第8話 終わりの日は未だ遠く(下)

   4


 ──芽吹いた若葉が水を吸い、青々と育つ春の頃のことだった。


 崖の上、森の中に秘された家の戸を叩いた娘がいた。竪琴と物語ととびっきりの愛嬌を携えて、詩人の娘は願いを告げた。海の底へ、人魚の国へ、果たさねばならぬことがあるのだと。

 その願いは海辺の魔女の不興を買い、けれど魔女は娘を追い出すことができなかった。愛の物語の収集。持て余した暇を埋める手段に、その娘はぴたりと当て嵌まっていたからだ。

 愛を知りたいのだと、魔女は言う。遊びを知らぬ陰鬱な変わり者の魔女の唯一の戯れであり、そのわけは不理解の証明だ。

 互いの願いと願いを賭けて、頑固で気難しい魔女と、諦めの悪い詩人の娘は契約をした。どちらかが折れるまで、愛を物語る、茶会を開き続けると。


 ──深緑に染まった葉が涼風に揺られ、日暮れが次第に早まる秋の頃になった。

 茶会の日々はもう、随分と長く、続いていた。




 鳥籠屋を交えた三人の茶会から、数日。


「愛は難航。海の底は未だ遠いわね」


 二人きりに戻った、いつも通りの茶会の席でレーラは言う。


「いい加減諦めたら? そろそろ物語も尽きるでしょう」

「たった数月で語り尽くしてしまうほど、貧弱な旅をしてはいませんわ」

「こんな毎日を繰り返して老いるつもり?」

「それは、この先何年と通うお許しを頂けたということで? レーラさまもとうとう私に!」

「絆されてない」


 進展などない。それでもノエは懲りず、日々物語を積みかさねていた。


「諦めないのはともかくとして、よく飽きないわね」

「それはレーラさまも同じじゃありませんか」

「違うわ。私はとっくに物語には飽きてるの。これ以上飽きることがないから、聞けるのよ」


 茶会には飽きていない、と言っているも同然だった。

 ノエが飽きぬ理由は簡単。この停滞が、難航なんてまったく思っていないからだ。


「おまえはどうして恋のひとつもしたことがないのに、愛を物語れるのかしら。不思議だわ」


 いつまで経っても物語に共感できない現状、レーラはそれを指して難航と言う。けれど〝愛を知る〟とは、自らの愛を得ることや共感を得ることに限らないとノエは思うのだ。


「確かに、私は恋を知りません。愛もまた星のように遠いもの。けれど、空を見上げることができます。星の輝きを、知っています。だから、私は、愛を物語るのです」


 かつて見た星に報いるために。


「気取った言葉ね。迂遠で詩的で夢見がち」

「そういう生き物ですから」


 魔女は小馬鹿な流し目で、ノエを見やる。


「ならば、仕方ないわね」


 諦めるように受け入れて、やはりレーラは、今日もノエを拒むことはない。


 魔術師の言葉が時折、蘇る。

『あれは、怪物の魔女です』と。

 吸血鬼、蛇女、人魚……そういった怪物の恐ろしさは、ノエも知っている。あれらは、戯れに人を殺す生き物だ。魔術師は言った。彼女もまた、そういった生き物なのだと。決して人とは分かり合えないものなのだと。


 ──だとしても。レーラの願いに応えることが詩人として、この地上での最後の役目だと、ノエは信じている。 



 二人の淹れるお茶は見分けがつかなくなった。費やされた物語を数えるのはやめてしまった。

 時間は穏やかに降り積もる。海辺の魔女の小さな家から二人が出ることはなく、また同じ日々を繰り返す。


 終わりの日は、まだ見えなかった。




   5




 秋季の終わり、人の世が祝祭の用意に浮かれ立つ時節。


『それでは暫しのお別れですね、レーラさま』


 海辺の魔女の家にノエが訪れなくなって十日ほどが経った。ノエの通いが空くことは、これまで長くとも三日程度でしかなかった。

 慣れ親しんだ独りきりの静けさと平穏。百と数十年の月日の間に辟易とした退屈も、祝祭が終われば打ち壊されるものと思えばしみじみ浸りがいある。

 手元には芳しく透き通った液の満ちる白磁のティーカップ。レーラは今日もひとり、優雅に午後のひとときを楽しんでいた。


 美味しいお茶の淹れ方は、教わってみればそう難しいことはなかった。それまでは味を楽しもうという気がなかったのが一番の問題で、興味を持てば話は早かった。ノエの教えが上手いのは癪だったが。

 カップを静かに置き、レーラは思索に沈む。ノエがいない今のうちに考えておかねばならないことがある。──あの娘を、諦めさせる方法だ。


 あの、願いに対する強情さ。もしレーラがいつまでも首を縦に振らなかったとして、別の手段をノエは探すだろう。いや、もしかしたらレーラには見切りをつけて、既に探し始めているかもしれない。

 だが彼女が人魚の国に生きたまま行くことを望む限り、レーラ以外にそれを叶えることはできない。海の底に行くために人魚の尾を手に入れる、そのための薬を作れるのはレーラを除けば、当代の人魚の魔女くらいだろう。当然、人魚の魔女は海底に棲んでいるから不可能だ。


 どうしてそんなことを望むのか、と。暫しの別れの前に再度、レーラは訊ねた。ノエの返答は、初めて会った頃とは違うものだった。


『愛がためですわ、レーラさま。我が人生に決着を』


 その愛は語らないのか、と問えば、ノエは首を振り、

『いまだ誰にも語ったことがございません』


 そう言って、それ以上を口にすることはなかった。命をかけるほどの願いの中

身が、明かせぬ秘密だということ。容易には語らないという行いが決意の固さを示しているようだった。

 ノエの願いを叶えれば死以外の結末はない。魚となる薬が人間には毒ならば、人間へと戻る薬もまた毒だ。併用はできない。呪いを解くのは、魔法をかけるよりも難しい。

 無謀は嫌いだ。それ以上に、傲慢はもっと嫌いだった。己の願いを果たさんと、己にはそれができると疑わない、純真と狂気の瞳には昔から見覚えがある。願いを語るその目の輝きは苦々しく、曇らせてみたくなる。そのために、レーラはあの日、契約を飲んだのだ。

 だが、あの瞳は、同時にレーラが愛を知ることができると信じて疑わない目でもある。


 契約の行き着く先は二つきり。レーラが折れてノエが海底に行くか。ノエが諦めレーラがささやかな満足を得るか、だ。どちらにしろいずれノエはこの場所から去り、この平穏がずっと続くだろう。

 レーラはくるりとティースプーンを回す。冷めたお茶を無為にかき混ぜる。冷たい銀の感触を指でなぞる。ほんの少し、眉間にしわが寄っていた。


 何か引っかかる。美味しいお茶の淹れ方はもう教わった。ノエが去っても、無聊の慰めは残る。百と数十年の月日の内、多くをレーラは独りで過ごしてきた。孤独はいわば肌に馴染む香水、レーラの一部であり、世と隔絶する魔女を飾り立てる装飾品だ。

 ただ、最近は。独りで味わうのではない楽しみも、そう不味くはないと、思い始めていて。


 ──なるほど、多少は私も、惜しいと思っているのか。


 妖精魔女アンゼリカのように頭が蜜浸しではないから「それが愛なのよ!」なんて論理展開は死んでもしないが。ノエが惜しむ価値のある人間であることに、疑いはない。その納得に、レーラはようやく手慰みをやめた。

 急な海風がカタカタと茶器を揺らす。季節の巡りを知らせるような、強く冷たい風だった。ここは針葉樹の森の色彩は変わらずとも、潮風を含んだ空気の匂いが変わり、海の色合いの変化を感じる場所だ。


 窓の鎧戸を半分閉めようとして、空の眩しさに目を細める。昼下がり、薄青の空には傾き始めた陽が輝き、夕暮れの気配漂う黄金の光を放っている。夜の前触れを示す不吉な夕暮れの、その前触れ。蜂蜜菓子のような光に胸がざわめき、窓を閉めようとしていたことを忘れた。

 金の光が落ちるテーブルに、視線を戻す。今日は、ノエがいない。対面の椅子は空っぽだ。だが、レーラの瞳に写るその椅子には。ひとりの金髪の女が、嫋やかに微笑んでいた。


 ──そんな女は、もうこの世のどこにも、いやしないのに。


 先まで良かったはずの気分が、呆気なく裏返る。レーラは空っぽの椅子を睨む。空のはずの席に図々しく居座る女の幻影を睨み、レーラは深々と溜息を吐いた。

 邪視の力を持つ魔女の眼球は幻覚を見やすい。魔女には無意識下で些細な魔法を使う性質がある。だが自らの目が見せる白昼の夢幻に酔うことはない。脚は地に付いていて、気は確かだ。だからレーラは、目の前の女が幻覚であることをはっきりと理解している。


 空のカップを、レーラは儀式のように幻に供える。


「──わかっている。私はおまえを、忘れてなどいない」


 いつもよりも低く、けれど美しい声で。まじないの言葉を唱えるようにそう言えば。

 幻影は、いつものように掻き消えた。




 底冷えした気分を変えようと外に出る。箒に乗り、崖の更に高い場所へと向かう。水平線と地平線、高く飛ばなくともその両方を一望できる高台だ。眼下には鬱蒼とした森が広がり、海岸線に沿っていくつかの村と、灯台や古塔、そして壁に囲まれた町が見える。海には船が通い、街道に馬車が行き交っているのが小さく見える。

 レーラは思う。四十年前、この場所に来たばかりの頃はもう少し静かだったはずだ。人の世の景色は歳月の流れを明らかにするらしい。


 高台で風を浴びながら人の世の景色を眺め、ゆっくりと日暮れを待っていると、一羽のかもめがレーラのもとへと飛んできた。かもめはひと鳴きし、レーラが腰掛ける箒の先に止まった。


「あら。いいところに来たわね」


 使い魔のかもめだ。度々話をしにレーラのもとを訪れるよう言いつけてある。陸の情報はロビンソンから、海の情報は使い魔から、といった具合だ。

 かもめは餌付けをされながらレーラに情報を伝える。触れた指先から、言葉ではなく断片的なイメージが流れ込んでくる。北の海の流氷や、島鯨の動向。美味しい鰯の群れに海猫との交流。それから人魚と、それに魅入られ沈んだ小さな船。


「相変わらず、はしたない愛し方をしてるのね。あいつらは」


 人魚は惚れた人間を海底に誘い、沈め、命を奪う。その習性が怪物と呼ばれる所以だ。だが船ごと沈むとは珍しい。興味をひかれ、詳しく話を求め……ふと気付く。


「その船って……あの村・・・のじゃない?」


 一番近くの、小さな漁村。森に人間除けのまじないをかけることになった原因の村であり、ノエが借宿としていた村だ。いつの話かと聞けば、足指の数では足りぬほど陽が沈んだとかもめは伝える。ノエが町に行った後の出来事か。それはなるほど、レーラが知らないわけだった。

 だからなんだという話なのだが。嫌いな人魚に沈められた船だ、同情はしてやってもいいが、あの村自体に興味はない。しかし、何か。その縁に──胸騒ぎがした。


 はっとレーラは顔を上げる。結界に来訪者の反応だ。この時期、魔術師は近付かない。他の魔女なら徒らに結界をすり抜ける。訪れるのは人間と想像が付く。ノエでは、ないだろう。

 かもめに別れを告げ、高台を下る。家の前に降り立ち、箒を杖に戻す。家の前には、錆びたノッカーを恐る恐ると慣らそうとする、赤毛をおさげ髪にした小さな娘がいた。

 こつりと杖で敷石を鳴らすと、娘は後ろを振り返り、そこに立つレーラにようやく気付いた。長い前髪で目元が隠れた、薄汚れたそばかすの少女はびくりと肩を跳ねさせている。

 森にかけたまじないとは別に、家の周りの結界は、魔女への願いを持たぬ者を通さない。けれど。それは、願いを持つ者ならば招き入れてしまう結界でもあった。


「人間が一体、何の用かしら」

「森の、善き、魔女さま」


 娘は、ふるえながらも跪き、神に祈るように手を組んだ。〝善き〟などとお門違いの名称で、〝海辺の魔女〟であることも知らないで。暗い森を抜けてまでやってきた娘は願いを告げる。


「どうか、お願いです──ノエお姉さんを、助けて」




   6




 マデリンと名乗った村娘は、辿々しく経緯を語る。村で、町で、自らに、そしてノエの身に、何が起こったのかを。

 始まりは村の船が、不審な沈み方をしたことだった。それを誰かが「沈んだのは、村に紛れ込んだ〝魔女〟が呪ったせいだ」と言い出したのだ。


 時節は祝祭前で、丁度、魔女狩りのために、町の教会の審問官が村を訪れていた。疑いをかけられたのは、マデリンだった。


「最近は、ずっと、船をよく見ていたんです。なんだか羨ましくて。船に乗って旅に出ることばかり、考えて。妄想ばかり、してたんです」


 疑いをかけられた理由をマデリンは話す。


「沈む前に、わたしがその船を、じぃっと見ていたことを、みんなも知っていて。そのことを咎められました。『見つめていたのは、悪いまじないを使っていたんだろう』って」


 邪視、という力がある。それは、見つめることでかける魔法のことを指す。だが蛇女でもない限り、見る程度でたいした魔法は使えない。まして人間では、一流の魔術師でもなければ邪視の力は使えない。

 魔法、魔術、呪いは、いずれも解き明かすことが難しく、冤罪の疑いを晴らすことも難しいとはいえ、いくらなんでも、それだけを根拠に疑いをかけられるものだろうか。

 それを問えば、村娘は俯いて、


「仕方ないんです。だってわたし……〝魔女の娘〟だから」


 そう、己を恥じるように答えた。


 ──マデリンの親は若かりし頃、魔術師だったという。それを知られ、マデリンが幼い頃に裁かれた。親の罪ゆえに、マデリンは槍玉に挙げられたのだ。


 くだらない理由だ。くだらないが、出自というのものは誰しもを固く縛る鎖だった。冤罪を受けてさえ幼い少女が「仕方ない」と諦めを口にするほどに、出自というものはこの世に存在する、最も解くことが難しい呪いだ。そればかりは人間に限らない話だと、レーラも知る。


「町の教会に連れて行かれたわたしを、助けてくれたのが……たまたま町にいた、ノエお姉さんでした。でも、その代わりに。お姉さんが教会に捕まってしまったんです!」


 マデリンはノエに聞かされた『この後は、森の善き魔女を頼りなさい』という言葉に従い、この場所に辿り着いた。それが、一部始終のすべてだった。


「お願いです、魔女さま。どうか、どうか。ノエお姉さんを、助けてください」



 話を聞いて、レーラはすぐに飛び出した。夕暮れ時の空高く、不安定で頼りない浮遊感に苛立ちながら、身隠しの外套をはためかせ、最高速で箒を飛ばす。

 村娘の願いに対価を求めるまでもない。アンゼリカとの一件の時点で、契約は正式に結ばれた。手出しの理由は十分だ。

 村娘の話の一部始終を反芻して、レーラはぎりっと奥歯を噛み締める。

 出自ゆえに虐げられた少女に、ノエがかけたという言葉。


『たとえ何に生まれたとして、未来を選ぶ贅沢など許されないとしても──』


 差し伸べられた手。遠い言葉。優しい微笑み。


『──あなたの生が、あなたのものであるのだと、思い込むくらいはしていいのです』


 聞きづてのそれがいやに鮮明で。ノエの言葉にきょとんとした村娘に、苦笑し言い直す様までくっきりと想像できた。


『つまるところ〝死んではいけません〟ということです』


「……どの口で」


 吐き捨てた呟きは風に流れ、レーラの耳にも聞こえない。

 町をぐるりと囲む壁を空から超える。薄暗い裏路地に降り立つと、地面がぐらぐらとして、風が体内にまで吹き付けてくるような錯覚に苛まれた。これだから空を飛ぶのは嫌いだ。


 町のどの屋根よりも高い教会の尖塔を睨み、暗い路地から通りの方へと向かう。

 建物のあちらこちらに色とりどりの旗飾り、市場には人の賑わい、前夜祭の楽しげな空気に満ちている。人々の表情は呑気なもので、しかしよく見れば、行き交う町の衛兵と教会の審問兵は強張った表情をしていた。外套を目深に被り、人波に紛れるレーラのことを誰も気に留めない。詩人や芸人が騒ぐ広場を突っ切って、町の大教会へと辿り着いた。

 教会の門は、仰々しく締め切られていた。門番の兵が二人、近付いたレーラを遮る。身隠しの外套は、姿を気に留められにくくなるだけの魔法。空を密やかに飛ぶことはできても、己の職務を全うする門番の視線から隠れることはできない。


 門番は、深緑の外套から溢れる白銀の髪と杖を見遣る。


「ご老人、申し訳ないが、今は教会に入れないのです」

「司祭様のご命令で、なんびとも近付けてはならないと」


 と、教会を訪れた敬虔な老女に、諭そうとする門番たち。


「どうかお引き取り──」


 レーラが顔を上げる。フードの中を、初めて門番たちは直視する。老いたような銀髪の下にあるのは人間離れした美貌。彼らは息を飲んだ。目の前の女が人間ではないと、本能が訴える。


「〈邪魔だreicio〉」


 レーラの瞳が澄んだ光を湛えた。瞳のまじない、邪視の光を無防備に受け彼らはそのまま身を硬らせる。レーラが門に手をかけるのを、彼らは止められなかった。

 教会の門が開く。風に煽られフードは外れる。身隠しのまじないはもういらない。堂々と、レーラは中へと足を踏み入れる。──魔女は、怒っていた。


 大きなステンドグラスの光が差し込む、古い教会の中。周りは侵入者に気付き始めた。周りに構わずレーラは懐から小瓶を出す。周りの景色はもはや定かではない。平静を投げ捨てて、激情に身を任せる。魔法を使うにはその方が都合がいい。


「〈水よmare〉、私の願いを象れ」


 ぱりん、掌の上で、瓶の砕けて割れる音。尖った音に我に帰った門番が、中の人間に何かを叫んだ。その女を止めろ、魔女だ、どうでもいい人間の台詞が耳を通り過ぎる。


 レーラは人の成した、村娘マデリンへの処遇について思うところはない。たとえマデリンが、菓子を作っていた娘だと知ってもだ。よりにもよって人魚の罪なんかを覆いかぶせられたことに、哀れみはしてもそれだけだ。

 教会に怒りは湧かない。奴らはただ人の世の秩序を守るだけ。その過程で、無辜の人間を誤って裁いたとしても、そのそそっかしさを人ならざる魔女が糾弾する謂れはない。たとえノエを捕らえたとしても、だ。

 人の世の動きに、魔女たちは関わらない。昔々の取り決めであり、その取り決めがないとしても、レーラは人間に興味などないのだ。


「──願うは〈拒絶reicio〉、私の孤独を乱すもの、尽く突き放せ」


 呪文に聞き惚れて、侵入者を囲む人々は手足を止める。こんなところで綺麗だと感じることが異常な声だった。

 声に従って水の使い魔が形を取る。それは小舟など丸呑みしてしまいそうな、水の蛇。「そんなまさか」「司祭様を呼べ!」ばらばらと困惑に満ちたつまらない声が上がる。そのひとつひとつを魔女は聞いてもおらず、気に留めてもいない。


 苛立ちは別なところにあり、空を駆ってよりずっと、レーラは怒っていた。


 ──では、何に怒っているのか。何がこんなにも腹が立つのか。


 決まっている! 〝死んではいけない〟だなんて、どの口が言う! 

 とんだ欺瞞だ。ああ、確かに少女にかける言葉としては正しいだろう、嘘吐きめ。


『あなたの生が、あなたのものであるのだと、思い込むくらいはしていいのです』


 その綺麗事は、少女を救うために必要だった言葉だろう。


 ──願いが果たされるまでは、死ねないと、かつてノエは言った。


 ならばその言葉を、ノエ自身に当てはめて言い換えるとすれば。そんなもの──自分の死に方は、己の命の使い道くらいは、自分のものだという宣言でしかない。


 人に死ぬななどと言える筋合いはないのに。そのくせ、自らを危険に晒してまで人を助けようとする。あれはどうしたって自ら命を投げ捨てる愚か者なのだと、思い知らされる。


 それが、腹立たしくて仕方がない。幸福に生きられる者が命を投げ捨てることの愚かしさを、レーラは骨の髄から憎んでいる。


 魔女の周りを囲む人々は、とぐろを巻いて睥睨する水蛇にそれぞれの刃を向けている。敵うはずもないということを本能で理解しながら、彼らは逃げず魔女あくに立ち向かう気でいる。

 それらを遮り、ひとりの老人が出でる。壮麗な衣を纏う司祭が、一声で周りの人間を下がらせる。


「使い魔をお納めくだされ。貴女が〝真正の魔女〟であることは、存分に理解しました。ですが、我らは不可侵、人外理外たる貴女がたは人の世をその手で乱さない。それが、古くからの約定のはずです」


 今にも吹き荒れそうな嵐を押しとどめるべく、老人は消して怯まず、魔女に相対する。魔女は澄み切った平静ならざる瞳にようやく人間を映し、個として確かに認識する。


「ええ、私はおまえたちの大義に興味はなく、その過程に生まれる過ちに動かす心などない。人の世に、乱すほどの価値も感じないわ。用は、ただひとつ」


 竪琴の音の声は、今や荒れ野の風だった。


「私の客を返せ。紫の瞳の娘だ。知らないとは言わせない」


 老いた司祭は、両目を瞑り、ロザリオに手をやった。


「紫の……審問に割り入ったかの魔術師・・・ですか」

「節穴め。あれはただの人間よ。魔術師ですらないわ」


 レーラは訂正を入れる。誤解、冤罪、魔女狩りにおける過ちに興味はないと言った身だが、こうも明確に自分の客に間違いを吹っかけられるのは、愉快ではない。

 しかし、司祭は、薄く白い眉を寄せて、汗を滲ませた。


「……まさか、知らぬのですか?」


 ──一体、この人間は、何を言っているのか。魔女は眉を顰める。


「その女は、既にこの教会にはおりませぬ。先刻、牢から逃げ出しました。教会を閉じ、中をを捜索をしていたのはそのためです」


 ノエの逃げ足は上等だ。庇う村娘もいなければそれもありえぬ話ではない。だが、納得と裏腹に、首筋を這う嫌な気配が拭えない。じわじわと、レーラの瞳に濁りが帰る。正気と理性が、予感を補強する。

 司祭はロザリオを固く握りしめ、震える声で訴える。


「天におわす我らが神に誓って。あれが、ただの人間であるものか!」


 レーラの視野に、ようやく周りの人々が入る。彼らの表情が、否応なく目に入る。怯え、恐怖。それが、レーラではなく、ここにはいない誰かに向けられていることに、気付く。


「……話せ。おまえらは一体、何を、見た」




   7




 海辺の町から出て街道から外れた場所にある古塔。昔は灯台として使われていたそれは既に朽ち、今は旅人が雨を凌ぐ程度だ。潮風に晒されながら立つさもしい古塔の中を女がひとり、松明を手に進む。清潔なエプロンドレスを身に纏い、栗髪の癖っ毛を肩に流した年若い娘。


「そこにいたのね、おまえ」


 呼びかけに、ノエはばっと振り向く。


「レーラさま?」


 聞き紛うはずのない声。冷たい闇の中から杖音を響かせて現れる銀の魔女の姿に、ノエはほっと息を吐いた。


「前にもこんなことが、ありましたね」


 火の明かりに照らされたレーラはひどく苦々しい顔で言う。


「まったく、こんなところまで探させて。よくも手間をかけさせてくれたわね」

「ご迷惑をおかけしました。無事に逃げおおせてまいりました」

「無事なものですか。あの町、もう二度と行けないじゃない」

「覚えてくださったんですね……ごめんなさい」


 互いに町で何があったのか、何をしたのか、触れなかった。ノエはらしくなく黙り込み、村娘のことを問う。


「マデリンは……」

「無事よ。馬車に忍び込んで来たとはいえ、疲れ切っていたから家に寝かせているわ。後は使い魔に任せてある」

「そうですか、よか……いえ、何も、よくないですね。結局何もしてやれなかった」


 例えばマデリンに働き口を。それが難しくとも選択肢の示唆を。村から出る道を。だがその必要ももうない。村にも町にも、それどころかこのあたりには居られなくなった。戯れに助けを差し伸べたとして根本の解決にはならない。


「少しの間くらいは、うちで匿ってあげてもいいわ」


 消沈するノエに、レーラは助け舟を出す。


「私にとっても知らない子ではないのだし。野垂れ死されたらそれこそ無駄足じゃない」

「レーラさま……」


 ノエは本気の感謝を示すように深々とお辞儀をする。誠意は、かえって言葉にならなかった。レーラはその様子に思うところを飲み込んで、


「あの村娘のことは、もういいでしょう。本当に今、話すべきことは、そうじゃない」


 面倒を見る。その譲歩は憐憫でも慈悲でもなく、本題に踏み入るため。逃げ道は塞がなければ、次に進めない。重い、口を開く。


「おまえが捕まったのは、村娘を逃したからだけじゃない。おまえが、魔女だと思われたから」


 ノエは、顔色ひとつ変えなかった。その服に汚れはひとつもない。〝白鳥染めの刺草布〟と呼ばれる特別な布地は、どんな染みも残さない。──血痕ですら。


「殺しても死なないと、言っていたわ。傷がついても、血を流しても、たちまちに治ってしまうと、おまえを捕らえ、逃げたおまえを探していた奴らが言っていた」


 レーラは、教会に残されていた血痕に魔法をかけて、ノエの居場所に辿り着いた。残されていた血痕は、人が死ぬには十分な量だった。


「おまえ、呪われているのね」



「──おまえ、魔女から、〝不死〟を買ったな!?」



 壁を割るような糾弾。「はい」と、ノエは静かに返答する。解けた髪はあどけなく、火に照る肌は柔らかな白さで、ちろちろと燃える瞳は底知れない穴のようだった。

『助けくらい求めなさいな、可愛げのない。おまえには、その正当性があるのだから』とでも、無事に助け出したら言ってやろうと思っていた。続く恨み言も、いくつも用意している。


 助けを求めなかったのではない。──初めから助けなど、必要がなかったのだ。

 不死、或いは不老不死。完全なそれはこの世に存在しないが、人外の魔女ともなるとそれに似た性質を持っている。だが、いかな触媒を使っても、魔女は人間を、彼女たちと同等の不死にすることはできない。仮初の魔法をかけるだけ。魔術師が自力で研鑽をするわけだ。

 ノエの気配は人間のそれだ。人間除けの魔法は確かにノエを認識する。再生程度の魔術ならばあるが、ノエに魔術の才はない。人間の身で何度も死んで、まともでいられるはずがない。


「おまえ、今までに何回死んだ? 魂の状態は?」


 ノエは黙って首を振る。死んだ数など数えてはいない。魂についた傷など、最早わからない。

 他の魔女によって施された不死は、いつか解ける期限付きの魔法に他ならない。魂だけを傷つけて、結局不死は借り物のまま。

 ──命を投げ捨てるのは愚者だ。だが、魂に望んで瑕疵を付ける人間は、狂人だ。

 何故、と聞くまでもない。海の底に行くにはまず不死が必要だった。だって、どうしようもないろくでなしの魔女たちを口説き落とすのに、命はひとつじゃ足りやしない!


「だが! どうやってそんなことを! 不老不死の呪いなんて、魔女でもそうそう作れない!」


 不老不死の魔法は、海の底に行く魔法よりも難しい。本末転倒だ。不死すら手段にして、目的のためならば魂すら投げ打つなんて。レーラは、唇を噛み締める。


「契約は、ここまでよ。海の底だろうとなんだろうと行かせてあげる」


 ノエがはっと、縋るようにレーラを見た。一体何に縋るというのか。負けたのは、レーラだ。

『どちらかが折れるまで』の契約、レーラは折れた。折れるしかない。

 今度こそ本当に、止める理由がない。もう手遅れだ。死なぬものは決して諦めない。


「まだ、契約は……」

「そんなのもう、どうだっていいわ」


 だって、レーラの勝ちはもう、どこにもないのだから。


「代わりに、不死を得た手段も、海の底を目指す理由も、すべてを話しなさい。そうしたら、おまえの願いを叶えてやる」


 誰にも話したことはないと言っていた。ノエが迷ったのは、一瞬だった。


「……わかりました。レーラさまになら」


 経緯と理由と目的を、語るため。ノエは無言で、襟ぐりからペンダントの紐を引きずりだした。紐の先にくくりつけられた小さな鳥籠のような銀細工。その中には、真珠に似た何かの石たちが閉じ込められている。淡く青い、光を放つそれは。


「〝人魚の涙〟です」


 レーラは耳を疑った。


「……何を言っているの? そんなもの、存在するはずが! だって人魚は──」


 涙を流したりなんか、しない。それは、


「魂を持たない、心のない、生まれながらにしての魔性あくだからですか」


 そうだ、と頷くことを。ノエは許さなかった。


「いいえ、いいえ。嘘などであるものですか。涙は確かにここにあります。だって私は知っています。あの方の愛も、涙も、私は見届けたんです!」


 波の音、潮風、梟の鳴き声、夜の匂い。飽き飽きとしたすべてが知らないものになってしまったみたいだった。静寂すらも煩くて、レーラの頭はひどく痛む。

 レーラさま、と今にも消えそうな囁き声が、夜に響く。


「ご存知ですか人に恋した人魚の話を」


 ノエは迷子のような表情のまま。ぽつりと、零した。




「──愛の末に、泡と消えた人魚の姫の、お話を」

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