランツよりも三つ年上で、背も低く小動物のような雰囲気のある女性だが、はきはきと歯に衣着せぬ態度は大人しそうな見た目と|隔たり(ギャップ)があり、面白い人だとフランツは思っている。

「だから落ち込んでいたのですね」

「え?」

「この世の不幸を全て背負い込んだような顔をしていますよ」

「……」

 医師という職業柄、ヤナは本人も気付いていないような感情を指摘してくることがある。メルセデスなどに自分の考えを当てられると落ち着かない気分になるが、彼女に言われても少し驚くだけで動揺することは無かった。

 そんな風に考え事をしていると、ヤナは手を叩いてある提案を持ちかける。

「分かりました!」

「はい?」

「美人な彼女に振られた可哀想なヴェンデルさんの為に今度美味しい料理を驕ってあげます」

「……うわあ、嬉しい」

 ヤナはフランツの背中をバンバンと叩きながら、慰めていた。

 それから数日後、本当に食事に行く事になったので、指示された場所でフランツは待っていた。

 腕時計を見ると約束の時間から少し経っている。いつも時間きっちりに現れるヤナのことを心配していると、一人の男が近付いて来た。

「すみません、フランツ・ヴェンデルさんですか?」

「ええ、そうですが」

「所長……ヤナ・フロイトから伝言をお預かりしています」

「?」

「えーっと【すみません、急患が入ったので行けなくなりました!ごめんなさい!申し訳ない!】とのことです」

「……」

「所長に伝えることはありますか?」

「そうですね……。また今度、と」

「分かりました。伝えておきます」

 申し訳なさそうな表情でヤナの部下は帰っていった。

 まさか自分が約束をすっぽかされる立場になるとは思わずに、フランツは一人笑みが浮かんだ口元を片手で隠す。

 ◇◇◇

 それから一年後にフランツは結婚をする。

 一番大切なものは妻だと即答する弟にアルフォンソはひっそりと涙していた。


 ◇観取・・・エリアス(執事)視点


 ○月×日

 明後日からベルンハルト家の執事を務める事になり、気分も新たにお仕え致します。……というのは建前で、実際のお仕事はベルンハルト商会の悪事を暴くことになります。

 少し聞き回っただけで悪い噂が集まっておりました。

 まあ、ぶっちゃけ銀行省(うち)の商会券発行の履歴書類を見れば、近年のベルンハルト商会が極めて綺麗な商売をしていることは明らかだったのですが、大臣がどうしてもというので行く事になりました。面倒な親父ですね。

 ○月×日(調査メモ)

 アルフォンソ・ベルンハルト

 過去に三人の妻と結婚をして、三回の離婚をしている。

 一人目の貴族の娘だった妻は持参金を奪って自分の懐へ収めて離婚。

 二人目の取引先の商会の娘だった妻は刃物沙汰を起こした後に離婚。

 三人目の顧客主の娘だった妻は元からベルンハルト家に居た愛人に追い出される形で離婚。

 このように結婚生活だけでも人道から外れた行いを繰り返している。勿論これは人伝いに聞いた噂話で、アルフォンソ・ベルンハルト氏に恨みを持つ者達が脚色を加えて広めたものだと想像している。

 他にも貴族との裏金問題や、怪しい闇取引の内容、異国から愛人を大量に連れてきて囲っているという噂などネタは尽きない。

 ○月×日

 待ちに待った旦那様との初対面の日です。

 客間で待機をしていると、秘書を名乗る若い男性と共に旦那様が現れました。

 問題の旦那様は、なんといいますか、とても不健康そうな御方でした。頬は痩せ細り、目の下には濃い隈が人相を悪く見せております。

 上品な服を纏っているのに、両手に嵌めた宝石付きの指輪がすべてを台無しにしていて、一見すれば【怪しい成金商人の男】という姿となっておりました。

 そして、旦那様が何かに似ているなあと先ほどから引っ掛かっていたのですが、ようやく思い出すことが出来ました。

 髑髏の頭部に似ているのです。

 私の兄は医師をしていて、玄関に骨の人体模型が実家に置いてあるので、よく似ていることが分かるのです。その事を旦那様にお伝えすると、顔を真っ赤にされて怒られてしまいました。

 てっきり私は旦那様が髑髏を知らないと思い込んで口を滑らせてしまったのです。

 普通の教育を受けてきた者は人間の体の構造がどうなっているのか知りません。肉と皮を剥いたら何があるのか知っているのはごく一部の高等教育を受けた者だけなのですが、旦那様はご存知でした。

 それから旦那様は気分を害したのか、怒りながら部屋から去っていき、一人残された私はこれから面白い毎日が送れそうだと期待で胸がいっぱいになっていたのです。

 ○月×日

 朝が苦手なのでさっそく遅刻をしてしまいました。旦那様に朝から怒られてから一日が始まります。

 本日はご子息であるジルヴィオ坊ちゃんを紹介していただきました。

 成金商家の息子ということで、勝手に傲慢で我が儘な子供を想像していた訳ですが、驚くべきことに坊ちゃんは大変素直でクソ可愛らしいお子様でした。

 私がエリアス君とお呼び下さいというと、にっこりと笑いながら承諾してくれたのです。

 勿論これも後から旦那様に怒られてしまいました。どこに執事を君付けで呼ぶ家人が居るのだと。

 ○月×日

 このお屋敷には婆(ババア)……では無くて、私の母親と同じような年代のご婦人方が働いております。普通使用人は見目の良い、家柄を重視した若い者を雇い入れるのですが、このお屋敷には無駄に母性豊かで包容力のある女性ばかり働いております。

 なんといいますか、旦那様の趣味なのでしょうか?

 ……噂にあった愛人の方々の姿が無いので、まさかあの年老いた使用人達が旦那様の!?

 いえいえ、人の趣味は様々。執事の気にする領域では無いのかもしれません。

 ○月×日

 執事業をする傍らで、銀行省へ報告書を出さなければならないので、少しだけ調査を行いました。

 まず一番初めに調べたのが旦那様の執務室。

 部屋の鍵は借りずに、針金状の工具を使って潜入しました。

 部屋の中にあった資料、鍵の掛かっている引き出しの中の帳簿、破棄された書類などを勝手に拝見いたしましたが、問題は見受けられませんでした。

 やはり、当初の想定通りベルンハルト商会は清く正しい商売をしてお金を稼いでいるようです。

 旦那様も怒ってばかりの癇癪持ちで性格の悪いクソ親父(ジジイ)ではありますが、悪人には見えません。

 そして驚いたことに旦那様は私が入った後の部屋に違和感を覚えておりました。

 私は潜入調査に精通した者です。今までこのような調査を何度も行ってきましたが、対象からバレたことはありませんでした。

 旦那様は私が忍び込んだ証拠が無いのでとても悔しそうにしております。

 相手が油断ならない者だと分かったことが今回の収穫でしょうか?

 ○月×日

 なんと!! あの旦那様が結婚をなさったのです。

 しかも!! 十二歳も年下の美人と。

 いらっしゃった奥様はお美しく、お名前は|神の恵み(メルセデス)様というそうです。

 まさに神の恵みに紛う事のない、滅多にお目にかかれないほどの絶世の美女を仕えるべき奥様としてお迎えすることが出来て、大変光栄に思いました。

 それからなんといっても素晴らしいのが、あの冷ややかな視線!!

 あんな視線で小汚い成金親父が!! と罵って頂ける旦那様が羨ましいです。

 ○月×日

 こちらの予想に反して奥様は落ち着いていて、物怖じしない冷静な御方でした。

 てっきり旦那様のことも汚いものを見るかのような視線を浴びせるのでは? と期待をしておりましたが、そんなことは全く無く、素晴らしく人間の出来た御方だったのです。

 更に坊ちゃんとの親睦を深め、お二人はほんの数日の間で本当の親子のように仲良くなっておりました。奥様はなんという慈悲深い御方なのでしょう。

 問題は旦那様でした。

 奥様の行動の一つ一つにケチを付けて、怒鳴り散らすのです。

 あの禿げ親父は何を考えているのでしょうか? 全く理解不能です。

 傷心の奥様を慰めて差し上げようとすれば、底冷えする氷のような視線で拒否をされてしまいました。

 ……その、なんといいますか、奥様はとても素敵です。

 ○月×日

 あのようなお優しい奥様を旦那様は何故酷い言葉を浴びせるのか、理解に苦しみます。

 ところが、使用人の婆、ではなくてご婦人方は全く気にする素振りも無いのです。

 曰く自然の流れに逆らうな、と。

 彼女達は旦那様に関してとても寛大です。

 ちょっとお出かけをしてしまったからと奥様を長い期間部屋の中に軟禁したり、あんなにも慕っている坊ちゃんに冷たい態度を取ったりする鬼畜禿げ親父なのですが。

 謎は深まる一方です。

 ということを報告書に纏めたら、お前は何を調査に行っているのだと怒られてしまいました。

 旦那様は疑い深い性格なので、あまり派手な調査は出来ないと付け加えます。ここにも大臣のように面倒な親父が居ました。本当にありがとうございます。

 ○月×日

 それから旦那様の素性についてまともに調査をしてみました。

 昔ベルンハルト家に務めていた使用人や、前妻の実家の使用人などから情報を引き出します。

 普段の噂話はベルンハルト家にやっかみのある者達が流したものなので、信憑性が極めて低いものになりますが、今回はお金を握らせているので、正しい情報に近いものが手に入りました。勿論これは趣味なので、自腹での調査となります。

 調査をする時間は早朝で、毎日遅刻をしていたので旦那様に怒られております。奥様はともかく、私の調教は控えて頂きたいのですが。

 年老いた禿げ親父に怒鳴られても全く嬉しくもないのです。

 ○月×日

 憂鬱です。

 ついにこの日がやってまいりました。

 旦那様に銀行省で偽造した不渡り券通知が届いたという小芝居をしなければいけない日です。

 どうして中年親父の寝込みを襲わなければならないのか。

 残念なことに奥様は坊ちゃんのお部屋でお休みになっております。何故今日に限って旦那様と一緒に寝ていないのか。

 ついに夜も深まり、実行の時がやってまいりました。

 ベルンハルト商会は潔白(シロ)だと分かっているので、やる必要があるのかと疑問に思っていましたが、どこかの旦那様と同じく疑い深い大臣がやれと煩いので行動を開始いたします。

 まあ、旦那様がどういう行動をするのかというのは気になる所なので、さっさと実行に移すことに致しました。

 いきなり起こされた旦那様は届いた不渡り通知が本物であるかどうかを注意深く見ておりました。これは正真正銘銀行省から発行したもので間違いはないので、角灯で照らして読み易いように致しました。

 そして、本物であると確認した旦那様は、私に住み込みの使用人を起こして回るように言いつけ、不渡り券を出してしまった、使用人達に屋敷から逃げるように伝えろと、淡々とした態度で説明をしておりました。

 そんな旦那様のお言葉に、安い芝居で反応を示し、部屋から飛び出す振りをして、数分後に寝室から出てきた旦那様の後ろをバレないように追跡致しました。

 一番初めに向かったのは秘書様のお部屋です。

 旦那様は様々な書類を秘書様へと託し、部屋を出て行きました。

 秘書様も慌てた様子で旦那様を引きとめようとしておりましたが、それも叶わずに一人残されてしまいます。

 それにしても先ほど秘書様の呟いた「にい」はどういう意味なのでしょうか。

 全財産を秘書様に託したことといい、まだまだ調査が必要ですね。

 秘書様に事情を話して安心をさせた後、再び旦那様を追います。

 丁度旦那様は坊ちゃんとくまのぬいぐるみを抱えて部屋から出てきた所でした。余程慌てているのか、私と秘書様の存在には気付きません。

 しかしまあ、よくも灯りの無い中であれだけ全力疾走が出来るものですよね。旦那様は不思議な能力を持っているみたいです。

 最期に訪れた奥様のお部屋で旦那様の驚くべき計画が明らかにされます。

 旦那様は坊ちゃんと奥様を連れて夜逃げをするというのです。耳を澄ましていましたが、それ以外の会話は残念ながら聞き取れませんでした。

 こうして扉を開いた旦那様を迎えた私達はネタばらしをして、盛大に怒られたという訳です。

 それにしても、奥様の寝間着姿は色っぽく、大変眼福でございました。

 それに加えてベルンハルト商会の身の潔白が証明されたことにもなります。

 ○月×日

 旦那様は相変わらず奥様や坊ちゃんに冷たい態度で接しております。

 ところが、奥様の態度はこの日辺りから軟化をしているように感じました。

 うーん。なんでしょうか。この解せない気分は。

 ○月×日

 奥様は坊ちゃんに絵本を読み聞かせておりました。何とも平和な光景です。

 奥様の手には【はちみつくまの学校~たのしい遠足~】という本が握られており、くまが草花の美しい野山に遠足に行く物語のようです。

 ただ、一つだけ問題がありました。

 奥様は抑揚の無い淡々とした声で読み進めるのです。

 くま達は緑豊かな野山を散策している筈なのに、話を聞きながら思い浮かぶのは何故か氷山への辛く長い登山風景。

 坊ちゃんは楽しそうに聞いているので良しとしますが、これはちょっと酷い。

 ○月×日

 奥様と坊ちゃんで今日はクッキーを作ったそうです。

 そのクッキーを旦那様のお茶菓子として出しました。

 それは奥様と坊ちゃんが作られた品ですよと言えば、歪な形のクッキーを摘みながら、「子供だから不器用だな」と見解を述べながら召し上がれていましたが、それは奥様の作品です、と説明すれば気まずそうな表情を浮かべておりました。

 そう、奥様は驚くほど不器用なのです。

 ○月×日

 最近奥様との距離を旦那様は縮められたように感じます。

(奥様が気付いているかは不明ですが)奥様はどうでもいい話題には「左様でしたか」と返事をする癖がございます。ところが最近は旦那様に対して言わなくなりました。

 ……私には「左様ですか」ばかり言いますが。そんなつれない所も奥様の素敵な所でございます。

 旦那様も奥様を見る目が少しだけ優しくなったかのように感じます。

 調査をして発覚をしたのですが、三回にも及ぶ離婚劇は全くのデタラメで、旦那様は何も悪くないというのです。

 普段から悪ぶった態度を見せるので周囲から勘違いをされてしまうという悲しい御方だとか。

 まあ、こうしてお金で買った情報なので、私自身が旦那様の優しさを実感した訳では無い為、未だに本当かと疑う気持ちもあるのですが。

 ○月×日

 旦那様のお部屋で衝撃的な書類を発見致しました。

 離縁届に婚姻届、養子縁組み申告状。

 旦那様は一体なにをお考えに?

 ○月×日

 旦那様の計画を把握しました。

 これは酷い。

 ○月×日

 旦那様や奥様、坊ちゃんや秘書様(先日副会長様に)の行動の観察を楽しんでいるうちにかなりの時間を費やしてしまいました。上司にもいい加減戻って来いと言われています。そろそろ潮時でしょうか?

 そんな中で時機を見計らったかのような一大行事が起ころうとしておりました。

 旦那様が家族を捨てて、異国へと旅立つということが。

 先ほど呆然とした様子で廊下を歩く奥様とすれ違いました。元秘書様も元気がありません。

 ああ、この家はどうなってしまうのか、先ほどから愉快な動悸が治まりません。

 ○月×日

 ――奥様の行動は早かった!!

 奥様は動きやすい男性用の服を纏い、何も持たずに犬(コロコロタロウ)様だけを連れて坊ちゃんを迎えに行き、旦那様のお部屋へと向かいます。

 恐らく数分は揉めるでしょうから、私はその間に元秘書様を起こしに行きました。

 そして、不渡り事件の時と同じようにベルンハルト家の方々を元秘書様と共に出迎えた訳です。

 それから私が銀行省のものだと説明し、家族会議の邪魔をしてはいけないと思って、眠っている坊ちゃんを連れて部屋から出て行きました。

 旦那様の事情は後日元秘書様からお話を聞く約束をしております。

 こうして奥様の力技を以て、旦那様の家出は阻止されました。

 ○月×日

 あれから旦那様は心を入れ替えたようで、奥様や坊ちゃんにも優しく接するような努力をはじめております。

 そんな光景を見て、ようやく私も旦那様が古くから働く使用人達から慕われている訳を実感することが出来ました。

 そんな心を入れ替えた旦那様は、坊ちゃんに買ってきた絵本の読み聞かせをしております。

 坊ちゃんはご自身で読むことも出来ますが、父君に読んで欲しいのでしょう。何とも平和な光景です。

 旦那様の手には坊ちゃんの好きな絵本の新作、【はちみつくまのたのしい夕食~特別な夜の風景~】という本が握られておりました。

 ただ、一つだけ問題がありました。

 旦那様は低く聞き取り難いような暗い声で読み進めるのです。

 くまの家族達はたくさん採れたはちみつを楽しそうに食べている筈なのに、話を聞きながら思い浮かべるのは、避けられない絶望を前日に控えた最後の晩餐。

 坊ちゃんは楽しそうに聞いているので良しとしますが、これはかなり酷い。

 なんと言いますか、あのお二方は不器用な似たもの夫婦なのですね。

 とても残念なご夫婦です。本当にありがとうございました。

 ○月×日

 とうとうベルンハルト邸を去る日がやってまいりました。

 坊ちゃんは泣いて私の辞職を惜しんでおられます。

 奥様はそんな坊ちゃんを慰め、旦那様は坊ちゃんに見えない位置からさっさと出て行けと言わんばかりに、手を振って追い出しに掛かっております。

 元秘書様は事務的(ビジネスライク)な笑顔を浮かべながら、労いの言葉をかけてくれました。本当にありがとうございます。

 これにて、任務終了です。

 あー疲れた。

 ○月×日

 久々に旦那様と奥様を夜会会場で発見したので追記させて頂きます。

 お二人は仲睦まじい様子を見せ、あの旦那様は穏やかな笑顔すら浮かべておりました。

 そんな気安い雰囲気を纏った旦那様の周りには少しずつではありましたが、人が集まっています。

 他の人の誤解が無くなるのも時間の問題でしょうね。

 なんと言っても旦那様の傍らには麗しき神の恵みが微笑んでいるのですから。

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成金商家物語番外編 emoto @emotomashimesa

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