第10話 海の乙女は涙を知らない(上)


 海底には人魚の国がある。

 人魚は皆、生まれながらに魔法が使える。

 その中で、最も多くの魔法を持って生まれたものが、〝魔女〟となる。

 人魚たちの願いのため、魔法の腕を振るうのが、海底の魔女の役割だ。 


 人魚というものは、誰も彼もが美しいと決まっている。

 しかしその代の魔女は、〝なりそこない〟だった。



   1



「……冗談は、よして下さい」


 レーラの言葉を聞いて、ノエは。何を言っているのか、わからなかった。聞き慣れない異国の歌を聞いた時のように、首を傾げながら美しいだけの声に耳を委ねてしまいたかった。唇が歪み、乾いた笑い声が漏れる。


「レーラさまが、私の探していた、魔女……? そんなまさか。だって、レーラさまは……」


 人魚ではない。そう言おうとして、かき消える。だってノエは、人魚が脚を得る例をずっと昔から知っている。

 レーラは冷徹な、何の感情も感じさせない顔で命じる。


「ついて来なさい」



 レーラについて向かったのは海だった。灯台を降りて浜辺へ。

 時は夜更けの更に先。満月は既に天頂を超え、水平線へと落ちていく。黒い海にぽっかりと白い穴が空いたように月が映り込んでいる。灯りに不足はなかった。月のおかげでいつもに増して明るく、それにどうやらお互いに夜目が効く。


 ノエは短剣を、胸に抱く。柄を握りしめる両手は祈るように硬い。人間の身を捨てて以来、届かないと知っていても神に祈りたくなったのは何度目だろう。他人事のように考える。

 レーラはこちらを顧みることなく、波打ち際へと向かう。役に立たなくなった杖を途中で放り出して、砂に足を取られながらも声ひとつ上げずに進む。ノエは数歩開けて、けして追いつかないように追随する。


 歩みは波の飛沫がレーラの足にかかっても止まらず、靴も履いたまま服が濡れる

のも構わずに海に入って行く。立ち止まったのは膝下の深さ。裾はじっとりと黒く濡れて、水面に漂う。


「よく、見ているといいわ」


 波打ち際に残したままのノエを振り返り、レーラはドレスの裾を持ち上げる。水を吸った重たい布地の下からあらわになるのは、痩せ細った両脚。その濡れた青白い肌を眩い月明かりが照らす。

 ノエは、目を見開いた。そこには、鱗のような模様が、斑に浮かび上がっていた。


「人魚の得た脚は、海の水に触れると思い出すの。かつてそれが、尾であったことを」


 レーラは裾を下ろす。


「…………どうして」


 ノエの俯き顔を下ろした髪が隠していて、表情は、よく見えない。細くて硬い針金のような糾弾の言葉は、続かない。


「海の底にいるはずなのに、って? 追放されたの。当然よね。人魚の姫を地上なんかに追いやって、声を奪って死なせたのだもの。それとも、何かしら。今更何を聞こうというの?」


 濡れたドレスの絡みつく足を引きずって、立ち尽くすノエのもとへと戻っていく。


「おまえには感謝するわ。あの女がどんなふうに死んだのかを教えてくれたのだから。だけど」 


 涼やかな声に似つかわしくない言葉。


「──何が愛を教えるだ」


 清廉な声に相応しくない歪んだ笑み。


「おまえが信じる愛が、結ばれず、愛も得られず無様に消えたあの女のものだとは、笑わせる!」


 アリアの声でアリアを嘲る魔女。その響きに、ノエの硬直は解けた。

 上げた顔に浮かぶのは激昂、裸足は躊躇無く波を踏む。握られた短剣は鞘を抜かれて水に落ち、ノエはレーラに掴みかかる。杖の支えもないレーラは、呆気なく波打ち際に倒れ込む。ノエもろともに、大きな水飛沫が上がる。


 ノエの湿った栗色の髪が、頬に張り付く。レーラの銀の髪が、水の上に広がる。馬乗りになったノエは、レーラの首を目掛け、短剣を振り上げて、──ただ海に、突き刺した。


 ノエの大きく開かれた瞳は涙を忘れたように乾いている。


「殺してやろうと思ってたんです。魔女に会って、すべてを話して、それでも素知らぬ顔で嗤うなら」

「いいわよ、別に。殺されてあげても」


 ノエの原点がアリアの愛だと知った今。愛というものが、レーラには理解できないものであると証明されたようなもの。この世ですべきことなどレーラにはもうない。


「アリアを唆し、声を奪い、苦しめ、冒涜した魔女を、殺したいのでしょう?」


 憎悪はわかりやすい感情だ。怨恨は行き着く先が単純で良い。愛などよりもよっぽど。それで果てるならば、悪くない終わりだとレーラは思う。


「できません……」


 ノエは短剣から手を離す。けれど続く言葉は、予想だにしないものだった。


「レーラさま。あなたには、そんなことできません」


 呆れる。この後に及んで何を、言い出すのか。


「おまえが私の、何を知ってるの?」

「いいえ。でもあなたが、何か嘘をついていることくらいは」

「妖精でもないのにわかるものか」

「わかりますよ、レーラさまは、嘘に向いていませんもの」


 詩人は嘘を生業にする生き物で、魔女は嘘を真実に変える魔法を使う者だ。


「あなたが、海底の魔女だったとしても。ついさっき、その口でマデリンをかくまって下さると仰った。面倒を顧みず、私を探しにきてくれた。柔らかさをお示しになったばかりです」


 渚の砂に突き刺さった短剣は、小さな波が来ただけで倒れた。後には月明かりに照らされたずぶ濡れの二人だけが残る。


「あなたがアリアさまの声を奪う、なんてことができる魔女だったならば」


 陸と海の境界に倒れ伏したレーラへ、ノエは切れ切れに吐き出す。


「あなたはもっと、自由だったはずです。我儘で傲慢な、魔女らしい魔女であれたはず。私に殺されることを、受け入れたりしないはず。……私はもう、知ってしまったんです。あなたのことを!」


 尊大になりきれない、不器用で、寂しげな、レーラという魔女のことを。レーラは、溜息。


「……そうね。嘘つきはおまえの方だった。耳障りの良い言葉を並べ立てて、自分の筋を通すのがおまえの手管だった」


 皮肉にノエは、傷ついたような顔をして、懐から小瓶を取り出した。


「〝新月の夜霧草〟の薬です」


 いつか、アンゼリカと採りに行ったという薬草。


「レーラさまはご存じでしょう。これは人間には少々毒ですが、嘘が付けなくなる薬です」


 ノエは小瓶の栓を抜き、薬をひと口飲んだ。


「もう一度、同じことを、初めから繰り返しましょうか?」


 これをもって、以降、自らの言葉が嘘ではない証明を。


「愚か者め。この薬、海底の魔女に──私に、飲ませるつもりで得たものでしょう。自分で飲んでどうするのよ」


 不死とはいえやっていいことと悪いことがある。ノエの救えなさにレーラは顔をしかめ、その手から小瓶を奪い取る。中身はまだ、残っていた。


「願いには対価があるべきで、おまえの支払った対価に、魔女たる私は応える義務がある」


 レーラは残りを飲み干した。薬の苦み、弱い毒が喉を焼く。


「いいわ。あの女の愚かしさを。あれが、おまえの憧れるに足らない、わがままでろくでもない人魚だってことを……私が同じ人魚でしかないということを、話してあげる」


 夜風は刺すように冷たく、しかし、凍えることを彼女たちの身体はとうに知らない。

 だから。このまま、夜の海辺ですべてを語ったとしても、問題ない。


 ──ただ少しだけ。温かいお茶が、恋しかった。



  2




 海の底の王国に、泡から生まれた人魚は皆、生まれながらに魔法が使える。その中で最も多くの魔法を持って生まれたものが〝海底の魔女〟となる。人魚たちの願いを叶えるためにその魔法の腕を振るう役割を担うのだ。


 その何代目がレーラで、しかし、誰もが美しいはずの人魚の中でレーラは生まれながらにして醜い娘だった。

 泳ぐことすらままならない病んだ尾ひれに、海鳥の断末魔のように潰れた声。老いさらばえたようなもつれた銀の髪に、あばらが浮き出るほど痩せ細った体。顔かたちだけは、かろうじて見れるものだったが、纏う陰気さが台無しにする。


 尊敬と畏怖を集めるはずの海底の魔女も名ばかり。当代に限っては、普段は疎まれ時折思い出したように魔法を使わされる、人魚の成り損ないだった。


 美しい人魚たちの生きる時間は、人間が何度生を繰り返しても味わうことのできない甘美なものだ。その享楽の価値を生まれながらに喪失していたレーラは、城から遠く離れた海の森でひとり、孤独のみを楽しみとして暮らしていた。──ある時、若い人魚の娘が、海の森に迷い込むまでは。


 その娘は、美しかった。金色の長い髪は流れに揺蕩い、尾ひれは絹のドレスのようになめらかで、蒼い瞳は宝石のように輝いていた。そのかんばせは、誰もが庇護欲を唆られる程に可憐で。だというのに誰をも惑わす妖艶さまでが宿っている。

 人魚の理想をそのまま描き出したような娘は、しかし、何もかもが嫌になったような酷い表情をしていた。


「わたしもう、耐えられない! どうしてお姉さまたちはいつもああなのかしら。どうして、あんなふうに愛したはずの人間に、飽きてしまえるの?」


 どんな楽器よりも美しい声で、娘は嘆く。


「いつもそうよ。愛したものを海の底に引き摺り込んで、手に入れたらそれでおしまい。そのうち愛したことすらも忘れて、そのことを、悲しいとすら思わないなんて!」


 溜め込んだ不満や鬱憤、うまく言葉にできないわだかまり。それらは、誰にも聞かせられない。誰の共感も得られない。


「……みんな、今しか見ていない。今その瞬間、美しくて輝かしくて楽しげなものだけを大事にして……終わりを惜しむなんて、考えたこともないんだわ」


 だから、娘は誰もいない都の外れの暗い森でひとり、深い溜息の泡を吐き出すしかない。

 だが、その誰にも聞かれてはならない溜息を、聞いていた誰かがいた。


「人魚なんてどいつもこいつもそんなものさ。皆、飽きっぽくて忘れっぽいんだ。おまえだって、ね」


 娘は、初めて耳にするしわがれ声にはっとして、岩陰から現れた人魚に驚いた顔をする。ここには誰もいない、はずだった。──ただひとりの例外を除いては。


「あなた、魔女ね」

「そうさ。おまえたちが蔑み、都の外へと追いやった人魚の成り損ないだよ。私の森に、何をしに来た」


 その言葉に娘は一瞬怯み、しかしはっきりと答える。


「教えて。人魚が、お姉さまたちのように皆そういうものだとなら。わたしのいつか抱く想いもすべて、泡のように消えてしまうというの?」

「言うまでもなく。それに何か、問題が?」


 頑なに結ばれた唇が娘の答えだった。魔女は呆れ顔をした。


「まったくなんてことだろうね。よりにもよって、最も恵まれて幸福なはずのお姫さまが、そんなくだらない悩みを持ってしまうなんて」


 娘の素性は都には滅多に近づかない魔女ですら知るところだった。誰も彼もに愛された末の姫。その名は皆が知るところだ。関われば面倒事になる、そう思って魔女は身を隠していたのに。娘の嘆きがあまりにも人魚らしくなくて、ついうっかりと声も姿も晒してしまった。

 娘は魔女の物言いに目を丸くして、呟くように言う。


「あなたには、わかるのね。わたしの気持ちが」

「さあね。これっぽっちもわかるものか。おまえと私が、同じであるはずがない」


 ──それが末の姫アリアと魔女レーラの、出会いだった。



 海に棲む人魚という怪物は皆美しい。悩みを知らず、迷いを知らず、人間を誑かし、弄び、奪い、それを愉しみとして生きている。だが、その振る舞いはまるで品性というものがないと、魔女は馬鹿にしていた。


 楽しみを食い散らかすのが嫌いだ。飽きて捨てて構わないほどに、恵まれた奴らが嫌いだ。劣等感と諦観を携えて、人魚でありながら人魚を嫌うのがレーラという魔女だった。

 出会い以来、アリアは繁く魔女のもとを訪れるようになる。魔女は当然のように、何度もアリアを追い返したが、まったくその強引さといったら。手土産、ご機嫌取り、袖の下、思いつくままにアリアはレーラの興味を引こうとした。その諦めの悪さには目を見張るものがあった。


「どうしておまえは、飽きもせずここに来る? 一体何が狙いだ。私から、何を奪おうっていうんだ?」


 レーラは思う。まさかなんの願いも目的もなく、魔女なんかに付き纏うはずがない。人魚というのは欲深な生き物で、欲しいものは全部奪って手に入れないと気が済まないものだ。しかしアリアはきょとんとして、首を振る。


「いいえ、わたし、あなたから何も奪わないわ」

「はぁ? ……いや、それもそうか」


 アリアが欲しがるようなものなど、レーラはひとつも持っていない。


「なら、変わり者のお姫さま。おまえが私から何かを奪いにきたわけじゃないっていうなら、一体何をしに来た?」

「そうね強いていえば……その反対、かしら」


 奪うの、反対。その意図がわからずレーラは眉をひそめる。アリアはにっこりと微笑んだ。


「あのね。わたしの魔法は口付けなの。口付けで、わたしの持っているものを与える魔法」


 人魚は皆生まれながらに魔法が使える。魔女となるひとりを除けば、大抵皆ひとつだけ。そしてその内容はそれぞれに違うのだ。


「また妙な魔法を持って生まれたものだね。与えるってそんなの、ただ自分が損をするだけじゃないか。大体わざわざ唇を通して与えるって、何を?」

「形ないものよ。例えば、幸運とか。確かめてみる?」

「おまえに出会った時点で不運だよ。おまえの幸運なんて貰っても縁起が悪いだけだ」


 アリアはあからさまにむっとする。年相応の一面だ。表情豊かで、感情の移ろいが激しい子だった。


「じゃあ、あなたは何か欲しいものはないの? 私に聞いたのだから答えるべきでしょう」


 レーラは言う。


「いらないよ。何があったって無駄だ。私は、人魚として出来損ないだもの。こんな尾で、こんな声で、欲しいものが手に入れられるわけもないんだから。望むことすら忘れたよ」


 それを聞いて。アリアは表情を静かに曇らせて、小さく呟いた。


「なら……どうしたらあなたやわたしは、満たされるのかしら」

「海の底で最も美しくしあわせなお姫さまを満たす方法なんて知るものか。けどまあ、私についてなら、そうだね。──おまえのような美しさが少しでもあれば、簡単だろうさ」


 結局アリアが此処へ通うことについては、長い抵抗の末にレーラが折れた。

 海の底の人魚の国で、末の姫アリアと魔女レーラだけが、享楽に生きる人魚にはまったく相応しくない憂鬱を持っていた。憂鬱というのはまったく愚かしい性質のもので、人魚は皆それに取り合わない。そんなもののために長い時間を費やすことは無為だと、他の人魚たちは当然のように理解していた。


 そんなものを、高貴の姫が同じように抱えている。疎まれた魔女と同列でいる。

 そう考えるとなんとも小気味がよく、レーラの溜飲をさげる。だからレーラはアリアを、薄暗い平穏に水を差されることを、許したのだった。




 海の底に辟易としていたアリアは地上に憧れていた。人間の世界に憧れていた。

 いっとうのお気に入りはお茶会の真似事だった。沈んだ積み荷から見つけた人間の道具を並べ、レーラを付き合わせる。白磁のティーカップに中身が注がれることも、銀の燭台に火がつくこともない。くだらないままごとだ。


「お飾りだけの茶会なんて、何が楽しいんだか」

「楽しいわ。お城よりもよっぽど、わたしはあなたと話しているのが、一番楽しい」


 レーラは頷かなかった。アリアにはどうせ、惨めという、人魚の中でレーラだけが知る感情を理解できない。

 アリアは度々海の上に向かい、岸や船に見える人間を眺めては、その時の話をレーラにした。レーラは魔女として使い魔を通すことで地上の知識をそれなりに持っていたが、自身は海の上に行ったことがなかった。レーラの尾では決して水面まで上がれない。


「あなたは喩えるならば、夕暮れね」


 だからアリアの話は時折、理解が及ばない。夕暮れというものを見たことはなかったが、自分みたいなんて絶対にろくなものではない。


「何が言いたいんだ、おまえ」


 アリアは得意げに続きを語る。


「一日が終わるのって悲しいでしょう? 夕暮れは終わりの景色なのに、美しいの」

「……何を言ってるのかさっぱりだ」


『美しい』という形容は、けして自分には使われるべきものではない。


「まあでも、空が金色に染まるって言われたらわかるよ。きらきらと眩いならばそりゃ綺麗だろうさ」


 そういうものが、皆好きだから。でも本当にそうならば。黄昏はアリアのものであるべきだ。


「そういうのじゃ、ないんだけど……伝えるって難しいのね」


 何故かアリアは不満げで、けれどすぐにいいことを思いついた、と笑みを作る。


「ねえ、いつか一緒に見に行きましょうよ」

「いやだね。私はここで十分だよ」


 だってきっと、眩しくって目が焼けてしまう。



 けれど、目移りと心変わりが人魚の常だ。そんな日々も、長くは続かない。


「ねえ、レーラ。どうしよう。わたし……恋をしてしまったみたい」


 ある日、魔女のもとを訪れた姫君は言う。


「初めて恋をしたの。あの人が欲しい、海の底への誘いたい、沈めてわたしのものにしたいと、思ったの」


 それは人魚の本能に基づく恋心。熱病に浮かされたような瞳は、魔女が何度も見てきたものと同じだ。


 ──ほら、私たちは同じではなかっただろう?


 所詮アリアも人魚であり、憂鬱は一過性の病に過ぎない。


「これじゃあ、お姉様たちと同じじゃない! わたしの想いも、所詮泡沫だというの……」


 熱病と憂鬱をない交ぜにした瞳。


「どうして、私は人魚になんて生まれてしまったのかしら」


 魔女は嘆きを、くだらないと聞き流し、


「なら、人間にでもなるか?」


 何気なくそう言った。


 ──まさかその皮肉を、真に受けるほど姫が愚かだとは、誰が思うだろう。



 あくる日、レーラの家の戸を開いたアリアは、何かを心に決めた、後戻りのできない瞳をしていて。


「ねえ、レーラ。わたしたちの海の魔女。初めてあなたに、願いを言うわ。どうか聞いてくださる? 地上に行きたいの。足をちょうだい。わたし、人間になりたいのよ」


 アリアは話した。願いの理由を、経緯を。

 レーラは一蹴した。ばかげた願いを「叶うものか」と。

 だが、アリアの心は動かなかった。何故、とレーラは理由を問う。アリアは長い睫毛を伏せ、夢見るようにある一節を口ずさむ。


「──愛は永遠、魂は永遠、魂には死してなお不滅の愛が刻まれる。人間の世界にある、古くからの教えよ」

「知っているよ。おまえが何度も話した」

「魂も、永遠も、人魚にはないものね。羨ましいわ。わたしたちは死ぬとき何も残さず泡と消えていくのに。人間は、そうじゃないんだわ。死んでも残り、継がれるものを持っている。わたしはそれがどうしても、羨ましくて仕方がない」


 アリアは狭苦しい家の中をふわりと舞う。レーラが見惚れるその艶やかな尾びれを、アリア自身は冷ややかな目で見つめていた。こんなものに価値などないというように。


「わたし、知っているの。たとえ人魚だとしても真実の愛を得たならば、魂が手に入るってこと。お姉さまたちのように、瞬く間に飽きて捨てて忘れていくような愛なんていらない。わたしは人間のように誰かを愛し愛されたい。わたしは、永遠の愛を知りたいの」 


 不穏な嫉妬を湛えながら、夢心地にアリアは唱う。


「わたしが、永遠の愛を抱くことができれば。いつか泡と消えるこの想いが、決して消えない確かなものになれば。わたしはきっと満たされる」


 満たされないと、いつかの二人は嘆いた。──わたしたちは、人魚である限り満たされない。


「あなたなら、わかってくれるでしょう?」


 混じり気のない期待に、胸焼けがしそうだった。──わかるわけがないだろう。

 醜く生じ、疎まれながら世に在ったレーラにとって、長い月日の果てに泡となって跡形もなく消えてしまうことは希望だった。消えたくない、なんてそんな感情知る由も無い。 

 ふつふつと黒い感情が湧き上がる。ずっと妬ましかったのだ。その光が、輝かしい眼差しが。

 嫌いだったのだ。それほどまでに満たされてまだ足りないなどと言える口が。魔女の気も知らず、無邪気に振りまかれる笑みが。


「ああ……よく、わかったよ」


 欲しいものを手に入れられると信じて疑わないその傲慢とは、わかり合えないことを。

 レーラは部屋にアリアをおいて、家の奥へと潜っていく。しばらくして、戻ってきたレーラの手には薬の瓶が握られていた。


「追放刑に使われる薬だ。これさえあれば人間の脚は手に入る。おまえの綺麗な尾なら、さぞ上手に踊れる脚に変わるだろう」


 淡く光る砂のような薬が瓶の中には詰まっている。


「でも、これは呪いだ。若い人魚には強すぎる毒だ。飲めば一歩地を踏みしめる度に足には焼け付くような痛みが走り、呪いの毒は、絶えずおまえを蝕む。十分に人魚として生きた私やおまえの姉たちが使えば寿命が少し縮むくらいで済むけれど。おまえの若い身体では、数年と待たず泡に還ってしまうだろうよ」


 その言葉に、僅かにアリアはたじろぐ。だが両目に浮かぶ意思は硬く、今にも「かまわない」と言い出しそうで。レーラは腹立たしげに続きを言う。


「要はおまえ、人間になりたいんだろう? なら、手に入れるのは愛だけじゃ足りない。必要なものがもうひとつある」

「それは何?」

「婚姻だよ。おまえの愛した王子と結婚しなければならない」

「愛の誓いね。婚姻は最も強い契約のひとつだと、聞いたことがあるわ」

「そうさ。それはね、不死に近い魔性のものすら、人間に変えてしまう呪まじないなんだ」


 そして初めて魂も、身体も、すべて人と同じになる。


「この薬の毒が蝕むのは人魚の身体だけ。婚姻と共に人間の身体を手に入れば、毒もまた消える。だがそれが叶わなければ、おまえは死ぬ」

「……わかったわ」


 アリアは薬の瓶を受け取り、大切そうに両手に抱く。それが、アリアを死に至らしめる薬だと本当にわかっているのだろうか。レーラは視線を外す。


「約束するわ。わたし、きっと願いを叶えてみせる」

「ああ。精々、その手に奪ってくるといい」


 レーラは離れ、背を向ける。優しい言葉の裏で嘲る。どうせそのうち、アリアは戻ってくる。人間の王族相手に恋をしたって、奴らには婚姻の自由がないし、人魚の心で、人間と同じ愛を抱けるはずがない。──人魚かいぶつが人間に、なれるはずがないのだ。


 叶わない願いであると分かっていて、レーラはアリアを止めなかった。自分の無謀を思い知り、足の痛みに根を上げて、自分が決して人間とはわかりあえない生き物だと理解して。遠くない日に泡と消えることを恐れて、人魚に戻りたいと泣きついてくるに違いない。

 何もかもを諦めたアリアは今度こそ、レーラと同じ場所まで落ちてくる。

 ──それは、どれほど気分がいい光景だろう。


「ほら、話はこれで終わりだよ。私の役目もおしまいだ。どこへなりとも行ってしまえ」

「待って。わたしはまだ、対価を払ってないわ」

「……いらないよ」


 考えたのだ。対価に何を求めてやろうかと。けれど、何も思い付かなかった。


「私にはね、欲しいものなんてないんだ。何を手に入れたって、変わりゃしないんだから」 


 我が儘で美しい人魚たちは、レーラから奪うことを当然としてきたし、レーラもまたそれを、諦めていた。振り返らずに言い捨てる。


「レーラ……」


 後ろからアリアの手が伸ばされ、抱き締められる。


「わたし、あなたに感謝しているの。あなただけが、本当の私に寄り添ってくれた。あなたに会えたから。わたしはわたしでいられたの」


 耳元で囁き声がする。


「あなたがわたしのことを嫌いなの、知ってたわ。でも……わたしは、あなたのこと大好きよ」


 何を言っているのかわからなかった。

 驚きのあまり、レーラが背けた顔はもう一度アリアを向く。アリアの両手がレーラの頬を捕まえる。間近には微笑みだけがある。


 嫋やかで儚げで、美しい微笑みが。ゆっくりと、近付いて。


「愛しいレーラ。わたしのこと、忘れないでね」


 唇に柔らかい感触がした。触れ合う唇から何かが吹き込まれる。それはまるで呪まじないが刻み込まれる感覚だった。思い出す、アリアの魔法は口付けだ。喉が焼けるように痛い。


 レーラはアリアを、両手で突き飛ばす。


「おまえ、何をした……!」


 怒りを叫んで、愕然とする。聞こえるのはレーラの枯れた声とは比べものにならない、美しい響き。嫌になるほど聞き続けた至上の声がする。まぎれもない、それはアリアの声だ。それが、自分の喉から出ている。


「どうして」


 アリアはただ微笑んで、何故に答える声は最早ない。

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