アイツはなんじゃ?

月菜にと

アイツはなんじゃ?

 休日の今朝は、一段とご機嫌な太陽がギラギラと輝いている。それに負けじと、小学生で一番背の高い泉が、飛び跳ねるように苔むす庭にある飛石を駆けた。短パンの腰に巻く細長い布の端が、庭木をからかうようにひらひらと後ろになびく。小花が刺繍されたマスカット色のそれは、おばあちゃんにもらったものだ。着物の帯揚げだが、泉のお気に入りでベルトにして使っている。

 腕木門わんきもんを開いて出た泉は、地面にニンジンが一本、置かれていることに気づいた。不思議に思ったが、吉弘の奇声を聞きつけて素っ飛んだ。

 「アイツはなんじゃ?」

 同学年の吉弘の声は、普段から甲高く特徴的だ。

 泉は家の土塀沿いにある細い道を通って畑に入った。褐色のひげで美味しさをアピールするトウモロコシに、生唾を飲みながらも畑を抜けると、小道を駆けている背の低い吉弘を追い、追い抜かし、前方を走るアイツを捉えた。アイツは、すっぽりと生成りの布をかぶっていて、大きさは猫ぐらいだ。

 つと、アイツが止まった。釣られて思わず足を止めた泉の横に、やってきた吉弘が並んだ。

 「アイツが振り向いた」

 そう思ったのは、かぶっている生成りの布に開いた二つの穴が見えたからだ。その片方の穴から、ギラリと光る目が見えた。

 「アイツが挑発しとる」

 それに乗った泉は、吉弘が背負うリュックサックを、気合いを入れるように叩いた。物凄い力に、吉弘はひっくり返りそうになった。

 ピョンと高々と飛び跳ねたアイツが、再び走り出した。

 「よしくん! アイツを捕まえるで!」

 荒々しく怒鳴った泉が、猛ダッシュでアイツを追っていく。吉弘は体勢を立て直し、急いで泉を追った。

 アイツが左に逸れた。

 「逃がさんで!」

 腕を振って追いかける泉も左折した。そこは町内会館への細い抜け道だ。と突如、泉が急停止した。アイツを見失ったからだ。そんな背に、勢い余った吉弘が止まりきれずにぶつかった。振り向いた泉がにらみ付ける。

 「アイツがいたで!」

 面食らった吉弘だが、奇声を上げて指さした。

 振り返った泉は、さっきいなかった前方に、アイツがいるのを捉えた。引き返してきたみいだ。

 「やっぱ挑発しとる」

 不機嫌な声を上げた泉に、そっぽを向いたアイツが、すっと建物と建物の狭い空間に入った。泉は凄い剣幕で追いかけ覗き込んだ。

 「猫の通り道じゃ。この道は町内会館に出る」

 口走ったや否や、泉は猛スピードで走り出した。道路に出ると右折し、少し走ってまた右折する。そこはもう町内会館の出入り口だ。駐車場には車は一台もない。そこに、アイツが待ち構えていたように止まっている。かぶっている生成りの布に開いた二つの穴と、泉の目が合ったように感じた瞬間、ピョンと高々と飛び跳ねたアイツは、宙で方向転換して着地すると、駐車場の隣地にある鬱蒼とした竹やぶへ飛び入った。

 「逃げられた」

 泉は悔しがりながら、アイツが入った竹やぶの中に、数歩足を踏み入れた。

 「なんじゃこりゃ?」

 滅多にない泉の奇声に、肩で息をする吉弘が背後から覗き込んだ。地面に生成りの布が転がっていた。

 「アイツが脱ぎ捨てて行きおった」

 戯言のように呟いた泉は戸惑っている。腰を下ろすと、ゆっくりと両手を伸ばし、生成りの布を掴み、目線まで持ち上げた。ためつすがめつ眺めると、声を張り上げる。

 「これは地図じゃ!」

 その閃きに、吉弘は腰を抜かすほどにびっくりした。なぜなら、生成りの布には何も描かれていないからだ。

 「それはないで」

 呆れる表情で首を竦める吉弘に、泉はニタリと返した。

 表裏を確認するかのように、泉はもう一度生成りの布を眺めた後、地面に広げて置いた。その生成りの布の端から端を、上から丁寧に手の平でこすった。土がくっ付いた生成りの布を、手前にして持ち上げると、振って土を払い落とす。

 「うわっ!」

 奇声を上げた吉弘の丸くした目に、生成りの布に土で描かれた地図が映っていた。

 「布に粘着物が付いていることに気づいたんじゃ」

 泉がどや顔になった。

 「何の地図じゃろか」

 吉弘は不思議そうに生成りの布を見つめた。

 「決まっとるじゃろ。宝の地図じゃ」

 泉はニンマリすると、生成りの布を片手に歩き出した。道路に出ると、地図を確認し、左に直進して右折し、農道を進む。

 「その宝って、金の延べ棒じゃろか?」

 ヘラヘラと想像する吉弘は、泉を追いながら、両親指と両人差し指を使って延べ棒状に形作った。

 「それとも……」

 ニヤニヤしながら周囲の景色を見やった。右側にはマスカットやスイートーピーが作られているビニールハウスが立ち並び、左側には路地ブドウが実をつけ、その奥には稲が緑色のカーペットとなって広がっている。

 「ここは日本じゃから、小判かも」

 思いっきりニヤついた吉弘が、ビクリとなって急停止した。歩いていた泉の足が止まっていて、背中が壁となって立ちはだかっていたからだ。

 泉は路地ブドウの横にある空き地の前に立って動かない。吉弘はうるさいくらいのセミの鳴き声に気がつき、視線を泉の背中から頭頂に上らせ、一気に見上げた。うちわのように緑色の葉を揺らす大木から、セミの鳴き声が大音量で降ってくる。一番耳に付くのは、クマゼミだ。暑さを倍増させるような鳴き声だから、アブラゼミが愛おしく思える。

 吉弘は泉の横に立ち、生成りの布を覗き込んだ。

 「この記号は、この空き地の大木を指しとるんじゃ」

 生成りの布に描かれている記号を、吉弘は興奮するように指さした。

 「大木の下に宝があるんじゃ」

 吉弘がワクワクと大木の根元を見た。

 「この記号は道順の矢印で、まだ続くってことじゃ」

 否定した泉が、意気消沈した声で続けた。

 「じゃが、地図はここで終わっとるんじゃ」

 「布じゃ! また脱ぎ捨てておる!」

 吉弘が大木の根元を指さしながら奇声を発した。びっくりした泉は、駆け出した吉弘と一緒に、大木の根元にある生成りの布に近寄って腰を下ろした。

 「灯台下暗しじゃな」

 吉弘はへへと笑って、自分よりも座高の高い泉を見上げた。

 不機嫌そうに口をへの字にした泉が、両手を伸ばし、生成りの布を持ち上げた。付いているはずの粘着物を確認すると、その面を地面にくっつけ、手の平で端から端までこすり、両端を持ち上げ、振って土を払い落とした。

 「また地図じゃ!」

 覗き込む吉弘が、嬉しそうな奇声をあげた。だが、次の瞬間には、首を傾げ、生成りの布に描かれている記号を指さす。

 「この道順の矢印。池の中を行けえ、言うとる」

 「じゃな。どういうことじゃろな」

 訳が分からないと、泉は呆然と大木の裏手にある池を見やった。

 「橋もぇし、ボートも無ぇし……」

 吉弘は胸の前で腕を組んで考えていた。

 「もしかして? 見えんだけで、道があるんかもしれんで」

 泉の横顔を見上げた吉弘が、任せろというように胸を張った。

 「漫画でよくあるんじゃ」

 ブツブツ言いながら吉弘は池に向かっていく。

 「ちょっと待ってえ!」

 制した泉の声で、吉弘は振り返った。

 「この道順の矢印じゃけど、実線じゃなくて点線になっとるじゃろ」

 「うん。じゃから?」

 「空じゃ!」

 仰いだ泉の人差し指が、空を突き刺すように指さした。飛行機雲が一直線に空を渡っている。

 「なに言うとんじゃ?」

 吉弘の口が、空を見上げた途端、呆れたようにポカンと開いた。

 タンタン!

 地面を連打する音が聞こえてきて、泉も吉弘もびっくりして視線を下ろした。直後、突風が吹き、地面に置きっぱなしにしていた生成りの布が舞い上がった。同じく、泉が持っていた生成りの布も奪われ、舞い上がった。ひらひらと舞う二枚の生成りの布は、いたずら好きの風にもてあそばれた後、ひらりと池に落ちた。

 「あ~あ」

 吉弘の溜息を打ち消すように、再び地面を連打する音が響いた。

 タンタン!

 見やると、アイツがいた。かぶっている生成りの布に開いた二つの穴が、そっぽを向いたと思いきや、空き地から農道に出ていった。

 「追いかけろ!」

 一斉に大声を上げ、駆け出した。だが、足の長い泉が先頭に立つ。

 つと、アイツが止まって振り返った。驚いた泉が足を止める。後ろに続く吉弘も足を止めた。

 かぶっている生成りの布に開いた二つの穴の片方から覗く目が、ギラリと光って瞬いたように見えた。

 「アイツ、笑ったで」

 「うちらをもてあそんどる」

 にらみ付けた泉は、アイツに向かって猛ダッシュした。

 アイツはピョンと飛び跳ねて反転すると、農道を走って右折し、あぜ道に入っていった。

 泉を先頭に追いかける吉弘は、あぜ道に入ると、ちらちらと両脇に広がる田んぼを見た。成長した稲の葉は足元をすくうようになびき、草むらに隠れていたコオロギは眠りを邪魔されたと怒って飛び跳ね、ヘリコプターのように飛ぶシオカラトンボはゆったり自由だ。

 「危ねえ」

 身をくねらせて泉の横に立った吉弘は、泉の背にぶつかりそうになっていた。泉はカチカチで立ち尽くしている。

 「ヒキガエルじゃ!」

 吉弘は溢れんばかりの愛情に満ちた奇声を上げた。

 十五センチほどの石ころみたいなヒキガエルが、あぜ道の中央で行く手を阻むように居座り、硬直する泉をにらみ付けている。

 「いずちゃんにも、恐い物があるんじゃな」

 からかうように言った吉弘が、胸を張った。

 「わいに任せろ」

 小型のスコップを取り出した吉弘のリュックサックには、小型道具がいっぱい入っている。あぜ道に腰を下ろすと、草の生えた地面をスコップで掘り起こす。

 「見つけたで。ヒキガエルが食べるミミズじゃ」

 スコップの上でうねるミミズを、リュックサックから取り出したピンセットでつまみ上げる。

 「このミミズをヒキガエルに食わせるけん。ヒキガエルが目をつぶった瞬間、ヒキガエルをまたぐんじゃ」

 「うん。わかったけど、なんでヒキガエルが目をつぶるってわかるんじゃ?」

 「わいは生物学者じゃからな」

 得意げにニコリとした吉弘の夢は、博士になることだ。

 「ふ~ん……で?」

 「カエルは食べるときに目をつぶるんじゃ」

 「そうなんじゃ」

 泉が感嘆の声を上げた。その反応に、吉弘は誇らしそうに、胸をそらせて立ち上がった。

 「じゃあ、行くで」

 掛け声を出した吉弘は、腰を屈めてヒキガエルの眼前にピンセットを持っていった。ピンセットに挟まれているミミズが、クネクネと動く。ヒキガエルが食いついた。そして、目をつぶった。

 「今じゃ!」

 吉弘の奇声と同時に、泉はヒキガエルをまたいだ。続いて、吉弘もまたいだ。カエルの聴力はよくないため、奇声を上げても動じない。

 あぜ道を突っ走る泉が、悔しそうに言った。

 「アイツを見失った」

 その声を聞き付けたのか、あぜ道を抜ける所にある道路に、アイツが出てきた。

 「隠れとったんか?」

 目を丸くした泉は、カクレンボをしているかのような気持ちになり、思わず笑った。

 アイツはしばらく待つかのように同じ場所でじっとしていたが、ピョンと跳びはねると、道路を走って行った。

 あぜ道から道路に入った泉が追いかける。吉弘も追いかける。

 しばらくして、アイツが左折し小道に入った。小道の左側には民家があり、右側にはヒマワリ畑がキラキラ陽気に広がっている。

 ヒマワリ畑の前で、アイツが止まり振り返った。

 同じように止まった泉は、抜き足差し足忍び足で、アイツに近寄ろうとした。そのとき、ピョンと高々と飛び跳ねて反転したアイツは、今まで以上の速さでヒマワリ畑の中に消えていった。

 慌ててダッシュした泉が、アイツを追いかけてヒマワリ畑の中に入る。だが、黄色と茶色と緑色に埋め尽くされた迷路のようなそこには、もうアイツの姿はなかった。

 「布じゃ!」

 吉弘の奇声に、泉は跳びはねるようにして向かった。吉弘が手にする生成りの布を奪い取ると、粘着物を確認し、それが付いている面を地面にくっつけ、手の平で端から端までこすり、両端を持ち上げると振って土を払い落とした。

 「これは地図じゃないで。模様じゃ」

 覗き込む吉弘が肩を落とした。

 生成りの布には、地図ではなく模様が描かれていた。

 見入る泉はしばし考え、生成りの布を持つ両手を伸ばし、模様を遠ざけていった。両手が目一杯伸びきったところで気がついた。

 「何か分かったんか?」

 聞いてきた吉弘に、泉はニヤリと笑って、模様の一部分を指さした。

 「これは文字で、ヒマワリって書いておる」

 そう言って、吉弘にも分かるように、吉弘目線で、生成りの布に描かれている模様を遠ざけた。

 「うわっ! ほんまじゃ! 模様が文字に見えてきたで。ヒマワリと書いておる。そんで、間を空けて横にある模様も、文字じゃ。イエと書いておる」

 背後を振り向いた吉弘は、小道を挟んだ正面にある民家を指さした。

 「イエとは、この家のことじゃな」

 「うん」

 相槌を打った泉を、振り返って見た吉弘が言った。

 「そんでまた、間を空けて横にある模様も文字で、フタマタミチって書いておるよな」

 「うん」

 相槌を打った泉から目を逸らした吉弘は、背後を振り向き、小道を指さし、その手を右方向に移動させた。

 「フタマタミチってのは、この小道をずっと向こうに行ったらある二股道のことじゃな」

 「行くで!」

 泉は相槌を打つ代わりに、掛け声を出した。だが、走り出そうとした矢先、吉弘に止められた。

 「隅っこにある模様じゃけど、これも文字か?」

 「隅っこの模様?」

 生成りの布を持ち上げた泉は、遠ざけて確認する。

 「文字のようで文字じゃないようで……」

 首を傾げる泉に、吉弘は言った。

 「全ての布に、この模様はあったで」

 「そういえば、同じ模様があったな。なんじゃろ?」

 「なんじゃろな」

 お互い不思議そうな表情で目を合わせた。だが、泉は急用を思い出したという顔つきになった。

 「行くで!」

 小道に出た泉は、右に向くと、まっすぐ突っ走っていった。吉弘が追いかける。全速力で駆ける吉弘が疲れてきたとき、泉が叫んだ。

 「二股道じゃ!」

 足を止めた泉は、ちょうど道が二股になる地面に、生成りの布があるのを見つけた。腰を下ろし手に取ると、粘着物が付いている面を地面にくっつけ、手の平で端から端までこすり、両端を持ち上げ振って土を払い落とした。

 「また模様じゃ」

 覗き込んだ吉弘の目が、楽しそうに瞬いた。

 泉は生成りの布を持つ両手を伸ばし、模様を遠ざけた。文字が見えてきた。

 「ヒダリ! 左じゃ!」

 右手で左方向を指さした泉は、二股道の左側を駆けていった。追いかけてくる吉弘の足音を耳にしながら、狭い一本道の小道を走っていて、あることに気づいた。

 「畑じゃ」

 行き止まりのように小道が途切れる所にあるのは、泉んの広い畑だ。

 「おばあちゃんの畑じゃ」

 走る速度を落とした泉は、畑の前で止まった。

 キュウリや黄ニラやシシトウやトウモロコシなど、いろんな野菜がいっぱい植えられている。ちょうど泉の目の前にあるのは、嫌いなピーマンだが、それ以外は好きなものばかりで、おばあちゃんが作る料理は大好きだ。思わず泉のお腹が鳴った。それに釣られてか、吉弘のお腹が鳴った音も聞こえてきた。

 「あそこのスイカが食いてえ」

 吉弘が今にも食いつきそうな目で、黒色と緑色の縞模様をした丸い大玉のスイカを見ている。

 「食べちゃおう」

 ニタリと泉が言うと、吉弘がスイカに向かって突進した。

 「スイカ割りじゃ!」

 提案した泉は、棒はないかと辺りを見回した。真っ赤に熟しているトマトの支柱に目が行った。飛び跳ねるようにして向かい、ピタリと足を止めた。

 「布じゃ!」

 トマト前の地面に生成りの布があった。

 「またアイツが脱ぎ捨てて行きおったんか?」

 吉弘が駆け寄ってきた。

 泉は生成りの布を手に取った途端、驚いて顔を地面に近づけた。

 「どうしたんじゃ?」

 異変に気付いた吉弘が、横から覗き込んだ。

 「宝じゃ!」

 吉弘は奇声を上げ、手を伸ばし、地面にある宝を手に取ろうとした。

 「待って!」

 制した泉が、宝を取った。

 「これは真珠の指輪じゃ。そんで、どこかで見たことがあるような……」

 記憶をたぐり寄せながら泉は、真珠の指輪の内側を見た。その間、吉弘は生成りの布の両面を確認したが、粘着物は付いていなかった。

 タンタン!

 地面を連打する音が聞こえてきた。すぐさま、泉と吉弘は視線を向けた。

 植えられているオクラの前に、まるで白いバンダナを首に巻いているかのように、首の辺りが白い、灰色のウサギがいた。その横には、生成りの布が落ちている。

 「アイツじゃ!」

 「ウサギじゃったんか!」

 泉と吉弘が、同時に奇声を上げた。その声に応えるかのように、灰色のウサギの目がキラリと瞬いた。次の瞬間には、ピョンと飛び跳ねて反転すると、オクラをかいくぐり、レタスを飛び越え、シソに潜り込んで見えなくなった。

 「なんで、アイツがかぶっていた布に開いた二つの穴の、片方だけしか目が確認できんかったんか、これで分かったで。ウサギの目は、顔の横に付いているからじゃ」

 自称生物学者の吉弘は、ずっと気になっていたらしい。

 生成りの布の粘着物を確認していた泉が、突如、その布を持ったまま素っ飛んでいった。

 「どこへ行くじゃ?」

 慌てて吉弘は追いかけた。

 畑を抜けると、泉ん家の土塀沿いの細い道を通り、泉ん家の腕木門に辿り着く。

 泉は腕木門を開く前、ニンジンが地面に置かれたままであることに気づいた。だが、詮索することなく、腕木門を開き、苔むす庭にある飛石を飛び跳ねて駆け、扉を開く。広くて長い土間を走り抜け、扉を開く。広い中庭を走り抜け、縁側の前で急停止した。

 「おばあちゃん?」

 泉の大きな呼び声に、おばあちゃんは驚いた表情で障子を開けると、縁側に正座した。泉も開けたままのガラス戸越しの縁側に座った。追いかけてきた吉弘は、正座しているおばあちゃんを、泉と挟むようにして縁側に座った。

 「どうしたんじゃ?」

 何事かといった表情で、おばあちゃんは問い掛けた。

 「これ見て」

 泉は真珠の指輪を突き出した。それを手に取ったおばあちゃんは、ポッと頬を染め、愛おしそうに見つめた。

 「見つかったんか」

 「やっぱおばあちゃんの?」

 「そうじゃ。じゃけど、どこで見つけたんじゃ?」

 「おばあちゃんの畑」

 「畑?」

 キョトンとしたおばちゃんだが、すぐにニコリと笑った。昨日、指輪をはめたままで畑をいじったと悟ったからだ。

 「おばあちゃん」

 泉はちょっと声のトーンを下げた。

 「この模様、何じゃと思う?」

 生成りの布をおばちゃんの前に広げ、隅っこの模様を指さした。

 おばあちゃんはポケットから老眼鏡を取り出してかけると、模様を見た。突如、おばあちゃんが震える手で老眼鏡をはずした。

 様子が変だと泉が思っていると、おばあちゃんが顔を上げた。目に涙をためている。

 「本当じゃっとはな」

 おばあちゃんはシワシワの顔を、もっとシワシワにして微笑んだ。

 「これは模様じゃなく名前じゃ」

 「名前~?」

 泉と吉弘は一緒に、素っ頓狂な声を上げた。

 「ウサギ、ウサギと漢字で書いて、兎兎。ととって読むんじゃ」

 「兎兎?」

 泉と吉弘は驚き顔で見合った。

 おばあちゃんは、ヨイコラショと掛け声を出して立ち上がると、座敷に入った。

 「あのウサギじゃ」

 吉弘が泉に耳打ちする。

 「うん。アイツが兎兎じゃ」

 泉は確信した。

 「本当じゃっとはなあ~」

 再び縁側に出てきたおばあちゃんは、しみじみと呟きながら正座すると、漠然と中庭に目を向けた。

 「亮介さん、ありがとう」

 「亮介さん?」

 首を傾げた泉に、視線を向けたおばあちゃんは、座敷から取って来た生成りの布を開いて泉に手渡した。

 「同じ生成りの布じゃ」

 吉弘が仰天の声を上げた。

 「亮介さんは、泉ちゃんのおじいちゃんじゃ」

 「私のおじいちゃん? 飾ってある遺影の……」

 「そうじゃ。泉ちゃんは実際に会ったことないもんな」

 おばあちゃんの言葉に、泉は戸惑うようにうなずき、手渡された生成りの布を見た。そこには、ちゃんとした文字が書かれてあった。

 『こまった時は、おれが助けてやる。じゃから、なにか起きたら、ニンジン一本を、家の門の前に置け。兎兎より』

 「なんじゃこりゃ?」

 横から覗き見した吉弘が目を丸くした。泉は気がついた。地面にあったニンジンは、おばあちゃんが置いたものだと……。

 「これは、亮介さんが兵役で戦地に赴くとき、私にくれた手紙じゃ」

 おばあちゃんはそう言ったが、泉は納得のいかない表情をした。気づいたおばあちゃんが補足した。

 「兎兎ってのは、亮介さんのペンネームじゃ。そんで、亮介さんが幼い頃に飼っていたウサギの名前でもあるんじゃ」

 そうなんだと、泉は微笑んだ。

 ふと、おばあちゃんが空を見上げ、はにかんだ。泉はもしかしてと、おばあちゃんの心に寄り添って、空を見上げた。

 「あっ?」

 息を呑んだ泉の目に、おじいちゃんの遺影によく似た雲が浮かんでいた。その口元が、ポッカリと開いた。

 「笑った! おじいちゃんが笑ったで、おばあちゃん」

 嬉しそうに視線を下ろしかけた泉の耳に、地面を連打する音が聞こえてきた。

 タンタン!

 中庭を見やると、白いバンダナを首に巻きつけたような灰色のウサギがいた。長い耳をピクピクと動かし、二本足で立ち上がると両前足を振った。

 「誘っとるで」

 吉弘がワクワクする目で泉を見た。

 「行くで!」

 泉の掛け声で、灰色のウサギがピョンと身を翻し、物凄い勢いでその場から立ち去った。

 追いかける泉は、全ての扉や腕木門を閉めなかったことを思い出した。

 腕木門から出た泉は、地面に置かれていたニンジンが無くなっていることに気づき、足を止めた。そんな泉を、吉弘は追い抜いていった。

 「全ては、おじいちゃんの仕業じゃったんじゃね」

 泉が空を見上げると、ニンジンをくわえたおじいちゃんの雲が浮かんでいた。

 クスリと笑った泉は、生成りの布に描かれていた地図などを思い出し、おじいちゃんと遊んだようで、とっても温かい気持ちになった。心も体もピョンピョン飛び跳ねるように嬉しく感じた。

 「いずちゃん! こっちじゃ!」

 吉弘が両腕を振って手招いている。

 「よしくん! 捕まえようで!」

 泉はおじいちゃんが仕掛ける遊びにワクワクしながら、ウサギを追いかけていった。

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