鯨よりも深く
相園 りゅー
「同題異話・七月号 鯨よりも深く」参加作品
見上げればいつも、大きな影が見えた。微かに揺れる光の中にぽっかりと暗い影。ただシルエットで海洋生物とだけ分かるそれを、大人たちは「鯨」と呼んだ。本当なのかは、もう誰にも判別できない類いのことだった。
恐竜の時代と同じように隕石が落ちて、同じように地表は砂と氷に閉ざされた。僕らの生まれた時代、あるいは世界は、そういうふうに始まった。
逃げ惑う人類の何分の一かは地球に見切りをつけて宇宙へ飛び立った。
また何分の一かは冷えていく地表で、いつ目覚めるとも知れない眠りについた。
またまた何分の一の人々は、より安定した環境を求めて地下深くにシェルターを作っていった。
僕らの祖先は、地底へもぐった人々の一派、ということになるらしい。
うす青い光がさやさやと降り注ぐ広場で、先生は黒板に絵を描きながら説明している。
「私たちの住むオーシャン・アークは、このように、海底にくっついた透明なドーム、という姿をしていますね。しかし、歴史的に見るなら、これは地下から少しだけ頭を出したトンネルの一部、ということになるわけです。
私たちは海の水中を降りてきたのではなく、海底からぽこっと生えてきたのですね」
二十歳を数えたところだという先生は、前の先生よりも若くて綺麗だということもあって人気がある。話し方もくだけていて気易いから、みんな話の合間にこぞって質問を飛ばしていた。
はい、と指された女の子が発言する。
「昔の人は、どうして地面から海の底まで出てきたんですか?」
先生はあごに手を当てて少し考えた後、どこか遠くを見つめるようにしながら話し始める。
「たしかに、生活を成り立たせるだけなら、海の中まで出てくる必要はありませんでした。アークの外壁を作るのにもそれまでと違った苦労があったのですし、資源の面でいえば、海底ドームであることで得をした物はほとんどありません」
僕はなんとなく上を……
広場に降り注ぐ青い光は、自然のものではない。そもそも太陽の光が届く深さではないのだ。ドームの上何十メートルだかに浮かべたライトが、付近の海域とオーシャン・アークとを同時に照らしている。昼時間の真ん中あたり、三時間くらいだけ行われているライティングだ。
大人のやることだから何かの意味はあるはずだけど、そんなことをわざわざ尋ねたことは無かった。僕たちのような子どもにとって、あの青い光はお昼と「学校」の合図。仕事や手伝いの手を止めて、この広場へ集まれ、という意味になるのだ。
十二歳を超えるまで、子どもは毎日「学校」へ通う。これはオーシャン・アークにおける大切な決まりごと。先生がことあるごとに繰り返す「教育令」の賜物なのだった。
コォォォォー…………ォン……
キィィィィー…………ィン……
カリヨンの音が響いて、僕は意識を引き戻した。一日に何度か鳴る中央の鐘は、爪の先がピリピリするような金属音だ。
視線を前に戻すと、先生は手を叩いて「学校」の終わりを告げている。
しまった。最後の話を聞きそびれた。
コォォォォー…………ォン……
キィィィィー…………ィン……
まだ光は青く、カリヨンの音は続いている。この音が鳴り終わると、光も白く戻って午後の仕事が始まるのだ。
みんないそいそと荷物をまとめて帰ろうとしている。先生は丸めた布を使って黒板の絵を消している。
僕は聞き逃してしまった、先生の話の続きが気になっていた。
人間がオーシャン・アークを作った理由。先生はどう考えていて、どう答えたのだろう。
ちりぢりに去っていくみんなの間をすり抜けて、僕は先生の背中に声を掛ける。
「先生」
「あれ、どうしたんですか? なにか、分からない所でも?」
「それが、さっき、最後のお話を聞き逃してしまって。先生は、あの質問にどう答えたんですか?」
先生は呆れた、という顔をした。
「ひとの話している時には、ちゃんと集中して聞かないといけませんよ。お仕事でもそうですが、いつ、どんな重要な話題が出てくるか……」
く、
お、
お、
ぉ
ぉ
ぉ
ぉ
ぉ………………
降り注いだ、そのカリヨンとは全く違う音に、先生も僕も、思わず頭上を見た。
きゅ、
お、
お、
ぉ
ぉ
ぉ
ぉ
ぉ………………
まるで人が叫んでいるようなその音は、でも間違いなく「歌」だった。僕にはそういうようにしか聞こえなかった。
まだ鳴り続くカリヨンの金属的な和音に合わせて、誰かが歌っているのだ。遥かな頭上から、それは僕らを圧倒する巨大な「歌」だった。
きゅ、
コォォォォー…………ォン……
お、
キィィィィー…………ィン
お、
お、
ぉぉ
コォォォォー…………ォン……
ぉぉぉ
キィィィィー…………ィン……
ぉぉぉぉ……
「……きっとね」
先生がポツリと、取り落とすみたいに呟いた。
「人間は、さびしかったんだよ」
その言葉に、僕は深く頷いた。
永遠にも思えた時間だったのだけれど、たぶん、たった数十秒の出来事だった。
カリヨンの響きは過ぎ去り、遥かな天上からの「歌」も遠くへ消えていった。光は徐々に青味をなくし、普段通りの白い光が、午後の世界を照らしていく。
先生に急かされて、放心していた僕も荷物を掴んで走り出した。もうすぐ、午後の仕事の時間なのだ。
この世界を生き延びるために、誰もが働かなければならない時間が来る。
あの歌声の主が図鑑の「鯨」と同じものなのかは分からないけれど、彼と一緒に生きていけることは、きっと僕らにとって大切なことなのだと、信じようと思う。
~了~
鯨よりも深く 相園 りゅー @midorino-entotsu
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