第11話 海の乙女は涙を知らない(下)

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「人魚の歌声はとびきりの魅了の魔法。舞なんて比べものにならない。アリアの歌声さえあれば、誰だって簡単に落とせたでしょう。けれどアリアはそれを、人魚として一等価値のある声を、嫌ってさえいた」


「ええ、奪ったというのは嘘よ。嫌いな女の声を、欲しがるわけがないでしょう。アリアはただ、それを捨てて、私に押し付けただけのこと」


「でも短剣は、紛れもなく私がアリアに与えたもの。たっぷりと嘲笑を込めて精製したわ。嬉々として送ったわ。婚姻の宴の夜、使い魔を通してあの船へ」


「絶対に叶えると大口を叩いて、寵姫の立場まで手に入れておいて、ぽっと出の人間にかすめ取られるなんて。期待以上で予想外」


「愛した男に捨てられて、あとは死ぬだけ! なんて可哀想なのかしら、ばかなやつ!」


「そりゃ笑うでしょ。嗤う以外にないわ。気持ちよく嘲笑って短剣を作ったわよ。さっさと殺して帰ってきなさい、ってね。どんなひどい顔で帰ってくるのか楽しみに、海の底で待っていたのに」


「──まさかそれを、使わないとは思わなかった」


「そのせいで、アリアの声を私が奪ったことにされたのよ。そのせいで、海を追い出される羽目になった。あんな場所……戻りたいとは思わないけれど。追放刑は屈辱に変わりない」


「この声のせいで、アリアのことを忘れることもできない。忘れないで、なんて。よくもまあただの人魚の分際で、魔女を呪ってくれたわ。初めからずっとそう。好き放題に振り回して、死んでさえも私を縛る。……本当に、いい迷惑」



 潮が引いていく。夜は段々と明け始めていた。

 岩場に腰を下ろしたレーラの話を、ノエは見下ろしながら聞いていた。拾い上げた短剣を、もう一度握りしめていた。

 拙い語りも聞くに堪えない嘲りも、喉に生きるアリアの声がそれをよくできた歌のように聞かせてしまう。嘘の吐けない薬の効果で、おぼろげな記憶さえ事細かに語れてしまう。


「これでわかったでしょう。おまえの思うとおりに、私は悪い魔女よ。その短剣は、アリアへの意趣返し。紛れもなく私の呪い。私が、おまえの願いの果て」


 レーラの手は自らの喉から、ノエの短剣を握る手へ。伸ばした両手はノエの手を包み込む。


「おまえの執念に敬意を払うわ。私もそれなりに死ににくいから、殺すのは難儀するだろうけど。おまえのことだから、不死を殺す毒くらい、用意しているのでしょう?」


 ノエの手よりも冷たいレーラの手が、動かぬノエの手を引いて。短剣の刃を自ら首元へと持っていく。ノエがあとほんの少し力を込めれば。レーラの喉を掻き切ることができるだろう。

 ノエは乾いた瞳で短剣の赤い刃を見つめる。レーラの暗く澱んだ目を覗き込む。


「どうして、簡単に、受け入れるんですか」

「生まれからして間違いとされた存在が、生き飽きるのに理由がいる?」


 無気力と諦め。それがレーラの瞳の中に渦巻いていたもの。生まれを選べなくとも死に方を選ぶことができるというのならば、それなりに気に入った相手に殺されるのは死に方としては上等なほうではないだろうか。──悪くない。

 そんなことを考えている魔女に、目の前の人間の歪む表情の意味はわからない。


「ならば。どうして、レーラは……愛を知りたいなどと言ったのですか」

「言ったはず。アリアの執着したそれが、私にはわからないものだと確かめるためだと」

「それだけで? それだけで数十年の月日、愛の物語を求め続けたのですか? あなたを虐げた人魚なんていない、楽しみなんて他にいくらでもある世界で。嫌いな海に、留まり続けて!」


 掠れた声で、問う。自分にはわからないものだと、必要のないものだと、くだらないものだと確かめるためなのだと、レーラは言った。そんなはずがない。


「わかるわけがないといいながら、わからないことを考え続けたのは……解りたかったからではないのですか!」


 積みかさねた日々がノエに訴える。ノエの話に耳を傾け続けたレーラを、知っている。わかるはずがないと、呪文のように口ずさむ時の寂しげな横顔を、ノエは知っている。


「あなたが本当にわかりたかったのは、アリアではなかったのですか!!」


 叫ぶ。短剣を突きつけたまま。

 レーラは僅かに目を見開いた。ノエの手に重ねた骨張った指に、力が込もる。


 ──違う、と言えなかった。自分にすら嘘がつけない。


「ああそうだ! だって私は忘れられない!」


 今となっては海の底の住人たちは、もうアリアのこともレーラのことも覚えてはいないだろう。彼女たちは消えたものに価値を見出さない。忘れっぽいのは人魚の性だ。

 だがレーラの喉にはアリアの声が宿っている。泡となってなお消えないアリアの残滓が棲みついている。アリアの声だけがまだ、レーラの中で生きている。

 ならば忘れることなど一日たりともない。それが、永遠に恋い焦がれた人魚が残した呪いだ。


「全部、アリアのせいだ!」


 疑問はずっと疑問のまま、レーラの中で腐り続ける。


 どうして、と。何度も何度も答えのない問いを繰り返す以外に時間の使い道を知らなかった。

 どうして、アリアは自分に声を寄越したのか。

 どうして、アリアは短剣を使わなかったのか。


「……何が真実の愛だ。永遠だ。短剣を、使えばよかったのに。自分に振り向かない人間など、殺してしまえばよかったのに。そうすれば、手に入れることだけはできたのに」


 どうして。


「他の人魚と同じように、愛する人のすべてを奪ってしまえばよかったんだ。そうやって、人魚に戻れば。海の底に戻ってくれば。そうすれば、アリアは、」



「──泡にならずに済んだのに!!」



「あなたは、」


 ノエは、深く、息を吐く。


「消えて欲しくなかったんですね」


「おいていかれたく、なかったんですね」


 否定の言葉が、何故だか出ない。レーラの無表情はもうずっと迷子のようだった。

 短剣を握ったノエの手はレーラの手からすり抜ける。レーラの白い指先にもう力はなく、ノエは腕を下ろす。砂の上に膝をついて、岩に掛けたレーラと視線を合わせる。


「隣国の王女との婚姻を、後押ししたのはアリア自身です」


 アリアは捨てられたのだという言を、否定する。


「あの方が兄に殺されないように、力無い王子のまま果てぬように、民のためいつかこの国に戻ってくる日のために、それが最善だと」


 アリアは、そのために、自らが結ばれる結末を投げ捨てた。


「同じではありませんか。あなたが短剣を渡した理由も、アリアが短剣を使えなかった理由も」


 短剣は砂の上に置く。空になった両手で冷たいレーラの手のひらを包む。


「だとしたら、レーラ。その理由はもしかして……」


 消えて欲しくなかった。その祈りは、我儘は、



「──〝愛〟ではなかったのですか」



 問いかける声は頼りなく、確証もない。愛がわからないと言ったのはノエもまた同じ。けれどそれは、否定を許さない切実な響きだった。レーラの頭の中が真っ白になる。


「そんなの。そうだとしたら。こんなものが愛というのならば! こんな、くだらない感情のために、アリアは、」



 ──私をおいて死んだのか。



 思わず口をついて出そうになった言葉を寸前に飲み込む。ノエの言葉すべてを否定しようと言葉を探して、否定ができない自分を直視する。逃げられない。

 空が、白んでいく。


「思えば。アリアさまの魔法に覚えがあります。あの方は何度も暗殺の危機に瀕し、その度に命を拾われていました。幸運を……お与えになっていたのでしょう」


 月の沈む海と真反対、崖の向こうから夜空は少しずつ深い藍から紫へと変わっていく。 


「アリアの愛は、与えることだったと、思うのです。献身と慈愛。愛した人の未来を、幸福を祈ること。その代償がなんであろうとも。私の美しいと感じた在り方は、そういうものでした」


 星々の輝きは弱まり、お互いの輪郭ばかりが確かになっていく。


「人魚の愛は、奪うこと。愛した人間を海の底に誘い、殺し、手に入れることだと仰いました。あの短剣が……アリアへの意趣返しであったことは、嘘ではないのでしょう」


 歌声という人魚の手段を手放したアリアに、殺して人魚へと戻る手段を用意したのだから。


「それが悪趣味で、侮辱だと、人間の私は思います。レーラが、短剣を使わなかった理由を理解できなかったのは……その行いが、人魚の愛の理には、叶っていたからだったのですね」


 レーラは返答をしなかった。口を開いてしまえば、嘘が吐けない。 


奪っててにいれて帰って来いと。人間としての恋に破れたアリアに、せめて人魚としての幸福を得られるように。あなたはそう、祈ったのではないですか」


 無言は何よりも雄弁に真実を語った。ノエはレーラの手を握ったまま立ち上がる。胸元で、きらりと人魚の涙が光った。


「レーラ。あなたにはもう、わかるはずです。その声が、なんなのか」


 ふっと、どこか張り詰めた微笑を、ノエは解く。後に残されたのは、嘘偽りのない晴れやかな表情だった。

 二人の記憶を照らし合わせ、答えは揃った。アリアの声もレーラの短剣も、両方、同じものだったのだ。ただ、すれ違っていただけ。アリアとレーラの両方を知ってるノエだからわかる。


「……なんだ、私の願いは、前提から間違ってたんですね」



 ノエが呟いた、その途端。ノエの胸元に提げられた鳥籠型のペンダント。その中の、〝涙〟がぱりんと音を立てて砕けた。硝子のような欠片が、砂浜に散らばる。

 〝人魚の涙〟はノエにかけられた不死の魔法の触媒だった。それが砕けた。砕けてしまった。


「おまえ、それは」


 それは何を、意味するのか。嫌な予感が背筋を走る。青ざめていくレーラに、ノエはどこか申し訳なさそうに瞼を伏せる。


「時間みたい、ですね」


 夜明けが来る。夜の終わりが、魔法が解ける時間が。


「レーラの知る通り、完璧な不死などありませんでした。私の不死は願いが叶うまで。私が、アリアを魔女に物語り、魔女がどう受け取るのかを見届けるまでのものです」


 ──叶えるまでは死ねない。

 それがノエにかけられた不死の呪いだ。人魚の涙を媒介に、どこかの魔女がかけた呪い。ノエが望んで手にしたその呪いの意味を、レーラは、海底の魔女は理解する。

 ノエは願いを、叶えてしまった。願いは役目を終え、不死の呪いは裏返る。

 叶えるまでは死ねない。だから──叶えてしまえば、死んでしまうのだ。


「そんなの、割に合わない……!」

「ええ、本当に!」


 くすくすと、なんでもないことのようにノエは笑う。口元に当てた指先が、薄っすらと透け始めていた。まるで人魚の死際のように。


「なんで笑う。分かっているのか、おまえはもう」

「分かっていますよ。願いを果たしたって、その先がないなんて。分かっていて、私が選んだことです」


 愛を、信じられなかったその昔。アリアの美しさに救われた。それを美しいと感じたその時に、ノエの褪せた世界は鮮やかさを取り戻した。

 誰かを思う感情、心の機微、祈り、そういうものを尊いと思えるように。その信仰と敬愛がなければ、詩人としてのノエは路地裏で死に絶えていた。


「ああまったく」


 狼狽えるレーラを、笑う。


「最悪ですね! 長年追い求めた真実がこんなものなんて。魔女の真実がこのざまなんて!」


 アリアの消失を止められなかったことを、どれだけ悔いても意味などない。アリアを否定することは、ノエにはできない。

 死ぬときに、後悔しなければ幸福だ。だから最期にアリアを泣かせたその要因を、アリアの愛を汚すものを、恨んだ。アリアを失い残されたノエには、それ以外に道を、見出せなかった。


「何が私に愛はわからない、ですか。それを証明する、ですか! 斜に構えて捻くれて、きっちりわかっているのに数十年見て見ぬ振りをして。……どれだけ、不器用なんですか」


 怒りも憎しみも的外れで、振りかざした刃の先はどこにもない。ただ、取り返しのつかない昔話がそこにあっただけ。

 ノエは自棄のように泣くほど笑って、目元を拭って、けれどやはり涙は流れず、身体はどんどんと透けていく。


「こうして、間違いを突きつけられるのは、痛いものがありますね。でも後悔は、しいていないんです本当に」


 いつかと同じように揺るぎなく。


「だって私が間違えなければ、レーラは、最後まで気付かなかったでしょう? 私の迷走にも甲斐があったというものです」


 嘘も偽りも強がりさえ感じさせない、澄んだ声音で。微笑みではない、真っ直ぐな眼差しで。ノエは後退る。冗談めかすように白いワンピースが翻る。透ける裸足が踊るように波を踏んだ。まるで幽霊だった。


「……待って」


 追うように立ち上がり、絞り出した声。縋るように空を切るレーラの手をノエは惑いながら見つめる。半透明の指先は、レーラの伸ばす手に伸ばせない。

 痛々しい光景だった。目の前には弱い魔女。楽しみなどなにひとつ知らず。この先も孤独に取り残される。

 ひねくれ者で、不器用で、性根が悪く、生まれてこの方呪われてばかりの彼女を──なんと呼べばいいだろう。契約は、正真正銘に果たされた。もう契約者ですらない。


 ノエは一瞬の躊躇いの後に、言葉を選んで、別れを告げる。


「楽しい人生でした。レーラさまのおかげで、最期まで!」


「だから、アリアさまに愛されたあなたを、殺してなんてあげません。私はここで消えるけど。あなたの傷になんてなってあげません」



「さよならレーラ。愛を知らぬ魔女さま。私の愛した人に愛されたひと」



 残る、僅かな時間で、ノエは、言葉を紡ぐ。


「あなたを縛るものなどこの世に何もないのです」


 どうかそれが、魔法となるように。


「だから。せいぜい楽しく」



「──生きて、くださいね」



 品の良すぎる一礼と透明な笑顔ひとつを残して、ノエはゆらりと波の上に倒れこむ。


 魂なき死、消滅の恐怖よりも。

 ──どうか私の語った言葉が、あなたの残された先を照らす明かりとなりますよう、と。幸福を祈る友愛を抱いて。






 水飛沫が上がる前に、レーラは駆け出した。つもりだけだった。走れてなどいなかった。わかっている。

 ノエの身体が水に落ちる。よろめきながらあまりに遠い数歩を詰める。


「ノエ!」


 初めて彼女の名前を呼んだ。返事はない。レーラは、水に浸るノエの身体を抱き抱える。意識のないその表情は眠るようで。透ける身体はやはり冷たく、軽かった。呼気も鼓動も曖昧だったのは初めからで、生きているのか死んでいるのかわからないのも初めから。

 人魚の涙に呪われたノエの死に方が人魚の最期と同じになるのならば、朝の光を浴びると同時にその身体は泡になるのだろう。


 水平線と反対方向の空を睨む。忌々しい朝日がもうすぐ登る。


「おまえも。私をおいていくの」


 おいていかれたくなかった。その感情を、もう疑う余地はない。

 アリアの声と共に地上に追いやられたレーラは、いつの間にか、アリアの口調をなぞるようになっていた。それは、アリアの声で自らの言葉を発する違和感によるものだった。

 だがそれは、アリアの幻影に、唯一残されたアリアの片鱗にしがみつく行為ではなかったか。忘れられなかったのは、忘れまいとレーラ自身が、無自覚に選んでいたのではなかったか。

 自らの内に湧き出た問いを、否定する言葉が見つからない。


「欲しいものに、気付くのが遅すぎたのよ」


 喉に居座るアリアの声が、レーラを糾弾する。

 海の底にいた頃、アリアと出会うずっと前、レーラが欲しかったものを思い出す。人魚としての幸福を、在りし日のレーラは望んだのだ。せめてまともに動く尾を、せめて眉を顰められることのない声を。

 けれどレーラは欲しいものに手を伸ばすことすら許されず、そのうちにすべてを諦めて、自らのために何かを欲することすら忘れた。強欲は人魚の性だ。それに蓋をして開かないようにと封じ込めた。そうしなければあまりにも、眩しすぎたから。


 ──アリアのような美しさが少しでもあれば、満たされる。

 些細な冗談、皮肉のつもりで、いつか零したことがあった。それをアリアだけが聞いていた。それがかつて紛れもなくレーラの本音であったことに、アリアは気付いていたのかもしれない。


「アリアの愛が、与えることだと言うならば……この、声は」


 レーラが満たされることを祈った末の、愛に他ならないのだと、ノエは突き付けた。答えを確かめるすべはない。それはすべてノエの語りで身勝手な解釈だと、一蹴したって構わない。認めないと、往生際悪く首を振ったっていいのだ。



 砂浜に散らばったペンダントの欠片がちらちらと光る。レーラの目が霞み、瞬きを数度繰り返す。

 数度の暗闇を越えて瞼を開くと目の前には、アリアがいた。金色の、光を閉じ込めた長い髪。陶器のごとく白い肌。宝石の瞳は真意のわからない微笑を湛えるアリアの幻覚が、淡い光の中に佇んでいた。


 ──ああ、またか。

 アリアの声と、真似た口調のせいか、度々とそういうものをレーラは見てしまうことがあった。レーラに託されたアリアの声だけが死に損なって、亡霊として彷徨っているかのようだ。

 ひとりだけの茶会にいつもティーカップを二つ用意していたのは、そうしてアリアを幻視する時のためだった。いない相手のために用意された席に、ノエが着くようになってからはすっかりと見なくなっていたのに。

 水の中でノエを抱いたまま、アリアの幻覚を睨む。言いたいことはいくらでもある。


「おまえたちはばかだ」


「おまえたちは、私とはちがうのに。私と違って、生きる楽しみを知れるのに。私が手を伸ばすことすら生まれながらに奪われていた享楽を、手に入るのに投げ捨てて死に急ぐ! 意味がわからない! おまえたちの生は、誰も彼もが羨む輝かしいものであるはずだろう!!」


「……なんで。自分が死んでもいいなんて。考えられるんだ」


 ノエの胸元の、砕けたペンダントに触れる。


「おまけに、こんなものを残して。おまえのせいでノエまで呪われたじゃないか」


 最後に涙なんかを、見せたせいだ。


「おまえが、泣き顔さえ見せなければノエだって……」


 無意味に彷徨って、死ぬことはなかったのに。




 でも。


「……どうしてアリアは泣いたのだろう」


 そればかりは、レーラには未だ想像もつかないのだ。

 一体、何に涙したのか。何が悲しかったのか。心の在り方、傷つき方、アリアの涙の理由がわからない。アリアは嘲笑や意趣返し、悪意に傷つき涙するような女では、ない。


 ──いや、待て。


「そもそもどうして、アリアは涙を、流せたの……?」


 遅れて気付く。ノエは何も、言っていない。アリアが、人魚の姫が涙を流すことができた理由をノエも、知らなかった。


 ──人魚は涙を流さない。


 ならば砂浜に散らばるこれは何だ。ノエを不死にした、この結晶はなんだ。

 不死を得て魂を損なったノエもまた、涙を流せなくなっていた。


 ──魂を持たない人魚は涙を流さない。涙を流すのは、魂を持つ人間だけだ。


 人魚が涙を流さないのは、魂を持たないからだとしたら。

 魂を持たないはずの人魚が流す涙で、不死の呪いを作ることができるなら。


 ──それはまるで、人の魂を得たことで、人魚の持つ不死が〝涙〟として剥がれ落ちたみたいじゃないか。


 アリアの幻影に問いかける。


「おまえ、まさか、魂を得ていたの?」


 幻影はただ微笑んで、答えない。



 アリアの幻越しに透ける夜明け空の紫が、鮮やかさを増していく。風は冷たく、濡れた髪と服が重かった。身体を打つ波が煩わしくて仕方がない。両腕の中で眠るノエの柔らかさだけは、まだ確か。


 ──アリアが魂を得ていたというならば、それは真実の愛であったということだ。

 ──真実の愛を与え、そして与えられていたのだということだ。 

 ──身を滅ぼし、結ばれもしなかったその愛が、真の愛と呼べるものだったということだ。

 ──アリアの愛は、つまり、正しかったのだということだ。


 辿り着いた憶測を、噛み締めて。

 レーラは、はっと鼻で笑った。


「やっぱりおまえは、間違っていたよ」


 考えるまでもない。だって。この声がアリアの愛の在り方を示すものだというのなら、それはやはり間違いだ。


『間違っていたんだわ』


 ああ、そうだ。おまえも気付いていたんだろう。何に気付いたのか、知れないが。

 おまえは確かに、何かを後悔したのだ。その後悔を、拭ってなどやらない。


「こんなもの、私は望んじゃいなかった。おまえの愛なんかで、私を満たそうなんて思い上がりも甚だしい。おまえの愛を知らなければ、ノエだって、ばかなことをせずに済んだんだ」


 そんなものが真実永遠の価値ある愛などと、笑わせる。

 欲すること。手に入れること。奪うこと。それが人魚にとっての愛の在り方だ。それが悪であるなどと、人魚は決して思わない。レーラもまたそれは同じだった。そのすべてを、最初から諦めていただけだ。


「あの頃の私が本当に欲しかったのは、きっと……アリア、おまえだったんだ」


 己が人魚であることを疎んだもの同士であったこと、それが一時でも寄り添えた理由だった。

 けれど完璧な姫君は己が魔性であることを嘆き、魔女は己が不完全であることを恨んだ。二人はけっして分かり合えなかった。

 アリアがどこにも行かず、海の底でレーラと同じ憂鬱に腐り続けることだけが、あの頃のレーラの本当の望みだった。それだけが魔女を満たすものだった。そのことに罪悪の念を抱いたりはしない。それを望んだことではなく、手を伸ばさなかったことが、魔女あくとしての過ちだ。

 でも、それはとっくに今更で手遅れで、価値のない、昔の話。


 視線はアリアの幻影から砂浜へ移る。波打ち際の手を伸ばせば届く距離、つい先程までレーラが腰掛けていた岩の側へ。

 そこには、ノエの置いた短剣がある。


 レーラの作り出した、──愛するものを代償に呪いを解く・・・・・・・・・・・・・・短剣が。



 砂浜へ手を伸ばす。今ここで、いなくなろうとしているのはノエだ。決してあの日、レーラの前からいなくなったアリアではない。

 二度までも、欲しいものを間違えることがあってはならない。


「私がアリアを……愛していたなんて。よくもまあ言ってくれる。そんなの、受け入れられるはずがない。こんなものが愛なんて、認められるはずがないだろう」


 短剣を掴み取り、微笑む過去の幻影をレーラは睨む。


「でも今だけは、それでいい。そういうことにしてあげる」


 信じること、思い込むことが、魔法の第一歩。嘘を真実に変えることが、魔女の生業だ。


「何が真実の愛だ。永遠なんているものか。美しい声も綺麗な尾も軽やかに踊る脚も不滅の魂も、私は望んだりしない」


 刃を上に向けて、短剣の柄を握りしめる。


「全部綺麗に消えてやる。誰もがおまえの愛を正しいと言おうとも、私だけは間違っていたと言ってやる」


 切っ先は喉。何十年と執着し続けた、アリアの幻影の在処。

 これはただ、与えられたものを還すだけ。彼女の消失を悼むべき時は、とうの昔に過ぎている。だから。


 ノエが〝愛〟と呼んだ数十年の執着に。


 別れを、告げる。



「──さよならアリア。おまえは精々、永遠に、しあわせにでもなるといい」


 手はもう、震えない。

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