第12話 愛の契約のその続き
海も森も色褪せ、潮風は木枯らしに変わった。
海辺の崖の、森の出口で、ノエはマデリンを見送っていた。
「本当にいいのですか?」
「はい」
お下げ髪の少女は屈託なく頷いた。
レーラの家で匿われていたマデリンを、鳥籠屋が買い取りたいと申し出た。マデリンの望む道を用意する、と。
「このしばらくの間、魔女さまにはやさしくしていただきました。魔法の世界は、話に聞くように、恐ろしいばかりじゃないと、知りましたし……わたしに行ける場所があるなら、行ってみたい」
目の前に迎えの馬車がやってくる。黒塗りの馬車の中には見知った仮面の魔術師がいて、騒がしくノエに会釈する。ついこの間まで村娘だった少女は、故郷の方角にほんの一瞬目を向けて、馬車へと乗り込んでいった。
ノエは遠ざかっていく馬車を見えなくなるまで眺めた後、寒さに身を震わせる。雪はまだ、降り出していないが、思えば寒さをつらいと感じるのは随分と久方ぶりだった。
ノエは、森へと入っていく。坂を上がり、崖の上へと帰っていく。
身体は随分と重たい。まるで途端に十年も二十年も年老いてしまったような気がする。けれどそれは錯覚だと、滑らかなままの肌が示していた。
ノエの外見は、未だに年嵩のわからない少女と女の狭間で止まっている。
──あれからしばらく、ノエは眠りこけていた。つい最近、ようやく、目が覚めたばかりだった。
坂を上がり切り、小さな家の前に辿り着く。ノックを鳴らすことはもうしなかった。扉を開ける。
「ただいま戻りました」
「『ただいま』はなんだか腹が立つわ。おまえの家じゃないんだけど」
中から出迎えるのは枯れた木々のような掠れ声。
「まったく、私の家は三人も暮らせるようにはできてないのよ。もう二度と人間なんて拾ったりするもんか。ああ、窮屈だった」
気怠げに頬杖をつくレーラの首元には痛々しい包帯が巻かれていた。かつての美声はどこにもない。
ノエにかけられた、願いを叶えれば死ぬ呪いを解くために、レーラは短剣を使った。代償はアリアの声。
レーラはぼんやりと立ったままノエを見つめ返し、胡乱な目をした。
「なんだ、先から私の喉ばかり見て。心配でもしているの?」
レーラは、声が戻ったことなど気にも留めないように流暢に話す。返す言葉が見つからなくて、曖昧にノエは笑う。
二人の間にあるのは微妙な距離と関係だった。マデリンを間に挟んで誤魔化していたが、久々の二人きりに、ノエはたじろいでいた。
らしくないと、レーラは思う。けれど目覚めて以来、ノエが妙に無口な理由を、実はレーラは知っている。意地悪く唇を釣り上げる。
「──死に損なった気分はどう?」
急所を触られ、ノエはかっと赤面した。
「恥ずかしくて死にそうです。私、頑張ったんですよ? どうやったら傷浅く綺麗に消えられるか」
「気の回し方が明後日の方向なんだよ、おまえは。私が気に病む前提だし」
「だって気にするでしょう、レーラは」
「……そうだね」
肯定が返ってきたことに戸惑う。
「ごめんなさい」
「謝らなくたっていい。殊勝にされると、調子が狂う。どうせ私たちの間の、貸しとか借りとか恨み言とかは、消えるものじゃないんだから」
アリアにまつわる一連の過去、それは真実を知ったとしても受け入れられるものではないことに、変わりはなかった。未練や憎しみこそ解けたとしても、裏にどんな真実があったとしても、過去の出来事それそのものを変えることはできない。
一体何が許せないのかすらあやふやになったとしても、ノエは魔女を許せはしないし、レーラはアリアを許したりなどしないのだ。
ノエは、だから。どんな顔でレーラの前にいればいいのか。もう、わからなかった。
手探りに、妥協点を探し、話をする。
ずっと考えていたことがある。まだ、答えを出していないものがある。
「……眠っている間、夢を、見ていました。昔の夢です」
繰り返し見続けた、アリアの泣き顔の夢だ。いつもはそこで終わり、目が覚める。
だけど今日のものは、その先々の記憶までなぞる夢だった。
「思い出したことがあるんです。アリアの愛したあの方は、言っていました。『私の心はアリアに奪われたまま』だと」
間違いに苛まれていたのは、二人だけではなかったのだ。今ようやくアリアの泣き顔の理由に、少しだけ手が触れた気がした。
「きっとアリアは……気付いてしまったのですね。レーラに短剣を渡されたあの時に」
自分のことを『忘れないで』とかつてレーラに言ったアリアは、自分のことを
『忘れてくれ』と、遺書には残した。それは矛盾ではなく変化。人間を、人のように愛そうとした人魚の心の移り変わり。けれど、根本的に、人外というものは他者に共感できるようにできていない。
忘れない結果、どうなるのか。そのことに思い至れなかった。
自分がいなくなった後、残された者の心を想像できなかった。
「短剣を受け取って、ようやく。自分のいなくなった後、レーラやあの方に与えたはずの愛が、呪いに変わってしまうことに。気付いてしまって……あんな顔をしたんですね」
レーラは無言で茶を啜る。
「さてね。あの子の考えることなんて知るもんか。あの世で当人に確かめてみればいい。……あの子はきっと魂だけは得ていたから」
きっと、と付いたそれは憶測だ。けれどレーラの言葉には確信の響きがあって、ノエは思わず目を丸くする。
「そっか。そうだったんですね……よかった」
気の抜けた、不恰好な笑みがノエの顔に浮かぶ。目は自然と潤んで、けれどやはり涙を流すには至らない。
「何がよかったもんか。おまえの魂は戻っていないのに」
しかめ面で不機嫌そうに。
「おまえにかかった不死の呪いと、願いを叶えれば死ぬ呪いはもう解けた。けれどおまえの魂は欠けたまま、身体は老いることを忘れている。いつ、泡になるかは私にもわからない」
短く息を吐く。
「欠けた魂を取り戻す手立ては、まあ、世界のどこかにはあるだろう。おまえも結局私の前からいなくなるに変わりないわけだ。わかったらほら、どこへなりとも行くがいい」
厳しく突き放すのは声音と口調だけだ。愛想のない眼差しから、慈しみが溢れるのが隠せていない。
ノエは自らの唇に手を触れる。かさついていて喉もひどく乾いている。けれど言葉を尽くすに支障は、何もない。
「──ねえ、レーラ。私、あのまま消えてもよかったんです。後悔は本当にしていなかった」
レーラは何を突然と訝しげな顔をして、黙って耳を傾けた。
「アリアの影を追って踏み入れた旅路だけれど、それでも自分の好きなように生きてきました。詩人として、たくさんの物語を語り歩いてたくさんのひとに出会って……」
そして最後に、レーラのもとにたどり着いた。
そして、最後は此処ではないとレーラは言う。
「私は、あなたのくれたこれからも、生き方を変えないでしょう。ただ行き着く先が海の底でなくなるだけ」
でも。
「あなたは、これから、どうするのですか?」
それを聞いてレーラは、僅かに目を見開く。まるで自分にも〝これから〟があること、今初めて知ったかのように。
返事に迷いに迷った末、レーラが選んだのは下手な苦笑だった。
「……そう、だね。どうしようか」
──そうだレーラは、自分のために何かを望むことが、下手なひとだった。
ノエはもう、それをよく知っている。
踏み出す足は重い。けれど両足は、ちゃんと動く。ノエの足はまだ、どこまでだって行ける。今までと同じように。例えひとりでも。けれどもう、ひとりでなければならない理由は、ない。
椅子に座ったまま見上げるレーラの両目を、見つめ返す。
「ところで、レーラもすっかり私に絆されてしまった頃合いだと思うのですが」
ノエは、
「私と一緒に行きませんか」
手を差し伸べた。
「私の語ったどんな物語も、アリアの愛も、レーラの真実にはなりはしなかった。それでも、私は約束したのです。『レーラが愛を知るまで側にいる』と。魔法の対価などではなく、私がただそうしたい」
レーラが〝これから〟を知らないと言うのなら、それを語るのはノエの役目だ。身の程知らずも思い上がりも、ノエは得意だ。浮いた台詞にも気取った所作にも、恥じ入ることはない。
「どうか、願って」
縋るようなその言葉がノエの、目覚めて初めての願いだった。頬が赤いのは、まだちゃんと巡り始めた血に身体が慣れていないせいだ。
ふ、とレーラは、柔らかな笑みを零す。
「ばかだね。おまえが絆されて、どうするの」
差し出された手を取る。ノエは逃さないようにレーラの手を引き、踊るように一歩進む。
窓枠の中には、絵画のように海が映っている。褪せた絵具のような青は、けれどどんな日の海より綺麗だった。その前で、レーラは初めて、ただ自分自身のために願いを口にする。
「私は──」
「──愛を、知りたい」
ノエは、満面の笑みを浮かべた。アリアをなぞる微笑みではなく自身の笑みを。
「ええ。いくらでも語りましょう。見つからないならば共に探して、尽きてしまったなら、これから作ってしまいましょう」
だって、
「実は私も、ずっとそうだったのですから」
互いの過去を許さず、妄執を認めず、それでも彼女たちは共に行く。
贖罪ではない。それは最早果たされない。贖うべき罪だと思わない。
ただ、知りたいと。無邪気に星に水面に、手を伸ばすように。
魔女たちは未だ、愛を知らない。
海の魔女は愛を知らない さちはら一紗 @sachihara
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