星降る夜をこえて

やらずの

前篇 7月7日

 一〇年ぶりに僕はこの町へとやって来た。

 果てしないほどに遠いと思っていた空は記憶よりもずっと近くて、圧し掛かるみたいに僕の頭上を覆っている。

 そんな苦しげな夜の空に、数多の星が瞬いている。

 梅雨空に訪れた束の間の晴れ。それはまるで、これから一年にたった一度の逢瀬を重ねる彦星と織姫を歓迎するかのようだった。

 僕は空を見上げながら小さく息を吐く。

 これからすることを思えば、当然の緊張感だ。

 僕は彦星なんかにはなれないけれど、それでも彼女を――レナをこのくそったれな現実から連れ出すためにここにやってきた。

 そう、僕は今から誘拐犯になる。


   ◇◇◇


 もう一六年も前のこと。

 だけどそれは、言うなれば始まりの日で、僕にとっては昨日一昨日の記憶なんかよりもずっと、鮮やかな解像度をもつ思い出だ。


 渋滞する熱をかき回すような、心地よい風が吹いていた。

 生い茂る草木の溌剌とした生命力を吸い込んで。昼間に散々降り注いでいた太陽の残り香を閉じ込めて。

 夜になればもう、日中は鬱陶しくて仕方のない蝉の声も聞こえない。夜の学校という、わくわくする気持ちを抑えきれないみんなの声に混じって、グランドの隅に立てられた笹が風に揺られて葉擦れの音を奏でている。

「あれが夏の大三角形」

 すぐ横から声がする。僕はを見やる。首が折れたんじゃないかと思うくらいに夜空を見上げて、レナが隣りに立っている。

 みんなが親と一緒に願い事は何にするとか話したり、校長先生が振る舞ってくれたスイカを食べたりしているのに、彼女はそんな輪の中には加わらず、真っ黒なカンバスにこぼした絵の具みたいな天の川が流れる空を指差している。

「どれ?」

「あれよ。あれ。よく光ってるあれ」

 レナは言って、指で何度も三角形をなぞっている。僕は懸命にその指先が示す星々を辿ろうとしたけれど、結局どれがどれなのかは分からない。だから曖昧に笑って、てきとうに誤魔化すことにする。

「あれね、あれ」

「もう。理科で習ったのに」

 どうやらレナに誤魔化しは通用しないらしく、手を下げた彼女は落胆しながらそう言って、小さなほっぺを膨らめる。だけど膨らんだほっぺはすぐにしぼんで、柔らかく緩められていった。

「もうお願い事書いた?」

「まだ」問いかけるレナに僕は訊き返す。「レナは?」

「もう願ったよ」

 レナもそれだけ答えた。願い事は人に言いふらすと叶わなくなるというから、あえて中身を訊くような野暮はしない。僕だってそのへんの分別は弁えているつもりだ。

「彦星様と織姫様が出会ったから、わたしは生まれたんだよ」

「どういうこと?」

 僕は首を傾げる。レナは自分のことを彦星と織姫の子供だとでも言うつもりだろうか。もちろんそんなわけないことを僕は知っている。僕とレナは学年こそ三つ違ったけれど、家が近いこともあってレナの両親とだって顔見知りだ。

「ママが言ってたの。元気な赤ちゃんが生まれますようにって、彦星様と織姫様にお願いしたんだって。だから私は元気に生まれたの」レナは少し恥ずかしそうに笑っていた。「明日、わたしの誕生日なの」

 その不意に見せられた笑顔があまりに可憐で、僕は思わず目を逸らす。にわかに心臓の鼓動が高鳴って、身体の内側から熱がどくどくと湧きだした。不思議そうに僕を覗きこむレナに、この脈打つ体温を悟られたくなくて、僕は平気な顔を取り繕って返す言葉を探す。

「そうなんだ。誕生日が二つあるみたいでいいな」

 感情を押し殺して言った言葉はたぶんひどくぶっきらぼうで、レナの話になんかまるで興味ないみたいに聞こえたはずだった。だけどレナは目を丸くして、それから天の川みたいに白い歯を溢して、星々よりも眩しい笑みを表情いっぱいに浮かべた。

「えへへ」

 取り繕っていた平静さなんてものは一瞬で吹き飛んで、僕はその場に固まった。彼女の笑顔に釘付けになって、息の仕方さえも分からくなってしまったみたいだった。

 僕とレナの間に沈黙が広がる。レナは僕の様子があまりにも変なせいで、困ったように首をかしげていた。やがて短冊に願い事を書き終え、スイカを頬張っていた友達たちが僕らの元へとやってくる。

「なあ、お前は願い事なんて書いたんだよ」

「早くしないとスイカなくなっちまうぞ」

 まとわりついてくる彼らは普段なら鬱陶しかったけれど、この瞬間だけは渡りに船。僕は彼らに感謝をする。

 僕が友達に連れられてその場を離れると、今度は入れ違いにレナの同級生の女の子たちがレナの元に近づく。そこでもやっぱりレナは夏の大三角形を指差して夜空を見上げている。

「お前まだ願い事書いてねえのかよー。なんて書くの?」

「俺はサッカー選手になりたいって書いたぜ!」

「内緒だよ」

 友達にそう答えると、元々騒がしい彼らはわっと声を大きくする。

「どうせエロいこと書くつもりやろー!」

「スケベじゃ、スケベじゃ」

「誰がスケベじゃ」

 僕は言って、絶対に彼らに見られないよう小さな文字で赤い短冊に文字を走り書きする。そしてみんなの短冊を笹に結んでいた先生のところまで駆けていき、裏返しにした短冊を突き出す。

「一番高いとこにつけて」

「一番高いところ?」

「そう、一番高いところ」

 僕から短冊を受け取った先生は、書かれている内容を見てその意味を理解したらしく、優しく微笑んで頷いた。僕は嫌だったけれど、自分ではどんな高い梯子に乗っても一番高いところにはつけられないので仕方がなかった。

「わかった。一番高いところね」

 もちろん先生が勘繰った通り、僕が一番高いところを指定したのは書いた願い事を誰にも見られたくなかったからでもある。だけどそれだけじゃない。むしろもう一つの理由のほうが、ずっと大切で、意味のあるものだ。


 ――〈レナのつぎの一年が、幸せな一年になりますように〉


 それが、僕が短冊に書いた願い事。だからこそ空にいる彦星と織姫からもよく見えるように、笹の木の一番高いところに結んでおいてほしかったのだ。


 僕は小学六年で、レナが小学四年。

 東京からこの町に引っ越してきた僕が、レナと過ごした初めての夏だった。


   ◇◇◇


 僕があの夜ひっそりと祈った願い事はつつがなく、誰に見止められることもなく叶っていく。

 レナは毎日元気に過ごしていたし、楽しそうに笑っていた。知る限り怪我や病気をした様子もなかったし、友達とも仲良くやっているようだった。

 もちろん僕が願ったおかげなどというつもりはない。だけどレナが幸せそうであることが、僕にとっては嬉しいことだった。

 しかしその一方、僕はあの夜以来、レナの顔をまともに見ることができなくなっていた。理由は分からない。ただ一緒にいると妙に鎖骨のあたりが苦しくなって、身体が変に熱くなるのだ。喋ろうと思っても上手く言葉は出てこないし、真っ直ぐに顔を見ることもできない。

 そしてそうこうしているうちに春がやってきて、僕は小学校を卒業する。中学に上がればもう今までのようにレナと顔を合わせることはなくなる。そして中学にもなれば、小学校のときのような無邪気さは消え、代わりに明確な男女としての意識が芽生えてくる。

 そうなると僕は余計にレナと話せなくなり、僕より二年遅れて中学生になったレナもまた僕に必要以上に関わることはなくなった。

 接点があるとすれば年に一度、小学校で行われる七夕祭りくらいのもの。卒業生を快く招いてくれる先生たちの言葉に甘えて、他にやることもなかった僕は家から菓子折りを持参しつつ毎年顔を出していた。

 最初の二年はレナもいた。久しぶり、なんて言葉を交わした。僕はしっかりと予習してきた夏の大三角形を探し当ててやろうと意気込んでいたけれど、空は曇っていて星は見えなかった。その次の年は雨だった。

 みんなが雨宿りしているなか、レナは顔中に雨を浴びながら悲しそうに空を見上げていた。その姿は、まるで祈っていれば雲が晴れるのだと本気で信じているような静かな気迫に満ちていて、僕は声を掛けることができなかった。

 ちなみにどっちの年も、僕は短冊に同じ願い事を書いた。中学に上がるとすぐに背が伸びた僕は、図々しくも自分の短冊を笹の一番高いところに結んだ。後輩たちからは非難が殺到したけれど、僕が何を書いているのかを唯一知っている例の先生が彼らを宥めてくれた。

 三年目、つまりレナが中学に上がった年。七夕祭りにレナの姿はなかった。少なからず期待していた僕はがっかりしたけれど、卒業してまで小学校のイベントに顔を出すほうが酔狂なのだと思い直すことにした。もちろん願い事はいつもと一緒だ。レナは今頃、明日の晩ごはんに食べるケーキのことでも考えているんだろうか。

 四年目に僕は高校生になり、やがて五年目を迎える。どっちの年にも、やはりレナは来なかった。年々薄まっているはずの期待に反比例するように深くなっていく落胆に、僕はようやくレナへの気持ちを自覚する。だから僕はいつものように願い事をした。レナの次の一年が、幸せな一年になりますように。


 だけど六年目はやって来なかった。

 五年目の七夕祭りを終えた年の冬、僕はこの町に来たときと同じように父の仕事の都合でこの町を去ることになったからだ。

 レナに気持ちは伝えなかった。たぶんいなくなることを引き換えにして気持ちを伝えるなんて卑怯な気がしたし、吐き出すだけ吐き出してこの町に置いていくにはこの気持ちは重すぎた。立つ鳥跡を濁さず。僕はそれが正しい選択なのだと物分かりがいいふりをした。

 だから僕は近所のよしみで見送りに来てくれたレナに素っ気ない別れだけを告げて、この町から立ち去った。

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