救われない脇役のハナシ

寿元まりん

第1話 語り手は傍観者


 

 

 宝石 美来(たからいし みくる)は、日本を代表する財閥の三兄弟の真ん中で一人娘だ

 

 六つ上に兄、二つ下に弟がいる

 

 母親似の彼女だが、母親の様な色気のある美人とはまだ言い難く、年齢相応に愛らしかった、猫のように大きい瞳と、愛嬌のある美少女ではあったが、歯を剥き出して全力で笑う姿は、その高貴さを半減させていた良い意味でも悪い意味にもさせてはいたが‥

 

 財閥の娘らしくもない、無邪気でどこにでもいる普通の女の子

 

 それも、マナーを教育するであろう母親が、美来が幼い頃に死別しているから、上流階級のマナーの知識はほとんどなかった

 

 父親も、母親が死んでからは、女である美来に興味を示さず、兄や弟の管理はするが、美来とはここ数年まともな会話すらしていなかった

 

 それでも、美来がスレずに真っ当で純粋に成長出来たのは、血の繋がりのない『お父さん』がいたからだ

 

 実の父親ではなく、父親のような人…と追記があるのだが…

 

 『お父さん』と美来が呼ぶのは、父親の雇った使用人の執事長である『天沢』と言う男だ

 

 天沢は、父親と小さい頃から面識があり、天沢の一族も代々、宝石家の執事として受け継がれて来た者でもあった為、天沢と父親は、雇用関係というより、友人同士と言った方が近いものがるだろう

 

 天沢は、美来がまだ6歳の時から執事長をしていて、父親が美来を蔑ろにしているのを知り、同情心から美来を構い倒した

 

 初めは、警戒していた美来だが、天沢からの無償の愛を一身に与えられ、懐かないものがどこにいるのだろうか

 

 愛に飢えていた美来は、それはもう天沢に懐き、天沢が本当のお父さんだと信じて疑わなかった

 

 父親にも、天沢のことを『お父さん』と呼ぶことを了承してもらい(美来に興味のなかった父親は二つ返事で許可した)屋敷というよりは一棟丸ごと父親が所有する高級な高層マンションの最上階が自宅ではあったが、同じマンションの17階の天沢に振り分けられた階に、ずっと住んでいる

 

 血のつながりはないが、天沢は美来が可愛くて仕方なかった

 

 年齢的には父親と言われても問題ないだろうが、天沢は童顔の為、美来と一緒にいるとよく兄妹と間違われる…血のつながりは一切ないが、それでも二人は家族だ

 

 ほら、今も朝に弱い美来を起こしに天沢が部屋に入っていく

 

「美来?朝だよ、学校に遅れるから早く起きなさい」

 

 優しく頭を撫でながら声をかけると、美来は撫でられた頭を擦りつけ、もっと撫でろと催促するように押し付ける

 

 猫のように丸くなる姿に、天沢は

 

「しょうがない子だな、今朝は美来が好きなクラムチャウダーだけど、いらないなら私が食べちゃおうかな」

 

 愛おしそうに撫でながら言うと、美来はガバッと布団を取っ払い、嬉しそうに笑い、可愛らしい八重歯を見せた

 

「おはよう!お父さん!」

 

 クラムチャウダー!!と頬を赤くする美来に、やれやれと腰を上げてキッチンに向かう天沢と、洗面台にパタパタと駆ける美来

 

「あ!そういえばお父さん!私の体操着知らない?」

 

 髪を梳かしながら、広い面積のため声を張らないと届かない距離なので大声で美来はいう

 

 天沢は、エプロン姿で洗面台に行くと

 

「また使用人に投げ渡したからクリーニングに出されてるんじゃないか?」

 

 とジト目

 

 美来は苦笑いしながら

 

「で、でも、明日も使うから、部屋に置いといてっていたったよ?」

 

 

「…その使用人、若かった?」

 

 天沢の言葉に、美来は一瞬黒目を左上に彷徨わせ、うん!と肯定する

 

「…最近、使用人が何人か配属になったから、俺と美来の事はまだ知らないだろうし、もしかしたら『最上階』に届けたんじゃないのか?」

 

 その言葉に、美来はウゲェと舌を出した

 

「やだなー、上に行くの」

 

 美来は唇を突き出しながら嫌そうにしている

 

 それもそうだ、美来はあまり家族が好きではないから

 

 美来は、小さい頃から父親から疎まれて、幼ながらに察しが良かったせいか、美来も父親には苦手意識があったし、兄弟も然り、六つ上の兄は父親の生写しで、美来と出会っても会話は生まれず、父親譲りの綺麗な顔で美来を厳しい目で見てくる、それが美来は嫌で仕方なかった。二つ下の弟も、美来が庶民のように振る舞い、高校も普通の公立校に通っているのが許せないらしく、よく苦言してくるので、そんな説教が美来は嫌いだった

 

 

 だからこそ、あいつらのいる上には行きたくない、と美来は内心考えている

 

 天沢は、ため息をついて美来の頭を撫でる

 

「体操着は私が取りに行くから、美来はご飯食べちゃいなさい」

 

 

 その言葉に、美来の顔は華やいだ

 

「ありがとう!お父さん大好き!」

 

 抱きつく美来を難なく受け止め可愛らしいつむじにキスをすると、二人はリビングに向かっていく

 

 放り出されたヘアブラシは、豚毛が使われている高級品で、天沢が身なりを気にしない美来を気にして選んだものだ

 

 柔らかい、猫のような毛の色素の薄い髪色は、太陽の光に当たるとキラキラと輝き、まるで夕焼けのひまわりのようで、鎖骨あたりまでの長さの髪を揺らしている

 

 唯一、その髪色だけが、宝石家の血のつながりがある証とでもいうようで、美来自身はあまり好きではなかった

 

 何度も、自身の髪を染めようとしたが、すべて天沢に妨害され断念し、「そのままの美来が好きだよ」の言葉に、諦めるしかなった

 

 

 美来は、現在高校二年生

 

 家から、車で40分と、少し都心から離れた場所にある高校に通っている

 

 部活動の強豪校で、ほとんどの部活動が毎年全国に行っている

 

 そんな美来も部活動は陸上部に入っていて注目株の選手だ


 中学から陸上をしていて、中学三年生の時、全国の大会で3位に入賞して、今の高校にスポーツ推薦で入学した

 

 とにかく走るのが好きで、部活以外でもよく走っているのが目撃されている、陸上部の顧問や、進路指導の先生、苦手科目の数学の先生から追い回されるのが日課になっている美来は、悪戯っ子のように笑いながら廊下を猫のように身軽に走り抜ける

 

 明るく元気な美来は、クラスメイトから好かれていて、顔も美少女な分類のため、男子生徒からもモテていたが、鈍感な美来はそんなこと露程も知らない

 

 美来は、幸せそうで蜂蜜色の瞳はキラキラと希望に輝いている

 

 すべての幸福を凝縮させたように笑う姿は、周囲を明るくさせるし見ていて、幸せになる…そんな空気を美来は纏っていた

 

 

「美来ちゃ〜ん、そろそろ出ないと遅れるよ!」

 

「あ!内田さん!おはよ!」

 

 玄関のドアから顔を覗かせ声を張るのは、もうかれこれ十年くらいの付き合いになる、運転手の内田

 

 テカテカとハゲ上がった頭部は、太陽のように輝き、一重の瞳は目が開いているかわからない程糸目で、いつ見ても優しそうな顔つきで、美来は内田のことも大好きだった

 

「美来、体操着は後で学校まで届けるから行きなさい」

 

 急いで歯を磨く美来の頭を撫でながら、美来の鞄を内田に渡す天沢

 

 内田は、車で待っていると言って先に向かった

 

「少し待って、美来…可愛い顔を見せて」

 

 急いで歯磨きを済まし玄関に飛んでいく美来を呼び止め、両手で美来の頬を包む

 

 至近距離で目が合い、美来は照れくさそうにはにかむ

 

「ほら、ここにまだ歯磨き粉がついてるじゃないか」


 右の口端を擦りながら、いってらっしゃいのキスを頰に送ると、美来は嬉しそうに、行ってきます!と高らかに手を振った

 

  

 それが、美来の最後の笑顔だと知らないくせに、天沢は幸せそうに微笑んでいた

 

 

 

 

 

 思っていた以上に、仕事が押してしまったのか時計を何度も確認して美来の体操着を受け取りに最上階に赴く天沢を、最上階の使用人が同じようにエレベータに乗り込んでいた

 

 最上階の使用人は、天沢を見ると馬鹿にしたかの様に鼻で笑う

 

 天沢は気にも止めず、階数を示すパネルから視線を外さない

 

 それが気に食わなかったのか、使用人はぼやく様に口を開く

 

「落ちこぼれの世話役なんて、死んでもごめんっすわ、俺」

 

「あんな見放されてるくせに堂々と居座る根性…将来ろくな大人になんないっすよね」

 

「まあ、顔は地味に可愛いから…風俗嬢とかになったら人気出るっすね」



 聞くにも値しないとでもいう様に、無言で表情も変えない天沢

 

 もう慣れたとでもいう様に聞き流す姿に、使用人は面白くなさそうだ

 

「てか、あの落ちこぼれの体操着、汗と土の匂いで本当に女かと疑うっすね、もうちょい良い匂いしないと男にモテね〜っすわ」

 

 

 匂い嗅いだのか?と突っ込みたくなったが、その前に天沢が使用人の鳩尾に拳を叩き込んでいたので、考えていたことすべて吹っ飛んだ

 

 天沢はスマホを取り出し、美来へと電話をかける

 

 ワンコールで出る美来

 

「美来、ごめんな…体操着なんだが…手違いで捨ててしまったみたいなんだ、新しいものはすぐ発注できるから明日には届くが、今日はどうしても間に合いそうにない…今日だけ部活は休んで早く帰っておいで」

 

 『「そうなんだ!わかった!雨降ってるから室内練習だったし今日はサボっちゃお!内田さんには、あたしから連絡するから大丈夫だよ!」』

 

「そうか、ありがとう。気をつけて帰っておいで」

 

 『「うん!後でね!」』

 

 ぷつ

 

 天沢は、血で濡れた拳を着ていた燕尾服のスカーフで拭うと、地面に伸びている使用人に投げ渡した

 

「おい、これクリーニング出しとけ」

 

 

 一瞥もくれることなく鋭く言い放つ天沢の声は届いているのか微妙だが、まあ自業自得だろう

 

 

 天沢は降りた階から見た外の天気に眉を顰める

 

 強く地面に叩きつけられる雨と、空を裂く様な雷

 

 

 美来が早く帰ってくるのを待ちながら、天沢は残っていた仕事に手をつける

 

 

 あれから数時間経ったが、17階に入室したものはいない

 

 美来は帰宅してから、すぐに部屋に戻らずエントランスでメイドやシェフ達と雑談することが多いから、きっとエントランスにいるんだろう、と決めつける天沢だったが、なぜかソワソワと胸の奥が落ち着かない

 

「あれ?天沢さんかい?ここにいるの珍しいね」

 

 普段は滅多に来ない喫煙スペースで、タバコを加えた天沢を珍しそうに見てくる内田に、天沢は内心ホッとしている様だ、顔が和らいだ

 

「あぁ、たまたまね…、美来はまだエントランスに?」

 

 タバコのフィルターを 加えて内田を見ると、内田はキョトンと顔を固めた

 

「美来ちゃんかい?さあ、今朝送ってからは見てないね…旦那様が急な用事があって送迎した後に、美来ちゃんから着信があったから、折り返したんだけど、他の人が迎えに来てくれるって言ってたよ」

 

 天沢の顔が曇る

 

 

 そして、その空気を最悪なものとして決定付ける様にドアが開かれた

 

「天沢さん!!美来ちゃんがっ!!

 

 

 

 

 美来ちゃんがっ、事故に遭いました!!!」




 ドアを蹴破る様に入ってきたのは、美来と仲の良いメイドの中原

 

 顔中にびっしりと汗を浮かばせて、充血した目で天沢を睨む様に、叫ぶ

 

「大型の車と接触事故に遭ったみたいで…血液が足りないって…」

 

 中原は、言い切るや否や奥二重の瞳に張った涙の膜が決壊し、ボロボロと涙を流した

 

 

 天沢の口から、火種のついていないタバコがポロっと地面に落ち、フラフラと、ドアの手すりに捕まる

 

「…どこの病院?」

 

 思っていた以上に冷静そうに見えた天沢だが、声には余裕がないのか、温度が感じられないくらい冷え切っていた

 

「中央私立病院です!」

 

 引き攣った声で叫ぶ中原に応えるように手を軽くふり、天沢は駆けた

 

 

 そして持っていた携帯端末を片手で操作して、戸惑いもなく耳に当てる

 

   

「唯史さん!」

 

 『「慶次か?急にどうした、今から大事な会議なんだが」』

 

「美来が、美来が事故に遭った…血液が足りてないらしい…

 

 唯史さん、美来と同じ血液型だったよな?中央私立病院に今すぐ来てくれ!」

 

 懇願する様に頼み込む天沢に、美来の父親である宝石唯史は狼狽えた

 

 『「美来が事故に…?」』

 

「ああ!美来の血液型は珍しいABRh-だっただろ!?俺の血じゃ合わない!唯史さんは美来と同じ血液型だったはずだ!頼むから、早く来てくれ!!」

 

 『「…」』 

 

「唯史さん!!頼む!!」

 

 

『「…悪い、慶次、大事な会議なんだ…」』

 

「唯史さん!?血縁上は貴方の娘だろ!?馬鹿なこと言ってないで早く来てくれ!!」

 

 『「すまん、慶次…時間だ、切るぞ」』

 

 ぶつ、と切られた瞬間、天沢は地面に端末を叩きつけた

 

 眉間の近くで血管が浮き出ているのを見ると、天沢の怒りが感じ取れる

 

 まあ、しょうがないんだけどな…父親の唯史は、数年前から抗うつ剤を服用しているから、輸血する事自体、無理だし、何より唯史は、美来に自分に汚い血で、美来を汚したくないって思ったからなんて、今の天沢が知ることなんて出来るわけもない

 

 美来は、唯史から見放されたと思っているだろうけど、本当は大切に思われてるなんて露程も知らないだろう

 

 だって、唯史は面倒くさい男

 だから、天沢が唯史に怒りを募らせているのも、全部言葉足らずな唯史のせいだろう

 

 

 天沢が車に乗り込んでいくのを尻目に見て

 気づけば、病院にいた

 

 白く、不気味なほどにシンとした廊下に響く天沢の声と、鼻につんとくる消毒液の匂い

 

 天沢が声を張り上げて、いつもの冷静な姿が微塵もない程、焦っている様子

 

 今にも不安で押しつぶされそうな顔で悲壮そうに看護師の言葉を待つ

 

 

 そして、看護師が何かを伝えると、詰め寄っていた天沢が急に膝をついた

 

 その姿を見て、美来の死が過ぎる

 しかし、天沢のホッとした顔を見て気鬱だったことに気づく

 

「幸いなことに軽い脳震盪と擦り傷で済みましたが、出血が多くて、珍しい血液型だったので輸血もあまり出来ませんでしたが、命に別状はありませんよ…一応念のために検査しますので、本日は入院していただきますが、明日には帰れますから」

 

 天沢は、乾いた笑いを浮かべて、雨で張り付いた前髪を後ろに流すと、看護師が美来のいる部屋へと案内すると言う声に大人しく従っていた

 

 

「美来、意識はあるんでしょうか」

 

「少し前に目を覚ましたんですけど、まだ混乱している様で話しかけてもぼーっとしていましたよ。でもお父さんの顔を見たら安心するんじゃないですかね?」

 

 ニコッと笑うふくよかな体型の人当たりの良さそうな看護師に、天沢は苦い顔をする

 

「ここですよ、個室にはなっているので何かあったらナースコールで呼んでくださいね」

 

 

 あ!面会時間は20時までなので!それまでに受付に寄ってくださいね!と言うと看護師は会釈をして去っていく

 

 看護師の姿が見えなくなると同時に、天沢は部屋のドアを勢いよく開けた

 

 スライド式のドアが、あまりの勢いに少し軋むが天沢は構わず、部屋の中へと進む

 

「美来っ!!」

 

 少し広めの病室は、大きな窓が取り付けられている

 

 窓が開いているのか、爽やかな風が入り込むが微かに雨の匂いがした

 

「美来…」

 

 開いた窓の前に立つ患者衣を纏う美来の姿

 

 細く小さな美来の後ろ姿に、天沢は生きていることを再確認して唇を噛み締めていた

 

「美来…美来」

 

 美来の肩に手を伸ばし、抱きしめようと触れた瞬間

 

 バチンッ

 

「 …美来?」

 

 伸ばした手が弾かれたとは思わなかったのか天沢は目を見開いている

 

 天沢は美来を凝視するが、美来は無言

 

 普段の美来からは考えられないくらい、その顔には表情がなく、いつもキラキラと輝いていた瞳は淀んでいた

 

 

「…」

 

 そして再び、窓の外に顔を向ける美来に、天沢は戸惑いを隠せなかった

 

「美来…具合でも悪いのか?」

 

 行き場をなくした手は、宙に浮かんだまま美来に向けられ停止していた

 

「美来、頼む…私に顔を見せてくれ」

 

 次こそは避けられない様に、両手で美来を背後から優しく抱きしめる甘沢に、美来は体を硬直させていた

 

「…やめて」

 

 

「…え?」

 

 美来は震えながら身動ぎし、必死に天沢から離れようとする

 

 しかし、美来から今まで否定の言葉なんて言われてこなかったせいで、その言葉を受け入れられないでいる様だ

 

「はなして…はなしてください」

 

 

 美来が助けを求める様に外に手を伸ばすと、天沢はカッと顔を赤くした

 

「美来!!冗談はよせ!何があったんだ!?まだ頭が痛むのか?」

 

 美来の肩に手を置いて顔を向かい合わせにするが美来はこちらを見ない

 

 美来は唇を強く噛み締めて青白い顔色で何かぶつぶつと呟いていた

 

「…なん、で、悪い夢なら、覚めてよ…もうあんな思いしたくない…しにたい…もうしにたいよぉ…やっとしねたのに…なんで私…『戻って』来てるの?」

 

 か細い声で呟く美来の声は天沢には届いていない様で、美来の肩を揺すって美来にこちらを見る様何度も声をかけていた

 

「美来、美来っ、ほら…私を見てくれ…」

 

 美来の顔を掬い上げる様に顔を包む

 

 美来は抵抗するが、天沢と美来の体格差では意味がなかった

 

 ばちっと合った視線、美来の喉がひゅっと鳴り、曇っていた瞳が一瞬にして涙の幕を張り、決壊させた

 

 

「っーー〜!!おと、さん」

 

 目を見開いて、天沢を見つめる美来の表情は、とても絶望していて悲しそうで苦しそうで‥嬉しそうだった

 

 そんな顔で見つめられた天沢は、動揺を隠せず美来を抱きしめている

 

 美来が頭を打って錯乱していると考えている天沢は、美来のどんどん青くなっていく顔色に気づく様子はない

 

 美来の表情が強ばり震え始めても、天沢は美来が寒がっていると勘違いして更に抱きしめる力を強め美来の背中をさする

 

 美来は、唇を青くし充血した目で、カタカタと歯を鳴らしブツブツとつぶやく

 

「やめ、やめて、やめてよ」

 

 天沢は、美来の頭を撫でて胸に押し付けるように抱きしめた

 

 そして、美来のつむじに優しくキスをすると、いつも帰宅する美来に対して伝える言葉を口にする

 

 

「おかえり、私の大事な・・・」

 

「オェッッ」

 

 天沢の腕を押しのけて、地面に蹲り手のひらで口元を抑える美来

 

 座り込んだ地面に、失禁したのか水溜りが広がり、着ていた白い患者衣は薄黄色に染まっていく

 

 美来は、必死に口元を抑えて蹲っている

 

 天沢は、間抜けな顔をして美来を見つめると

 

 美来は、糸が切れたかのように崩れ落ちて地面に転がった

 

 意識はとっくになくて、ぶつけたであろう鼻先は赤くなり鼻血も出てきていた

 

 

 天沢は震える指でベッドの上のナースコールを押すことしか、その場では出来なかったようで、粗相をして汚れた美来を抱き寄せ、意識のない美来の肩に顔を埋めて抱きしめていた

 

 

 

 

 

 ★

 

 

 美来は、次の日無事に目を覚まして、天沢と共に家に帰った

 

 昨日のように取り乱した様子はなかったが、天沢に対して‥いや、宝石家に関わる使用人含めて全ての人に対して、よそよそしい態度で目を一切合わせなかった

 

 

 天沢は、何度も美来と話そうと向き合ったが、美来は作り笑いで用事があると逃げ続ける

 

 美来との仲が修復しないまま美来が事故に遭ってから早1ヶ月が経ち、天沢の元に美来の学校から電話がかかってきた

 

 それは、美来の所属する陸上部の顧問の林田からの電話だった

 

 

 

 『「娘さん、退部したんですが、知っていましたか?‥陸上のスポーツ特待生として入学していたんで、このままだと免除されていた奨学金やら諸々、請求される事になるんですが‥まぁ、宝石さんは、そこに関して何も問題ないかとは思いますが‥」』

 

 チクチクと棘のある口調の顧問の女の声に、天沢は唖然としていた

 

 

「やめた?美来が‥?」

 

『「えぇ、いい迷惑ですよ‥宝石さんは、走るのが早いだけで、大した勉学の成績が良いわけでもないのに、容姿は整っている為か人気はあるようですけど、いまの宝石さんは、バイト三昧でクラスメイトとも交流を避けていて空気悪いですし」』

 

「バイト!?」

 

 声を荒げた天沢に、受話器越しの林田が息を呑む気配がした

 

 『「知らなかったんですか?‥もう1ヶ月程経ちますよ?退部したのもバイトを始めたのも‥」』

 

「1ヶ月‥」

 

 ちょうど美来が事故に遭った頃だ

 

『「‥本当に知らなかったんですか‥宝石さん、駅前の本屋でバイト申請出してますよ」』

 

 他にもいくつか掛け持ちしている気配はしますが‥と言う林田に、頭を抱える天沢

 

「…美来と、ちゃんと話し合いをしようと思います」

 

 『「ぜひ、そうして下さい‥そして、陸上部に帰ってくるよう、説得もしてください」』

 

 

 

 天沢は拳を握りしめて、肯定の意を伝えた

 

 

 そして、天沢は電話を切ると、驚くほど冷め切った表情でおもろむに立ち上がると、うっすらとこめかみに血管を浮かび上がらせて玄関へと向かい、眉間のシワを深く刻んで、高層マンションを出た

 

 

 向かう先は、美来がいるであろう駅前の本屋だ

 

 

 最寄駅から2つ目の駅前の本屋に向かうまで、天沢は静かに怒っていた

 

 拳が白くなるまで強く握りしめていたり、歯を噛み締めていたのか、たまにギシッと歯軋りの音が聞こえる

 

 

 駅前につくと、天沢が大股でズンズンと怒気を纏い歩くので、周りの人々は道をあけ、視線を天沢に投げていた

 

 本屋についても然り、店員がニコニコと接客をしていたのに、天沢を見た瞬間に顔は凍りついて、持っていた本を地面に落としていた

 

 天沢はぐるりとあたりを見渡すと、ある一点をガン見した

 

 血走った目で追っている先を見ると、緑色のエプロンをつけてニコニコと接客をしている美来の姿

 

 

 ガリっと天沢は唇を噛み切りながら、人を今にも殺めそうな顔をして美来のもとまで歩いて行く

 

 美来は気付く様子もなく、年配の客に料理本を差し出すと一言二言喋り、レジの場所を教えて送り出している様子だった

 

 1人になった美来を目掛けて歩いていく天沢よりも、早く美来に話しかけた男がいた

 

 

「…鮫島…」

 

 

 スポーツ刈りの厳つい顔をした男に見覚えがある、濃く刻まれた眉間の皺を少し和らげて、鮫島と呼ばれた男を見た天沢

 

 

 鮫島に対して美来は、少し困ったように笑いながら話していた

 

 鮫島は厳つい強面の顔だが、心配そうに美来に何か言っている

 

 美来は、それに相槌を打ちながら手元にある紙のブックカバーを作っていた

 

 その様子を、鮫島は不服そうにして、美来の手首を掴んで中断させている

 

 天沢は、先程から棒立ちで動こうとしない

 

 近づいてくれないと、2人の会話さえ聞こえないのにピクリとも動かないのだ

 

 

 2人が話している様子を見ていると、だんだんとヒートアップしているようだ

 

 鮫島がスマホを取り出して何か言うと、今まで無関心そうだった美来が取り乱している

 

 鮫島が耳にスマホをあてると、美来は鮫島のスマホを奪い取ろうと、手を伸ばすが190センチあるだろう鮫島と、160にも満たない美来とでは軽くいなされて終わりだった

 

 

 ピリリリリリ

 

 天沢のスマホの着信音が鳴り響き

 

 やっと天沢が反応した

 

 ゆっくりとした動作でスマホを取り出し、耳に当てる

 

 

 今、目の前で鮫島が耳にスマホを当てている姿とシンクロした

 

 

「…鮫島」

 

 

『「おい、天沢…お前の娘…反抗期だぞ、なんとかしろ」』

 

 ハスキーな低音の声の持ち主は、今目の前で美来と話している鮫島のものだった

 

 

「あぁ、わかってる…ちゃんと話し合うつもりだ」

 

 『「…頼むぞ…、生徒指導の立場から見ても、今の宝石は危ねぇからな…いろいろと」』

 

「…あぁ、ごめんな…あとは私が引き受ける」

 

 

 再び歩き出した天沢は、耳からスマホを離し、2人の視界に入る位置に来た

 

 

 天沢の姿を見た鮫島は、鼻で笑うと、美来の肩にポンと手を置いた

 

 美来は、ビクッと震えて

 

 天沢から顔を背ける

 

 

「美来…ちゃんと説明してくれ」

 

 美来は顔を背けたまま何も言わない

 

 

「美来っ!!」

 

 珍しく天沢が声を荒げると、美来は肩を跳ね上げて下唇を噛んでいた

 

 

「…宝石、そろそろ観念しろ…最近のおまえ、変だぞ」

 

 鮫島が美来を諭すように言うと、美来はグッと押し黙り沈黙を貫いている

 

「……唯史さんに、報告しないとな」

 

 その言葉に、バッと顔を上げる美来

 

「…やっと、目が合ったね」

 

 悲しそうに微笑む天沢に、美来はバツが悪そうに歯噛みする

 

 

「…今、仕事中だから…仕事終わったら…ちゃんと話します」

 

 消え入りそうな声に、天沢は悲しそうに眉間に皺を寄せる

 

 天沢が口を開こうとすると、鮫島が制止する

 

「…わかった、仕事終わるまで待ってるからな、ちゃんと話せよ」

 

 頭をぐしゃぐしゃと雑に撫でる鮫島に、天沢がグッと拳を握りしめていた

 

 

「…ほら天沢、いくぞ」

 

 

 鮫島が無理矢理引き摺るように天沢を連れて行くので、美来の様子をみていたかったがしょうがなく離れる

 

 


 連れてかれたのは近くのカフェで、鮫島が勝手にブラックコーヒーを2人分注文していた

 

 コーヒーが来るまで、2人とも無言で、コーヒーがついても鮫島はボーッとしてコーヒーをすすっているだけで、会話がない

 

 

「…久しぶりだな」

 

「…あぁ」

 

 あったとしてもこんな感じだ

 

 

「…美来の学校で教師してるのは知ってたが、まさかお前が生徒指導なんてな」

 

 ハッ、と鼻で笑う天沢に、鮫島はため息をつく

 

「…そう言うお前は、血の繋がらない娘を溺愛して、昔の見る影もないな」

 

 受け皿に置かれたシュガースティックの端を弄りながら会話のキャッチボールをする2人

 

 

「…宝石と、なんかあったのか?」

 

 急にトーンが落ちて、鮫島の視線が天沢を貫く

 

 天沢は、鮫島を見ると息を吐いた

 

「私が…聞きたいよ…美来に何があったのか…」

 

 

「…お前、本当に変わったな」

 

 感慨深そうに鮫島は天沢を眺めて、眉毛の横をかいた

 

 そして、2人はその後も一言二言交わせたが、会話のキャッチボールはその度に途切れる

 

 

 鮫島と天沢の関係を一言で表すなら、元親友同士…がしっくりくるだろう

 

 小中高、一緒の幼馴染で柔道部の主将と副主将でずっと一緒にいた

 

 天沢が宝石家に行く事で一悶着あり喧嘩別れし疎遠になったが、喧嘩するまでは相棒同士と言っても差し支えないくらいには親しかった

 

 

「…お前にとって、宝石はそんなに大事か?

 

 血の繋がりもないのに」

 

 鮫島が吐き捨てるように言うと、天沢は乱暴にコーヒーカップを受け皿に置いた

 

 がしゃん!っと軋む音が鳴り近くにいた店員がビクッと肩を震わせて驚いている

 

 

「…」

 

「…なんだよ…文句があるなら言えよ…前みたいに」

 

 

 沈黙があたりを包み、天沢は静かに鮫島を睨む

 

 

 そして、天沢が口を開いた瞬間、スマホのアラーム音がけたましく鳴り響く

 

「…美来の退勤時間だ」

 

 天沢は苦い顔をして伝票を引っ掴むと会計へとスタスタと歩いていく

 

 鮫島は、今日何度目かわからいため息を吐き天沢の後を追った

 

 

 

 

 場所は変わって、先ほどのチェーン店とは打って変わって、高級感あふれるホテルのラウンジ

 

 席に着くと、天沢はすぐにメニューを開いて美来に差し出す

 

 

 

 

「美来…お腹減ってないか?夕食はまだだろ?」

 

 鮫島と相手していた時とは打って変わって、優しく美来に話しかける天沢に、鮫島はうげっとした顔で顰めっ面をしている

 

「…食欲ないので」

 

 顔色の青い様子で、俯く美来を心配そうに見つめる

 

「…宝石…お前、昼も食ってないだろ」

 

 鮫島の言葉に顔をバッと向ける天沢

 

「お前、休み時間になると机に伏せてずっと寝てて飯食ってないってクラスの奴らから聞いたぞ…」

 

 その言葉に天沢は美来に詰め寄る

 

 美来は、後退りするがすぐに天沢に捕まり両肩を掴まれる

 

「美来…どうしたんだ、本当に‥…最近は、家に帰ってもすぐに風呂に入って寝るだけだ夕食もまともに食べてないのに…朝だって…」

 

 掴んでいた肩の薄さに天沢は目を見開く

 

「…美来、頼む‥…私を見てくれ…何かしたなら謝る」

 

 天沢の向かいに座る美来は、街頭に照らされた道路をぼーっと眺め、口を小さく開いた

 

 

「ー、、、、家を出たいの…、お金を貯めて、出ていきたい。」

 

 

「…っ、そんなにも父親が…実の家族が嫌いなのか?」

 

 天沢の問いに、美来は答えない

 

 美来が逃げないように隣に座っていた鮫島は、机に肘をつき美来を見ると口を開いた

 

「…世間知らずなお嬢様は、知らないんだろうが、未成年のうちは20歳未満の未成年は民法で親権者の同意がなければ契約行為全般を行うことができない、仮に契約できたとしても親権者が同意していないと主張すれば契約自体を取り消せると定められている…言ってる意味、わかるか?」

 

 淡々と責め立てるように美来に向かって言い放つ鮫島に、美来は表情を変えない

 

「…わかってる」

 

 美来は、カバンから分厚いファイルを取り出すと机に置いた

 

「だから、色々考えた」

 

 ファイルの中には、予算表のような物が書かれていて、内訳は航空券や、語学学校の入学費、3ヶ月分のホームステイの費用とそれ以降のマンションのレント料

 

 もろもろ含めて初期費用で300万強…。

 これくらいなら、美来の小遣いでも賄えるくらいの金額だが、美来は、全額バイトをして補填しているのなら、時給がよくても貯めるにはかなり時間がかかるだろう

 

「美来…、留学に行きたいなら言ってくれれば、私だって準備したのに…留学費用だって、美来が一銭も出す必要ないんだ…美来は一生働かなくても私が養ってあげるから…なにも心配しなくていいんだぞ?」

 

 天沢が気味が悪いほど猫撫で声で美来を宥める

 

 ぼーっとした美来の顔を街灯が照らす 

 

 そして、緩く俯くと消え入りそうな声で呟いた

 

「…離れたいの…貴方からも」

 

 空気が冷たく凍てついた

 

 美来の言葉に天沢は声にならない声で口をパクパクさせていて、鮫島も頭を抱えていた

 

 美来は話は終わったとでもいうように、席を立つ

 

「言ったでしょ、離れたいって…今はまだ完全に離れられないから…成人するまでは物理的に離れるだけにする…でも留学費用は自分で工面するから…」

 

 

 スッと立ち上がった、スカートから覗く美来の脚は、少し前までは健脚と言われるくらいには筋肉がつき曲線美が綺麗だったのに今では、皮と少しの肉と骨だけなくらい、痩せ細っている

 

 制服の襟元から覗く首も折れそうなほど細く、日焼けして健康的な肌色だった顔色も、今では青白く病的だ…

 

 

「美来…?美来、良い加減にしないと、怒るぞ…」

 

 汗を垂らしながら瞳孔を開いて悲しそうに動揺を見え隠れする天沢に、美来は目を向けない

 

 

「…どうせ、また忘れるんだからいいでしょ…」

 

 きゅっと噛み締めた唇は、白く、以前までの桃色ではなかった

 

 悲しそうに眉間に皺を寄せる美来に、天沢は手を伸ばす

 

「…っ、やめとけ」

 

 

 絞り出したかのような悔しそうな声色

 

 深く刻まれた眉間の皺は彫刻のように鋭利に刻まれ、その下に位置する瞳は、美来に向いていた

 

「お前は、たしかに問題児だ。

 数学の成績は悪くて補修も逃げていた…走るのが好きで廊下だって関係なくいつも走ってた、校庭に逃げた鶏を追いかけて備品を壊すくらいには騒がしくて、問題児だった…でも、お前はそれ以上に良い奴ってのも周知の事実だ…、いじめっ子を懐柔して、いじめを無くしたり、不登校の生徒を根気強く説得して学校に復学させたり、怪我した部員のために大会だって優勝したっ、お前は良い奴だ…

 

 だからどうしても理解出来ないんだ…

 

 お前は優しい奴だって知ってる…なのに、なんでっ

 

 

 

 なんで、お前が1番可愛がってた…飼育小屋のうさぎを殺した」

 

 鮫島の目は強く鋭かったが、その奥には畏怖の色が見え隠れしている

 

 

 呆然とする天沢とは対称に、美来は張り詰めていた表情を少し緩めた

 

「…うさぎ…みるくの事、だいすきだった…1年生の頃から…赤ちゃんの頃からお世話してたんだもん、雪みたいにふわふわで牛乳みたいに真っ白…、黒い目は大きくて…可愛いくて…懐かない動物って知ってたのに、みるくはいつも私が来たら寄ってきてくれた…

 

 

 

 だいすきだった」

 

 柔らかく緩やかに微笑む美来に、天沢も鮫島も渋い顔をして美来を凝視している

 

 美来は、色味を失った頬を少し上気させ、思い出すかのように胸に手を当てた

 

「そんなに可愛がってたのに…いったいどうして…」

 

 理解できない、と思っているような顔をして鮫島は悲しそうに眉間の力を緩めた

 

 そんな鮫島に、美来はぽろぽろと涙を流し始める

 

 胸元の手をきゅっと握ると鮫島を見て口を開くと

 

 

 美来を纏う空気が一変した

 

「だいすきだった…だから、しんじゃうなんて、いやだった、わたしのせいで…みるくはしぬのなんて、もうみたくないっ、だからっ、だから…あんなに痛い思いしてしんじゃうくらいなら、わたしがっ、わたしが痛くないように死なせてあげようって…、みるくが寝てる間に…意識がないあいだにね、小さなふわふわの頭を大きい石で叩き割ったんだ…一瞬で死ねるように、思いっきり叩いたの…血がたくさん跳ねて、たくさん掛かったけど、みるくの血だから気にならなかったんだ」

 

 ぼろぼろと大粒の涙を絶え間なく流す美来に、冷や汗を額に浮かばせた鮫島は頭を抱え俯いていた

 

「……、…宝石…お前、まじでおかしくなってるじゃねーか…」

 

 失望したように顔を青くさせ悲壮な顔をしてブツブツと呟く鮫島とは反対に、天沢は泣いている美来を抱きしめようと立ち上がっていた

 

「美来、辛かったな…でも大丈夫だ、ちゃんとお医者さんに診てもらおう、そしたらまた元通りになる、今からでも知り合いの精神科にでも行こう、さあ」

 

 自分が一番の理解者だとでも言うように口元に少し余裕の笑みを浮かべ美来の肩に手が触れた瞬間、弾かれたように美来はガクンっと膝から崩れ落ちた

 

「美来!?」

 

 呼吸が浅くなり顔色が白を通り越して青い

 

 カタカタと膝を震わせてか細い声で天沢を拒絶する

 

 

「…触らないで、お願いだから」

 

 先程まで泣いていたとは思えない様子でキッと目を釣り上がらせ、天沢を押し退ける

 

 そして,自分の手のひらを見て、ショックを受けた顔をして悔しそうに目を細めた

 

 そして、美来の言動にたった今ドン引きしているであろう鮫島に向けて、薄く深く呼吸をして喉がひゅっと鳴ったかと思えば、口を開いていた

 

「…先生、おかしくなってるの自分でもわかるよ…

 

 でもね、私には時間がないから…お願いだから邪魔しないで」

 

 くしゃっ、と泣きそうな顔で美来は鮫島を見る

 

 鮫島は、少し赤くなった目で美来を見やる

 

 探るような疑うような眼差しだ

 

 それもそうだろう、可愛がっていたであろう生徒がいつのまにか頭のおかしい言動をとって失望したばかりなのだ、すぐにやっぱりおかしくなんてなかったとは言い切れないだろう

 

 それでも鮫島は、静かに諭すように美来の目を見て言った

 

「…天沢たちから離れる事で、お前は幸せになるのか?」

 

 その言葉に、美来は迷子の子供のように寂しそうに顔を顰めた

 

 そして、涙まじりの声は震えている

 

「…わかんない、でも今のままじゃ…わたしっ…!」

 

 

 悲鳴を押し込めるように俯く美来

 

 そんな美来の様子を、鮫島は一つ頷いて、掠れた声で言う

 

 

「うさぎを殺した事は、もう弁明が出来ないし、弁明する気もないだろう…部活だって退部したようなものだし、この間のテストも全部白紙で出していた…学校側は見切りをつけるかもしれない、それが学校の決まりだからだ…でもな、俺を含めほとんどの教師がお前を待ってる…宝石美来を待っている…お前は自分が思っている以上に…好かれてるって事を忘れるな」

 

 鮫島は席を立ち上がり、美来の頭を乱雑に撫でると胸ポケットから取り出した、赤と金の紐が組み込まれたMのイニシャルがついたミサンガ

 

「…みるくの小屋にあった…これ、宝石のだろ…前に無くしたって騒いでたから覚えてる」

 

 目を見開いて食い入るように見つめる美来

 

 震える手のひらに乗せると、美来は大切そうに両手で包み込み胸に押し付けていた

 

 

「…ありがと、せんせ」

 

 唇を噛み締めて笑顔を押し込めて俯く美来は、ぎこちなくだが…久しぶりに本当の笑顔を見せた

 

 

 

 

 

 

 その後,鮫島と分かれた美来と天沢は、無言のまま家へと着いた

 

 気まずい空気と、美来の青い顔色

 

 抱きしめたい気持ちをグッと堪える様子の天沢

 

 

 マンションのフロントに着くと、軽く人集りが出来ていて騒々しい

 

 いつもの活気のある賑やかさではなく、雰囲気の悪い騒がしさに、顔をしかめた天沢は、近くにいた運転手の内田を呼び止める

 

「なんだか騒々しいけど、なにかあったんですか?」

 

 内田は、普段は穏やかなそうな顔をめずらしく険しく曇らせていた

 

「…旦那様がな、再婚するって急に子連れの女を連れてきたんだよ…あんまりにも急だったもんで、天沢くんに報告すべきなのかもう伝わってるか話し合ってたんだ」

 

 再婚、の一言に天沢は顔を歪めた

 

「唯史さんが.........再婚?」

 

「あぁ、いま客間に揃ってて何か話し合ってるみたいだし、天沢くんは美来ちゃんを連れて部屋に戻った方がいいぞ、きっと」

 

 

 こそこそと声のトーンを下げる心配そうな顔をする内田の視線の先は美来だった

 

「旦那様も、色々考えての事だろうけど、美来ちゃんが今あんな状態なのに…何を思っての行動なのか…」

 

 

 哀れみの色を浮かべた瞳は、心から美来を心配してのもので、天沢はグッと拳を握った

 

 

「美来…、部屋へ行こう」

 

 美来へ近づき、手を差し伸べたが、美来は天沢の声をも聞こえていないとでも言うように、スッと通り過ぎると、一直線へと向かう先は『客間』へと足を進めていた

 

 天沢は慌てた様子で美来の背を追う

 

「美来っ!!」

 

 早足でスタスタと歩く美来は、天沢の呼びかけには答えず、大きな客間のドアを乱暴に押し開けた

 

 

 ドアの作りがいいにしろ、あんなに乱暴に開けられたせいか、こころなしか少し軋んだ音がした

 

 開かれたドアの奥に見えたのは、数人の人影で見覚えのない顔が2つとよく見知った顔が3つ

 

 

 天沢が美来に駆け寄り顔を覗き込んだので、俺も美来の顔をみた

 

 美来は大きな瞳がこぼれ落ちそうなくらい目を見開いていた

 

 口をパクパクあけて顔色は青い、わなわなと震え後ずさる美来の視線の先は、見知らぬ二つの顔

 

 母子だろうか、まあまあ整った見た目と金をかけているだろう装飾品や濃い化粧

 

 母親であろう女は真っ赤なルージュを引きアイホールはボルドー色で毒々しい、顔の作りが派手な為、似合ってはいるが好感は持てないし、余裕を含み微かに上がった口角は、美来を品定めするように軽く口を窄めていた

 

 娘も同様に、愛らしい顔立ちはしているが母親に似て、美来を見下しているような顔で腹が立つ

 

「美来?どうしたんだ?早く部屋に戻ろう…美来?」

 

 ふー、ふっー、と荒めの呼吸と血走った目、眉間に皺を寄せ、唇を噛み切ってもなお噛み締めて何かに耐える姿

 

「はやすぎる…だって、まだ1ヶ月あるはずなのに…」

 

 消え入りそうな美来の声を拾えたのは何人いたのか

 

 俺だけかもしれないし、天沢にも聞こえてたかもしれない…

 

 天沢が驚いた顔をして美来の肩に手を置く

 

 そしたら、美来の正面にいた六つ上の兄が急に驚いた顔をして右手が不自然に突き出された

 

 

「っ、美来?」

 

 久しぶりに聞いた、美来の兄の声に、こんな声だったかという感想しか出てこない

 

 父親と瓜二つの顔は流石に整っているが、父親よりは優しそうな雰囲気で、弟の方が父親の雰囲気そっくりだ

 

 そんな弟も兄と同様に驚いた顔をしていて不自然だし実父の唯史も苦い顔をし始めた、本当にいきなりなんなんだ?

 

「美来、なんで」

 

 なんでそんなに泣いているんだ?

 

 その言葉に、俺は美来の顔を覗いた

 

「っ、゛う、ぅ、、っ〜ーっ!!」

 

 ボロボロと大粒の涙が洪水のように溢れ出て頬を伝ってカーペットに落下し染み込んだ

 

 子供のように大泣きする美来に、その場にいた全員が言葉が出ずにオロオロと狼狽え、美来は泣き喘ぎカーペットに染みを増やしていた

 

 そして、耐え切れなかったのか性悪顔の母親が困惑した顔で美来を見て言った

 

 

「ちょっと、具合でも悪いの?」

 

 

 その言葉は、思ったよりも優しい声色で、普通に美来を心配しているような声だった

 

 しかし、その声に弾かれたように顔をあげた美来は、キッ、と性悪顔の母親と娘を睨みつけると

 

「っ、だいっきらい、あんた達なんて、っ、認めないっ!」

 

 大粒の涙を頬に伝わせて震える唇から発せられた怒声にも似た叫びは悲壮感に満ちて、美来は顔をくしゃっと歪ませると天沢の手を振り解き

 

「っ!!美来!!」

 

 天沢の手を振り解き、制止の声をも無視して駆けた

 

 天沢はぐっ、と歯を食いしばり、逃がしてなるものかと間も置かずに背中を追った

 

 短距離走も得意な美来は、一般的な男の脚力では追いつくのは難しいだろうが、天沢は運動神経も良ければ足も長い

 

 それに、最近はまじめに部活に行ってない美来に天沢は追いつけない訳がなかった

 

 美来が乗り込んだエレベーターのドアが閉まる直前に、天沢は手を伸ばし指を滑り込ませた

 

 ガンっ!!と音が鳴り、エレベーターのドアはセンサーが反応したことで素直にドアを広げた

 

 

「っ、美来、美来…美来」

 

 美来の名前しか呼ぶ術を知らないとでも言うように、名前を連ねる天沢

 

 エレベーターの中でぐしゃぐしゃになった顔で見上げる美来と目が合うと

 

 美来の涙腺は再度決壊し、天沢へと両手を伸ばした

 

 

 天沢はその両手をすぐに受け入れ美来の背中に手を回し抱きしめた、そして、今まで触れられなかった分を補うように、美来の頬や髪、おでこにキスを何度もした

 

 美来はボロボロと泣くのをやめずに天沢にしがみつき、声を上げて天沢を求めた

 

 

「っ、やだ、やだよぉ、もうお父さんに捨てられたくなぃぃいい〜っー!!あたしのおとうさんだもんっ、あたしのだぁっ〜ー!」

 

 その言葉に天沢は嬉しそうに頬を染めて何度も頷き、美来を抱きしめる腕に力を込めた

 

「捨てないよ、捨てる訳ないじゃないか」

 

 

 美来の顎をすくって目を合わせる天沢に、美来は悲しそうに顔を歪めた

 

 微かに顔を左右に振って、吐き捨てるように

 

「っ、うそつき」

 

 

 とだけ呟いた

 

 

 それからは、天沢に抱き上げられたまま、天沢と美来の過ごす部屋まで戻っていった

 

 その様子が、とても痛々しくて苦しくなるのは何故なのか、俺には理解しようがなかったのだ

 

 

 だから、次の日‥美来が忽然と姿を消して行方不明になったのだって理解しようが、ないに決まってる

 

 そうだろ?だって俺はただの『視点』でしかないんだから

 

 ただの傍観者でしか‥‥

 

 


 味覚なんてあるはずないのに、なんでか口の中で鉄の味が広がった

 

 それからの視点は朧げで

 

 天沢の見ている範囲でしか動けなかった俺の行動範囲は、少しずつ広がり、天沢が美来に固執していくに連れて、俺を縛った鎖のようなものが少しずつ解かれていくように感じる

 

 ぼんやりとした視点で、誰の視点にもいられないまま、時間は巻いた‥美来がいなくなって、1日、一週間、1ヶ月が馬鹿みたいに早く巻かれた感覚だった

 

 それなのに、この1ヶ月で起こった出来事は鮮明に記憶にある

 

 記憶の中には初めての光景なのに当たり前のようにそこに居座る記憶に『昔』感じた事がある悪寒が蘇り嫌気しかしない

 

 

 天沢の視点を外れて、父親である宝石 唯史の視点は記憶の割合の大半を占めていた、そこには俺が知っている娘に対して無関心な男の姿ではなかった

 

 

 美来がいなくなって、時間が経つにつれて焦燥と心配でやつれていき今まで常服していた精神安定剤の量が増え仕事にも支障をきたす程、弱った姿に成り果てていた

 

 俺は、無いはずの手を伸ばし唯史に触れた

 

 

 触れたであろう掌から色んな感情が俺の中を押し寄せてくる

 

 初めに感じたのは、『後悔』‥妻を…美来の母親を亡くした時、悲しんでいる子供達に向き合えず、悲しんでいる息子達には悲しみを忘れられるように後継者としての教育を唯史自ら教えた、幼い息子二人だったが唯史と似た思考の二人は悲しみを忘れられるように教育を進んで受けたし、父親が毎日手ずから教えた事で父親への信頼と愛情を保てていた

 

 しかし、美来へは…何もしてあげられなかった事へ、唯史は強く後悔していた

 

 息子達とは違い、天真爛漫で本を読むよりも外で走り回る事が好きだった美来に、唯史は何をしたらいいかわからなかったんだ

 

 泣くのを堪えて俯く息子達とは違い、感情の赴くままに声を上げて泣いている美来に、どう声をかけていいかわからなかったんだ

 

 そして、そのまま時間が経ち、天沢が現れた

 

 自分が美来にしてあげられなかった事を一瞬にしてしてあげられる、空っぽの愛情の箱を満たしてみせた天沢に対して複雑な感情が渦巻いていた唯史は、それでも少しは父親として美来に向き合おうとしていた

  

 そう、美来から天沢を『お父さん』と呼ぶ事を許可して欲しいと言われるま では

 

 それまで辛うじて保っていた、『父親』としての自尊心を打ち砕かれ、唯史は蓋をした

 

 美来を愛してはいけないと、父親として美来を想ってはいけないと、無意識に蓋をした

 自分にはそんな資格がないと決めつけたのだ

 

 

 

 美来が歳を重ねるに連れて、美来の成長を記録した写真が増えていくのが唯史は1番嫌いだった

 

 だって、隣にいるのは『父親』であるはずの自分ではなく『お父さん』の天沢だったから

 

 

 この気持ちに気づかないフリをして、唯史は美来を視界から消した

 

 

 視界から消していたのに、塞いでいた筈の蓋がいつの間にか壊れていた

 

 唯史は、知り合いの警察庁の偉い奴に大規模な捜索をするように頼み、大枚を叩いた

 

 唯史自身もよく回る賢い頭で常にパソコンの前で美来に関しての情報をかき集めていた

 

 見ているこっちが心配になるくらい唯史は美来の捜索で何日も寝ていなかった

 

 

 唯史と一緒にいる記憶が多く、自ずと情が湧いていた

 

 美来も唯史と向き合っていたら、もう少し分かり合えてたかもしれないな、なんて今更思ってしまうんだ

 

 

 美来の成長していく姿を天沢と一緒に美来の隣で見てこれたかもしれない

 

 だから、こそ俺は悲しい

 

 押し寄せた『後悔』を胸に残して、俺は唯史から手を離した

 

 そして、また時間は巻かれて

 巻かれたのは数週間程で…俺は目の前の光景に愕然とした

 

 気づいたら唯史が、再婚相手の性悪顔の女を殴っていたからだ

 

 天沢もいて、怒りの顔つきで額には血管が浮き出ていた

 

 

 本来なら理解が追いつかなくて慌てていただろうけど、巻かれただけで、一連の騒動の詳細は記憶には存在していた

 

 そういえば…

 

 この性悪顔は、美来が居なくなってすぐに階段から落ちて頭を打って少しの間入院していた…はずだ…

 

 退院してからは、人が変わったように常に怯えた顔をして唯史とは別にだが美来を探していたのが記憶にはある

 

 記憶にある怯えた顔とはまた別に、今目の前で殴られて鼻血を出している性悪顔の表情は、意志の強い『母親』とでも云うような顔だった

 

 そして、唯史に対して歯を剥き出しにして吠えるように言った

 

「あの子のこと、大事なら大切なら、もう関わらないであげて…!」

 

 涙声混じりの声に、天沢が歯軋りをするのが見えた

 

「お前に何がわかるっ、早く美来の居場所を教えろ!!」

 

 

 記憶を見返せば、唯史達が調べた事で、美来が居なくなってから数日間はネカフェで過ごした形跡があり、その後の形跡が掴めず、唯史が裏のツテで調べると、性悪顔が美来と接触し何処かへ連れ去ったとの垂れ込みがあった

 

 それを確認する為に、性悪顔を呼び出すと、あっさりと白状したのだ、美来が持っていた亡き母の形見であるルビーの指輪を差し出して言い放った

 

「あの子は、もう戻らないわよ」

 

 その言葉で、唯史は殴ったのだった

 

 

 女は鼻血でカーペットを汚しながらも強気な目で天沢を貫く

 

「渡さないわ、貴方には絶対」

 

 その言葉に天沢の額に浮かんだ血管が弾けた

 

「『俺』はっ!!あの子の父親だ!!!」

 

 天沢の割れるような怒鳴り声に、性悪顔は睨むように唇を噛み、唯史も拳を握り締めていた

 

「捨てたのは、貴方じゃない『今』も『昔』もっ!!」

 

 悔しそうに言い放つ性悪顔に、違和感を感じた

 

 頭を打ってから、性悪顔は変わった

 

 

 事故に遭った後の美来の様に、何かを『思い出した』かのように、変わった

 

 喉に支えた小骨のように、むず痒い気持ちになる

 

「あの子、もう貴方達といたら不幸にしかならないわ…お願いだから自由にしてあげてっ」

 

 懇願するようなか細い性悪顔の声に天沢の激昂は止まない

 

「お前に何がわかるっ!!美来のっ!!なにがっ!!」

 

 

「全部よ…

 


 今のあの子と、私は一緒だもの…今の何も『知らない』貴方達よりは知ってるわ」

 

 静かに続ける性悪顔は、天沢を見て苦しそうに言った

 

「あの子は、貴方にだけ愛されていれば幸せだった‥…なのに、貴方は捨てたのよ、あの子を」

 

 ぼろっと、流れた涙は頬を一度バウンドすると鼻血が落ちたカーペットに吸い込まれた

 

 天沢は今にも性悪顔を殴りつけそうな勢いのまま拳を握り込んで耐えていた

 

 唯史は俯いたまま、掠れた声を絞り出し性悪顔に向き直る

 

「美来は…今どこに…」

 

 

 性悪顔は、息を吐くと

 

 ニヒルに笑った

 

 

「さあ、どこかしら」

 

 持っていたルビーの指輪を地面へと放り投げると、ヨロヨロと不安定な足取りで背を向ける

 

 

「知りたいなら…『頭』でも強く打つける事ね……、

 

 まあ、後悔したく無いなら辞めとくべきだけど…」

 

 そう言って性悪顔は、何処かへと消えた

 

 

 尾行させていた探偵すらも撒いて、連れ子だけを残し、宝石の家から消えたのだった

 

 

 

 その日から、唯史も天沢も荒れた

 

 美来への唯一の手がかりをみすみす逃してしまったせいもあり、2人は寝る間も惜しんで探索に駆り出している

 

 美来がいなくなって2ヶ月が経った頃には、待ち切れなかった2人は車を走らせ美来を探していた、そこには主従関係は既に存在せず、一つの目的の為に協力し合うに過ぎなかった

 

 

「…久しぶりに、こんな酷い天気だな」

 

 横な振りの大粒の雨がフロントガラスに叩きつけられ、ワイパーは何度も水を弾き飛ばすが次々に視界は雨粒で遮られていく

 

「…こんな大雨、美来が事故に遭った時以来だ」

 

 天沢が淡々と喋りながら運転する中、助手席に座る唯史はパソコンと向き合い反応を示さない

 

「…唯史さん、…あの女が言っていた『今回』とか『前』…って、なんなんだろうな…」

 

 

 キュッキュッとワイパーの音が鳴り、唯史はパソコンをパチンっと、閉じた

 

「…美来も、あの女も…事故に遭ってから、おかしくなった…

 

 それにあの女、知りたいなら頭を強く打つけろなんてな…

 

 

 

 

 慶次…、お前、美来を愛してるか?」

 

 

 唯史の言葉に、天沢は当たり前だとでも言うように

 

「あぁ、もちろんだ」

 

 と言い放つ

 

 

「それは…家族としてか?…」

 

 

 ブォン!!

 

 天沢が持つハンドルが大きくブレた

 

「っ!!

 

 唯史さん、急にどうしたんだ?‥…当たり前だろ、美来のことは娘として愛してる」

 

 早口になりながら言い放つ天沢に、唯志は俯いた

 

 

 

「…じゃあ、腹‥くくれよ」

 

 グッ

 

 

「唯史さん!?何してっ!!」

 

「っ、美来に何があったか知りたいなら、しっかりアクセル踏んどけっ!!」

 

 唯史は天沢の握るハンドルを掴むと天沢の焦った声を無視して、思い切りハンドルを左へと振り切った

 

 

 そして、左に急カーブした車は加速した状態でガードレールを突き破り、大きな音を立てて崖から落下していくのを、いつのまにか外にいた俺は眺めていた

 

 目の前でひしゃげた車の先頭と白い煙が大雨でかき消されながらも申し訳程度の火が揺らめいて、凹んだボンネットに水たまりができ始めた

 

 二人の安否なんてこの場所からでは確認しようもなく、後ろから引きつけられる引力に俺は吸い込まれる感覚に陥ると視界が回った

 

 

 

 そして、また時間は『巻いた』んだ

 

 

 

 次に気づいたら、そこまで日は経ってなかった

 

 

 唯史と天沢が事故に遭ってから一週間くらいで、2人が意識を取り戻した所からだ

 

 

 

 予感はしてたが、2人ともおかしくなってた

 

 天沢は点滴を引き抜いて壁に頭をガンガン打ち付けて傷が開いたのか夥しい量の血が出ても打ちつけるのをやめないし、唯史はボーッと口を開けたまま天井を見上げて、今まで妻が死んだ時でさえ泣かなかった唯史が、絶え間なく涙を流し続けていた

 

 

 

 2人ともぼそぼそと、美来の名前を口にするだけで看護師や医者から何を言われても会話にすらならなかった

 

 

 

 俺は、迷った

 

 

 2人に触れれば、俺も『前』

 の記憶が見られる

 

 でも、同時に怖かった

 

 体のない俺が、何を怖がってるのかなんて見当もつかない

 

 俺は誰でもない誰かの視点で、真実を知るのが使命なら、怖がってなんていられないし、知る資格がある

 

 だから、もう巻きたくない

 

 ちゃんと見たい

 

 

 

 俺は、別々の部屋にいる筈の2人の背中に向けて枝分かれした左右の手で同時に、触れた

 

 

 冷たくて、熱くて、苦くて辛くて、胸焼けするほど甘い、そんな記憶が身体全身に溶け込んで、俺の全部に行き渡った時…




 これが俺の…いいや俺たち全員の『2度目』 の人生だと思い出したんだ

 

 

 キラキラと弾ける視界の奥で過去の記憶を蘇らせた…

 

 

 そうだ…俺は、もともと美来の側にいた…

 

 美来の感情を本心を読み取って美来の人生を一緒に歩んでいた

 

 今思うと、あの日からだ…

 

 美来の事故に遭った日の朝の光景と、『似た』光景が頭を占めた

 

 そして、『今回』との違いを思い出す

 

 美来が忘れた体操着を天沢が最上階へ取りに行こうとした日

 

 あの日、本来なら美来が体操着を取りに行くはずだった…

 

 天沢ではなく美来が…

 

 

 リビングにあるであろう体操着を取りに最上階に向かったあの日、父親の唯志と居合わせてしまった美来は気まずそうに会釈をするだけで、そそくさと部屋を後にしようとしていた

 

 それを止めるように、珍しく唯志の方から声をかけた

 

「美来…その…元気だったか?」


 しどろもどろに話しかける唯志に、美来は愛想笑いで誤魔化す

 

「はい、元気です…あはは、…学校遅刻しちゃうので、行きますね」 

 

 他人行儀にそう言って体操着の入ったカバンを引っ掴みパタパタと去ろうとする美来の手を、いつの間にか近づいていた唯史が握っていて

 

 美来は驚いた顔で狼狽えていた

 

 唯志も己の取った行動に驚いたようで、あ、とか、う、とか言って言葉をゴネいている

 

「…今日は、私が学校まで送ろう…」

 

 照れ隠しなのか咳払いをして顔をそらす唯志の耳はほんのりと赤い

 

 ほんの少しの期待を込めて、薄めで美来の様子を見た唯史

 

 しかし、そんな淡い期待を美来は気にも留めずに振り払った

 

「いや、大丈夫です」

 

 他人事のように、美来は考える素振りすら見せずに唯史とは別のベクトルで顔を逸らし苦笑いしながら会釈をすると足早に出て行く様子を唯史は目を見開いたまま、開かれた扉が、パタンっ、と音を立てて閉まるまで唯史は放心状態で美来の出て行った扉を見つめている

 

 あからさまな拒絶にショックを隠せない唯史は、近くのソファに腰を落として、美来の体操着が入ってた鞄が置かれていたであろう場所をそっと撫でた

 

 

 

 美来は、その後エレベーターに乗り込んだ

 

 閉まりそうになったエレベーターに足を抉じ入れて無理やり開けたら、二つ下の弟がいるのに気づく…

 

 不愉快そうに美来を見下す弟に、美来はあからさまに嫌な顔をするが、すぐに弟を視界から消してエレベーターの隅に身を寄せて出来るだけ距離を取っていた

 

 そしたら弟が美来に話しかけて来たんだ

 

「…それ洗ってんの?」

 

 それ、と指さした先には、カバンから飛び出た体操着の一部

 

 美来は、引き攣った笑顔で嫌々口を開いた

 

「毎日洗濯しなくたって、ファブリーズすれば大丈夫!」

 

「…ファブリーズって?」

 

 弟は心底真面目に聞いてきたが、美来は愛想笑いをするだけで、弟の疑問を丸っと無視した

 

 それが気に食わなかったのか、エレベーターが17階の天沢と美来の部屋の階に着くと、歩き出した美来の足を思い切り蹴った

 

 反射的に避けた美来だったが、バランスを崩して前のめりで膝を着く

 

 その様子を弟は鼻で笑うと、美来は心底嫌そうに弟を蔑んだ目で見た

 

 人にそんな目で見られたことなんてない弟はたじろぐ

 

 弟はふんっ、と顔を逸らし、美来へ幼稚な暴言を浴びせる

 

 目についた事を早口に、質より量な悪口を美来が立ち上がるまで放つので、美来は鬱陶しいとでも言うように汚れた膝を摩ると、転んだ拍子に取れてしまった足首の赤と金のミサンガを乱暴に付け直す。

 そのミサンガでさえ安っぽいと罵る弟に嫌気がさしたのか足早に弟の前から舌打ちをしながら立ち去った



 それが、『前回』の朝の光景

 

 その日は同じように雨だったけど、美来は体操着を持ってきていたから部活にも出たし、サボってもいない

 

 

 だから事故に遭ってもいないから、美来は幸せに暮らしてた

 

 そうあの日…アイツらが来るまでは…

 

 

 唯史が、連れてきた再婚相手とその連れ子…

 

 母親は薬学について博士号を持つほどの博学で、見た目も派手だったが、話をする度に教養があり知識が豊富な為、唯史も美来の兄弟も好感が高かった

 

 そして、連れ子も母親に倣って、知識が豊富でお淑やか、見た目はどこか財閥の令嬢とでもいうように立派な佇まいに、美来の庶民的な振る舞いに呆れていた兄弟達すぐに気に入った

 

 初めての顔合わせの際は、美来も参加したが、終始どうでもよさそうに愛想笑いだけ浮かべて取り繕っていたが、連れ子が天沢と楽しそうに話してるのを見て、思わず不機嫌そうに連れ子を睨んだんだ

 

 その様子を見た兄弟に、性根が悪いと罵られると気を悪くした美来は天沢を引っ張ってその場から離れた

 

 天沢は、我が儘で活発な美来と比べて、控えめでお淑やかな連れ子に好印象を持つ

 

 

 そして、雲行きが怪しくなっていったのは、それからだ

 

 

 美来が学校から帰ると、天沢の待つリビングでは既に笑い声が聞こえていて、そこには連れ子と天沢の楽しそうな姿…

 

 美来が面白くなさそうに、何しに来たのか冷たく問いかけると、天沢は珍しく美来を嗜めた

 

「美来…家族にそんな言い方はないだろ」

 

「っ!でもお父さん!私は別にっ!」

 

 

「せっかく姉妹になったんだから、美来も彼女を見習って、もう少し淑女になれないか?」

 

 天沢の言葉に押し黙る美来

 

「そんな、天沢さん…美来ちゃんだって急に家族が増えたとか言われましたら驚きますよ…私、美来ちゃんが受け入れてくれるまで、ずっと待ちます」

 

 指先を揃えて口元に当て、控えめに笑う連れ子に、美来は、ムッと顔を顰める

 

「本当に良い子だね、ぜひ美来と仲良くしてあげてくれ」

 

 

 天沢が美来の腰を引き寄せて、連れ子との距離を近づけるが、美来は両手で天沢を遠ざけ拒否した

 

「疲れてるから、もう寝る!」

 

 

 ふんっ、とそっぽ向き立ち去る美来

 

 その様子に天沢はため息を吐き、連れ子はニヤニヤと天沢に見えないように歪な微笑みを浮かべていた

 

 

 それから何度も何度も連れ子は、天沢と美来の元へ現れた

 

 家へ帰るたびに楽しそうな天沢と連れ子の姿があるので美来は、次第に帰るのが遅くなった

 

 一年生から飼育係として世話をしていた、真っ白なうさぎのみるくを部活終わりに愛でて、見回りをしていた教師にお小言を貰いながら渋々帰宅するといいルーティンが続けば、天沢が怒るのは明白だった

 

 その日も遅く帰宅して、音を立てずに靴を脱ぐと、自身の部屋へそろそろ戻る美来

 

 真っ暗な部屋へと辿り着くと、明かりをつけ、振り返った

 

「おかえり」

 

 ガッ!!

 

 

「ひぅっ」

 

 背後から天沢の声が聞こえた直後、ベッドに投げ飛ばされていた

 

 ぼすっ!と結構乱暴に投げられたが、低反発な高級マットレスのおかげか衝撃はほとんどなかった

 

 美来は驚いた表情で顔を上げると

 

 そこには怖い顔した天沢の姿

 

「おかえり、美来

 

 

 ところで、最近この時間まで一体どこの誰と…何をしているんだ」

 

 冷え冷えした天沢の表情に美来は息を呑む

 

「…学校にいただけ」

 

 そっぽ向き呟くように言う美来の頬を天沢は手で掴み、無理矢理顔を合わせる

 

 

「誰と」

 

 鼻と鼻が触れる距離で、天沢が目が据わったまま美来を尋問する

 

「ひ、1人だよ」

 

 初めてこんなに怒っている天沢を前に美来は涙声になる

 

 その姿を見て美来が嘘をついていないことを悟った天沢は、美来の頬から手を離し、大きなため息を吐く

 

 

「…美来、頼むから心配させないでくれ…少しは『あの子』を見習いなさい」

 

 『あの子』の一言に美来は顔がカッと赤くなり、薄らと瞳に涙の膜を張る

 

「あたしがっ…あの子みたいになったら、私の事も、あの子みたいに愛してくれるっ…?」

 

 

 自分が思っている以上に気持ちが滅入っていたのか涙声を必死に隠そうと吐き出すように言う美来に天沢は、何をバカなこと言ってるんだ、とでも言うような顔になる

 

「そんなこと、あるわけないだろ」

 

 何を当たり前の事を、と続ける天沢に、美来は限界だった

 

「出てって!!」

 

 

 天沢の背中を思い切り押し出して部屋から出そうとする美来に天沢は戸惑った様子だった

 

「み、美来?」

 

「お父さんの、うそつきっ!!」

 

 ボロボロと泣きながら天沢を追い出す美来

 

 俺も、天沢の本心を知りたくて天沢の肩に手を伸ばし、触れた

 

 暖かい陽だまりの様な感情が俺の中に流れ込む

 

 

(美来以上に愛せる存在なんていないのに、何で急にそんなこと言いだしたんだ?これも急に家族が増えたストレスなのか?)

 

 流れ込んできた感情は暖かいもので、天沢は美来だけを想っていた

 

 

 でも、今の美来に、そんな言い方したら悪い方に捉えるに決まっているのに…

 

 天沢は、こんなに鈍いやつじゃなかったはずだ…

 

 後ろで膝を抱えながら泣いている美来に近づく

 

 少し前までの記憶では、肩まで付かないくらいの長さの髪は、いつの間にか伸びていて今では鎖骨よりも少し長いくらいだった

 

 今まで、長いと走るのに邪魔だからと月に一回は天沢に切ってもらっていたのにここ数ヶ月、連れ子が頻繁に出入りしているため天沢は連れ子を無碍にも出来ず、後回しにしていた

 まあ、それも美来には長い髪も似合うだろうからとい天沢の意図的な理由でもあるが、現在のマイナス思考の美来には大きな影響だ

 

 美来の縮こまった背中に触れると、悲しみと憎悪のドロドロとした楔色のものが流れ込んできた

 

 その感情はとても濃厚で、美来から見た『光景』が流れ込む

 

 兄弟からは庶民的な美来より、上品な連れ子の方が本当の妹だったら良かったのに、と呆れた目で美来を見下して言う様…

 

 父親の唯史からは、美来の母親が生前着ていた、美来が母との思い出で唯一思い出にある、パーティー用のイブニングドレスや装飾品を美来がいる目の前で渡され、「…美来には似合わないだろうからいいだろ」と一瞥された、流石に母親の思い出を奪われたくなかった美来は反論したが、唯史はため息を吐いて、ルビーの指輪だけ美来に手渡しそれ以外は与えなかった

 

 兄弟や父親からの愛情はとうに諦めていた美来だったから、そこまではどうだって良かった

 

 でも天沢だけは違った、天沢だけは

 

 連れ子が平然と美来と天沢の部屋に来るたび、美来は嫉妬と憎悪で顔が強張り、天沢が連れ子に笑いかけ褒める度に美来は泣き出したくなった

 

 連れ子を疎ましく思い、天沢の前で連れ子に何度も忠告や罵声を浴びせる度に、天沢に戒められ咎めらる

 

 天沢が、連れ子のために何かする度に怒りで我を忘れそうになるが、美来には部活が…陸上があった

 

 ムシャクシャした日は、ずっと走った

 

 部活が終わっても居残り練習をして見回りの教師に怒られるまで走って、帰りには飼育小屋でウサギのみるくを愛でて教師に再度お怒られるまで帰らなかった

 

 

 そんな毎日を繰り返してたある日、事件は起こった

 

 

 その日は、美来の部活の大会だった

 

 朝早くから準備して、気合の入った美来は時間ぴったりに家から出ようとした

 

 そしたら、運転手の内田が焦った様子で美来に言う

 

「美来ちゃん、旦那様がお呼びだよ!なんか深刻そうな様子で…」

 

 美来は怪訝そうな顔をしながらも、渋々ながらに最上階へ向かった

 

 最上階に着くと、そこには家族が勢揃いで、なぜか皆が美来を睨んでいる

 

 美来は少しムッとした表情で尋ねた

 

「…なに?急いでるんだけど」

 

 冷たく言い放つ美来に、六つ上の兄が眉間にシワを寄せて美来に近づく

 

「お前!自分が何をしたかわかってるのか!?

 いくら気に食わないからって、やって良い事と悪いことがあるだろ!」

 

 急に大声で怒鳴られて、美来はぽかんと口を開ける

 

 なんのこと?そう口を開こうとしたのだろうか、美来が声を出す前に連れ子が、六つ上の兄を止めていた

 

「待って、お兄さま…私が悪いんです…仲良くなろうと急いてしまったから…お姉さまは悪くありません」

 

 そう言って顔を両手で覆い隠し肩を震わせる連れ子に、美来はあからさまに顔を顰めた

 

「だから、なんなのさ」

 

 イライラした様子で美来は本題を切り出すと、奥から天沢が出てきて厳しい顔をしていた

 

「あ、お父さん」

 

 今朝から、部屋にいなくて心配していた為、天沢の顔を見て少し安堵した美来は天沢に駆け寄ろうとしたが、天沢が持っていたものを見て、体が石の様に固まる

 

 そこには、以前唯史が連れ子に渡したであろう美来の母のイブニングドレス

 

 真っ白なそれは、何かで赤黒く汚れていて布も大きく裂けていた

 

 美来はショックで床に膝を着く

 

「これ、ママの…」

 

 手を伸ばすと微かに残っている白い袖に触れた

 

 汚れてしまったドレスの端を掴みながら、連れ子を睨みつけると、美来は涙声で連れ子を罵倒する

 

「よくもこんな真似できたね、…ママのっ!私のママのドレスなのに!」

 

 ギュッとドレスを握り締めて連れ子に向かって言うと、二つしたの弟が目の前に来た

 

「…何言ってんだよ、これお前がやったんだろ…

 

 ほら、これ見ろよ…お前が付けてた安っぽいミサンガ…ドレスの近くに落ちてたぞ」

 

 ぽいっと投げよこされたのは、数日前から行方がわからなくなっていたミサンガ

 

 赤と金色の糸に、Mのイニシャルのチャームが付いたものだ

 

 しかし、これも少し赤黒く変色している

 

「私のミサンガ…」

 

 部活の仲間とお揃いのそれは、今日の大会の願掛けでもあった

 

 全国大会への切符である今日の大会の為に、マネージャーがみんなに作ってくれたもの

 

 そのミサンガを見て、美来はハッと時計を見る

 

「やば、もうこんな時間!?大会に遅刻しちゃう!」

 

 母親の汚れてしまったドレスへのショックは未だにダメージが大きく立ち直れそうにないが、それよりも今は大会の方が美来にとっては大事だった

 

「…なんで、私のミサンガが、あんたの部屋に落ちてたかなんて知らないけど、ママのドレスを汚したこと、絶対許さないから」

 

 キッと睨む美来に、連れ子はわざとらしく震えたフリをする

 

 そして、踵を返し出ていこうとする美来に今まで黙っていた唯史が美来の手を掴み引き留めた

 

「…なんですか?」

 

 戸惑った様子で唯史を伺う美来

 

「…小さい命を奪っておいて、なんとも思わないのか?」

 

 震えた声だ

 

「…命?」

 

 唯史はギュッと唇を噛むと、天沢に向けて頷いた

 

 天沢は苦しそうに顔を顰めて、美来の側に来る

 

「…ドレスの横に、箱が置いてあったんだ…その中に…この仔が…」

 

 なんの変哲もない木箱…でも境目のところにドレスに付いたのと同じ赤黒いものが付いている

 

 

 美来は、天沢の顔を伺い、戸惑いながらも震えた手で木箱を開けた

 

 

 真っ白いモコモコの毛並みだったであろうそれは、ほとんどが赤黒く変色した血で覆われ、力なく揃えられた二本の耳だけがその白さを教えてくれる

 

 腹部から切り裂かれたであろう箇所は、空洞の様に広がり…中にあったものは全て引き抜かれていた

 

 開かれた瞳は輝きをなくし、干からびて弾力をなくした真っ黒いそれは、どこを向いているかさえ不明だが、なぜか目が合っているかのような錯覚がした

 

 美来は、その真っ黒い瞳と目が合うと

 

 途端に頭を抱えてふらふらとその場を後退りする

 

「…ぇ、み、るく…うそ…うそだ…」

 

 ガクッと膝から崩れ落ち、現実を受け入れられていない美来に追撃する様に、天沢が冷たい声で聞いてきた

 

「今朝…美来の高校に確認したら…ウサギが一羽、いなくなってたみたいだよ…昨日、最後にそのウサギに会っていたのは、美来だとも聞いた…美来?」

 

 

 ハーッ、ハーッと荒い息をする美来

 

「血が、みるく…止めなきゃ…みるくが死んじゃ、死んじゃう」

 

 ボロボロと決壊した涙腺のまま、すがる様に木箱を奪い取る

 

 マジマジとみるくを見ても、絶命したのなんて明らかなのに、美来は信じられずに、現実を受け入れられていない様子だ

 

 やだやだ、と首を横に振って髪を振り乱す

 

「みるく、大丈夫…大丈夫…ちゃんと治してあげるからね…

 

 ね?

 

 

 ねぇっ…ねぇ゛[#「ぇ゛」は縦中横]…っ!!

 

 っう゛[#「う゛」は縦中横]っー〜、ぁ゛[#「ぁ゛」は縦中横]っ、あ゛[#「あ゛」は縦中横]っーーっ〜!!!!」

 

 頭を撫でても反応のないみるくに、美来は言葉にならない悲鳴をあげて、汚れるのも関わらず、みるくの切り裂かれた腹部を触り塞ごうとしている

 

 その様子を、美来を犯人だと決めつけていた兄弟たちは動揺した様子で、連れ子の様子を伺い、唯史と天沢は何故かホッとした顔で安堵している

 

 唯史と天沢はきっと、美来の潔白を証明しようと反応を確かめたのだろうが、2人の誤算は、美来にとってみるくは2人が思っている以上に大切な存在だった事だ

 

 

「みるくっ、みるくっっっーー〜!!」

 

 声にならない悲鳴をあげて、過呼吸になり始めている美来を宥めようと天沢が美来の背中を摩るが、一向に美来は落ち着かず

 

 結局、主治医に来てもらい暴れる美来に鎮静剤を打った

 

 最後までみるくを離そうとしなかった美来は、ボロボロと泣きながら、無理矢理みるくと引き離され気を失った

 

 

 

 もちろん大会には出場さえ出来ず、美来とチームメイトの夢は叶わなかったし、美来が出場しなかったことで裏切られたと感じた部員も全員では無かったが大半はそうだった

 

 

 飼育小屋のうさぎが一羽いなくなって、殺されたという噂が何処からか流れてきた時、美来が一番最初に疑われ、美来に真実を話すように問いかけても、美来は表情を無くして机に伏せるだけだったから、みんなは美来がうさぎを殺したと解釈したのだ

 

 

 部活では裏切り者扱いされて居場所をなくし、学校ではうさぎ殺しの汚名を着せられ

 

 美来には居場所がなかった

 

 

 過去に、美来がいじめから救った生徒も手のひらを返して、今度は美来を嬉々としていじめる計画を立てた

 

 美来を信じていたクラスメイト達は、最初こそ美来を擁護していたが、以前とは打って変わって明るくもなく面白くもない、無表情で無口になってしまった美来を見放す者も少なからず出てきた

 

 

 美来は、部活を辞めた

 

 あの日以来、もう何もやる気が起きなかったのだ

 

 食欲もないのか、この数日で見るからに痩せた

 

 寝付けないのか朝早く起きて、風呂場で冷水のシャワーを体育座りで1時間ほど浴びると、冷え切って震えた身体で出てくる、唇も青くなりながらも、支度をして着替えて、天沢が話しかけてきてもほとんど反応を返せないまま学校に行く

 

 学校に早くついて、すぐに飼育小屋にいって、みるくがいたであろう場所をずっと眺めていた

 

 予鈴がなるギリギリまでずっと

 

 授業は真面目に聞くが、昼休みはまた飼育小屋に行きずっと眺め、放課後になるとまた飼育小屋に行く

 

 帰る際は、見回りの教師が美来がうさぎを『持ち帰ろうとしていないか』検査をしてから帰る

 

 そして、家に着くと再び風呂場に行き冷水のシャワーを浴びる

 

 心配した天沢が声を掛けてくるまで、美来は体育座りで冷たいシャワーを受け入れていた

 

 そんな毎日が続き、天沢は美来が心配だった

 

 痩せ細って衰弱していく美来に、無理矢理ご飯を食べさせても、本当に少ししか食べられないし、以前と同じ量を食べさせたらすぐにトイレに駆けて行った

 

 だからこそ、美来に今何が必要か考えた時、連れ子が現れた

 

 あの日の事件は、結局…

 

 美来をよく思わない使用人の犯行で、その使用人の息子は美来と同じ学校に通っていたからか、その息子から美来がうさぎを大事にしていたと知ったそうだ

 

 美来が帰ったあと、飼育小屋でうさぎを物色していた時に、美来の付けていたミサンガを咥えた真っ白いうさぎがみるくだったそうだ

 

 適当に選んだはずのうさぎが、まさか美来が1番大事にしていた仔だとは知らなかったらしく、少し痛い目を見せてやろうと思ったら、まさか思っていた以上のダメージを与えてしまったみたいで後悔したのか、その使用人は自首してきた

 

 なんでも、使用人の息子は過去にいじめられていて美来に助けてもらったらしいが、女の子に助けて貰ったことをクラスメイトに弄られるのに耐えきれず、美来の悪口を誇張して家で言っていたそうだ…

 

 以前いじめられていた際に、自殺未遂さえした事がある息子を心配した使用人は、息子をいじめたのが美来だと勝手に解釈してしまったのが原因だったそうで…

 

 

 そのことで、当然使用人は解雇されたが、唯史は思うところがあったようで、解雇以外の処罰は一切しなかった

 

 まあ、そのせいで逆恨みした使用人の息子が、美来をいじめようとしていたなんて唯史には想像がつかないだろうが

 

 

 連れ子も、美来に謝りたいと天沢に伝えたが、今の美来には誰にも近づけたくなかったのか、丁重に断っていた

 

 しかし、連れ子は美来を元気付ける為に、ショッピングに誘いたいと天沢に頼み込んだ

 

 なんども連れ子から美来と仲良くなりたいと聞いていた天沢は、最初こそ渋ったが、天沢自身もこのまま美来を引き籠らせていてはダメだと最後には納得して、提案を受け入れた

 

 

 

 最近出来た、ショッピングモールにみんなで行こう!と連れ子が言うと、意外なことに唯史はわかったとOKし、性悪顔も乗り気だった。

 まあ兄弟は庶民的な場所に行くのに抵抗があったのか、別の場所を提案したが、連れ子が…

 

「お姉さまは、庶民的なものが好きなら合わせてあげましょうよ!きっと喜んでくださいます!」

 

 

 お淑やかに言いくるめて、兄弟を納得させていた

 

 その言い方に天沢は少しムッとした表情をしたがすぐに切り替えて、いつもの穏やかそうな面持ちになる

 

 

 美来を連れて来ようと、天沢がシャワーを浴びている美来の元へ行きドア越しで声をかけると、美来は寒さからか震えた声で尋ねてきた

 

「…あの子が、誘ったから…みんないくの?」

 

 その質問の意図を、天沢は特に考えず返答をする

 

「あぁ!せっかく誘ってくれたんだ、美来も行こう!」

 

 数秒置いてシャワーの音が止まる

 

 

「お父さんも、いくの?」

 

 怯えたように聞く様子に、天沢は不思議に思ったのか首を傾げていたのだが、返事をした

 

「そうだよ、だから一緒にいこう」

 

 その返答に、美来が傷ついてるのなんて知らない天沢は、美来が今、静かに涙を流してるのなんて知らないのだろう

 

 美来は、キュッと冷水の表示を温水に変えると立ち上がった

 

 

「…うん、行く」

 

 準備するから、外で待ってて

 

 と繋げる美来に、天沢は満足そうに微笑んだ

 

 

 

 

 

 

 

 そして、俺の記憶の中で1番最悪な事が起きた

 

 みんなで行ったショッピングモール

 

 

 庶民的な事なんてした事ない兄弟が性悪顔に連れられゲームセンターに行き、着いた瞬間に仕事の電話が来たのか駐車場に逆戻りした唯史



 そして、連れ子は美来と2人でお話ししたい!と天沢に言うと、美来は2人にしないで欲しいと天沢に縋ったが、天沢は美来にいう…

 

「大丈夫、ちゃんと仲良くなれるさ!」

 

 

 飲み物買ってくる、とその場から離れてしまった天沢に行き場のない手が宙に浮く

 

 そして、とうとう2人になってしまった美来と連れ子

 

 

「ねえ、あんたさ…天沢さんの事すきなの?」

 

 

 連れ子の豹変した態度に美来は驚く

 

「…当たり前、お父さんだもん」

 

 その言葉に連れ子は鼻で笑う

 

「あんたの父親は宝石 唯史でしょ?

 

 どんな理由があるのかは知らないけど、今のままじゃ、あんた…天沢さんに『娘』としては愛されなくなるよ」

 

 髪を弄って面白そうに言う連れ子に美来はカァーっ、と怒りで赤くなる

 

「あんたなんかに、私たち親子の何がわかんのさ」

 

 キッと八重歯を剥いて睨むと、連れ子はマツエクで密度の高くなった睫毛を何度かまばたきしてわざとらしく上目遣いをする

 

「あんたが思っている以上に知ってるわよぉ〜。

 どれくらいの時間、私が天沢さんとお話ししてたか知らないでしょ?」

 

 あんたは、ずっと引きこもってたからね〜っと続ける連れ子

 

 美来は、ぎゅっと拳に力を入れて俯く

 

「あんたなんて、だいっきらい」

 

「あら、奇遇ね!私も嫌いよ!」

 

 美来は耐えられなくなったのか連れ子に背を向けて逃げ出そうとした瞬間だった

 

 

 この平和な日本で、ありえない筈の似つかわしい音がこだまする

 

 

 パンパンパンッ!!!

 

 

 今流行りのJPOPの曲が流れて、家族連れや恋人たち友達同士できていたであろう人たちの楽しそうな話声が一気に静まり返った

 

 原因は複数の乾いた発砲音

 

 バリンッ!!

 

 JPOPの曲が終わり、次に穏やかに流れるのは最近流行のラブソングかと思えば、天井からガラスが降ってきた

 

 キラキラと天井で舞ったガラスの破片は…真下にいる美来達へと牙を剥き、雨の様に降り注いだ

 

 

 悲鳴と共になんとか持ち前の運動神経で咄嗟にしゃがんでガラスを回避したので、美来は無事だったが、後ろにいた連れ子はモロにガラスの破片を浴びてしまっていた

 

 

 甲高い悲鳴をあげて、切ってしまった額からは血が溢れて顔を真っ赤に染めている

 

 美来は駆け寄り傷を確認するも、結構浅かったので安心した様に連れ子を慰める

 

「大丈夫!これくらい浅かったら傷跡も残らないはず!ちゃんと押さえて!」

 

 持っていたシルクのハンカチで連れ子の額を抑えながら周囲を見渡すと、周りは阿鼻叫喚の嵐だ

 

 

「っ、いったいなんなのさ」

 

 血が目に入ってしまったのか連れ子は目を開けられずにいたので、美来は連れ子の手を取って避難しようとする

 

 

 そこでズカズカと歩いてくる異様な集団を見つけた

 

 集団の中で美来達を視界に入れるとニヤニヤしながら一直線に歩いてくる男が1人いた

 

 

 丸坊主で頭にタトゥーが掘られてる、一見若いけど厳つい顔の男

 

 一重の瞳は切長で鼻も高くて、モデルにいそうな顔立ちをしていたが、体型は何処かの軍隊にいそうな程の筋肉だるまだった

 

 そして何より、手には拳銃を持っている…

 

 

 近づいてくる男に、美来は震えるが、連れ子は見えていない為、状況がわからず不安そうだ

 

 美来は、ズボンの後ろポケットに常備していた今まで使った事のないスタンガンに触れる

 

「ねぇ、合図したらさ…無理矢理でも目こじ開けて走って逃げて」

 

 美来がそういうと、不安そうに首を横に振り拒絶する連れ子を説得する様に繋いでいた手を強く握った

 

「お父さんに、助けてって伝えて…任せたから」

 

 

 手を握り返すと、異常な状況下だと気付いた連れ子は震えながらも頷いている

 

 

 男がすぐ目の前に来た時、男は腰に銃を差し込み戻した

 

「っ、行って!!」

 

 連れ子を突き飛ばすように送り出すと、美来は後ろポケットからスタンガンを取り出して、男に突進する

 

 男はニヤニヤしながら中国語を喋っているが、混乱している美来はきっと何の言語かさえわからないだろ

 

 今思えば、この時、この中国の男は殺そうと思えばすぐに殺せたはずなのに、美来を殺さず適当にあしらって床に転がしていた

 

 美来も、もしスタンガンなんて使わず反抗してたら、あんな事にならなかったのかな、なんて今更思うよ

 

 中国人の男が片言の日本語で何か言っているがボソボソと小声で断片しか聞き取れない

 

 美来は手に持ったスタンガンを震えながらも構えて、連れ子が走っていく背中をチラチラと確認しながら男に威嚇する

 

 男はニヤニヤと笑って美来に近づくと、ブンブンとスタンガンを振り回す美来を蹴り上げた

 

 鳩尾から真上に蹴り上げられ、美来は白目を向いて地面に落ちた

 

 ビクッビクッと痙攣している美来は着ていたズボンのクロッチ部分を湿らせた

 

「ダイジョブ、オンナハコロサナイカラネ」

 

 ニヤニヤと笑う男は、美来の顔を掴みあげる

 

「ウン、ウツクシイカオシテルカラ、ツレテクノモイイネ」

 

 

 美来は薄れていた意識をなんとか取り戻して、硬く握っていたスタンガンを汗ばんだ手で握り直していた

 

 男が油断している今なら、なんて思ったんだろうが…

 

 本当に、やめて置けばよかったのに…

 

 

 スタンガンは、確かに男の腕に触れたけど、男は案の定キレた

 

 泣き喚く美来の腹を殴って、口から血が出るまで殴った

 

 そして、放り出された美来のスタンガンを手に取って…

 

「ムカツク メ シテルナ」

 

 と顔に唾を掛けられながら、目にスタンガンを押し付けられた

 

 美来は泣いて叫んで懺悔したが、男は美来に馬乗りになってスタンガンのスイッチを躊躇なく押した

 

 ビチビチと魚の様に跳ねる美来の反応が面白かったのか、男は無情にも反対側の目も同じ様に感電させた

 

 

 美来は喉が裂けて血が出るほど絶叫した

 

 

 だが、その場にはすでに美来以外避難を終えていて誰も助けに来てくれる人さえいなかった

 

 美来の手に触れると、美来は心の中で一心不乱に天沢を呼び続けていた

 

 早く来て、助けて、痛いよお父さん、と…

 

 

 そして少し経った頃には、男は仲間の一人に撤退すると言われたのか美来を担ぎ上げて連れてこうとしたが、仲間はそれを許さず…美来は拉致されずに済んだ

 

 男たちが去って、美来はボロボロになった体を動かしていた

 

 ガラガラになった声で、喘ぐように動くたびに痛む体を引きずった

 

 たくさん腹を殴られていたからか、内臓が損傷して腫れたのかボッコリと膨らみ妊婦の様に膨れ上がり、美来は寒くもないのにガクガク震えた

 

 お腹を庇う様に前屈みになり、両手で目を覆うも視界は既に焼かれて見えていないだろう

 

 必死に地面を手探りで伝って壁を探す

 

 何度も転びながら、美来はショッピンモールの外まで時間を掛けながらも出ることができた

 

 正面玄関ではなくスタッフの専用ドアからだったので、外に大量にいた警察官などに気づかれることもなかった

 

 美来は人にぶつかりながらも歩いていると、ふいに手を引かれる

 

「おと、さ、」

 

 

「あんた!無事だった!?」

 

 

 その声は連れ子のものだった

 

 

「今、みんなのこと探してんだけど見当たらなくて…

 

 まだ目に血が入ってて見えにくいのよね…」

 

 興奮気味に連れ子が話していて、元気そうで何よりだと美来はほっとしていた

 

 美来は、もう体の痛みが限界を超えて何も感じなくなっていた

 

 早く天沢に会いたい一心で、早く抱きしめてもらいたい一心で、美来は今も意識を保てている

 

 

「あ!!多分あれ!あそこよ!」

 

 連れ子の嬉しそうな声に、美来は反応する

 

「うわ、やば、めっちゃ血垂れてきた…もう最悪」

 

 美来の手を引きながら、天沢達の元へ連れて行こうとする連れ子は、興奮して頭に血が昇ったのか傷口が開いてまたもや顔中を真っ赤に染めていた

 

 連れ子の血濡れの顔を見た周囲の人々は、連れ子を心配そうに見ながら労るような声をかける

 

 連れ子は他所行きの顔で、大丈夫だと伝えながらも天沢達の視界に移る範囲までくると、連れ子は声高々に呼んだ

 

「みんな!」

 

 嬉しそうに呼びかける連れ子に、天沢達は一塊になっていたが、連れ子と美来の姿を見た途端走り寄ってきた

 

 美来は、もう立ってられなかった

 

 やっと、天沢に抱きしめて貰えると思ったのか、地面に崩れ落ち、両手を広げて天沢の抱擁を待った

 

 

 しかし、無常にも天沢は一目散に顔面血だらけの連れ子の元へ駆け寄ったのだ

 

 

 たしかにしょうがないのかもしれない、美来の姿は少し埃や土埃で汚れてはいても目に見えて血はついていなかった

 

 焼かれた目も、長くなった前髪で隠れている

 

 ボッコリ腫れた腹だって、大きめのパーカーを着ていたからわからないだろう

 

   

 連れ子の顔面血だらけの姿に比べたら、誰もが連れ子の方が大怪我を負っていると思う

 

 だから、天沢も美来のもとへ駆け寄りたいのを我慢して連れ子の怪我を心配したんだ

 

 美来は、両手を広げて待った

 

 しかし聞こえてくるのは家族みんなが連れ子を心配している声だけ

 

 天沢が連れ子を心配して救急隊を呼んでいる声だけ

 

 

 美来は真っ暗な世界で、ただ天沢を待ち…

 

 呼び続けた

 

「おと、ざん、

 

 おどー・・・ざ、ん

 

 

 な゛[#「な゛」は縦中横]んで…おど、ざ」

 

 

 美来は天沢の声の近くまで這うように近づき、天沢の着ていた服の袖を引っ張った

 

 

「お、どさ」

 

「…美来、後にしてくれ…今は怪我人が優先なんだ」

 

 パッと振り払われた瞬間

 

 美来の中の糸がぷちんと切れた

 

 

 天沢が連れ子を救急隊に引き渡していたら、1人の救急隊の青年が美来に気づいて近づいた

 

 

「お嬢ちゃん、大丈夫?怪我してるのかい?」

 

 美来は、反応しない

 

「お嬢ちゃん?」

 

 青年は優しく美来の肩を掴むと、異変に気づいたのか天沢がようやく来た

 

「美来?」

 

 

 俯いた美来は、何度か小刻みに嗚咽し、ガクガクと尋常じゃないほど震え始めた

 

「っゔ、ごぶっ」

 

 ごぷっと美来の口から、大量の血の塊が吐き出され

 

 近くにいた青年の隊服にかかる

 鮮やかな赤が鉄の濃厚な匂いを辺りに充満させ、美来の唇からはトロトロと唾液と血が混じったものが絶え間なく地面に降り落ちる

 

 青年は目を見開き丸くさせると、すぐにグッタリとした美来を抱き上げて救急隊の仲間に声を張り上げ車を回すように指示を出していた

 

 

「お嬢ちゃん、大丈夫だ、絶対助かるからな、ほら俺の目を見て深呼吸して…」

 

 安心させるように、青年が美来の汗でへばりついた前髪を指で流した時…

 

 

「…お嬢ちゃん、目がっ、」

 

 爛れた目元の皮膚と涙腺からは血の塊が涙のように溜まっていた

 

 青年は、美来を抱く力を強めると歩くスピードを早くする

 

 天沢が顔面蒼白にさせながら、後ろを歩くが足がもたつき上手く歩けていない

 

 天沢の顔にはビッシリと汗が浮かび上がり、救急隊に抱えられながらも放り出された手を見て、天沢は自分のした言動を思い出して後悔しているようだ

 

 俺は美来の側に行き、病院に着くまでずっと、救急隊の青年と同じように美来を見つめていた

 

 

 5時間後、美来の担ぎ込まれた集中治療室の手術を終える合図である電気が落ちた

 

 その頃には、冷静になった天沢がいて、唯史もいた

 

 2人とも目を充血させて美来のいる手術室を睨むように見ていた

 

 カタカタと震える天沢は、爪をガジガジと噛んで指先は血が滲んでいる

 

 

 美来が入っていったドアから男の医者が出てきて、2人は詰め寄る

 

 医者は難しい顔をして、2人をベンチに座らせると、眉間に皺を寄せて口を開いた

 

 

「…お嬢さんと一緒に聞いた方がいいでしょう…

 

 それか、お嬢さんだけ聞いた方がいいかもしれません」

 

 そういう医者に、天沢は何度も瞬きをする

 

「ど、どういうことですか…美来は、無事なんですよね?」

 

 カァッと赤くなったり青くなったりする天沢を見て、医者は顔をそらす

 

 

「命の面で言うなら、彼女は無事です…

 

 ですが、きっとこれから生きていくにあたって…かなり障害が多いでしょうね…」

 

 医者は残念そうに眉を下げて、2人に一礼すると助手の看護師を連れて、行ってしまった

 


 天沢も唯史も医者の言う通りにした

 

 美来が目を覚まして、一緒に医者の話を聞くか、先に美来だけが話を聞くか、美来の気持ちを優先させようという結論になった

 

 

 美来が目を覚ますまで、時間がかかった

 

 その間にも時間は無常にも過ぎ去り、何度も朝を迎えた

 

 

 美来が眠ってる間に、ショッピングモールで起こった事件が、中国系マフィアのテロであると世界的に放送されて、テロリスト達は未だに捕まらず仕舞いだそうだ

 

 一応、容疑者は複数人いるそうだが、確信が持てずに警察側は行動が出来ずにいると、唯史の友人である刑事が言っていたのを聞いた

 

 その、刑事は美来が目を覚ましたら協力して欲しいと言ったが、唯史はもう美来に傷ついて欲しくないと思っていたので、丁重に断るが、刑事も引かなかった

 

 美来が生存者の中で唯一、テロリストのリーダーを見てるとの事で、どうしても美来の証言が必要だった刑事は美来の担当医を脅した

 

 いつ起きるのか、いつ面会が可能なのか、早く目覚めさせる薬はないのか…

 

 医者は首を横に振り、刑事の問いかけを黙秘で返した

 

 そして美来がようやく意識を取り戻したのは肌寒くなった秋の終わり頃の事

 

 

 目を覚ましても、真っ暗な視界にパニックになった美来は泣き叫び暴れた

 

 通りかかったナースが、すぐに医者を呼び鎮静薬を打ったので美来は怪我をせずに済んだが、美来が次起きても暴れない様に拘束具を取り付けられた

 

 美来が起きたと聞いて、天沢は面会を申し込んだが何故か医者は合わせようとしなかったのだ

 

 そして美来は再び目を覚まし、医者の呼びかけに不安になりながらも応える

 

 一つずつ質問していき、記憶に相違がないかの確認と精神がやられていないかの確認をした医者は、美来に切り出す

 

「美来ちゃん…今の君の体のこと…すごく辛い事なんだが…

 

 聞いてくれるかい?」

 

 優しく問いかける医者に、美来は震えながらも頷く

 

「ねえ、先生…少しの間だけでいいから…手握って欲しい」

 

 起きた当初はガラガラで掠れた声も、医者に喉のスプレーをしてもらったのと、水分を摂ったからか今ではそこまで酷くない声で、美来は医者にせがんだ

 

 医者は、美来の寝ているベッドに腰掛け…左腕の拘束具を外すと、優しく小さな手を握り込んだ

 

「美来ちゃん…まず、君のお腹だが…内臓系は損傷は激しかったけどなんとか欠損せずに機能も問題はない…だが…

 

 残念だけど、子宮がかなり損傷していた…ほとんど破裂していて、…

 

 

 子供を産むうことはもう、出来ないだろうね…」

 

 

 ぐっと握り込まれる掌に、美来は唇を噛み締めている

 

「あとは、骨盤底筋群が断裂していたから、今後はおむつかカテーテルを常備することになるだろう…」

 

 美来は、おむつ…?と状況が理解できていない様で、医者は美来の汗ばんだ手を握り直した

 

「…排泄を我慢するときに使う筋肉が断裂してたんだ、だからこれからは無意識に排尿してしまうだろうから常におむつかカテーテルをつけておかないといけない」

 

 美来はサアッと顔を青くさせて汗を浮かばせている

 

「あとは…」

 

 医者が続けようとしたとき、美来はもう耐えられないとでも言う様に顔を横にふった

 

 

「もう、やめてください、聞きたくないっ」

 

 

「…わかった、もし聞く気になったらまた呼んでくれ」

 

 そう言うと、医者は美来の握っていた手を持ち上げて拘束具を再度装着しようとするが、美来は短い悲鳴を上げる

 

「せ、先生、待って…見えないのに拘束されるの怖いよ…お願いだから手だけは自由にさせて…」

 

 美来は離そうとする医者の手にしがみ着くと、医者は困った様にため息をついた

 

 しかし、医者の表情が見えていない美来にとっては呆れられたからため息を吐かれたのだと勘違いする

 

 医者は美来が哀れで仕方なかったのだろう美来の手を握ると再度隣に腰掛けた

 

「美来ちゃん、ごめんな君のご家族が決めた事なんだ…

 

 美来ちゃんが自分の体の事を聞いて、暴れ出してまた傷つくのが怖いんだそうだよ…美来ちゃんが、自分の体の容体を全て聞いて大丈夫だと判断できれば、数日の内にこの拘束具は外せてあげられる…

 

 でも、無理はして欲しくない…」

 

 医者は、美来の背中を優しく撫でると、美来は顔をくしゃっと歪めて我慢する様に俯いた

 

 

「…聞く、私、暴れないって証明するから…だから、早くこの拘束具外して欲しい」

 

 上擦った声に、医者は悲しそうに押し黙る

 

 美来にとっては、残酷な話よりも暗闇で拘束される方が恐怖だったんだろう

 

 先程とは比べられないほど額に汗を浮かばせている

 

 医者は、それを見て持っていらハンカチで美来の額の汗を拭うとと、俯いた美来の顔にそっと触れて、包帯でグルグル巻きにされた目元に手を沿わせる

 

 目を触れられた事で、美来はカタカタと震えるが、医者は気づかないふりをして口を開く

 

 

「スタンガンで、眼球を直で焼かれた事で…失明はほぼ確定だったたんだが、どちらも奇跡的に最後の神経までは焼き切れてなかったよ…

 だから、かなり時間はかかるがゆっくり治療して回復してきたら神経を新たにつなぎ合わせる手術をすれば…可能性は高くないが…もう一度見える様になるかもしれない…」

 

 そう言うと、美来は唇をワナワナと震わせ医者の手を握り締めた

 

「…っ、私、また見える様になるんですか…?」

 

 

「…美来ちゃんが、ちゃんと治療を頑張ればね…

 

 眼の手術は別の先生が担当するけど、彼は優秀だから…一緒に頑張ろう」

 

 

 そう言って、医者は美来の頭を撫でると美来が落ち着くまで側にいた

 

 そして大丈夫だとわかると、繋がれた方の手は拘束具をつけずに、美来にまた来ると伝え、部屋から出て行った

 

 

 それからは、面会を禁止されていた天沢たちと会えない事への悲しみを補う様に、美来は医者との時間を多く過ごした

 

 眼の治療を担当する医者を紹介してもらうと、美来は持ち前の明るい性格と人懐っこい性格で、すぐに打ち解けたし、最初に担当していた医者は、偉い人だった様で忙しい中、時間を見つけ美来に会いに来てくれていた

 

 眼の治療を何度か繰り返していくと、最初に回復したのは涙腺だった

 

 焼きつぶれていた涙腺が治癒されて、今ままで乾燥で痛みを感じていたまぶたの中が軽減されて、美来は嬉しそうに眼の医者に抱きついていた

 

 美来には見えていないだろうが、眼の医者は思った以上に若く、眼鏡をかけた気弱そうで優しそうな青年だった

 

 なんでも、病院内屈指の凄腕ドクターの様で、至るところから引き抜きのオファーが来る様だが、断っているとのこと

 

 俺は彼になんとなく興味を持って、美来がお風呂に入れてもらってる間に、一緒に病院内を探索していた

 

 眼の医者…眼鏡でいいか

 

 

 眼鏡は、話を聞いていると美来と同じくらいの年齢の妹がいるそうだ、しかしあまり眼鏡の家族関係はよくないようで、ここ数年はほとんど会っていないと美来に言う

 

 美来は、眼鏡を本当の兄の様に慕い始めていたせいか、眼鏡が本当の兄だったらよかったのにと軽口を叩いて笑いあったりもしていた

 

 そしてそんな美来に優しい日々は、長くなんて続くわけなかった

 

 

 美来から離れて病院内を散策していたら、ここ数日の間、色んなこと、色んな人がいた

 

 一人目は天沢、美来に面会をしたいと毎日の様に訴えていたが、医者…美来が一番最初に会った偉い役職の医者が無理だと伝えている様子だった

 

 天沢は前に見た時とは別人で、心労からか窶れてほおが痩けている

 それに今まできっちりと七三分けにセットしていたインテリジェンスな見た目からは想像出来ないほど、少し伸びた髪は寝癖の様に少し跳ねている

 

 前までは実年齢よりも10歳ほど若く見られる事が多かったのに、今では実年齢より10歳ほど老けて見える

 

 見た目だけなら20歳ほど老け込んだ天沢に驚きが湧く

 

 医者は、天沢に美来のトラウマになるかもしれないから、精神が落ち着くまではあの事件の日に一緒にいた人物たちは面会をしない様伝えていた

 

 確かに、美来は天沢たちと会わなくなってからは以前の様に明るく朗らかに笑う様になっていた

 

 

 それが良い傾向だと、誰もがわかっているから、美来を担当している看護師やリハビリを担当する理学療法士も、天沢や実父である唯史すらも美来のいる病室へは通さない様に協力体制にある

 

 

 二人目は、唯史だ…

 

 唯史はあの日の事件以降、大学時代の友人であり警察庁の警視正と連絡をまめにとっていて、美来をあんな目に遭わせていたテロリストを早く捕まえる様に依頼していた

 

 しかし、この警視正…確か唯史の事をよく思っていなかった記憶がある…

 

 大学時代、勉学においても運動においても一番だった唯史に次いで万年次席のこの男は、いつか唯史を出し抜いてやると野心を抱えていた男だ

 

 まあ数年経ったから、そんな野心も廃れただろうし、何より今は事件に協力してくれる味方だ

 

 警視正の男も二つ返事で承諾していたから、あの日の事件の詳細も唯史は事細かに警視正に伝えていた

 

 警視正は真面目な顔で質問を投げかけていた

 

「美来ちゃんは、テロリストの顔を見たのか」

 

「…ああ、別の娘の話だとその様だ」

 

「…別の娘の方は見ていないのか?」

 

「額から出血していて血が目に入って目が開けられなかったと言っていた…」

 

「…そうか、美来ちゃんは、今どこにいる?」

 

「中央の大学病院に入院してる…かなり酷い容体でしばらくは面会も謝絶だと…」

 

 警視正は何か考え込むと顎に手を当てた

 

「なあ、宝石…美来ちゃんを警察庁で管理している病院に移さないか?治療に必要なら外国の名医だって呼ぶことができるし…今の美来ちゃんはテロリストの唯一の目撃者のはずだがら、テロリストたちが襲撃してくる可能性だってゼロじゃない…それなら、安全な上に…すぐに面会だってさせてやれる」

 

「…少し考えさせてくれ…美来の容体も考えないといけない」

 

「…なるべく早めにな…何か遭った後じゃ遅いから…」

 

 

 そう言って警視正の男は出て行った

 

 そして、察している者もいるかもしれないが、この警視正は卑劣で卑怯だった…

 

 

 目的の為に手段を選ばないとは、こいつの為にある様な言葉だと思う

 

 

 こいつがまずやったのは、美来が入院してる病院の悪評を流す事

 

 それも生易しいものではなく、警察が数日に渡り院内に捜査の名目で訪れ患者に不安を持たせる様に差し向けて…

 

 若い女性や女子高生に、破廉恥な行為をしているというデマを流した

 

 

 こうしたゴシップは、面白いくらい広まる…それも脚色されて

 

 その噂に乗せられたのは、天沢と唯史も例外ではなく…

 

 警視正が有りもしない嘘を不安定な二人に信憑性がある様に偽装した証拠を交えながら話した事で、以前までの二人なら絶対に騙される訳ないはずなのに…人間の心は弱く出来ていて…二人も例外ではなかったようだ…警視正の男に上手いこと掌で転がされている今の二人の様は目も当てられない…

 

 警視正は、二人が美来に会えないのは、美来が性的被害に遭っているのを隠す為だと伝えた…よく出来た供述書と報告書、それを目の当たりにした二人は美来の病室へと無理やり侵入した

 

 そして、神様は本当に美来が嫌いなのかタイミングが本当に悪すぎた

 

 

 唯史と天沢が病室へ訪れた時…美来は眼鏡と一緒にいた

 

 眼の検査が終わり…眼鏡に病室まで連れてきて貰っていたのだ

 

 そして、美来は…骨盤の靭帯が断裂している為…無意識に粗相してしまう事が多い、今日も例外ではなく、検査を終えて病室に戻りベッドに腰かけた瞬間、粗相しているのに気づいた…幸いおむつを着用してはいたが…眼の見えない美来は自分でおむつを変えることは出来なかった

 

 普段は看護師が変えてくれる所だが…美来は着心地の悪さから早く変えたかったのか眼鏡に変えて欲しいと頼んだのだ…

 

 眼鏡も、美来のおむつを変えるのは初めてではなかったし…インターン時代に眼科医にも関わらず、…上からの嫌がらせだったのか、老人の巣窟に投げ込まれ何百枚ものおむつを変えてきたから、美来のおむつを変えることに特に抵抗もない様子

 

 だから、美来のパジャマの下を脱がせて、おむつを変えている時に、タイミング悪く天沢と唯史が病室に入ってくるなんて誰が考えたのか

 

 眼鏡と美来の様子は、側から見ると…医師が若い年頃の少女をひん剥いてる様に見えてしまうのも無理がなかった

 

 もう、それからは思い出したくないくらい…酷い惨状の始まりだ

 

 眼鏡の胸ぐらを掴んで地面に叩きつけると、近くに置いてあったスタンドライトで頭をカチ割ろうとする天沢に、物凄い勢いで電話をかける唯史は、今すぐ病院を変えると恐ろしく低い声で言うと、すぐさま下には何も履いてない状態で突然の騒音に震える美来の側へと行く

 

 視力が機能しない分、聴力だけは鋭くて…眼鏡のくぐもった悲鳴や、ガラスの割れる音…聞き覚えのある…トラウマを思い出す声色…

 美来は顔色を青くして大きく震えた

 

 

「せ、先生っ!どうしたの?何があったの?」

 

 不安そうに尋ねる美来だが、数発ほどスタンドライトで殴打した眼鏡は顔を血塗れにして既に伸びている

 

「美来…ここは危ない…別の病院に行こう」

 

 優しく美来の背中を撫でると着ていたジャケットを脱いで美来の下半身を隠す様にかける

 

「…だれ…?先生は?先生に何をしたの?」

 

 怯える美来の問いかけに、唯史は口を噤んで美来の体を抱き上げた

 

 怖がる美来を無視して…病院から抜け出そうと唯史は病室から出た

 

 すぐに天沢が来て、美来に話しかけていたが…美来はもうパニック状態で声すら届いていない

 

 

「助けてっっ先生!っせんせぇっー!!」

 

 暴れる美来をガッチリ抱きしめて離さない唯史…

 

 

 看護師が異変に気づき、美来を助け出そうとするが…捜査の名目で来ている警視正から遣わされた警察官たちに妨害され、看護師も医師達も美来を助け出す事が出来なかった

 

 

 美来は真っ暗で何も見えないながらに手を伸ばし、誰かが握り返してくれるのを待った…だけど…誰もその手を握り返すことができなかった

 

 

 

 そして、美来は警視正の思惑通り警察庁で管理されている病院に収容された

 

 美来は環境が変わった事と、急に眼鏡達から引き離された事で…ストレスからか夜泣きや失禁を繰り返した

 

 常に付きっきりだった天沢は、その度に美来を抱きしめるが、美来はあの日のトラウマを思い出すのか過呼吸になり気絶するか鎮静剤を打たれるかでしか寝付けなかった

 

 順調に戻っていた体重も、急激に低下し…命の危機に関わる程になりかけてきている

 

 そして警視正は焦っていた…

 

 あの日のテロリスト達の容疑者候補は揃っているが、まだ確定出来ずにいて…数人の中国人達を未だに留置所に収監していることから、政府から圧力をかけられていたのだ

 

 だからこそ、早く美来を使いたかった

 

 テロリストを見ているはずの美来にテロリストを断定して欲しくて仕方ないのだろう

 

 警視正は、いろいろな伝手で探し出した何でもヤるで有名な闇医者を連れて、天沢と唯史の前まで現れた

 

 

 闇医者を世界でも名だたる名医だと紹介し…早く手術しなければ、2度と目が見えることはないだろうと伝えると、二人は顔色を変えた

 

 

 そして、説明を一通り聞くと警視正のことを信頼しきっている唯史は、すぐさま手術への保護者同意書にサインをすると、美来には説明済みだから美来自身にもサインをしてもらう様に警視正がわざとらしく心配そうに伝えると天沢も唯史も力強くうなづいたんだ

 

 美来は…美来は知ってるのに…

 

 治療を続けて時間をかけながら回復を待ってから手術すれば…目が見える様になるかもしれないと…

 

 

 そして、天沢と唯史よりも先に、手術について説明した闇医者は…美来には本当の事を伝えていた

 

 確かに、時間をかければ治る見込みもある…

 

 しかしもう一つの手術に関する話もした

 

 一時的に視力を回復させる事で、短時間であれば視力を回復させる事が出来る…それをしてしまったら2度と視力が戻ることがないと言う

 

 美来は震えながら断固拒否し、前の病院に戻して欲しいと訴えるが、闇医者は…みんなが求めているのは後者の方法だと美来へと伝えた

 

 美来は信じられないとでも言う様に、闇医者へと声にならない悲鳴を上げるが、闇医者は追い討ちをかける

 

 

「君の目が治る事よりも、彼らはテロリストを見つけ出す方が優先なんだろう…それは、誰のためか…君ではない…もう一人の娘のためなのかも知れないな」

 

 面白そうに笑う闇医者に、美来は俯いた

 

 俯いて、左手の爪でガリガリと右の指の付け根を掻き毟り始める

 

 一種の自傷行為に近いだろうそれは…ベッドのシーツを赤く汚すほどには酷いもので、ぶつぶつと何かを呟きながら掻き毟る美来の姿は酷い有様

 

「まあ、後から当人達から伝えられるだろうから…良い子に待ってなさい」

 

 美来を威嚇するかの様に、闇医者は履いている高そうな革靴の踵をわざとらしく叩きつけ音を鳴らしながらも闇医者の喜色に染まる声で美来に言葉を残し、病室を去ると…入れ違いかの様に…バタバタと天沢と唯史が入室した

 

 

 二人は美来の姿を視界に入れると、張り詰めていた強張った面持ちが軽減されて、二人して瞳を揺らし睫毛を震わせた

 

「み、美来…美来」

 

 

 何も言わず、俯いて指の付け根を掻き毟る美来

 

 

 二人は言葉が出ない様子で、口を開いては閉じてく繰り返す

 

 

 

 …やめてくれ、美来に近づかないでくれ…何も言わずの立ち去ってくて…これ以上…これ以上…

 

 美来を…美来の心を殺さないでくれ…

 

 

 天沢が…美来の頭を撫でようとゆっくりと伸ばされた手を…

 

 震えた手を…美来は払い退けた

 

 払い退けた事に…払い退けられた事に…美来も…天沢も

 

 酷くショックを受けた様子で…美来は声を押し殺して両手で顔を覆い隠し血塗れのシーツに顔を埋めた

 

「っごめんなさいっ、ごめんなさい」

 

 か細い声で、震えながら謝罪を繰り返す美来

 

 

「美来…聞いてくれ」

 

 

 唯史はゆっくりと口を開いて、美来の近くへと寄ると…美来の目線の高さまで足を折ると、包帯が巻かれた美来の目元を痛々しそうに見つめる

 

 震える美来を…唯史はどう思ったんだろう…

 

 無意識ながらに、美来の心を殺そうと、する唯史と天沢は…美来をどう思ってるんだろう

 

 

 唯史が口を開いた瞬間…俺は目を瞑った

 

 

 初めて…視界が暗くなり、嫌に音がよく聞こえる

 

 

 美来のか細い呼吸音も、天沢の乾いた唇が掠れた音も…

 

 唯史の死刑宣告も…

 

 

 聞きたくないのに、よく聞こえた

 

 

「美来…目の手術を受けなさい」

 

 美来の呼吸音が、止まった

 

 ゆっくり、掌を解いて…顔を上げる美来

 

 

 口をモゴモゴさせて、指の付け根に爪を立てた

 

 

「ああ、美来…早く手術を受けよう…早ければ明日にでも準備はできるからな……」

 

 美来の爪が皮膚に食い込む

 

「大丈夫だから…美来は心配せずに手術を受ければ良い」

 

 美来の爪が皮膚を裂き肉を抉る

 

「あとは美来さえ了承してくれれば手術は明日にでも受けられる…今はサインが厳しいだろうから、代筆しておいたから…あとは美来が頷けば…」

 

 美来の指の間から血が溢れ出た

 

「…嫌だ…」

 

「美来?」

 

 ガリッツ

 

 

「美来っ!血が!!」

 

 

「やだ、嫌だ嫌だいやだ…」

 

 ガリガリガリ

 

 血管を破ったのか血が吹き出た

 

「やだ、やだやだやだっ」

 

「美来っ!!」

 

 唯史が美来の腕を掴むが美来は掻き毟るのを止めない

 

 

「…や〈バチン!!〉」

 

 

 鈍いが高い弾けた音がするかと思えば

 

 美来は俯き頬を赤く腫らしていた

 

 

 その近くには天沢が泣き腫らした顔で美来の頬を張っていた

 

 そして、美来の血だらけの手を握り締めると美来を抱きしめる

 

 そして美来の肩に顔を埋めて美来の体を拘束する

 

 

「…大切なんだ…」

 

 

 触れた…

 

 美来にも…天沢にも

 

 

 《大切なんだ…(『美来が』)…》

 

 美来の身を案じる天沢と唯史の気持ちは怖いほど不安と親愛で満ちていて温かいもので切なくて苦しくなる

 流れ込んだ記憶の中の二人の美来との思い出が重なり美来の幸せを詰め込んだ宝石の様な笑顔が、二人の後悔と雑念を緩和させていくのを感じる

 


 

 《大切なんだ…(『連れ子が』)…》

 

 美来が勝手に認識した大切の対象は…美来が忌み嫌う…何もかも奪っていった連れ子だった

 

 二人の大切の意味を勘違いした美来の心は…もう戻れなかった

 

 冷たくて冷たくて、痛くて苦しい

 流れ込んだ記憶の中は…悲惨だった…

 大事な母のドレスを奪われ、抗議すれば非難の目を浴びたあの日の憤怒

 大事な大会の日、大好きで大切で心の拠り所だった…ウサギのみるくが凄惨な姿で美来の目の前に現れたあの日の絶望

 唯一の『家族』だと思っていた天沢が…美来を振り払って、連れ子を優先したあの日の憎悪

 

 

 連れ子を、守ったせいで…目を焼かれたあの日の恐怖

 


 全部が全部、もう限界だった

 美来を引き留めていた繋いでいた糸はもうほとんど繋がっていない

 

 目の前の残酷な現実を、美来は受け入れる以外・・・選択肢が無かった

 

「…わかった」 

 

 か細い声は、冷たく悲壮に満ちていて…手から溢れ出た血は、美来のパジャマを汚し…美来は、顔を背けてベッドに上半身を沈めて、耳を塞いだ

 

 何も聞こえない様に、血が頬や顔を汚すことすら気にも留めず、話掛けてくる二人の声も、もう美来には聞こえない

 

 きこえてなんていない

 

 美来の目元巻かれていた包帯は、うっすらとだが湿っていて、手のひらから伝った血は包帯を汚す

 

 

 美来は、もう口を開かなかった

 

 

 それでも時間は過ぎていく…美来が承諾したことで手術は明日の朝には準備が出来ると通達がきて…病院内は慌ただしくなり夜は更けて…

 

 また朝になる

 

 

 ハッと、美来が意識を覚ましのは、早朝の微かに空が白んできた頃だ

 

「ハッ、ハッー、ハ、ァ、ァ」

 

 小鳥のさえずりが微かに聞こえ、美来は上半身を起こすと、無意識なのか傷口にある手に爪を立てようとした

 

 しかし、すでに包帯でぐるぐる巻きに処置されていた手は頑丈で爪が皮膚に食い込む事なんてあるはずも無い

 

 ポタ、…ポタ

 

 シーツに染み込んだのは2つぶの水滴

 

 包帯がじんわりと滲んで、鼻からツーっと鼻水が出て、唇を震わせ、嗚咽が溢れた姿

 

「う、うっ〜ーー…ふぅっ」

 

 声を上げて泣くのは何度もあった、泣きながらも笑う姿も何度も見た

 

 でも、最近見るのは、この苦しそうで悲しそうな声を殺して喘ぐように泣く姿ばかりだ…

 

 苦しいよ、また元気な姿で笑って欲しい。

 美来の幸せに満ちた笑顔がもう一度見たい…

 

 

 なぁ、美来…俺の声…美来に届けばいいのにな

 

 

 ごめんな…俺は何もできないただの『傍観者』にしか過ぎないから、美来を救えない…守れない

 

 

「っ、しにたいっ、もうつらい…」

 

 初めて聞いた、美来の言葉に胸が痛い

 

 布団に顔を埋めて肩を震わせる美来を、俺は何も出来ずに見ていた

 

 ずっと、ずっと…あいつらが来るまで…ずっと

 

 聞き覚えのある、吐き気を催す革靴に踵を打ち付ける音が聞こえた

 

 美来にも聞こえたのか大きく震えて呼吸が荒くなっている

 

 

 革靴の音が美来の病室の前で止まると、スライド式のドアは思いの外優しく開かれた

 

「おはよう、良い朝だね…宝石 美来さん」

 

 昨日ぶりに見る闇医者の姿はニヤつき隠し、優しそうな微笑みを浮かべている、しかし穏やかそうな声色は、奥に潜めた冷たさを全て隠せてなく、その奥にある冷たさは鳥肌がたった

 

「美来、おはよう」

 

 奥から、天沢と唯史もきた


 二人とも、昨日よりは窶れてなくて顔色もよく元気そうだ

 

 闇医者が後ろにいた二人の看護師に目伏せすると、看護師は美来の元へと歩き出した

 

 美来は蹲ったまま、震えてると…一人の看護師が注射器を取り出して躊躇せずに美来の首を掴んだ

 

 ほんの一瞬の出来事に美来の頭の中は恐怖に満たされる

 

 体中の熱が失われて感覚と、カッと熱くなる目元


 

 そして美来は手に掴んだ枕の端を、思い切り首を掴んだ看護師に投げつけた

 

「っはなして!!!さわらないでよ!」

 

「美来!!?」

 

 天沢が美来の名を呼ぶが、美来は髪を振り乱して泣き叫ぶ

 

「きらいだ、あんた達なんて大嫌いだあああ!!!」

 

 がしゃんっ!

 

 窓の近くの柵にあった花瓶に、振り回していた手が当たり床に叩きつけられる

 

 ベッドの隣にあるテーブルの上にあったコップを投げる

 

 壁に当たりプラスチックのコップが欠けた

 

 同じようにテーブルにあったリモコンを投げる

 

 窓ガラスに直撃し窓にはヒビが入り、リモコンは電池が飛び散った

 

 美来も、必死に決まってる…

 

 このまま連れてかれれば、失明するんだから…

 上手いように利用されて、使い潰されるだけなんだから

 

 だから、抵抗するに決まってる

 

 天沢がボロボロ泣きながら美来に近づいて来たけど、美来は取り乱して気づかない

 

 天沢は、美来の顔に手を伸ばして

 

 ペチン、と優しく頬を叩いた

 

 音が出るだけの、優しい平手打ち

 

 美来が振り上げていた手を止めると、天沢は戸惑いながらも優しく美来を抱きしめた

 

「わがままばかり言う、美来は…私も嫌いだ…」

 

 

 その時、美来は何を感じたんだろう

 

 ぶちんっ

 

 音を立てて何かが千切れた

 何の音なのか俺にはわからない

 

 きっと美来のナニか…なのだろうが、わかりたくない、知りたくない

 

 

 美来は何を想ったんだろう

 

 

 力なく下された手に…

 

 天沢が抱きかかえて手術室までのストレッチャーに乗せられ拘束具を付けられる様子を、どんな気持ちで受け入れていたんだろう

 

 

 

 美来を乗せたストレッチャーが手術室に入って行くのを天沢がホッとした様子で見ていた

 

 

 

 そして時間は面白いほど経つのが早く、美来が運ばれてから…3時間が経った…

 

 

 手術が終わる予定の時刻をとっくに過ぎていて…天沢は不安そう手術室のランプを睨む

 

 二人はこの時間、一言も会話を交わし合わせることなく緊迫感のある時を過ごしていた

 

 天沢は、後悔していた…美来から目を離してしまった事への自責の念…

 そして、美来を大切にしていたのに常に優先にしなかった、後悔で頭が一杯だった

 

 

 後悔の気持ちは唯史も同様だ…

 

 重苦しい沈黙の中、唯史は口を少し開けて、天沢に言う

 

 ずっと胸中に秘めていた言葉を…伝える

 

「美来の目が治ったら…本当の家族として…一からやり直したい…

 

 もちろん、美来の一番の理解者はお前だってわかっているが…

 

 それでも…少しでも…あの子の…美来の目に映りたいんだ…

 

 ちゃんと親になりたい」

 

 唯史が、眉をキュッと寄せて、美来と向き合いたいと天沢に申し出ると、天沢も表情を引き締めて唯史に向き直る

 

 

「唯史さん…私も言いたかったんだ…

 

 美来を養子に迎えたい…戸籍上でも父親になりたい…

 

 だから…もしまた唯史さんが美来と向き合えなければ…私に美来を下さい…一生かけて、大切にすると約束するから…」

 

 

 

 天沢は唯史の目をジッと見て告げると、唯史も頷いた

 

 唯史は憑物が取れたかの様にスッキリとした面持ち…だが少し悲しそうに

 

「わかった…もし美来とまた向き合えなければ、お前が…美来を大切にしてくれ…もちろん、俺も美来を諦めるつもりもないが…」

 

 

 優しく微笑んだ

 

 

 

 

 そして、手術が終わったのを告げるランプが消える

 

 待ち望んでいたその瞬間に、天沢も唯史も立ち上がり手術室の前で美来の帰りを待っていると

 

 

 奥の通路から慌ただしく複数の足音が凄い勢いでこちらに向かって来ていた



 ウィンッ

 

 

 電子音の音が鳴ったかと思えば、中から出てくるより美来よりも先に、バタバタと乗り込んできた複数の警察官が乗り込んできた

 

 

 

 天沢と唯史が呆然として、動けない中でカラカラと点滴に繋がれた美来が車椅子に座り看護師に押されて出てきた

 

 顔は終始俯いていて、手首には拘束具が食い込み内出血を起こしている

 

 カラカラと点滴が揺れていて、美来の細い腕に幾つもの管が刺されていた

 

 

 痛々しそうな姿に天沢と唯史は駆け寄ろうとしたが…すぐに目の前に壁が出来た

 

 

「おい!目撃者きたぞ!」

 

「早く連れてけ!時間ねぇぞ!」

 

「先輩!点滴引っかかってスピード出せないっす!」

 

「あー、しょうがないから外させて貰え」

 

 ブツッ

 

「っおいっ!美来に何してる!!!」

 

 黒いスーツを着た団体が看護師から美来の車椅子を奪い取り何処かへ連れて行き、あまつさえ点滴を無理やり引き抜いている瞬間を目の当たりにして天沢も唯史も黙っているわけがなかった

 

「は?あんたら事前に話聞いてたんでしょ?

 

 タイムリミットは3時間しかないだから急ぐのは当たり前だろ…この子の目、もう見えなくなるんだから」

 

 この集団で一番若いだろう男が目の下に真っ黒いクマをこさえながら、面倒臭そうに言いながら天沢と唯史を非難するような目つきで見ていた

 

「可哀想だよな…この子…もう見えなくなるのに無理矢理手術受けさせられて…本当に…残念だよ」

 

 車椅子運ばれていく美来を見つめて、顔を潜める男に天沢は顔を青くさせた

 

「は?…何言ってるんだい…これは…美来が失明しないようにする為の手術だったはずだ…」

 

 信じられないと顔を横に振る天沢にスーツの男は顔を顰めた

 

「…おい君…一体、誰なんだ」

 

 ずっと黙っていた唯史がようやく口を開くと、スーツの男は胸ポケットから手帳のようなものを取り出した

 

 

「警視庁 公安課警備部 警部補 円城寺 帝…まぁ、警察っすわ」

 

 警察手帳をかざして名乗る男に、唯史は顔色を変える

 

 

「…君の…上司は…指示をだしたのは…警視正の…伊達か…?」

 

 その言葉の意味に、スーツの男…基…円城寺は顔を曇らせ頷く

 

「…その反応だと…かなり闇深い感じのこと起きてるって認識して…良さそうだな」

 

 円城寺は少し考えると、急に手術室へと歩いていった

 

 その後ろ姿を見届ける暇もなく、我に帰った二人は美来の元へと走りだした

 

 二人の顔は絶望に満ちている

 

 

 

 

 

 

 

 

 美来は久しぶりに色がつき広がった景色をぼんやりと眺めていた

 

 窓の外で、茜色に染まった夕日を…涙で滲んだ視界で

 

「綺麗だな…ぁ」

 

 ぽろっ、涙が一つ頰を伝って消えていく

 

 いつの間にか、どこか知らない封鎖的な部屋に連れてかれた美来は、数人の男に囲まれていた

 

「君が、宝石 美来ちゃんか…さっそくだけど君にも我々にも時間がないんだ…協力してくれるね…

 

 

 今から部屋の中に数人の男達がいる…

 

 その中で、君をそんな目に合わせた男を…教えてくれ…それじゃあさっそく…」

 

「あのさ…」

 

 俯いていた美来が口を開く

 

 喋っていた刑事であろう男は顔を顰めた

 

「私、会いたくない…あいつに…」

 

 カタカタと震える肩を抱きしめて、美来は俯く

 

 

 刑事に男はため息をわざとらしく吐くと、美来の乗っている車椅子を蹴った

 

 ガンッ!

 

「ふざけんなよ、障害者が…お前の気持ちなんて知らねぇんだよ…こっちは国を守ってんの、お前が会いたくなくても、こっちはテロリスト見つけるために無理矢理でも合わせるに決まってるだろ」

 

 美来は刑事の急変に顔を引きつらせた

 

「…テロリストを早く見つける為に…私の目…見えなくなるの?

 たった、それだけ…それだけの理由で?」

 

 美来は涙の膜が張り、今にも決壊しそうなのを耐えて刑事に食い下がる

 

 刑事は鼻で笑った

 

 

「お前一人の目が見えなくなるくらいなんだ…我慢しろ」

 

 美来はぐっと唇を噛み締め…男を見た

 

 

 でも、美来には…感情が浮かばなかった

 

 もう、全部出し切ったからだ…喜怒哀楽を一生分…

 

 だから今は、もう虚しい気持ちで心は動かない

 

 

 美来は何かを達観した…何かを受け入れた…

 

 

 もう体は震えなかった

 

 

「もういい…はやくして」

 

 美来は顔を伏せた

 

 刑事は上機嫌になり、美来の車椅子を押した

 

 そして押し開かれた鉄の鈍重な扉へ美来は招かれた

 

 

 部屋に入ってすぐ、血の匂いがした

 

 汗の匂いもした

 

「さぁ、宝石 美来…どいつが…君を害したんだ?」

 

 美来はゆっくりと目を開ける…

 

 

 キラキラと弾けた視界と共に、美来はあの日の凄惨な日を思い出す…

 

 

 あの日、あの時…あんな事がなければ…私は幸せだった…世界で一番…幸せだった…

 

 

 『ふざけんなよ、障害者が…お前の気持ちなんて知らねぇよ』

 

 優しい言葉に囲まれて、綺麗なところで生きてたの

 

 

  

 『お前一人の目が見えなくなるくらいなんだ…我慢しろ』

 

 自由な世界に住んでいて、好きな事だけしていたの

 

 

 だから…

 

 

 ゆっくり顔をあげる

 

 

 

 視界に映るのは、数人の男たち…

 

 でも一人しか美来は視界に入れなかった

 

 

 

 丸坊主の頭にタトゥーが彫られた厳つい顔の男

 

 切れ長の瞳は相変わらず爛爛と輝き、口元は嬉しそうに綻んでいた

 

 

 

 

 あぁ、こいつだ…この男だ…

 

 

 美来は不思議と怖くなかった

 

 刑事が何か言っている…でもどうでもよかった

 

 

 何より…この刑事が嫌いだった

 

 幸せだった私を、どん底に落ちた事を自覚させてくれたから…こいつが嫌いだった…

 

 

 この、目の前にいるテロリストなんかよりも…嫌いだった

 

 

「いました…テロリスト」

 

 刑事は目を輝かせた

 

 テロリストはため息をついて、ここまでか、というように笑った

 

 

「どいつだ!?早く教えろ!」

 

 鼻息荒くする刑事が気持ち悪い

 

 

 潔く諦めた様子のテロリストも気持ち悪い

 

 

 

 

 だから…だいっきらい

 

 

 あたしには、もう関係ないでしょ…

 

 

 

 指を戸惑なく向けた

 

 

 ピンッと真っ直ぐに…

 

 

 見知らぬ顔の初老の男へ指を向けた

 

 

 

 

「この人」

 

 

 

 後ろにいた警察官の群れが、私が指した男を拘束し連行していく

 

 バタバタと慌ただしくて、連行されていく男の叫び声が耳に痛い

 

 ここには、もう警察官も刑事もいない

 

 あっという間の出来事だ

 

「オマエ…ナゼ」

 

 

 目の前の『坊主頭にタトゥー』の男が、間抜けな顔をしていた

 

 

 私は、思わず笑ってしまった

 

 

「あたしだけ…かわいそうなんてずるいじゃん…だから…あたしも今『連れてかれた人』の悪者になった…それだけ

 

 ー…だから…もういいんだ…

 

 

 

 あたしも…アンタも…誰かが誰かの悪役なんだから…さ。」

 

 

 あたしはゆっくりと車椅子から降りた…

 

 

 よろけたけどなんとか立てた…

 もう時間…ないんだろうなぁ…

 

「バイバイ…テロリストさん…あたしの分まで逃げ切ってね」

 

 

 後ろで何か言ってたし、聞こえたけど、もうそんな言葉…あたしには無意味だし必要なかった…

 

 

 あたし…もういいよね…

 

 

 頑張ったんだから…

 

 

 

 もう…いいよね…

 

 

 

 外に出た…空が真っ赤だった…

 頬をそよぐ風が気持ちよかった…

 

 あたし、走るよ…

 

 みるく…ママ…

 

 あたし…走っていくよ…

 

 

 

 大丈夫…走るのは大好きだし得意なの

 

 

 どんなに遠くても走っていける…

 

 ちゃんと景色を見たいのに、涙が溢れて視界が歪む…

 もう2度と見ることが出来ないから…目に焼き付けたいのに

 

 涙が止まらないんだ

 

 

 裸足で走ってたから、いつのまにか擦り切れて血が出てたし、爪は数枚剥がれてた

 

 でも痛くないよ…もう何も痛くない

 

 

 でもどんどんどんどん…走るスピードが下がってきた

 

 外もだいぶん暗くなった…

 

 

 足が縺れて何度も転んだ…

 

 

 走れなくなったら、歩いた

 

 

 あたし、ー…歩いたよ

 

 歩いて、歩いて…見えなくなった

 

 

 転んで、手探りで這って

 

 

 見つけたの…周りの音も、人の気配もないところ…

 

 

 そこはちょっと寒くて、泥の匂いがいて、息苦しかったけど…

 

 

 どうしようもなく安心したの…

 

 

 あぁ…ー、ここなら安全…

 

 ねぇ、ママ……あたし、もうゴールしていいよね?

 

 

 

 

 

 あぁ、どうしよう…最後に…ー

 

 …お父さんに、会いたいなぁッ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 美来が見つかったのはそれから1週間後の事だった

 

 

 

 衰弱死した美来が見つかったのは病院から20キロほど離れた人気のない河川敷の不法投棄され倒れたドラム缶の中だった

 

 

 

 

 

 それが…前の人生

 

 

 美来の最後…

 

 

 

 

 

 

 

 それを思い出した。

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救われない脇役のハナシ 寿元まりん @jmt_mrn1003

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