遠くへ運んで、私は遠くへ運んで、ただ覚えていること、信じていることを

困っている人が訪れる病院のような、古本屋みたいな店なのかもしれない。
本作は、キロク屋と屋号を掲げて他人のキロクを買い取る商売をしている。
買い取られて忘れるところかも、行っているのは記憶の買い取りである。
忘れたいことの一つや二つ、生きていれば抱えてしまう。
ときに足かせとなり、臆病になってやる気も元気も失い、動けなくなってしまう。
鬱や自殺の原因にもなり得る。
だからそれらを忘れることで、また歩き出せるようになる。
その点、すばらしい。

人の感情は、つらいを体験してつらいを学び、悲しいを体験して悲しいを学ぶ。
それすらも忘れると、感情を学ぶ機会が失われる。
つまり、買い取られるとその分、人生経験が下がってしまう。
だから売った後、できないことが出てくるかもしれない。
取り戻すには、時間と努力が必要になってくる。
忘れても、年齢は若返らない。
なので、外見が変わらなくとも精神は幼くなり、出来ていたことが出来なくなって苦労する可能性がある
それらのことが、契約書に明記されていない点が不親切に感じた。

主人公が学生だったとき、コンゴウにキロクを買ってもらっている。
学生時代の経験も買われてしまって本人はわからないのでは、と想像する。
学生時代に本当に恋愛していない事も考えられる。
両親からの暴力で、それどころではなかった可能性もある。
主人公がいつから暴力を受けていたのだろう。
それこそ幼い頃からだとすると、買われた期間が長いほど精神的に幼く、人を好きになる気持ちすらわからないのではと邪推する。
主人公の人との関わりが淡白で淡々としているのは、キロクを買われて精神的に幼くなっているから。
そう考えると、うまく描けていると思える。