後篇 7月8日

 ぼんやりと大学を出て、流されるように就職をして、三〇も手前の二八を迎える間際の僕が、一〇年越しに水沢レナの名前を聞いたのは偶然再会した中学の後輩からだった。

 その後輩は高校を出てからそのままあの町で就職し、たまたま仕事の都合で東京に来ていたところを僕と再会したというわけだ。

 僕の後輩であり、レナの同級生でもある彼はまるで天気の話をするみたいな気安さで、僕が町を去ったあとレナに起きたことを語った。

 結論から言えば、レナは既に結婚していた。聞けばあの小さな町ではそれなりの名家らしく、確かに数年しか住んでいない僕でもなんとなく耳にしたことのある苗字だった。

 幸せならそれでいい。この町を出て、七夕にレナの幸せを願う習慣はすっかり忘れてしまっていたけれど、彼女が幸せならばそれは心から喜ばしいことだと思う。

 だけど彼女の生活は、お世辞にも幸せとは言い難いものだった。

 住んでいるのは旦那の実家。よくある話なのか、義母は嫁であるレナに辛くあたり、当の旦那は素知らぬふりをする。なまじ名家なんて言われている手前、やたらと厳しいしきたりや古臭い倫理観を押し付けられ、子供はまだかと生きた心地のしないプレッシャーのなかでの生活を強いられる。極めつけは義父の介護らしく、罵倒されることは日常茶飯事。機嫌が悪い日には叩かれることすらあるそうで、腕はあざだらけだという。

 どうしてこの後輩がそんなことを知っているのか疑問だったが、僕はその言葉を信じることにした。いや、信じないという選択肢がなかった。

 もし僅かでも、彼女の幸せが害されている可能性があり、僕がそれを知っているならば、知らなかった振りをするなんてことができるわけないのだ。

 かくして僕は一〇年ぶりにあの町へ戻ることになる。

 夜空に天の川が掛かるあの夜に、レナを攫いにいくのだ。


   ◇◇◇


 誘拐とは、我ながら大きく出たものだと思う。

 というのも綿密な作戦があるわけでも、確かな勝算があるわけでもないからだ。

 ただ例の後輩から聞き出したレナの連絡先に〈七月七日、家族が寝静まったあとに小学校の校門で待ってる〉というあまりに不躾なメッセージを送っただけ。レナがメッセージに気づかなければそれまでだし、そもそも気づいてくれたところで誘いに乗ってくれる見込みは薄かった。


 だけど、校門の位置からちょうど見える、校舎の時計が二三時三〇分を少し過ぎたころ。レナは薄手のパーカーとジーンズ、顔にはマスクをつけて僕の前に現れた。

 梅雨の合間、雨の予報すら撥ね退けて奇跡的に晴れた夜空にはダイヤモンドを散りばめたようなきれいな天の川が掛かっていた。


   ◇◇◇


「久しぶり」

 僕は花屋で買っておいた花束サイズの笹の木を掲げる。控えめに言って怪しかったのだろう。マスクをつけていてもレナが険しい表情をしたのが分かる。

「こんな時間に呼び出してごめんね」

「うん」

 レナが頷く。一〇年ぶりに会う彼女はやっぱり綺麗で、だけどその輝きには確かな影が差しているように感じられる。

 たぶん後輩の言っていたことはおおよそ事実なのだろう。僕は怒りを呑み込むように、奥歯をきつく食いしばる。

「これ、書いて」

 怪訝さの次は困惑。当然だ。夜中に、しかも一〇年ぶりに呼び出されていきなり短冊とペンを渡されるのだ。もしレナがここで踵を返して逃げたとしても、僕は一言も文句が言えないだろう完全な奇行だ。

 だけど奇跡は続くもので、レナは短冊とペンを受け取ってくれる。僕は校門に笹を立て掛け、自分の分の短冊に願い事を書き綴る。

「七夕祭りってさ、まだやってるのかな」

「…………」

「やってなさそうだよなぁ。今の親って、そういうの面倒くさがる人多そう。根拠はないけど」

「…………」

「でも晴れてよかったよね。去年も一昨年も雨だったから。今年はようやく、彦星と織姫も会えそうだ」

「…………」

 僕は意味のない会話を一人で続けた。何か話し続けていないと、レナが不意にいなくなってしまうのではないかと思った。

 やがてレナが口を開く。

「何なの、これ」

「七夕だよ。まだぎりぎりセーフだ」

 二三時四〇分。まだ彦星と織姫の逢瀬は続いている。

「そうじゃなくて――」

「いいから。願い事」

 ここまでくれば後は押すだけ。だんだん自分でも何をしているのか分からなくなりつつあったけれど、僕は短冊に願い事をしっかりと書き終える。

 レナは短冊とペンを握り締める。短冊はレナの荒れた手のなかでくしゃくしゃになっていった。

「願い事なんて、ないよ。もう叶わない」

「叶うよ。僕が叶える」

 僕はレナの言葉を突っぱねるように言って、小さな笹の木に自分の短冊を結びつけた。それからそれを、まるで刃を突きつけるみたいに有無を言わせず、レナに向けて差し向ける。

 温い風が吹いて、葉擦れの音と一緒に一つだけぶら下がる短冊を揺らしていった。

 レナの大きな丸い目が真っ直ぐに僕を見ている。それは僕を咎めるように睨んでいるようで、同時に助けを求めているようにも感じられた。

 僕は大きく深呼吸をした。一〇年前になかったことにした気持ちを、今ここで伝えるのだ。

「僕の願い事は、レナの次の一年が、幸せな一年になること。初めてレナと七夕祭りをした日から一度も変わらない。僕は僕の願い事を叶える」

 レナの視線が赤い短冊へと落ちる。短冊が揺れるのに合わせて、彼女の瞳も頼りなさげに揺れた。

「僕がレナをさらうよ」

 そう言って僕がレナの左手の薬指に嵌まる指輪を取り去ると、レナが困った顔をする。分かっている。きっとこんなことをしても彼女の現実を覆う何かが変わるわけでもないし、こんな無茶苦茶な僕の行動を手放しで喜んでくれるはずもない。

 だからたぶん、これはただの現実逃避。一〇年前に言うべきことを言わずに去った僕の、都合のいい青春の延長戦だ。

 きっと僕にできることなんて実際はたかが知れていて、本当の意味でレナを救い出すことなんてできやしないのかもしれない。たぶんあのとき物分かりがいいふりをして、親の都合に左右されるしかなかった子供ときの無力な僕と、そう何も変わっちゃいないのだろう。

 だけど、それでも僕がレナを、このどうしようもない現実から救い出したいと思ったのは本当だった。

 だからもう物分かりがいいふりはしない。

 未来のことなんて知らない。

 空になんて願わない。

 ただせめて、明日という一日くらいはレナにとって特別な日になるように、僕はこの瞬間、レナの手を取らなければいけなかった。

「無責任だよ」

「知ってる」

「馬鹿なの?」

「それも知ってる」

「遅いよ」

「それは、ほんと、ごめんなさい」

 僕が情けなく肩を落として言うと、レナはようやく笑ってくれた。

「レナ」僕は言う。「生まれてきてくれてありがとう」

 時計の針が頂点で重なった。

 星降る夜をこえて、僕らは今日へと駆け出していく。

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星降る夜をこえて やらずの @amaneasohgi

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