第49話 interlude.3 下心丸出して、センセに無茶なお願いをしたあの日のアタシを褒めてやりたい。
リビングに、食器を洗うカチャカチャという音が聞こえる。
テレビは付けていないので、聞こえるのはそれだけ。
それを聞きながら、アタシは夕食後シンクの前に立って食器を洗うセンセの姿を、じっと横目で眺めていた。
「こっち見てないで、その問題を解けよ。それとも、何か分からないとこがあるのか?」
「あはは、分からない訳じゃないんだけどさ。この問題、多分もっと早く簡単に解く方法があると思うんだけど…… それが思いつかなくて……」
視線に気付かれたことを、苦笑いで誤魔化す。
最後のお皿を洗い終えたセンセは、それをフキンで拭いて食器カゴに差すように置いた。
新名さんがいつも「最新式の食洗器が勿体ない」と言うが、アタシはこうして食器を洗うセンセを見ているのが好きなのでそうは思わない。
多分、センセの部屋で過ごした日々が思い出せるからだと思う。
「ほう、そのことに気付けるくらいには、お前も数学に関する知識を頭に蓄えられたみたいだな」
「言い方。 ……なんか最近センセ、アタシに対する遠慮がなくなって来てない? まぁ、アタシはそういうのちょっと嬉しいんだけど……」
「あはは、お前に遠慮なんてしてもな」
「だから、言い方!」
濡れた手をタオルで拭きながら、少し意地悪な笑顔でリビングに歩いてくるセンセ。
その笑顔に、何故かドキッとして思わずその顔から目を背ける。
「どれどれ? ああ、その問題か…… それならここを先にくくってから……」
「ああ、そっか。なるほどね! アタシいまだに、この途中だけまとめるのって苦手なんだよね……」
そのままテーブルに手をついて、アタシの顔のすぐ横からノートを覗き込む横顔。
その真剣な表情に、アタシは無駄にドキドキしてしまう。
最近のアタシは、常にこんな感じだ。
センセの無防備な行動に、いつもドキドキさせられている。
ほんの一カ月前なら、こんなことはなかったのに……
「どした? まだよく分からんとこあるか?」
「う、ううん。だいじょぶ。分かった ……と思う」
「よし、んじゃ、同じ要領で次の問題もいけるから、その『だいじょぶ』を証明してくれ」
「わ、わかった! 任せて!!」
センセの態度はずっと変わらない。
変わってない。
変わったのはアタシの方だ。
この一カ月、本当に色々あったから――。
黒桐の怪文書の件があって、センセが私を守る為に仕事を辞めた。
その後、新名さんの計らいで、こうして今は三人で一緒に住む様になった。
それから、アタシの生活は、色んな意味で一変した――。
『ねぇ、冬月の話聞いた?』
『ああ、なんか元生徒と付き合ってたとか、生徒をいかがわしい目で見てたとか…… 結構ヤバそうな噂が立ってるよね? インコーとか?』
『デマなんじゃないの? 冬月先生に限ってそれはなくない?』
『いや、デマだったら辞めないでしょ。冬月、あの噂のあとすぐに塾辞めたじゃん。やっぱガチなんじゃね?』
『え? マジか……』
『いやいや、あの塾ブラックだったし、辞めたのとあの噂が関係あるかどうかは分からないでしょ』
『うち、まだ塾に通ってる妹居るから、緊急の説明会に親が行ったんだけど、例の噂は半分本当で半分嘘って感じらしいよ?』
『は? なにそれ? どゆこと?』
『えっとね…… 親が録画した動画があるから、それ見たら早いかも……』
いくつかある塾の卒業生が作ったグループLINEで流れて来た会話。
このグループは、アタシの代とその次の代の子達が入ってる。
例の『緊急保護者説明会』から数時間。
卒業生達の間でも、センセの話題が騒がれ始めていた。
ただ、センセが各学年に影響力のある卒業生達に色々と根回しをしていたから、それが大きく広がることはない。
大抵は、グループに参加している誰かしらが、センセの『緊急保護者会』の動画を共有して、騒ぎが収まる感じだった。
「予想していた程ではないけれど、やっぱり反響は大きいみたいだね」
アタシを心配してウチに来てくれた秋良も、それを私の横から覗き見て溜息をこぼす。
「はぁ…… アタシの話が全然出てこないのは流石っていうか…… センセも完全に悪者って感じにはなってないし……」
「捨て身だった割にはね……」
秋良と一緒に色んなSNSを確認してみたが、大方はセンセの目論見通りだ。
センセを非難する声が2割。
センセを擁護する声が4割。
どうでもいいって取り合わないのが4割。
『冬月先生がロリコンだったかも』とか、センセのネガティブな情報は出て来ても、必ず誰かがそれに『違う!』って声を上げてくれる。
その辺は、センセの人柄のなせる技。
でも、センセの良い評判については、何処からも聞こえなくなっていた。
「こうして表には出てこないけど、センセに対する悪いイメージは、この辺の地域の人達とかには広がってる……」
「それはもうどうしようもないよ。『人の口に戸口は立てられない』からね……」
「……『人の口にトグチ』……?」
「ああ、えっと、“世間の人が噂を広めるのは、どうにも止めようがない”っていう意味のことわざだね」
「あ、あはは、そうなんだ…… ベンキョーになります」
アタシが秋良の言葉にきょとんとしていると、ヤレヤレと言った風にその言葉の意味を説明してくれる。
広がってしまった噂話は、センセに関係ない人の耳に入った時点で、事実とは無関係に歪みながら広がってしまう訳だ。
センセをよく知らない人たちのところに広がったあの噂は、もう誰もフォローしない。
だから、噂通りのイメージがセンセに結び付けられる。
「『教え子に下心を持って、勉強を教えていた淫行講師』……か」
それが、センセのことを何も知らない、大多数の人達からのセンセへの評価だ。
「やっぱり、やだよね…… こんなの」
「でも、それが冬月先生の狙いな訳でしょ? 自分にヘイトを集めて、瞳に噂の矛先が向かないようにって」
センセが望んだことだって言うのは分かってる。
でも、アタシはやっぱり、この評価を受け入れることは出来ない。
「いや、だって、間違ってるし…… 好きな人が変な風に周りに誤解されてるのはなぁ…… それに、下心持ってたのはぶっちゃけアタシの方だった訳だし……」
「あはは…… それは確かに」
だから、アタシはアタシで、このセンセの悪い評判と戦うことにした。
その辺は、センセの了承も取っている。
「センセがアタシを必死に守ってくれてるんだから、センセはアタシが守らないとね!」
「いや、守るって、どうやって?」
スマホをタップして、アタシはアプリを落とす。
見ると充電が少しヤバそうだったので、そのまま枕元の充電器に繋げた。
やることはもう決まってる。
あの噂の内容を訂正することは、センセの望むところではない。
私がすべきことは、あの噂を聞いた人がそれに対して悪印象を持たないようにすること。
その為には、色々下準備が必要だ。
「まずは両親に説明かな? っていうか、新名さんからのお話にOK貰う為にも、やっぱ避けては通れないんだよね…… あはは――」
秋良の質問にそう答えて笑っていると、アタシの部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「瞳、ちょっといいか?」
続けて聞こえて来たのは、お父さんの声だ。
「なに?」
アタシはベッドから起き上がり、部屋の扉を開ける。
すると扉の前には、不安と怒りを感じさせる表情を浮かべたお父さんが立っていた。
その後ろには、心配そうな顔のお母さん。
まぁ、そろそろだろうとは思っていたので、アタシはそれほど狼狽えはしなかったけど。
「これは、どういうことだ?」
お父さんは、自分のスマホを取り出して、アタシの鼻先に突きつけてきた。
そこに表示されていたのは、例の怪文書の画像だった。
「それじゃあ、私は帰るね」
恐らく空気を読んで、そう言ってくれた秋良の服をアタシは思わず摘んでしまう。
「……? 瞳?」
「……秋良も一緒にいて」
「いや、お父さんと大事な話でしょ? 私がいたらお邪魔に……」
「アタシがお父さんのことぶん殴らないように見張ってて」
「ぶん殴るって……」
これから、お父さんが私に言うだろう言葉を想像すれば、それはそれほど的外れな想像じゃないと思う。
「……まぁ、あり得るのかもね。今の瞳なら」
どうやら、秋良もそこは同意見だったようだ。
アタシの無茶な注文を、ため息混じりに承諾してくれたのだから。
そうして、若干不安そうな秋良を伴い、お父さん達の待つリビングへと向かった。
「説明してもらおうか? この画像の文書に書かれていることは本当なのか?」
アタシが椅子に座るなり、お父さんは単刀直入に聞いて来た。
まぁ、そう言う人だ、この人は。
「本当な訳ないでしょ。センセはそんな人じゃ……」
「事実かどうかは別にしても、やはり瞳をあんな男に任せたのが間違いだったんだ。授業料も取らず、夕食の提供だけで全教科の面倒を見るなんて……よくよく考えれば下心もなしにありえんからな」
アタシの言葉を最後まで聞こうともせず、お父さんはそんな事を言い出す。
「まったく、学生を相手に欲情などふしだらにも程がある。まぁ、今思い返せば、最初からそういうやつだったな。こうなることは目に見えていた…… 本当にお前は兄さんと違って、私に迷惑しかかけないな。こんな噂が私の職場にまで届こうものなら、世間様から白い目で見られてしまう――」
お父さんの口から吐き出される言葉に、アタシは苛立ちを抑えられないかった。
思わず握り絞めた拳。
やはりぶん殴ってしまおう、そうしよう。そう思った。
でも、秋良はそれをそっと手で包んで、アタシに向かってゆっくりと首を振った。
「……あはは、ありがと、秋良」
そんな秋良にそっと耳打ちして、アタシは深呼吸した。
ぶん殴っても、面倒なことになるだけだ。
「お父さん、冬月センセをそんな風に言うのはやめて。センセはそんな人じゃない」
真っ直ぐお父さんの顔を見つめて、アタシは真剣な顔をした。
お父さんが、息を呑んだのが分かった。
「だ、だが、噂では『お前に対して下心があった』と言ったそうじゃないか!」
「アタシはセンセがそう言ってくれて嬉しかったよ。だって、そう思って欲しいってずっと思ってたから」
「んなっ!? お前は何を言ってるんだ?」
アタシと話すお父さんが、こんなに狼狽えるのを初めて見た。
いつも言葉に詰まるのはアタシだったのに。
「この際だからハッキリと言っておくね、お父さん」
けど、そんなお父さんのことなんてお構いなしに、アタシは言った。
これまでのお父さんがそうだった様に。
「アタシにとって冬月センセは、世界で一番信頼してる大切な人なの。センセがアタシのことをどう思ってるのかは分からない。でも、アタシはいつか、センセのお嫁さんになりたいって思ってる。だから、アタシの大好きな人のことをこれ以上侮辱しないで……」
お父さんは言葉を失った。
その横でお母さんは笑顔で親指を立てて、アタシの隣で秋良は苦笑いを浮かべていた。
それから、アタシはお父さんに怪文書の出所だけをぼやけさせたまま、ことの顛末を全て説明した。
センセを妬んであの怪文書がでっち上げられたこと。
センセが怪文書の犯人を含めた色んなものを守る為に、貧乏くじを引いて職を辞したこと。
そして、アタシの未来を何より大切にしてくれたこと。
ほとんど洗いざらい全部だ。
そのまま流れで、新名さんからのシェアハウスの話をしたら、殊の外あっさりとお父さんからの許可が降りて驚いた。
「そ、その、彼はこれからどうするんだ? 次の仕事は決まっているのか? よ、良かったら私が……」
もう、お父さんの目にセンセに対する軽蔑の色は見えなかった。
「それは多分大丈夫。食にあぶれたセンサをスカウトしようとしてる人がいるみたい。センセはユウシュウだから」
「そ、そうか……」
どうやらアタシのことを身を投げ打って守ってくれたセンセのことを、本気で心配してくれてるみたいだ。
「今度、彼のことをウチに連れて来なさい。彼と一度、キチンと話がしたい」
ただ、そう言うお父さんの目には、先ほどとは別の荒々しい感情が渦巻いている様だ。
センセをここに連れてくるのは、しばらく先にした方がいいだろう。
そんなこんなで、アタシは新名さんが用意してくれた部屋で、センセと新名さんとの同居を始めたのだ。
基本的には、これまでのセンセと二人の生活と同じだ。
在宅での仕事を終えたセンセに、ご飯を提供する代わりに勉強を教わる。
あの事件の前の生活に戻る。
そのはずだった。
「……どした? 『だいじょぶ!』なんじゃなかったか?」
「へ? あ、あははは……ちょっとボーっとしてた…… なになにセンセ? 愛しい瞳ちゃんのことが心配になっちゃったわけ?」
「ん? まぁな。」
「あはは、『受験も近いから』で――」
「なんか少し顔も赤いし、お前らしくないミスも多い…… そりゃ心配するだろ。お前は俺の許嫁だ。俺にとって、なによりも大事な存在だしな」
「――……っっ!?」
どうして、この人はこういう事を平然と言えるのだろうか?
アタシの告白に対しても、さらっと……
『ありがとう、俺もお前のことが大好きみたいだ』
とか言うし。何だそれ? 神か?
はぁ、そう言うところも好きなのだ。
好きすぎてしんどいくらいだ。
……って、何を考えているんだアタシは。
なのに、なのにだ。
そんなこと言っておきながら、基本的にはアタシに対する態度はこれまでと全く変わらないとか……
もう、わけが分からなくない?
ほんとに少しはアタシの気持ちも考えて欲しい。
っていうかアタシは、こんな関係になれるなんてありえないと思ってた。
じっくり時間をかけて、アタシを好きになって貰う。
そんなつもりでいたのに……
突然センセがアタシのことを『大好き』とか言うもんだから、アタシの心はもうぐっちゃぐちゃだ。
まぁ、普段はおちゃらけて誤魔化してるけども……
「い、愛しの許嫁がこの問題解けなくて困ってるんですけど?」
「そこは頑張れ、愛しの許嫁」
「……はぁい」
なんだが、完全に手玉に取られている気がする。
それが、なんと言うか癪だ。
でも……
「はぁ、悪くないなって思っちゃってる時点で、もうね……」
「ん? なんだって? 良く聞こえなかったからもう一回――」
「何でもない! ちょっと真剣に解いてるから、センセは静かにしてて!」
「お、おう……」
受験本番まであと少し。
でも、志望校合格についてはもう心配していない。
だってアタシには、この大好きな人が付いていてくれるから。
久々に見た大好きな人が、死にそうな顔をしていたから、勇気を出して声をかけたあの日。
下心丸出して、センセに無茶なお願いをしたあの日のアタシを褒めてやりたい。
だって、まさかその選択がこんな未来に繋がっているとは、あのときは夢にも思っていなかったから。
アタシを高校合格に導いてくれたセンセ。
きっと……、ううん、絶対に大学合格にも導いてくれる。
そして……
「いやいやいや、流石にそれは気が早いって、アタシ!」
一瞬、遠くにウエディングベルが聞こえた気がして、思わず声を上げてしまった。
そんなアタシに、センセは呆れた顔で声をかけて来る。
「……集中してるんじゃなかったのか?」
「してるってば! だから、声かけないでっていったじゃん!」
「……さいですが。まぁ、頑張れ」
やれやれと肩をすくめるセンセ。
でも、きっと、それは遠くない未来。
アタシの耳だけじゃなく、大勢の人の耳に届く音になると思う。
「センセ!」
「ん? 解けたか?」
「これからもよろしくね!」
「……お、おう。任せとけ…… って、どうした?」
「んーん、なんでもない! あ、そっか! 分かったかも!」
「よし、頑張れ!」
この人の腕を抱きしめて、その大勢に祝福されながら……
そんな未来が、うっすらと見えた気がした。
続く――。
仕事に疲れた塾講の俺がJKの家庭教師をすることになった件。 はないとしのり @Hanai-Toshinori
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