恋人

ベラ氏

恋人

「この辺、ネズミが増えたね」

 おれの傍を歩きながら、恋人はそう呟いた。

 緊急事態宣言から先、普段は賑わう街の商店街も九時を過ぎるとがらんとしている。閉店したシャッターの前にはゴミがうずたかく積まれており、その合間からネズミが見え隠れしている。

「人がいないからね」私は言った。

「本当は普段からこれくらいいるんだよ」

 おれたちは店と店の間の小路へ入った。ネオンの差し込まない、薄暗い空間では店じまいしたラーメン屋の店主が煙草をふかしている。

 と、ふいに積まれたゴミ袋とバケツの間からネズミが一匹飛び出した。

「うわっ」

 おれは慌てて恋人の腕を取った。ネズミは小路を横切り、一目散に下水溝へと飛び込んでいった。「ごめんよ、つい……」

 羞恥心にかられ、おれは恋人を見た。微動だにせず、何かに憑かれたかのようにネズミの飛び出してきた方角を睨んでいる。

「大丈夫?」

 応えようとしない。おれは不安になった。

 数秒ののち、ネズミは再び飛び出してきた。あっ,と言う間もなく恋人は駆け出し、片手でネズミを捕まえた。

 おれはその場で固まってしまった。表の路地で声を張るカラオケの呼び込みがなぜか、やたらと耳に付いた。その間隙を縫うようにして、ポリ袋の山に突っ伏した恋人の発する、異様な咀嚼音が響き渡っていた。喉がカラカラに乾き声も出せない。

「おい、おい……」

 恋人はぴたっと動きを止め振り返った。赤く染まった片手に握られたネズミはもはや、原型を留めていない。顔はちょうど街灯の影になっているが、暗闇の中で眼が二つ、らんらんと光を発するのがはっきり見えた。

 おれは駈け出した。


 駅まで走るつもりがすっかり動転していたのか、気が付くと元いたラブホ街まで来ていた。坂の中腹まで来て肩で息をしながら辺りを見回した。ここならまだ人通りも多い、抜けては来られないだろう。おれは少し安心して歩き出した。

 おれは近くのマンションに住む大学の友人を思い出した。ここから国道を跨げばすぐだ。今日は泊めてもらうことにしよう。私鉄の駅からは終電がないことはなかったが、おれはとにかく今起きた出来事を誰かに聞いてもらいたかった。

 スマホを取り出すと1分前にメッセージが入っていた。恋人からだ。

「あと50メートル」

 うわァ、という叫び声が上がった。振り返ると坂の下から、四つん這いになった「あれ」が猛然と駆け上がってくる。

 おれは再び駈けだした。口の中に鉄分の味が広がり、汗と鼻水が混然として顔を伝っていく。

 どうにかして国道を跨ぐ交差点までやってきた。あいにく信号は赤だ。早く変わってくれることを祈りながら、おれは友人に連絡しようとスマホを取り出した。もう1件メッセージが入っていた。

「わたし左利きだから右側にいてくれるとうれしいな」

 信号が変わった。おれは脱兎の如く駈けだし、高速の下を延びる交差点を渡りきったところで振り返った。「あれ」は両手両足を器用に動かし猛然と迫ってくる。仕事帰りのサラリーマンやカップルの、恐怖に引き攣る顔が遠くからでも分かる。猫になっちまったのかな、本当に。

 「あれ」は交差点に差し掛かった。一足早く、信号は明滅から赤に変わった。構わず突進してくる。あッ、という叫び声とダンプカーのブレーキ音、鈍い音が響くのはほぼ同時だった気がする。気が付くと、恋人の姿はどこにもなかった。


 おれは挫いた足を引きずりながら住宅街を歩いていた。友人は心配して迎えに来てくれるらしい。

 窮地を脱した安堵感と共に、どこか後ろめたい気分がこみ上げてきた。あの時恋人をなだめていたら、あんなことにならずに済んだのではないか? 逃げ出したりせずに。そう、あいつは左利きだった。ハンバーガーを頬張るときもそうだったし、キスするときもおれの右頬に手を添えて……そう思うとなんともたまらない。いや、とは言ったところで、「あれ」になってしまった後ではもうどうしようもなかったのではないか?

 ズボンのポケットでウー、ウーとスマホが音を立てていた。気が付くとマンション近くの公園まで来ていた。これは友人からだろう。

「もしもし?」

「……のらねこ」知らない女の声がした。

 にゃお、と鳴き声が聞こえた。気が付くと公園の入り口、おれから3メートルもない位置に黒猫が座っていた。おれの姿を認めるとすくっ、と身体を起こし、こちらへ歩んでくる。

 恋人だろうか? いや、見たところ黒猫には傷一つない。だいいち声が違う。ひょっとすると「あれ」の仲間じゃないのか。

 金縛りにかかったように身体は動かない。黒猫はおれの足元にぴたりと寄り添った。震えながら、おれは顔を下に向けた。ことさらに敵意を示すでもなく、黒猫はおれを見つめていた。

 再びスマホが鳴った。友人からだろう。おれは我に返り、電話に出ようとした。

 狙っていたかのように、黒猫は私の首筋に飛びかかった。頸動脈が切り裂かれ、どす黒い血が噴き出した。おれは地面に倒れながら、足を引きずった白猫が黒猫に寄り添い、じっとこちらを見守るのが見えた。そうか、きっとこいつらは姉妹なのだ。恋人は戻るべきところに戻っただけなのだ。じゃあおれは逃げなければよかったのだな。最後に話を聞いてもらいたくて、恋人はあとを追って来たに違いない。何とも浅はかだったわけだ。

 そう考えると途端におかしくなってきた。遠のく意識の中で、こちらに寄ってくる白猫が見えた。やさしい、恋人の目だった。申し訳ないことをしたな。ごめんよ、と呟こうとしたが,切り裂かれた喉からは猫のようなゴロゴロという音しか出ない。鮮血の海に頭を浸し、おれは事切れた。

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