第9話 詩人の女は愛を語る

 古今東西、人を愛して恋に破れる人ならざる女の話は多くある。

 崖から身を投げた、菫の妖精の物語のように。これもまた、そんな話のひとつに過ぎない。


 ──昔々、人魚の姫は人間の王子に恋をしました。

 姫君は魔女に願い、声を代償に人の足を手に入れて、陸の世界へとやってきたのです。

 想いを遂げるため、永遠の愛を手に入れるために。

 けれども、姫君と王子が結ばれることはなく。

 恋路の果て、人魚の姫は泡となって消えました。


 それは悲恋の一種として、近年より密やかに語られるようになった、新しい物語だ。

 鳥籠屋は、海辺の魔女の人魚嫌いを弁えていたため、彼女にその話を差し出したことはない。


 着想は当代、賢王と名高き国王の若かりし頃の寵姫からだという。非業の死を遂げたとされる謎の姫君。海上にて消えた彼女は、実は人魚だったのだというたわいもない噂話が元。

 流行りの詩人が噂話と想像を継ぎ接ぎして作られた物語は、まったくの作り話として広まっている。

 だが、その話が、真実に当たらずとも遠からざることを知る者が、まだこの世に残っている。


 その一人は、姫君の侍女。

 侍女を務めていたのは、旅芸人の一団から逸れ彷徨っていた、紫の瞳の娘だった。




   1




 ──本当は、〝昔々〟なんて大層な前置きをするほどではない。今よりたった四、五十年前。歴史に語るには浅すぎ、人間が老いるには十分なくらいに昔の話だ。

 暗い時世だった。国は長きにわたる戦や度重なる天災で疲弊し荒れていた。王は病がちで政に疎く、長兄の王太子は気性激しく猜疑深く、自堕落な末の王子は遊び暮らしていた。

 民の多くが明日も知れぬ暮らしの中、飢えや病に脅かされていた。巷には忌まわしい魔術の犯罪が溢れ、違法の人攫いが横行した。


 紫の瞳の一族。傭兵紛いの旅芸人たち。彼らは身を守るためにそうならざるを得なかった。何の庇護も受けられない流浪の民であり、珍しいその瞳ゆえ好事家に高く売れたからだ。

 生来はそれほど身体が丈夫ではなかったノエに、両親は武芸よりも詩歌を教え込んだ。美しいものへの愛を語れるように。それらが暗い時世の希望となることを、祈って。

 祈りは虚しく、一団は戦で散り散りになり、ノエはひとり人攫いに怯えながら路地裏で生きることになった。そこでは詩歌は、花を愛で蝶と戯れるための術は、ノエの身を助けなかった。


 汚いものを見た。朝には大人が子供から黴びたパンを奪っていた。

 汚いものを見た。真昼には魔術に手を出して正気を失った人間が焼かれていた。

 汚いものを見た。暮れには見覚えがある顔が冷たくなって転がっていた。

 もうずっと夜が明けない。美しいものなんて誰にも求められていないのだと思い知るばかり。

 ──とうさま。かあさま。こんな世界でなんのために、愛を、語れというのですか。



 それは運命か偶然か、あるいは意地の悪い天の采配か。出会いは訪れる。

 硬いパンを買うために、城下町で拙い歌を歌っていたノエに、ひとりの女が手を差し伸べた。

 夕焼けに染め上げられた水面のように輝く金の髪。風に吹かれて掻き消えてしまいそうな儚げな顔立ちに、吸い込まれそうな蒼玉の瞳。細いドレスが華奢な身体を飾り、小さな足は踊り子のように軽やかだった。

 微笑みは優しい天使のようで人を誘う娼婦のよう。佇まいは愛らしい小鳥のようで絡みつく蛇のよう。精錬さと妖艶さの同居した、不可思議な女。 

 それはとても、とても綺麗な、ひとだった。


『わたしのために。愛を、おしえて』


 いずれそう、ノエに告げることになる彼女こそ。さえずらない小夜啼鳥、色狂いの末の王子の、一番の寵姫。女の名を、アリアという。



 アリアに拾われたノエは王城に召抱えられた。表向きは侍女だが与えられた仕事は詩人のそれだった。読み書きのできないアリアの代わりに本を読み上げ、歌を歌い、竪琴を弾き、物語を披露する。

 庭園の片隅、大きな日よけ傘の下。白いテーブルを二人で囲んでただ楽しみのために物語を披露する日々が始まる。

 寵姫アリアの城内での評判は散々たるものだった。振る舞いは童女のように奔放で純粋無垢。教養品性、意思を表す声も確かな過去も持たない、美しいだけの空っぽな娘。末の王子は人形遊びをなさっているのだと小馬鹿にするひそひそ話、後ろ指は容赦なくアリアに突き刺さる。

 だけどノエは気付いていた。


「どうして、言われるがままにされているのですか?」


 問われたアリアはきょとん、と首を傾げた。自分は何も知りません、なんにも考えてはいません、と愛らしく微笑むだけ。しらばっくれに構わず、ノエは続ける。


「未熟者ですが、私は嘘を生業とするものです。嘘には結構、敏感なんです」


 だから。どれほどアリアが無邪気に幼げに振る舞おうとも、瞳の奥の理知の光に気付いてしまう。手を差し伸べられたその時から、ずっとアリアを側で見続けてきたのだから。


「一団から逸れて、飢えるが先か売られるが先かという暮らしの中、私は、私ではなくなっていました。そんな私に、まだ詩人としての役割を与えてくださったのはアリアさまです」


 その手に引き上げられて、ここにいる。


「なにか、理由があるのではないですか。この恩は、返さなければなりません。あなたのために私は、何をすればいいのでしょう」


 そんなことを聞いたって困らせるだけだと気付いた時にはもう遅い。アリアは口が効けない。唇を読もうにも、簡単な言葉しかわからない。答えを求める行いは身勝手だ。

 アリアはじっとノエの瞳を覗き込んで、ふっと笑みを消した。ノエの小さい手を取る。日に焼け、旅暮らしと竪琴で硬くなった手がアリアの手に包まれる。柔らかなハンカチのような感触にどきりとする。細く綺麗な指が、ノエの掌を撫でる。


『ありがとう、小さな詩人さん』


 アリアの指が言葉をノエの掌に綴る。はっと顔を上げる。アリアは読み書きができない。そういうことに、なっている。

 しー、とノエの掌を撫でた人差し指が口元へ。花のように色づいた唇が短く告げる。その笑みは初めてあったときのもの。


『今はまだ、理由は語れないけれど。あなたにして欲しいことならあるわ』


 掌をなぞる指と、口の動き、ゆっくりと言葉を告げる。


『わたしのために、愛を語ってくださいな』


 その笑みはあまりにも綺麗すぎて、いっそ悪いものみたいだった。



 アリアが欲しがった愛や恋の物語。それはノエが密かに苦手意識を持つものでもあった。

 あるとき悲恋を語った。妖精と人間の、報われない愛の物語だ。菫を愛した妖精の娘が、最後は崖に身を投げて終わる古いお話だ。


『悲しい話ね。どうしてこんなものを、人は愛だと語るのかしら』

「それは……私には、まだわかりません」


 石板に白墨で綴る筆記具は、表向きノエの私物として与えられ、ノエとの会話のためにアリアが使っていた。


「アリアさまは、どうして愛の物語をお求めなのですか?」

『愛は、永遠なのでしょう? それを感じてみたいの』


 ──不滅の魂には真実の愛が刻まれる。遠い天国に行こうとも、何度生まれ変わろうとも、その愛の記録だけは失われない。たとえ、何も覚えていないとしても。

 古くからの言い伝えだ。ノエもよく知っている。でも。


「そんなの、魂の永遠はともかく、真実の愛なんて……御伽話みたいなものですよ。それがどんなのかなんて誰も知りません」


 永遠不滅の真実の愛。溢れるほどの物語の中ですら、永遠を信じさせるものは数少ない。アリアが語るのは幻想だ。


『そうね。所詮夢物語。すべては泡沫に消えゆくものかもしれない。わたしは、それをよく知っているわ』


「それでも、ですか?」


 頷く。筆致はどこか拙い。しかし言葉は滑らかに紙の上を滑る。


『わたし、ね。虚しい生き方をしてきたの。そんな生き方しか知らないように、生まれついたものだから。でも、永遠すら信じられる愛を、手に入れることができたなら。きっとわたしは、』


 手が止まる。

 寂しい言葉が綴られる板の上から、視線を再度アリアへ。文字に相反するように、アリアは夢見るように頬をオレンジに染めていた。部屋の大きな窓からは夕陽が差し込んでいる。

 夕暮れは夜までに人里に辿り着きたい旅人にとって夕暮は不吉なもので、ノエにとっても、薄ら寒くて寂しい景色だと幼い頃より刷り込まれている。しかしその日の空は、綺麗だった。黄昏が綺麗なものだということを、ノエはその日、初めて知った。その景色の中には、椅子に座るアリアがいた。長い金髪が頼りない夕日を存分に吸い込んで、きらきらと輝く。憂いを帯びた儚げな横顔が赤く染まって、火のように美しい。

 金色のアリアは言葉を尽くすよりも雄弁に、ただいるだけで美しいものを語る。ノエは途端に自らの拙さが恥ずかしくなった。アリアの美しさすら、言い表す自信がない。自分は果たして、アリアの望みを叶えるに相応しいだろうか。


「……アリアさまは。どうして私を助けてくれたのですか」


 同じように恵まれない子ならばいくらでもあの場所にいた。詩人が欲しかったのならば熟練した大人の方がよかっただろうに。何故、自分を選んでくれたのだろうか。


『あなたの目よ』


 強張る。この瞳を欲しがる人たちのせいで散々な思いをしてきた。


『この世界に愛すべきものなどひとつもない、って目。わたし、その目に弱いのよ』


 ノエは両眼を見開いて、アリアの言葉を否定できず、目を伏せた。


「それは美点では、ないです。私を拾った理由として破綻しています」


 身に覚えがあった。荒んだ広場でノエは、どうせ誰も聞いちゃいないとまったく心のない歌を、歌っていた。


「そんな人間に、愛を語らせて、本当にいいんですか?」


 アリアはぱちぱちと目を瞬いて、指ではなく唇を動かした。


『できないの?』


 できないのなら、いいけれど。と言うようなあっさりとした、期待のない眼差し。ノエはかっと頬を染める。


「いいえ。いいえ!」


 恥と消沈は消し飛んだ。ふつふつと悔しさがわき上がって、ノエは立ち上がる。


「青い空しか知らない人に、夕暮れの美しさすら、伝えてみせるのが詩人です。私たちは言葉を尽くし、音楽を奏で、知らない感情を呼び起こすの生き物です」


 たとえ自分自身すら、それを知らないとしても。


「お望みとあらばその限り。あなたのために私は、愛を、綺麗事を、賛歌を、紡いでみせます!」


 ノエの啖呵に、アリアは慈愛か愉悦かよくわからない笑みを見せる。


「今は、まだ、未熟者ですけど……」


 一人前の詩人となることを、自らが目指す先だと信じて疑わなかった子供時代は遠い。けれど。失っていた矜恃を、アリアが取り戻させてくれた。ならば迷う理由などない。ないけれど。


 ──私にはわからないのです。恋が。愛が。自分ではない誰かを、大切に想うということが。


 綺麗な庭園で美味しいお茶の淹れ方を知っても、鼠の走る路地裏と泥水の味を忘れられないまま。美しいものへの疑いが、心の底にこびりついている。

 一度自分を見失ったあの時から、愛というものは遠い星の向こうの物語に感じるようになってしまった。

 そのことが、悲しかった。



 アリアの秘密を知ったのは、ある夜会の日だった。王城にて開かれる夜の宴会。訪れた者たちのために、アリアは舞を披露するのが常だった。

 優れた芸には魔法に近しい力が宿る。アリアの舞はその領域。人々に魅了を振りまき目を蕩かす。アリアがどれほど周りから軽んじられようとも、その時ばかりは誰にも文句がつけられない。浮くように軽い足取りはどんな姫君にも真似できず、賛美の視線が降り注ぐ。身元の知れない彼女が王城に留まっていられる所以の一端だった。


 だが、アリアの舞い姿を何度も遠巻きに眺めるうちに、ノエは疑問を抱くようになる。何度見ても飽きないほど、綺麗に踊るアリア。その完璧な笑みの中に、何かとても、苦くて痛い色が浮かんでいるような気がしてならなかった。


 その日、心配になったノエは夜会が終わった後、部屋を訪れた。


「夜分遅くに、お疲れのところ失礼します。……アリアさま?」


 繰り返すノックに返事がない。いつも、返事代わりに鳴らしてくれるベルの音がない。確かに部屋にいるはずなのに。おそるおそると扉を開けて、ノエは、部屋のベッドに倒れ臥すアリアを目にした。


「アリアさま!?」


 唖然とした。乱れた長い髪は汗で肌に張り付き、見る影もない。呻き声ひとつ上げられない喉は忙しく上下し、吐息は無様に震えている。


「い、今……お医者さまをお呼びしますから!」


 慌てて廊下に飛び出そうとしたノエの服の裾を、アリアが力なく掴む。首をゆるゆると振る。『心配ない』と言うように、潤んだ瞳が細められる。ノエに支えられてベッドの上で身体を起こしたアリアは、唇を動かした。


『呪われてるの、わたし』


 何がおかしいのか、冗談でも口にするように笑って。

 アリアは足を患っていた。ひと足歩くごとに鋭い刃物を踏むような、燃える石炭の上を歩くような痛みが襲うのだと。そんな素振りは今まで見せやしなかった。愕然とする。


「どうして、そこまでして踊ったのですか」 


 今にも死んでしまいそうな青褪めた顔。何がアリアを駆り立てるのかわからずにノエは問う。

 返事は、揺るぎない笑みだった。それを前にしてノエは言葉を失う。汗ばみ青褪めたままの肌。瞳は潤み、苦渋の残り香を色濃く残す。普段の整った姿とはかけ離れている。けれどそれ以上に美しい笑みを、ノエは見たことがなかった。

 アリアはふらつきながら机へと向かう。引き出しから紙とペンとインクを取り出して、言葉を綴る。


『わたしには叶えなければならない、願いがあるの』



 暗い時世だった。王城には退廃が渦巻いていた。王は臓腑と猜疑の病に冒され、次代を担う王太子は暴君の素養を芽吹かせ、末の王子は色恋にうつつを抜かしている。

 だが、寵姫アリアが空っぽの人形ではないように。末の王子もまた、愚か者ではなかった。この王城で孤立しながらも、暗い時世を本気で憂いていたのが、末の王子だった。


『わたしは知っているのよ。あの人の、本当の顔を』

 寵姫というのは隠れ蓑にすぎない。アリアは、末の王子の協力者として城にいた。愚か者のふりをしなければいつ殺されるかわからない王城で、彼の唯一の味方として。


『あの人は、顔も知らない大勢の誰かを、想うことができる人』


 王家に生まれた限り、彼に道を選ぶ自由はない。疑心暗鬼の病に侵された城で、明日もしれない綱渡りの日々の中。それでも彼は、国を愛し、民のために、いつか暗闇を晴らすことを願っていた。


『そのために生きたいと、死にたくないと足掻いてる』


『あの人の愛は、広くて、遠い』


『わたしにはできないわ。わたしには、わからない。そんな愛は抱けない。だからそれを、わたしは、美しいと思ったの』


『わたしは、そんな彼の背中を、愛すると決めたのよ。そのためならば、何を捧げたってかまわない』


 灼熱の上で踊るほどの献身と、それを隠し通す理由。


『人を愛するにはどうすればいいのかしら。愛されるって、どういうことなのかしら』


『わたしは、それをずっと考えている。わたしはそれが知りたいの』


『わたしの愛の価値を、この永遠を証明できるのなら。なんだってするわ』


 紙の上の文字はノエの目に入って、手をすり抜ける水のように落ちていく。意味は、意図は、伝わる。けれどそれしか伝わらない。ノエは受け取った紙を強く握りしめる。どれほど言葉を尽くしても、アリアの思いの丈は、ノエには、


「わかりません。全然。アリアの、言っていること」


 愛というものが、ただ一心に誰かを思うことを指すとして。ノエは、誰か大勢のためにも、誰かひとりのためにも生きられない。根のところで、ただ自分のためにしか動けない。

 今日のパンのために人を陥れる路地裏で、きっと愛というものを落としてしまって、ノエは利己的な人間になってしまった。


 アリアに、その恩に、報いたいとは思う。けれどそれは、恩には報いるのが道理だからだ。一度矜持を拾い直した今、道理を、自分がそうすべきと決めたことを守ることでしか自分を保てないからだ。

 アリアから受け取った紙を暖炉の中へ入れる。他の誰かに読まれることがないように。炎の中で、愛を語った言葉が燃え尽きていく。


 ──愛なんて。


「わかるわけ、ないのに」


 ──それが、とても。


 ノエは、エプロンの裾をぎゅっと握りしめる。顔は何かを堪えるようにくしゃくしゃで。


「わたし……あなたの愛を、綺麗だと思ってしまった」


 その日、ノエはアリアに。自分には持てない彼女の愛に、焦がれてしまったのだ。




   3




 潮騒の響く古い灯台にて。詩人は昔話を語り続ける。


「星が美しいのは、遠く届かないからなのかもしれません。アリアのそれが私にとっての愛でした。届かずとも見上げる星の光でした」


 月に照らされた幽鬼のように青白い魔女は、菫色の、想い馳せる瞳に水を差して言う。


「けれど、その女の恋が叶うことはない」


 この国に居を構える者は皆、知っている結末だ。


「ええ、ご存知の通り。王妃となったのは、アリアではなく。隣国の王女だったお方です」


 ──話は続き、終わりに向かう。




 末の王子が隣国に出向くという形で、王女との婚姻は成った。婚姻の宴は船上で盛大に行われ、アリアとノエもまた招かれていた。

 アリアの本質は協力者であり、寵姫というのは隠れ蓑。彼女と彼が真実に恋人の関係であったのかどうかをノエですら知らない。けれど、アリアが末の王子に恋をし、彼を愛していたことは、知っていた。

 宴は一晩中続き、夜更けの甲板にて。


「アリアさまはこれで、本当によかったのですか」


 アリアは満ち足りた笑みをしていた。だからノエは、それ以上何も言えなかった。菫色のドレスを纏うアリアはノエの手の平を取り、言葉を綴る。


『あの、妖精の話を覚えている?』

「菫の妖精のお話でしょうか。出会ったばかりの頃、何度も語った」

『そう。その話』

「なぜ、今?」

『わかった気がするの。あれは、悲しいだけの話じゃないと』


 愛する者のために、自ら命を絶った妖精の想いをアリアは語る。ノエには出せなかった答えを出す。


『あの子は、きっと、しあわせになってほしかったのよ』

「そこに、自分がいないとしても……?」

『だからこそ。しあわせになって欲しかった』


 アリアは何ひとつ憂うことないように、微笑んだ。


『だって、愛しているんだもの』


 それは実感に基づく理解でありこの後の予兆だったのだと、かつてのノエは気付けなかった。




 宴の終わった後。うつらうつらとしていたノエは、夜明け前に目を覚ました。眠っていたのはアリアにあてがわれた船室で、けれどその部屋にアリアはいなかった。

 一体、どこへ。寝ぼけ眼でノエは甲板に出る。

 外の空気はひんやりと冷たく、白み始めた空の下、甲板には佇むアリアがいた。


「……あれ」


 遠目に見るその身体は透明に透けていて、ノエは目を擦る。けれど見えるアリアは変わらないまま、薄さは更に増していく。もしかしてまだ、夢を見ているのだろうか。

 少しずつアリアの方へ歩いて行く。そして気付く。アリアの手には見たこともない短剣が握られていた。けして大きなものではない。だがその刃は血のように赤く、遠目からも禍々しい。

 それは何かとても、いけないもののような気がして。


「アリアさま……?」


 ノエの声に顔を向けた。アリアは、泣いていた。

 アリアの瞳からぽろぽろと流れ落ちる涙は、まるで真珠のように固まって、甲板に転がる。


『ノエ、わたし──』


 唇が動く。すっと頭が冷えていく。地に足がついて、目が冴えていくのに、視界のアリアはますます透けていく。


「アリア!」


 駆け寄ろうとして、雲間から漏れる朝日の眩しさに目が眩んだその一瞬の後。

 甲板にはもう、アリアの姿はなく。後には泡と短剣と、そして結晶化した涙だけが残されていた。




 アリアが消えた後、残されていた王子宛ての手紙には、『わたしを忘れてしあわせになって』と書かれていたという。アリアは多くの秘密を残したまま消え、消えたわけすら知らされなかった王子は深く悲しみ、けれど使命を忘れることはなかった。婚姻から数年後、隣国の後ろ盾を得てこの国に戻ってきた彼は、稀代の賢王と呼ばれることになる。


 アリアが消えた後、城の仕事を逃げ出すように辞めた。数多くの物語を知っているノエにはアリアの正体にも察しがついていた。泡となって死ぬ存在は人魚に他ならない。

 手紙はノエにも残されていた。後腐れのない別れに相応しいような、気遣いに満ちた手紙。けれどそれを読み返すことも、その文面に涙することも、ノエにはできなかった。

 アリアの最期の泣き顔が認められなかった。納得ができなかった。目に焼き付いて離れない。

 いくら後悔していないと、手紙で語られたって。


『ノエ、わたし──』


 見えたのは唇の動きのみ。確証はない、けれど。


『まちがえたんだわ』


 そう言ったように、ノエには思えてならなかった。


 死ぬときに後悔しなければ、それは幸福だと、ノエは思う。

 せめてそうであったなら、ノエは囚われたりしなかった。夜明けの寸前のアリアは、思えば死を受け入れているようだった。なのにどうして。

 その理由は、アリアの握りしめていた短剣にあった。その真紅の短剣に悍ましい呪いが、込められていた。短剣に魔法で刻まれていたメッセージ。


 ──愚かなアリア。可哀想なアリア。 


 刃の上でうごめく文字は、嘲笑っていた。


 ──愛する者を殺すがいい。さすれば人魚へと戻れるだろう。


 それは、吐き気がするほど、醜悪な希望。それこそがアリアの最期を傷つけた刃だったのだと、ノエは知る。




 ノエは旅に出た。短剣の送り主を知るために。


「送り主は、海底に棲む人魚の魔女。アリアに人間の足をあたえたそのひとでした。だから私は、海の底へ行くことを決めたのです。アリアの願いを叶えた──いえ、弄んだ魔女に、アリアの愛を物語るために」


 ノエは訥々と語った。楽しませるためのものではなく、ただあったことをあったままに語るための静かな告白だった。

 暗い塔の中、燭台の上で蝋燭は溶けていく。揺らめく橙色の光が瞳の中で静かに燃える。

 ノエは当の短剣をスカートの中から取り出す。死者は口を利かない。。アリアがこの短剣にどう、傷ついたのか。涙の確かな理由を知ることはできない。


「私は既に人間の身ではありません。涙はとうに枯れ、けれど私の心は人のまま。決して悲しみや怒りや、後悔を忘れたりはしません」


 短剣を握り締める。


「アリアの願いが、選択が、美しかったことを知っている。アリアが深くあの方を愛していたことを知っている。その想いを踏み躙ったこと──私は、それだけが許せない」 


「それがただの自己満足だとわかっています」と。微笑みは穏やかな自嘲だった。


「レーラさま。これが、私の願いの所在です。どうか私を海の底へ──」


 ノエの嘆願を、暗い瞳が、遮る。


「その必要はないわ」

 



「──だってその魔女は、私なのだから」




 魔女のその声は出会った時と変わらず、海の底に引きずり込まれそうなくらい、美しいものだった。

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